2023年9月19日火曜日

記号論・言語論 14 言語論を超えて

  以上の考察によって、言語論のエッセンスを把握してきたことを期待している。

 4クラスでだけ言及できた「チコちゃんに叱られる」の話もここに記しておく。

 チコちゃんからの問いかけは「なぜ人間だけ絵を描けるのか?」だった。チンパンジーに絵筆を持たせて、キャンパスに抽象画のようなものを描かせることはできる。だがチンパンジー本人は「絵を描いている」自覚はあるまい。赤ん坊にクレヨンを持たせても同様。目の前の色が自分の手の運動と共に変わっていくことに驚き、面白がっているかもしれないが、それは「絵を描いている」わけではない。ある種の魚は水底に模様のようなものを描くが、それは「絵」か? ならば風も砂に「絵」を描いているのか?

 ところが人間は3歳くらいになると「絵を描く」。他の生物にそれができないとすると、人間だがなぜそれができるのか?

 解説者は齋藤亜矢だった。聞き覚えがなければならない。「木を見る、森を見る」の筆者だ。

 彼女の答えは「人間は言葉を使えるから」だった。

 それが「お母さん」だったり「ブーブー」だったり「お花」だったりする「絵」は、そのような表象を子供が持つことを可能にする言葉の存在なくしては描かれない。

 名前を知らない「あれ」であっても、「あれ」という言葉によってしかそれは認識できない。認識したものしか「絵に描く」ことはできない。

 この解答は、今回の言葉と表象(認識)の関係がそのまま応用されていることがわかるだろう。


 さらにこの言語論の認識は、「山月記」の前の一連の考察にも関係のある認識がある。

 議論の中であちこちで聞こえていたが、今回の考察が「環世界」につながっていそうだという連想はみんな働いただろうか?

 「環世界」と言えば「フィルターバブル」だ。

 我々はみんなフィルターされた泡の中にいる。ネットが社会に与える影響を論じる際のフィルターは検索エンジンや広告のアルゴリズムのことだが、生物全般にとって、認識は常にフィルタリングされている。フィルターを通した世界しか認識していないことを示すのが生物学の「環世界」という概念だ。

 ではその場合のフィルターとは何か?


 これは前田英樹の「物と身体」で、身体が生物にとっての世界認識の手がかりなのだと述べられていた。身体は認識の手がかりでもあり制約でもある。

 ドミニク・チェンが「未来をつくる言葉」で「わたしたちは自己の身体という原初のフィルターバブルを持って生まれてくる」と述べているのに対し、授業では「身体」に対比されるものとして「文化」という言葉を想起する考察を展開した。

 その際「文化」という語で示したいものの代表として「言語」を挙げたはずだが、それは今回の言語論を視野に入れてのことだった。

 生物は身体という制約によって世界認識を規定されている。さらに人間という生物は言語という制約によって世界認識を規定されている。

 同時に、身体がなければ生物は世界を認識することはできず、言葉がなければ人間は世界を「人間として」認識することはできない。


 さらにこの考え方は1年の終盤の考察にもつながってくるはずだ。それこそ齋藤亜矢だ。スキーマゲシュタルトがまさしくこの話と重なってくる。

 言葉はスキーマ(型・枠組み)であり、表象がゲシュタルトに対応する。「犬」は「犬」というスキーマにあてはめたときに「犬」というゲシュタルトを生成する。「犬と猫」というスキーマがなければ「犬」と「猫」という別々のゲシュタルトは生まれない。よって区別もつかない。


 本当はこの後「記号論と生のリアリティ」や「ことばへの問い」へ戻って、さらに読解をしなおそうとも思っていたのだが、結局時間がとれずに前期が終わる。

 「文字禍」解釈もお預けになった。引き返そうにも、授業者の想定の結論だけ言ってもつまらんし、どうしたものか。


記号論・言語論 13 どちらが先か

 言葉と表象、どちらが先か?

 結論は、示せる。みんなが納得するような結論が。

 その結論に至るために最後の謎かけをした。

鈴木 言葉が先で表象が後。

山鳥 表象が先で言葉が後。

 どちらが正しいわけでもない。どちらも間違っている


鈴木 言葉がなければ表象はできない。

山鳥 表象がなければ言葉は生まれない。

 これは、どちらも正しい。


 二つの見解を両立させるとしたら、結論は明らかだ。

 どう考えれば良いか?

 

 どちらが先でもない。同時なのである。

 言葉より先に表象はなく、表象を伴わない言葉もない。

 表象をともなわない発声は単なる無意味な音声だ。それは「言葉」ではない。

 表象が成立したときは、そこには既に出来合いの名称であれ仮称であれ、「言葉」が貼り付けられている。

 言葉と表象が結びついたときにそれは「言葉」になるのだから、それは「同時」にしか成立しない。


 まだ納得できない人がいるだろうか?

 例えば名前がついていない新種の鳥が発見されたとき、名前はないがそれは認識されている。つまり表象はある。どうみても「ソレ」は認識されており、ソレが「表象」となってから名付けが行われるはずである。同時ではない。明らかな前後がある。

 山鳥派からのこうしたもっともな疑問にどう答えたらいいか?


 この場合は「ソレ」という名前がついているのだ。「名前をつけるべき対象」が表象された瞬間、同時に「名前をつけるべき対象」という仮名がついているのだ。後で正式名称がつけられるとしても、それは単なるラベルの張り替えでしかない(この論点に対して、授業中にこのように的確な答えを瞬時に返した人たちは何人かいた。素晴らしい)。

 表象は言葉と同時にしか成立しない。言葉がない前は、「まだ名前を持たないもの」としてさえ認識されていないのだから言葉より前に表象は存在しないのだ(もちろん物理的実体はある。だが認識の中に「表象」としては存在していない)。

 例えば新種の鳥が発見されて、これから名前をつける場合は「新種の鳥」という名前がついている。それは「カラスでも雀でも孔雀でもペンギンでも…でもない鳥」である。つまり言葉による差異化によってはじめて「新種の鳥」は存在するようになる。言葉がなければ「新種の鳥」という表象は存在しない。それは「カラス(みたいな鳥)の、とある個体」にしか見えていないはずだ。


 鈴木の「言葉がなければ犬と猫の区別がつかない」も同じだ。

 言葉がなくても犬と猫を区別できているはずだと思う人は、言葉のない状態を本気で想像していない。

 もちろんそこにいるその小動物は認識できている。だがソレを「犬」として認識し、別のアレを「犬」ではない「猫」と認識することはできない。そこにはあれこれの個体があるだけだ。個体差はある。だがそれは「犬」と「猫」の差ではない。「犬」と「猫」の個体差は大きいが、チワワとセントバーナードの個体差も大きい。

 言葉がなければすべては「そういう個体」でしかなく、「犬」と「猫」を区別するためには、上のような仮名の想定も含めて、名付けが必要なのだ。


 ソシュールはもともと、実体が先にあってそこに名前をつけたのだ、という「カタログ言語観」に対抗する言語観を提唱した。鈴木孝夫や内田樹はそうしたソシュールの言語論の革新性を強調しようとするあまり、つい「言語が先」と口走ってしまう。

 一方で、そういう言語学者の表現を胡散臭く感じる認知学者の山鳥は「言葉の前に表象はある」と言いたくなる。

 だが時間的な後先を言おうとすると、どちらも怪しくなる。


  そしてまた、同時にどちらもが単独で先に「ある」のも確かだ。

 子供は言葉を発明するのではなく、大人の使う出来合いの言葉を真似し、その使用法の誤りを正されながら言葉を習得していく。その時、子供の認識も、既にある言葉の分節化の枠に沿って切り分けられていく。山鳥の「範疇化」も、山鳥が言うように子供の心が主体的にそれを行うのではなく、言葉がそれを主導する。

 だが同時に、完全に既存の言葉が分節する枠に沿ってしか人間の認識の「範疇化」が進まないのだとしたら、言葉が変化することもあり得ない。既に分節化された枠組と、現実に対する認識の間にズレがあると感じるからこそ、新しい言葉が生まれるのだ。

 確かに、言葉は認識より先にあるが、また、まだ言葉のないところに新しい認識の芽は萌え始めている。それを山鳥が「心のはたらきが先」と言うのならそれは間違ってはいない。

 どちらも、可能性としての「言葉/表象」は相手より先にありうるが、それらが結びつかなければ真に「言葉/表象」にはならない。


2023年9月15日金曜日

記号論・言語論 12 言語の習得

 すべての科学は、立てた仮説に基づいて現象を解釈することで成立している。

 仮説=モデルによって現象を説明する。万有引力の法則あるいは相対性理論によって、観察される事象を説明する。

 天動説は間違っているわけではない。現在地動説が「正しい」ということになっているのは、地動説の方が天体の運行の観測データをすっきりと整合的に説明できるというだけだ。

 自然科学はもちろん、社会学や経済学や心理学などの人文科学も同様だ。うまく説明できれば理論として認められる。

 山鳥モデルで「デンシャ」エピソードを解釈してみる。鈴木モデルで「センテンスの生成」エピソードを解釈してみる。どちらかが不自然だということはあるか、どちらに説得力があるか?


 山鳥は次男の言葉の習得過程を例に次のように言う。

まず、複数の事象間の関係を同時に一つのシーンとして表象する心の働きが生成し、そのシーンを言語記号で表現しようとしてセンテンスが出現する。つまり、心に単語一つではラベルできないような複雑な意味(思想)が生成され、その思想を複数の単語を使って表現しようとして、センテンスが生み出されたのである。

 単語レベル(もの)だけでなく、センテンスレベル(こと)においても、表象が先にできる、と山鳥は言う。

 これは本当か?


 授業者の印象を言えば、これはまったく結論ありきで説明を組み立てているに過ぎない、と思う。

 子供の心にそのような複雑な表象が先にできたとなぜわかるのか? 表れはそのようなセンテンスを彼が口にしたという事実だけだ。だがそこにいたるまでに、先に表象ができたと考えるべき根拠はまったくない。先に表象ができていると山鳥が想像しているだけだ。

 子供は、あるシチュエーションにおいて大人が使うセンテンスをまず聞く。それを自らも口にした時の大人の反応が、そのセンテンスの働きを学習させていく。つまりそれがどのような「こと」を表しているかは、後から徐々にわかってくる。センテンスとそれが表す「こと」=表象が一致するにつれ、彼はそれを的確に使うようになる。

 こう言ってしまえば、これは全く「言葉が先」のように聞こえる。


 あるいは丸山の「デンシャ」少女のエピソードを山鳥モデルで説明すると、とても奇妙なことになる。

 山鳥モデルに拠れば、この少女は「動くもの、そして柔らかく温かいもの」「動かないもの、そして固く冷たいもの」という表象を脳内に作って、それをそれぞれ「人間」「人形」と名付けたということになる。

 だがどうしてそんな都合良く、そうした表象に対応する言葉が少女に与えられると考えられるのか?

 「動かないもの、そして固く冷たいもの」という表象が作られたのなら、それは「ツクエ」でも「ペン」でもいいはずだ。「ニンギョウ」であるべき必然性はない。

 だから「動かないもの、そして固く冷たいもの」という表象は、どうみても「人形」を「人間」に対置した時に初めて生まれたもののはずだ。先に「人形」「人間」という言葉とそれに伴う表象が先にあったはずだ。

 さらに山鳥説ならば「動いても、冷たくて固い」という表象を心の中に持ち、「デンシャ」がそのどちらに入るか判断に迷うと考えたということになる。

 これはあまりに高度な分析的・哲学的思考だ。そんな表象が先に生じたなどという事態を想像することはどうみても無理だ。山鳥モデルではとても非現実的な事態が起こっているようにしか思えない。

 「人形」「人間」「デンシャ」という言葉は、いきなり少女の前に投げ出されるはずだ。母親が人形を刺して「ニンギョウ」と言う。母親と電車に乗る、踏切で目の前を電車が通過する、絵本で電車を目にする。その時に母親がソレを指さして「デンシャ」と言う。言葉はシチュエーションと共に子供に提示され、それが、そのシチュエーションの中に共通したソレと結びついて、次第に視覚イメージやら音声イメージやらになる。

 さらにそれが、自分の中に予めある「人間」「人形」の表象のいずれにも属さない「動いても、冷たくて固い」という表象として差異化されるのだ。その表象は、先にあった「人間」「人形」という言葉によって生じたのだ。それ以外に考えようがない。とすれば「言葉が先」にあったのだ。


記号論・言語論 11 言語の誕生/習得

 どこのクラスでも言語の誕生/習得の過程を思考実験してみることが、それぞれの論拠/反証になるのではないかという論点が挙げられた。

 ざっくり言えば、誕生を論拠にするのが山鳥派だ。人類が最初に言語を生み出した時のことを考えると、まだ言葉はないわけだから、先に表象ができたとしか考えられない。

 一方、習得の過程を論拠にするのが鈴木派だ。赤ん坊が生まれたときには既に言葉は周囲に飛び交っている。事実上言葉は先にあったのだ。

 だが個体発生は系統発生を辿ると生物学で言われるように、言葉の習得過程は言葉の誕生の過程とを分けて考える必要はないという意見もあった。

 あるいは現代の大人を例にしてこの問題は考えられないのか?


 さしあたり、鈴木派から山鳥への反論として挙がった意見を二つ紹介する。

 言葉は人類にとって、最初からあった。言葉がなかった時点というのは存在しない。言葉を持たない亜人類はすべて滅びて、ホモ・サピエンスが生まれたときには最初から言葉を持っていたのだ…。F組A君。

 言葉は最初、動物の鳴き声や周囲の自然音を口真似するところから生まれた。その時には表象は存在しないが、音声に対する周囲の反応から徐々にコミュニケーションが発達し、その過程で人類の脳内に表象が生まれた。したがって、先に言葉(の元になる発声)が先にあったのだ…。H組K君。

 どちらも巧みな反駁だ。

 どうだろう、山鳥派からの反論は?


 もう一つ、議論を展開するための材料として丸山圭三郎「ロゴスと言葉」に登壇してもらう。

 日本を代表する記号学者である丸山は、やはりソシュールの基本的な考え方をなぞっているように見える。それを確認したうえで、ここでは丸山の紹介する電車内の少女のエピソードを考察の材料としよう。山鳥の紹介する次男のエピソードと比較するのだ。

 どちらも「言語の習得」の際に起こることを例にしている。ここからどのようなことが言えるか?

2023年9月14日木曜日

記号論・言語論 10 言語の恣意性

 各言語が、相互におおよそ対応していると思われる表象に対して、それぞれが全く異なった音声をあてている。

 また、言葉の示す表象はそれぞれ指し示す範囲が違う。

 この二つの事実は「言葉が先か表象が先か?」の議論にどう影響するか?


 前回見たとおり、どちらの根拠にもならない。ただ双方がそうした事実を自分の説で説明しているというだけで、反対の立場から同じ事実を説明することができる。


 両者が同じような例を用いているのは、実は現在目にする言語論のほとんどが、ソシュールの言語論に基づいていることによる。言語が、「連続体」である世界に切れ目を入れる、という表現や、「差異化」「分節」「網目」などという言葉が頻出しているのも、ソシュールが使った表現に由来する。

 そのソシュールの言語論の重要な概念の一つが「言語の恣意性」だ。

 「恣意」とは、勝手にしていい、どうとでもなる、という意味だ。

 各言語による名付けの例は、この「恣意性」を説明するためにしばしば用いられる。

 ある表象に対して付せられる言葉は言語ごとに違う。つまり言語は現実の表象に対して「恣意的」にどういう形態をもとりうる。

 それだけではなく言語は「水/Water」の例のように、対象の切り分け方についても「恣意的」だ。どうとでも切り分けていいのだから、言葉の示す表象は実体の態様に依存しているのではなく言語に依存しているのである。


 二つの「恣意性」は同じ原理から派生している。それは「言語は事象とは独立した構造をつくっている」ということだ。だから事象に対してどのような形態をもとりうるし、事象をどのように切り分けることもできる。

 このことをソシュールは「言語の恣意性」として提起した。

 ソシュールはなぜこんな説を唱えたのか?


 これはそれまでの「カタログ言語観」のカウンターとして提起された考え方なのだ。

 「カタログ言語観」では、事象はあらかじめそのように切り分けられて世界に存在し、人間はそれをそのまま認識し、そこに後から名前をつけた、と考える。つまり言語は事象に従う。

 だがソシュールは言語は事象から独立した独自の構造を作っている、と主張する。そのことを示すのが「言語の恣意性」なのだ。

 鈴木が「言葉が先」という言い方で主張したいのは、こうしたソシュールの考え方であり、山鳥はそれへの反動として「カタログ言語観」的な言語論を展開しているということになる。

 現在の言語学はソシュールの影響下にあるから、目にする言語論はソシュール的であることが多く、むしろ言語学の専門家ではない山鳥のような書き手が、一見、反動的な主張をする。

 だが主流でないことが間違っていることを意味するわけではない。


記号論・言語論 9 具体事例の検討

 前回記事最後で提案した、二人の論述で対応する部分を比較しよう。

 二人とも、各国語で同じ表象に対する語彙が違うという事実を挙げている。これはソシュール以降の言語論が必ず言及する事象だ。

 だが立場の違うはずの二人がなぜ同じ事象をとりあげるのだろうか?

 それは何を言うための論拠になっているのだろうか?


 この点について、いくつかのクラスでは「ディベート」の際に山鳥派への疑義として挙がった。

われわれ人類は、話すことばが大きく異なっても同じ表象を持ちうるが、それらに与えられた名前にはまったく共通性がない。同じ海、同じ空に対して、さまざまな音韻形があてはめられている。この事実一つをとっても、心が先にあり、ことばが後から現れたであろうことが推定できる。

 「同じ表象」「同じ海、同じ空」と山鳥は言うが、そもそもそれは「同じ」ではない。翻訳を通して、比較的近い表象であることが両言語話者に了解されていくこともあるだろうが、その表象がずれている例はたちまち見つかる。例えば鈴木の挙げる「水/ウォーター」の例であり、内田の紹介するソシュールの「mouton/mutton」の例だ。あるいは長田の「玉葱/オニオン」もそうだ。

 したがって山鳥が推定の論拠とする事実は、そもそも存在しない。

 このことを的確に指摘した人たち、素晴らしい。ちゃんと文章を批判的に読んでる。


 だが、山鳥の書き方が不用意だったとして、では「大体同じ」ではいけないのか? 厳密に「同じ」ではなく、切れ目が違っていたりしても、「おおよそ同じ」表象を表す言葉が各国語に存在することは、やはり「表象が先」だと考える根拠の一つになりうるのではないか(という反論を直ちに考えたのはF組のKさん。鋭い)。

 

 一方で同様の事象を挙げる鈴木は、それが「言葉が先」であることの論拠だと言っているのだろうか?

 あるいは上の比較から浮上してくる鈴木のもう一つの論点、「言葉の切れ目(言葉が指し示す概念)は各国語で違う」という事実は「言葉が先」の根拠になるのだろうか?


 言語によって言葉の示す「表象」がずれていることは、言葉が先であることの根拠にはならない。ある民族は、その風土、自然環境、生活習慣などから、対象を認識し、表現する上で、対象をある切り取り方で「表象」する。それが民族毎に違ったものになるのは自然なことだ。従ってそうして切り分けた「表象」に名前としての言葉を貼り付けるのだから、言葉の示す「表象」が言語毎にずれるのは当然だ。言葉の示す範囲・幅がずれていることは、「言葉が先」である証拠にはならない。「表象が先」だからだ、と言ってもかまわない。


 そのことをはからずも鈴木自身の文章から読み取ることができる。

日本人にとって、水や湯や氷がそれぞれ独立した、いわば別個のものであるのは、「水」「湯」「氷」のような、互いに区分が明確で、それぞれが独立した存在であることばの持つ構造を、現象の世界にわたしたちが投影しているからなのである。ものにことばを与えるということは、人間が自分を取り巻く世界の一側面を、他の側面や断片から切り離して扱う価値があると認めたということにすぎない。

 前半は「言葉が先」と言っているが、後半で「切り離して扱う価値があると認めた」というのは山鳥の言う「心のはたらき」ではないか?

 とすれば先に「切り離」された「表象」が先にできたのではないか?

 前半と後半では論理が逆転しているような感じだ(この点を授業で指摘したのはE組のN君、H組のN君ら。これも、よく読んでいるからこそできる指摘だ)。


 山鳥は違った言語が「同じ表象」を「持ちうる」ことを根拠に「表象が先」と言い、鈴木は言葉の示す表象がずれている例を根拠に「言葉が先」という。

 だがどちらにも上記の様な反論ができてしまう。

 ではこれらの事実から何が言えると考えたらいいのだろう?


2023年9月8日金曜日

記号論・言語論 8 議論を咬み合わせる

 議論をかみ合わせることはとても難しいと、小論文を読んでも、クラスの議論を聞いても感ずる。

 どちらかの論に賛成することを説明しようとすると、単にどちらかの論の主張を再生するだけになってしまいがちだ。山鳥支持を唱えようとすると、単に「…と山鳥は言っている」ということを言っているだけにしかなっていない場合が多い。それはそうだが、それが山鳥の説が正しいことをなぜ根拠づけるのかが説明されない。

 これでは水掛け論だ。互いが、自分の信じていることを、感覚に基づいて主張し合っているだけである。


 議論を動かすために、まずは相手側の主張に対する疑義や異論を投げかけてみる。それによって互いに、相手がこちらの主張のどこに納得がいかないかを知ることができる。説明が足りなければ説明を追加してもいいし、例などを用いて説得力を増す語り方を考えてもいい。疑問に答えようとしているうちに、むしろ相手はこちら側の主張を受け容れるようになるかもしれない。

 例を挙げることは有効だ。自分の説の論拠として、相手の説の反証として。

 ただし、一つの例でそれができたとしても、別の例は自説への反証になるかもしれず、相手側も論拠となる別の例を挙げるかもしれない。

 ただ一つの例がすべてを解決するわけではないことには注意が必要だ。


 最も素朴な疑問は、山鳥派から鈴木派へのこのような問いだろう。

「名前をつける前のソレは存在しない」などと言っても、「ソレ」が存在しなければ、そもそも名付けが行われる動機がない。どうみても「ソレ」は認識されており、その認識=「表象」に対して名付けが行われるはずである。表象のないところに、まず名付けがなされるなどという説明は非論理的・非現実的である。

 こうしたもっともな疑問に、鈴木派はどう答えたらいいか?


 だが次のように言うこともできる。

山鳥の言うように〈まず、名前があるのではない。名前が与えられるべき表象が作り出される過程がまずあって、その作り出された表象に名前が与えられるのである。〉などというのなら、その名前はどこから来るのか。その表象ができた後でタイミング良くそうした言葉が天から降ってくるとでもいうのか。あるいは自分でその名前を作ったりしたら、他人に通じないオリジナルな名前が無限にできるばかりで、そのようなものを「言葉」とは呼べない。 

 山鳥派はどう答えるだろう?


 こんな風に論点を定めて議論する。

 あるいは議論をかみ合わせるためにには、両者を比較できる基準を設定して、そこで両者の是非を問う必要がある。

 たとえば次の部分。

ヒトはなぜ

 われわれ人類は、話すことばが大きく異なっても同じ表象を持ちうるが、それらに与えられた名前にはまったく共通性がない。同じ海、同じ空に対して、さまざまな音韻形があてはめられている。この事実一つをとっても、心が先にあり、ことばが後から現れたであろうことが推定できる。


ものとことば

 ヒトの多くの人は「同じものが、国が違い言語が異なれば、まったく違ったことばで呼ばれる。」という認識を持っている。犬という動物は、日本語では「イヌ」で、中国語では「コウ」、英語で「ドッグ」、…といったぐあいに、さまざまなことばで呼ばれる。…この同じものが、言語が違えば別のことばで呼ばれるという、一種の信念とでもいうべき、大前提をふまえているのである。/実は英語には日本語の「湯」に当たることばがないのである。「ウォーター」という一つのことばを、情況しだいで「水」のことにも「湯」のことにも使う。

 上の二つには対応した要素がある。例えばこういう箇所を手がかりに両者を比較する。


記号論・言語論 7 対立を明確にする

 さて、山鳥重と鈴木孝夫の対立点を確認しよう。

 提出された小論文には、両者は対立していない、どちらも正しいという立場を表明しているものも多かったが、それは本当にそうなのか?

 単に両論を併記してどちらも正しいと言うだけならば簡単だ。

 だが対立が明らかであるときに、「どちらも正しい」ということはそれほど簡単ではない。まずそのことを明らかにする。

 

鈴木 ものとことば

ものという存在がまずあって、それにあたかもレッテルをはるようなぐあいに、ことばがつけられるのではなく、ことばが逆にものをあらしめている

わたしの立場を、一口で言えば、「初めにことばありき」ということに尽きる。


山鳥 ヒトはなぜことばを使えるか

まず心があり、ことばがを追う。対象を範疇化する心の働きが発達して、その範疇に名前が貼りつけられるのである。


 上の一節から、言葉の働きについての山鳥と鈴木の主張の違いを端的に表現してみよう。何度も言うが、シンプルに表現することは、問題を扱う上で利便性が増す(簡単に表現することでこぼれ落ちてしまうものがあることにも留意が必要だが)。

  • 鈴木 言葉が先にあってものが後
  • 山鳥 が先で言葉が後

 だが「言葉」は共通するとして、「心」と「もの」では比較できない。表現をそろえよう。

 鈴木の言う「もの」とは、物理的な実在ではなく、その存在を「もの」として認識している、その認識のことだ。「もの」に対する認識、ということなら山鳥の「表象」という言葉がそれに対応している。

  • 鈴木 まず言葉があって表象が存在できるようになる
  • 山鳥 まず表象があって言葉が後から貼り付けられる

 これで比較が可能になった。

 言葉が先か? 表象が先か?


 さらに両者の命題を論理学で言うところの「逆」にしてみる。

  • 鈴木 表象があるときには、まず言葉があるはずだ。
  • 山鳥 言葉があるときには、まず表象があるはずだ。

 さらにこの「対偶」をとる。

  • 鈴木 言葉がなければ表象は存在しない。
  • 山鳥 表象がなければ言葉は生まれない。

 「裏」「逆」「対偶」などの言い換えは、論理学的な真偽の判断にかかわる問題であり、「逆」「裏」は「対偶」とは違って元の命題と真偽が一致するわけではないが、ともあれ言おうとすることが、文の意味を精確に掴もうとすることにつながる。


 これで対立点が整理できた。二人の主張は真っ向から対立しているように見える。

 言語学者である鈴木が「ことばが先」といい、精神・神経学者である山鳥が「心が先」といっているのは、なんだか図式的にはまりすぎていて、そういう意味では納得されるが、じゃあ結局どう考えるのがタダシイのかと疑問は残る。

 このように対立を明確にして、それでも対立はない、どちらも正しいと言うためには、それなりに精妙な議論が必要なはずだ。

 問題点を「言葉がなくても表象は存在しうるか?」と表現してもいい。鈴木はで山鳥はだ。

 この問いの是非をめぐる対立をどう決着させるか?


2023年7月19日水曜日

記号論・言語論 6 ものとことば

 小論文のお題は山鳥vs鈴木だ。なぜ山鳥vs熊野or内田にしなかったのか?

 熊野純彦の文章は前述した通り、いわば論証抜きに結論だけを述べた文章だ。主張だけをして論拠を言わない人とは議論ができない。

 また内田の文章はあくまでソシュールの考え方の紹介、という体裁をとっている。他人の代弁をしている人と対決しようにも、責任を他に回されては対決にならない。

 鈴木孝夫の主張も、実はソシュールの受け売りなのだが、とりあえずは自分の意見のような体裁で語ってはいるので、山鳥vs鈴木の形で論ずることは可能なのだ。

 もうひとつ。

 二人の論は悪く言えば隙あるいは穴、いわば「突っ込みどころ」、良く言えば余白のある文章なのだ。強固な論理にとりつくしまもない文章では、それこそとりつく「しま(=手がかり)」がない。

 あえて隙のある文章同士をぶつけることで生ずる議論を考察につなげる。


 とはいえ、鈴木孝夫、山鳥重それぞれ大学の教授を務めていた学者で、それぞの文章も大学入試などに頻出の文章だ。一介の高校生がそれらを検討し、白黒つけるのは容易ではない。

 だが全ての文章は「権威」などに守られることなく批判的に読まれなければならない。「批判」とは「非難」ではない。その主張を盲信することなく、公正中立の立場から、自分の頭で判断しなくてはならない。

 明らかに相反する主張があれば、それをどう考えたらいいのか、自分なりに考えるべきなのだ。


 小論文としてまとめるまでの留意点をいくつか。

 それぞれの見解を比較し、その問題自体について考えるべきではある。だが、あくまでその比較は具体的な論述に基づいて行われなければならない。そうすると、その論述自体も検討しなければならない。

 論述というのは、選ぶ言葉であり、論拠の適否であり、部分相互の整合性であり…。

 そうした細部について検討することが、そうした論述によって論じられた「問題」自体についての考察を深めることにつながる。

 例えば両者の見解は実は見かけほどには相違していないのだ、という内田長田の例のような結論にいたるかもしれない。

 確かに二人の言っていることには共通する内容も散見される。とりわけ山鳥の文章は後半になるほど、鈴木と重なってくるような印象もある。

 そういう結論に落ち着くとしても、ではなぜ前半部分ではこのようにあきらかな相違があるのか、山鳥の中ではそれがどのように一貫しているか、などという疑問は明らかにしなければならない。

 それを解きほぐすことが問題自体を考えることにつながる。


 議論する時間のあったクラスで授業の最後に聞いてみた。

 今のところ山鳥と鈴木の論のどちらに納得するか?


 それぞれの文章に挙手したのは、ほとんど同じくらいの人数だった。

 よしよし。ねらいどおりだ。そうあってほしい。それでこそ、その対立を越えてどんな結論にたどりつくのかが楽しみだ。

 是非チャレンジしてほしい。


記号論・言語論 5 ヒトはなぜことばを使えるか

 二つの対立した見解を述べた文章を比較し、それに対して自分の見解を小論文にまとめる。


 山鳥重の「ヒトはなぜことばを使えるか」には、一見したところここまでのソシュール的言語観と真っ向から対立しているように見える記述がある。

まず、名前があるのではない。名前が与えられるべき表象が作り出される過程がまずあって、その作り出された表象に名前が与えられるのである。

まず心があり、ことばが後を追う。対象を範疇化する心の働きが発達して、その範疇に名前が貼りつけられるのである。


 前回の長田弘内田樹の記述の齟齬(と見えるもの)は、実は主旨に齟齬があるわけではないという解釈が可能だった。

 今回は?


 これと対立させるのは鈴木孝夫「ものとことば」だ。

 「ものとことば」は以前の1年生が使っていた「国語総合」の教科書に収録されていた。これは今年の筑摩書房でも去年の東京書籍でもなく、第一学習社の教科書であり、今でも同社の「現代の国語」には、この文章が収録されている。今井むつみ・内田樹と同じく、1年生向けの教科書に載る「言語論」というわけだ。

 一読してわかるとおり、これはソシュール的言語観の延長上にある。ソシュールの名前こそ使っていないが。

 とすると、山鳥と鈴木の論には明確な対立点があるということだ。

 対立点は考察の糸口だ。「思考の誕生」にせよ「未来をつくる言葉」にせよ、互いの間にある相違、亀裂こそ、思考を生み、言葉を生み出すきっかけになると言っていた。

 ディベートは、ともすれば単に勝ち負けを競う討論ゲームに堕してしまうきらいもあるが、本当は多角的に物事を考える方法として有益なはずだ。

 ここでも、あえて対立した論をとりあげることで、この問題について考える糸口としたい。


記号論・言語論 4 ことばとは何か

 ここに内田樹「ことばとは何か」を合わせる。また出た。どこにも出てくる内田樹。

 しかもこの文章を中学時代に塾で読まされたという証言も聞いた。これは『寝ながら学べる構造主義』という本の一節で、内田樹で最初に広く売れた本であり、入試などにもずいぶん出題された。

 「ことばとは何か」と見出しをつけられたこの部分は、現在使っている教科書と同じ筑摩書房の「現代の国語」に収録されていて、つまり筑摩書房で1年2年と続けて教科書を使っていれば、先に読んでいたものだ(我々が使っていた東京書籍では今井むつみの「言葉は世界を切り分ける」がそうした言語論の基礎的な考え方を述べた文章だった。ソシュールの名さえ出てこないが、題名からわかるとおり、これもまたソシュールに発する考え方なのだ)。

 さて、内田の文章は『寝ながら学べる構造主義』という書名のとおり「構造主義」を紹介する本の一節であり、その重要人物であるソシュールの考え方を紹介したものだ。

 その趣旨はといえば、「アイオワの玉葱」「ことばへの問い」それぞれの主旨をまとめた前回・前々回の内容そのままだ。だからここは長田弘や熊野純彦がソシュールの名を出さずに語っていることが、ソシュールの提起した問題の圏内にあることを把握できれば良い。


 熊野が「問い」を問題にしていることの意味もこれで明らかになる。

 熊野の「ことばより前にものや思いはあるか?」という問いは、ソシュールが「カタログ言語観」に対して投げかけた問い、つまりソシュール以降の言語論の出発点となる問いかけなのだ。


 まずはソシュール的言語観について慣れることが目的なので、時間のないクラスでは読んで、上記のような共通の論旨を確認しておしまいだったが、時間のあるクラスで若干のお題を出して頭の体操をした。


 内田はソシュールの考え方を次のように紹介している。

ソシュールの言語学が構造主義にもたらしたもっとも重要な知見を一つだけ挙げるなら、それは「ことばとは、『ものの名前』ではない。」ということになる。

 一方で長田弘「アイオワの玉葱」に次の一節がある。

言葉は、本質的に命名である

 上記のように、「アイオワの玉葱」の主旨はソシュールの考え方と重なっているとも思えるのに、上に挙げた一節では全く反対の主張をしているように見える。どう考えたら良いのだろうか?


 いくつかの班に発表してもらったが、それぞれうまく説明していた。一見反対の主張のように見えるが、長田の言おうとしていることとソシュールの考え方は反しているわけではない。その感触・直感に基づいて、それをうまくすり合わせるように言うのだ。


 さてお題をもうひとつ。

 ソシュールの名を挙げているのは実は「論理国語」の二編ではなく、「文学国語」の「記号論と生のリアリティ」の方だ。ここで立川健二はソシュールの思想を2箇条にまとめて紹介している。

  1. われわれ人間は「意味をになったもの」、すなわち記号しか認識することができない。
  2. 記号とはそれ自身のなかに意味をもっているのではなく、それをとりまく他の記号たちとの〈関係のネットワーク〉、すなわちシステムのなかでしか意味をもちえない。つまり、記号とは、実体ではなく、関係的・相対的な存在である

 これは先の内田の〈ソシュールの言語学が構造主義にもたらしたもっとも重要な知見を一つだけ挙げるなら、それは「ことばとは、『ものの名前』ではない。」ということになる〉と、どのように一致しているか?


 実は立川の2箇条のうちの2は、内田の文の次の一節と完全に一致する。

ソシュールが教えてくれたのは、あるものの性質や意味や機能は、そのものがそれを含むネットワーク、あるいはシステムの中でそれがどんな「ポジション」を占めているかによって事後的に決定されるものであって、そのもの自体のうちに、生得的に、あるいは本質的に何らかの性質や意味が内在しているわけではない、ということです。

 では1は?


 上の一節の直前の次の一節が、例えばそれに対応する。

ある観念があらかじめ存在し、それに名前がつくのではなく、名前がつくことで、ある観念が私たちの思考の中に存在するようになるのです。

 名前がつくまではその観念が存在しないということはすなわち「記号しか認識することができないということになる。

 さて、ソシュールの考え方に馴染んできたところで、この言語観に異論を投げかける。


2023年7月13日木曜日

記号論・言語論 3 ことばへの問い

 「ことばへの問い」は「問いと答えのセットで」と指定した。

 題名の通り、文中にはさまざまな自問がある。「~か。」という問いかけの文末がいくつもある。それらをまとめる。

 それは「答え」とセットで考える必要がある。むしろ、この文章の主旨を考えておいて、それが「答え」となるような「問い」を考えるのだ。

 この操作によって、その文章の筆者の問題意識結論を捉えることができる。これは評論文一般の読解に応用できるテクニックだ。


 さて、この文章ではどのような「問い」が文中に置かれているか?

…ことばで語りつくすことができるだろうか。

…およそ考えることが可能だろうか。

…そうなのだろうか。

…ことではないだろうか。

 これらの「問い」の中でどれが重要か、と考えてもいいが、「答え」の方からも迎えに行く。

言語を手にしてはじめて「ことばにはならない」ものごとに突きあたる。

 これを「答え」とするような「問い」とは例えば次のようなものだ。

ことばにはならない思いは、ことばによる分節のかなたにあるものなのか?

 この「問題提起と結論」は、もうちょっとシンプルに言うと、例えば次のように言える。

問い ことばより前にものや思いはあるか?

答え ない。

 前に、問いを立てるには、答えがイエス/ノーにならないように、と言った。「なに・なぜ・どのように」などの疑問詞を入れなさい、と。

 が、この文章についてはそれが難しい。なぜか?


 この文章はいわば、論証をせずに結論を述べているといっていいような文章なのだ。筆者がある認識について語り、その過程でその認識について読者に想像させ、なるほどそうだと思わせることを意図するような論の展開になっていて、そうした理論がどのように成立しているかといった考察が途中で展開されていたりはしない。ただ、そうだ、と言っている。

 したがって「なぜ・どのように」と言うことはできず、といって「何」といえば「ことば」しかないので、これも言うまでもないほど自明だ。

 というわけでこの文章については疑問詞を含む問いを立てるのが適切ではなく、上記のような問いと答えのセットを敢えて組み合わせずとも次のように一文要約をしてしまえば良い、とも言える。

 ことばによって初めて「ことばにならない」ものや思いさえも存在が可能になる。


 だがそれでも敢えて「問い」として立てる意義があるのは、この文章が「ことばへの問い」と名付けられ、明らかに、繰り返し問いかけることで書かれているからだ。

 この文章が、その問題意識をあからさまな「問い」という形で示すことの意味は何か?


記号論・言語論 2 アイオワの玉葱

 「記号論と生のリアリティ」にはソシュールが記号論を創設したと書いてあるが、ソシュールはどちらかというと現代の言語学の基礎を築いたという言い方の方が一般的だ。

 記号論と言語学というのがどういう関係になっているかという問題には、ここでは立ち入らない。ソシュールは書物を残さなかったが、大学の講義の内容を弟子がまとめた「一般言語学講義」の中で「記号学」という用語が提案されている。

 「論」か「学」かも言い方に迷う。「論」は考え方の中身で「学」はアカデミックな場での位置づけ、といったところか。


 前回予告の通り、まず考え方に慣れる。

 「論理国語」の教科書でこの分野の問題を扱っている評論文、長田弘の「アイオワの玉葱」と熊野純彦の「ことばへの問い」を読む。

 さしあたって、ぼーっと読まないために、要約をする。

 必ず自分の頭で、全員やらねばならない。誰かが要約したものを聞いても意味はない。


 「アイオワの玉葱」は「二文で」と指定した。すると、概ね次のような趣旨の二文を考えた者が多かった。

  • 言葉を通して世界を捉える捉え方は言葉(母語)によって違う。
  • このずれを通して他者を理解することが大事だ。

 以前、評論には「認識」「主張」の部分があるという言及をしたことがある(あるいはこれ

 上の二文は上が「認識」で下が「主張」に近い。

 こんなふうに言ってみると、「認識」の部分は去年の今井むつみ「言葉は世界を切り分ける」に通じ、「主張」の部分は今年のドミニク・チェン「未来をつくる言葉」に通じることがわかる。


 ところで、授業者の想定していたのは、「認識」にあたる一文を二つに分けた二文だった。「言葉を通して世界を捉える捉え方は」といった言い方が、既に一つの内容として独立させられるはずだ。

  • 我々は言葉を通して世界を捉える。
  • 言葉(母語)によって捉え方は異なる。

 要約は、字数が指定されていれば、その中になるべく原文の論旨を詰め込んで、なおかつすっきり読める文章を作ろうとすべきだ。

 一方、ここでの一文要約、二文要約(三…四…)は、なるべく単純な構造の文にすることが望ましい。5文節以内。短く言おうとすることが、本質・核心がなんなのかを考えさせる。

 そして、短くした要約は、書き取るにせよ覚えるにせよ、口頭で発言するにせよ、取り回しに便利だ。あの文章では…と言及するときに、なるべく短くしておくことは大いなるメリットがある。


2023年7月5日水曜日

記号論・言語論 1 文字禍

 「山月記」の後、同じ中島敦の「文字禍」を読む。

 「禍」という字はここ3年余りですっかり目に耳に馴染んだ。訓読みでは何と読むか? というのはどういう意味か、という質問だが「わざわい」と読めた人も多い。

 「コロナ禍」でウイルスが蔓延したように「文字禍」では文字の霊が跳梁する話だ。

 中島敦から言語論への接続に「文字禍」が使えるんじゃないかというのは、実は教育実習生のK君の発案だ。

 授業者も「文字禍」を読んだことはあったのだが、それが言語論へつながるとは全く考えたことはなかった。

 ところが今回、そう意識して読んでみるとこれがまたあつらえたようにぴったりの教材なのだった。

 とりわけ「文学国語」収録の「記号論と生のリアリティ」に、どうみても、まんま「似ている」と思われる記述があることに驚く。


 だが、「似ている」からなんだ?

 それは考える糸口になるということだ。

 「文字禍」は、それ自体がもう考えるべき小説だ。「山月記」のように、読んだだけでそれなりに「わかる」と感ずるような小説ではない。しかも、わからなくてもいい、というような小説ではない。

 例えば「夢十夜」の「第一夜」は読んだだけで「わかる」し、あれ以上に「わかる」必要もないような小説だ。それで十分魅力的だ。

 だが「第六夜」はそれに比べて読者に「わからない」という感覚を抱かせる小説だ。この差が何なのかは去年分析した。去年の考察を短く再現する。「第一夜」は「喪失と回復」という「物語」の形式にあてはめられるので「理解」できるが、「第六夜」はそうした形式がなんなのかわからない。となると読者は宙吊りにされて、「明治の木には仁王が埋まっていない」というのが何を意味する隠喩なのかを理解しないといけないのだと迫られている気になるのだ。「第一夜」ではこうした宙吊りは回避されているから「百年待つ」とはどういう意味か、などと考えなくてもいい(が、そういう余計なことを考えてしまう人が世の中にはいる)。

 この「形式」のことを去年は「スキーマ」などとも呼んだ。スキーマにあてはめてゲシュタルトができることを、我々は「わかる」といっている。


 さて「文字禍」は、そのユーモアに満ちた文体が、小説としての完成度の高さを証しているのはわかるのだが、結局のところ何を言っているのか「わからない」。「山月記」のように、もやもやと誰しも身に覚えのある煩悶にもだえる男の話だと「わかる」わけではない。これを掴まえるスキーマはどのようなものか?

 「記号論と生のリアリティ」が、例えばそれを考える糸口になる。


 だが一方で「記号論と生のリアリティ」もまた「わからない」。

 この文章を読むには「記号論」という分野がどのようなもので、どんな問題を扱っているのかについての基礎的な認識が必要で、この文章が論じているのが「その先」なのだということは、その前提がなければわからない。確かにそれについての言及は文中にはあるのだが、まああれだけでは全然足りない(実は筑摩書房の「現代の国語」には内田樹の「ことばとは何か」という文章が載っていて、少なくともこれを読んでいる必要はある)。

 だから、みんな、この文章もまた「文字禍」とは別の意味でとりつくしまがないと感ずるはずだ。

 そこでさらに別の文章を読んで、こうした「問題」がそもそもどのようなものなのかを把握する。

山月記 補遺 文学の授業は大学入試に役立つか?

 「山月記」という小説はこれまで日本人にとっての基礎教養とも呼ぶべき、認知度の高い、人口に膾炙した作品だった(新教育課程で「文学国語」「論理国語」と分かれたことで「山月記」を読まない日本人もこれから増えてくると予想されるが)。

 だが教材としては授業者にとって「こころ」や「羅生門」に比べると魅力に乏しい作品でもある。テキストが、読解によって、最初から「わかっている」ことと全く違う姿を露わにする、というような劇的な体験を保証するわけではない、というところが。


 ところでこの「山月記」について、授業者が本校に着任して1年目に、とある国語科の先生から聞いた印象的な発言は忘れがたい。とても教訓的なので時々引用しているから、昨年の授業で、どこかで話したクラスもあるかもしれない。

 その先生は「李徵はなぜ虎になったのか? などという問題を考えることに何の意味があるのかまったくわからない」と言ったのだった。

 それは、いかに生徒の「得点力」を上げるか、というテーマの校内研修会における発言だった。

 最近の「学力」は「生きる力」という、いわば本質的な捉え方をされていて、それはとても結構なことなのだが、この時の議題の「得点力」とはそれよりもっと下世話な、シンプルに、大学入試で高得点を上げる力のことを指していた(つまりいかに東葛の進学実績を上げるかという議題なのだ)。

 とはいえ、そんなことは簡単ではない。入試で高得点する方法など簡単なものか。

 あるいはとても簡単なことだ。単に勉強時間を増やせばいいのだ。だから宿題を出すか補習でもやるか、というくらいしかアイデアはない。

 で、問題の発言は、古典の補習はいくらでもやりたいが、現代文分野ではどんなふうにすると「得点力」が上がるのかまったくわからない、例えば「李徵はなぜ虎になったのか?」などという問題を考えることが「得点力」アップにつながるとは全く思えない、という趣旨の意見だった。

 それはちょうど2学年が「山月記」をやっている時期で、本授業者はまさしく上記の問いを生徒に投げかけているところだった。発言者はそのことを知っていて、あえて問題提起をしたのだと思う。

 だがこの先生の発言は、自分ならそんなことはやらない、という意味ではなく、自分も授業でそういうことをやっていて、それが虚しい、という趣旨なのだった。

 なるほど。


 実はこの認識は日本中で多くの人に共有されている。国語の授業は何の役に立つのかと、多くの日本人が思っている。みんなも今までの人生でそう思ったことがあるに違いない。


 この発言が印象的だったのは、授業者自身は「なぜ虎になったか?」という問題は「得点力」のアップにつながると、当然のように信じているからであり、一方で、この先生の発言の趣旨はとてもよくわかったからでもある。

 これが1年生なら「下人はなぜ引剥ぎをしたか?」でもいい。

 こうした問題について考察することは本当に「得点力」アップに資するか?


 当然、資する。むしろそれ以外にどんな「学習」が国語の「得点力」を上げるというのか?
 いやもちろん漢字・語彙習得も、単に問題演習も、とりわけ文章の要約は有効だ。
 では授業でもそれらをやればいいのか?
 いや、それらと同様という以上に例えば「李徵はなぜ虎になったのか?」について考えることは国語の「得点力」を上げることに有効であることは疑問の余地はないほど歴然としている。
 だがまったくそうは思えないと言う国語教師がいて、世間の多くの人もそれに共感しているのだ。
 この認識の断絶は何事だ!?

 この断絶は、「李徵はなぜ虎になったのか?」という問いとその答え、その先にある作品の「主題」などというものが、学習内容だと思っている、という誤解が広く存在することによる。
 この誤解は、さらに、評論文における、文章の内容学習内容だと思う、という誤解に通じている。

 そうではない。国語の「学習内容」とは、学習活動を通じて養われる国語力だ。それは教材の文章の内容ではない。教材は教育「材」であって、いわば「手段」に過ぎない。それを使った言語活動によって培われる国語力が「目的」なのだ(「目的/手段」のセットはこのように使う)。
 このことを去年から「国語科は実技科目だ」と言っているのだ。

 だから「李徵はなぜ虎になったか?」の「答え」は確かに「得点力」アップには何の益にもならない。だからそれを教えたり理解させたりするつもりは授業者には全くないし、評論文の内容を理解させるつもりもない。
 ただ、考えろ、理解しろ、表現しろ、と要求する。これは、腕立て伏せ30回!とかグランド10周走れ、とか言ってるのと同じだ。生徒にそれをさせないで、教師の腕立て伏せを見物させてどうする?
 みんなはせっせと「李徵なぜ虎になったか?」を考えなさい。大学入試で求められている国語の「得点力」などというものはつまり総合的な「国語力」とでもいうべきもので、それは例えば上の問いに答えようとすることで「実技」的に鍛えるしかないものなのだ。
 その効果はたやすく目に見えるほど簡単に伸長するようなものではないが、例えば学校の部活レベルであれ、経験者と未経験者の差は明らかに生ずるものなのだ。
 国語的な問題に、本気で答えようと考えることもそれと同じだ。
 迷わず真摯に授業に取り組みなさい。

山月記 14 どうすればよかったか?

 また、ではどうすれば「ならないでいられた」のか?


 身も蓋もない言い方をするならば、もっと人と交われば良かったのだ。あるいはもっと謙虚になれば良かったのだ。

 確かにそれができれば李徴の不幸の大半は解消するだろう。

 だがことはそれほど単純なのだろうか?

 「なぜなったのか?」の裏返しとしての「ならなかった」可能性はどのように記述できるか?

 C組Iさんは「中途半端に終わらせない」と言った。核心をついた表現だ。

 授業者が用意していた表現は「やりきる」だ。李徴は「中途半端」なまま「やりきらなかった」から虎になるしかなかったのだ。

 例えば詩家として認められるためには、作品を発表するしかない。それは一時的には彼の自尊心を傷つけるかもしれないが、それでもそうしなければ彼の望んだものは手に入らない。

 むしろ、続けていれば望みは叶ったかもしれない。「俺よりもはるかに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者がいくらでもいる」ことに、李徴は今、気づいている。

 また、望みが叶わなくとも、少なくとも諦めることができるようになる。発表しないうちは自分の詩が優れていることについての可能性は否定も肯定もされない。それは自尊心と羞恥心の自縄自縛から逃れられないということだ。だが、やってだめなら、傷つきはするかもしれないが、諦めと納得によって少なくとも循環の外に出られる。

 あるいは官吏としての人生も、現在がいくら不満であろうとも「やりきる」ことで望みどおりの高位に上れる可能性は充分あったのだ。袁傪がそうであるように。李徵にもそれだけの能力があったはずだ。

 あるいは地方の官吏として妻子を大切にして子供の成長を喜ぶ良い父親になることも、公僕として地域の人々に貢献する喜びを感じることも、あるいは余技としての詩作を続け、それが認められる穏やかで幸せな人生の可能性もあったかもしれない。


 いずれにせよ、目の前の仕事を「やりきる」ことがなかったから、彼は自縄自縛の中で自家中毒的な悪循環に陥るしかなかったのだ。

 虎にならないためには、「悪循環による暴走」を断ち切らなければならない。そのためにはまず行動に移し、それを「やりきる」必要があったのだ。


 李徴の心を占める二つの心理は、悪循環を構成していると同時に、互いに互いを抑制する「ジレンマ」の状態に陥っているともいえる。

 「臆病」ゆえに詩を発表することができない。だから「自尊心」を満足させることはできない。といって「自尊心」ゆえにその状態に満足することもできない。どちらに安住することもできず、心の平穏はおとずれない。

 動きのとれないまま心の平穏が訪れないジレンマも、動き出してしまえば事態は変わる。福岡伸一の言う「動的平衡」とは動き続けることこそ生命の平衡は保たれることを示す概念だ。ジレンマの中で動けないでいると、徐々に朽ちていくしかない。動き出すことによってのみ、生き続けることができる。


 最初に挙げた「三つの答え」のうちの一つ、第3の「答え」についても再検討しよう。

 「飢え凍えようとする妻子のことよりも、己の乏しい詩業のほうを気にかけているような男だから、こんな獣に身を堕とすのだ。」という述懐がこうしたメカニズムと同じことを意味していると考えることは可能だろうか?


 先に「身勝手」「利己的」という言葉をいったん提示してみたが、これは上記の悪循環にどう位置づけるかが難しい。

 それよりもここでは「我執」「自意識」という言葉を提案したい。

 「我執」とは文字通り「自分に執着すること」だ。「自尊心」に通じる要素もあるが、「執着」という言葉には、それにとらわれてしまっている、といったニュアンスが表れている。

 李徵の執着は再帰的な循環の中で増幅し、ジレンマによって解決不可能なまま李徵をとらえ続ける。

 「自意識」は、自分で自分を見ている意識という意味の言葉であるはずなのに、それは内省によって捉えられた「自己」ではなく、常に他人の目を通した「自己」だ。「自意識過剰」という言葉は、言葉通りには自分のことを意識し過ぎるという意味のはずなのに、日常的にはほとんど「他人の目を気にし過ぎ」という意味で使われている。他人に認められることではじめて自分を認めることができるのだ。

 最近では「承認欲求」という言葉も頻繁に使われるようになった。李徵は自分の存在意義にとらわれている。そしてそれは他人から評価を必要とする。なのに人間でいるとき、李徵はその機会を自ら避けたのだ。「承認欲求」は満たされない。

 そうしてみると「己の乏しい詩業のほうを気にかけている」とはそのまま、上に述べた「とらわれ」を指していると考えることができる。李徴は今でも「俺の詩集が長安風流人士の机の上に置かれているさまを、夢に見」ているのだから。

 他人からの評価によって満たされるべき自尊心が、行き所を失ったまま李徴の中で燻り続けている。それが燃え広がって制御できなくなり、遂には李徴を虎に変えてしまう。


 俺はやればできるんだ、と言ってやらない者は永遠に満たされない。

 これは我々のよく思い当たる感覚だ。

 「山月記」はこの、おなじみの感覚、身に覚えのある感じを、極端な設定によって増幅して見せている。それが人々の後ろめたい共感を喚ぶ。

 「山月記」を授業で読むとは、この「感じ」と、そのメカニズムを明確に言葉にする試みにほかならない。


山月記 13 なぜ虎になったのか?

 「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」がもつ再帰的な循環構造によって「虎になる」とはどのような自体を指していると表現すれば良いか?

 これは「わかる」べきことではなく「表現」すべきものだ。

 適切な言葉を探すのだ。


 虎の象徴性を考えているとき、辞書を引いて「虎」に「酔っ払い」という意味があることを探し当てた者がいる。本文中でも、虎になることを「酔う」と表現している。

 「酔っ払い」は抽象概念ではないから、「象徴」とは言わず、「比喩」といったほうが良い。では「虎=酔っ払い」の比喩性とは何か?

 語源には諸説あるが、その一つは「酔っ払い」は猛獣のように手に負えないという意味だ、というものだ。

 つまり「虎」は「手に負えないもの」の象徴なのではないか?

 虎になることを「狂う」と表現し、「狂悖の性はいよいよ抑えがたくなった」という表現を見ると、虎の「強さ」は、周囲に向けられるものというばかりではなく、むしろ李徴自身にとって脅威であるような「強さ」、「暴走」や「暴発」につながる「凶暴」さとでも表現するのが適切なのではないか?

 虎は「制御できないもの」の象徴なのではないか?


 臆病さによって満たされない自尊心は、燻ったまま蓄積する。自尊心は他人からの評価を必要としているのに、自尊心故に他人に認められる機会を遠ざけずにはいられない。自己評価と客観的な社会的評価は乖離していく。

 結果は原因に帰っていく。互いの結果を自らの原因として双方向に循環しながら、やがて制御できないまでに増幅し、「猛獣」として李徴を虎にしてしまう。


 E組のS君は虎を「凶暴さ」の象徴として捉え、一方で人間の人間性を「理性」と表現した。李徵は心の中にうずまく虎を理性によって抑えている。それは今にも制御を失って溢れそうになっている。

 そうしたぎりぎりの均衡が崩れる。理性の象徴たる人間性を失った李徵は虎になる。それは荒れ狂うものの解放だ。

 こういった説明は例えば「人間の心が消えてしまえば俺は幸せになる」とか、李徵が虎になる瞬間の「何か体じゅうに力が満ち満ちたような感じで、軽々と岩石を跳び越えていった」といった記述とよく符合する。小説を全体としてよく捉えているとみなすためには、こうした、具体的な記述を拾うことも大切だ。

 そしてここでは「解放」というキーワードを提示できるかどうかが決定的に重要だ。

 さらにB組H君のノートを紹介する。再帰性の構造はやはり図示しないと把握が難しい。必要な情報が書き出されて整理された、とても見事なノートだ。

 上記の「解放」というキーワードの他に「逸脱」という語も書き留められている。これもまた「虎になる」現象を把握するためのキーワードとして有効だ。




2023年7月4日火曜日

山月記 12 再帰性

 いよいよ考察は最終段階、「山月記」読解の大詰めだ。

 以下に述べることは「理解」すべきことではない。他人に対して「説明」すべきことだ。その論理の道筋を明示するのだ。

 あらためて、「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」は、なぜ李徴を「虎」に変えたのか?


 「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」の再帰的な循環を説明してみよう。

  尊大・自尊心

  ↓   ↑

  臆病・羞恥心

 同じ方向性の形容・被形容をまとめたとき、下への因果は比較的たやすく説明できる。

 因果を示すというのは「だから」で両者をつなぐということだ(あるいは逆方向に「なぜなら」でつなぐ)。

 「臆病・羞恥心」とは人との交わりを避けるという行動の傾向を指している。この原因が「尊大・自尊心」だ。

 「尊大」だからつまらないやつとはつきあえない、と傲慢な態度をとる。だがそう見えて実は密かに自分の才能の欠如を恐れてもいて、だからそれがばれるような人との交わりを避ける。つまり「尊大」だから「臆病」になっているのだ。

 だがこの逆を言うのが難しい。「臆病」だから「尊大」? なんのことだ?


 間をつなぐ論理を表す言葉をみつなければならない(ドミニク・チェンが言うように。内田樹が言うように)。

 「臆病・羞恥心」=「人と交わらない」は「尊大・自尊心」にどう影響するか?


 「自尊心」は言葉どおりに「自分で自分を尊ぶ心理」というだけではない。むしろ、他人に尊ばれたいという心理だ。他人に評価されなければ自尊心は満たされない

 だが「羞恥心」はその回路を断ってしまう。人との交わりを断ってしまえば、他人からの評価は得られない。詩は発表されなければ評価の対象とならず、付き合いにくい者を人は褒めない。

 一方で、自分には才能があるという自尊心は、他人の評価を受けない限りは温存される。それでも科挙という評価基準における成功は得たが、その後は詩を発表しなかったから、他人からの賞賛も得なかった代わりに、決定的な挫折もない。

 つまり人と交わらないことは自尊心を満足させず、同時に自尊心を不健全に温存してしまう

 こうした「羞恥心」と「自尊心」の相互依存・因果関係が「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」という捻れた形容・被形容によって巧みに表されている。


 さて、ここまで「再帰性」を説明して、では虎になるとは何を意味するかと言えば「孤独」になるということだと言う班が多かった。虎は「孤立・孤独」の象徴なのだ。

 それは一面を捉えている。だがそれは虎は「失った栄光」の象徴だというのと同じく、一面を捉えてはいるが、「山月記」全体をバランス良く説明しているようには感じない。ひきこもりは虎になるのか?(なっていると言うのがふさわしいようなひきこもりもいるかもしれないが)。

 虎の属性であるところの「独り」ともう一方、「強さ」をどのように再帰性に結びつけるか?


2023年6月28日水曜日

山月記 11 「虎になる」メカニズム

 もう一つ。既に検討したはずの「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」についての再検討だ。

 反対の方向の言葉が、だがとても納得されるものとして組み合わされるこの精妙な性格造型が機能するメカニズムを説明するために「ジレンマ」「再帰性」という言葉を使おう。

 「ジレンマ」と言うとみんな公共の授業で聞いた「囚人のジレンマ」を思い浮かべる。あるいは「ヤマアラシ(ハリネズミ)のジレンマ」という喩え話を聞いたことがある人もいるだろう。

 辞書的には「ある問題に対して2つの選択肢が存在し、そのどちらを選んでも何らかの不利益があり、態度を決めかねる状態。」だそうだ。「板挟み」「二竦み」などとも表現できる。


 「再帰的」は初めて見る言葉ではない。どこで?

 「〈私〉時代のデモクラシー」で、現代を「後期近代」「再帰的近代」と呼ぶことを紹介していた。この点についてはそれなりに考察もした

 「再帰的」とは何か?


 辞書を引けば「再帰的」とは「自己言及的な繰り返し」とあるはずだ。

 これは「循環」という言葉の印象によく似ている。好循環とは「再帰的」な繰り返しによって、好ましい傾向が強まっていくことだし、悪循環ならばその逆だ。もちろん李徵の場合は悪循環の方だ。

 「自己言及的な繰り返し」がなぜ「循環」を生じさせるのか?


 説明するための重要なポイントは、結果が原因に帰る、という点だ。「再帰性」の「帰」とはそういうことだ。また、それ自身の結果が原因もそれ自身の一部であることを「自己」という言葉が表わしている。

 自己が自己に「言及」するとき、どちらが原因でどちらが結果なのかがわからなくなる。そうして「繰り返し」が起こる。


 「ジレンマ」も「再帰性」も、二つの要素が、規制し合うか増幅し合うかという違いはあれ、関係し合っている構造を作っている。

 この二つの要素が「臆病」「羞恥心」と「尊大」「自尊心」の二つの方向性であることは見当がつく。

 これらがジレンマを生じつつ、再帰性をもった循環に閉じ込められている。

 このことは「わかる」はずだ。そうだ、と思う。だがこれを説明するのはそれほど容易ではない。

 この循環を説き明かし、李徴が「虎になった」わけを明らかにする。

 それがつまり「山月記」がどのような物語であるかを捉えるということだ。


山月記 10 結論に向けての再検討

 李徵が虎になった理由、その必然性を「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」に求めるべきであることに異論はない。

 この見込みは「山月記」の成立過程からも補強される。

 「山月記」は、芥川の「羅生門」が『今昔物語』の1エピソードを翻案したものであるように、実は元になっている物語がある。唐代の中国で書かれた伝奇小説で「人虎伝」といい、これが、途中に挿入される漢詩の部分までが、ほとんど翻訳かと思われるほど「山月記」そのままなのだ。

 だが「人虎伝」ではその後に、李徴が虎になった実にわかりやすい「理由」が語られる。

 「人虎伝」の李徴は未亡人との逢瀬を彼女の家族に反対されて逆ギレし、家に火をつけて一家全員を焼き殺したのだった。彼は人にあるまじき非道な振る舞いをしたから虎になったのだ。

 だが「山月記」ではそのエピソードが完全に削除されていて、その部分にそっくりそのまま2の告白が挿入されている。

 したがって「山月記」という小説を読解することは、「人虎伝」という伝奇小説を享受することとは全然別のことなのだ。中島敦は2の告白によって李徵が虎になったことの必然性を描こうとしているはずだと考えるのが真っ当で自然な解釈だ。


 確かに「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」が李徵を虎にしたのだ。

 だがそれは「なぜなったのか?」を充分に説明するものではない。

 だが「なぜなったのか?」について、充分な説明になっていないと感じている読者は、実は既に「なぜなったのか?」がわかっている読者だ。

 つまりこれは「わかっていること」をどれだけ的確に説明できるか、という課題だ。隠れた論理を探り当て、そこに適切な言葉を与える、という作業だ。


 授業の最終段階、結論に向けて二つの道筋を示す。


 まず、虎の象徴性についての再検討だ。

 虎が示す「強さ」には、さらに二つの傾向が指摘された。一つは「威厳」「気高さ」「畏怖」など、どちらからといえばプラスのイメージ。もう一つは「凶暴」「獰猛」など、どちらかといえばマイナスのイメージ。どちらをとる? と聞くと両方に手が挙がった。

 かつて或る生徒が答えた解釈を紹介しよう。

 冒頭に次の一節がある。

李徴は…若くして名を虎榜に連ね…

 ここを引用して彼は言った。「李徵は虎になりたかったのだ。」

 どういうことか?


 「虎榜」とは「虎の名前を掲げた掲示板」の意味だ。正式には「竜虎榜」といい、「竜虎」は優れた者、つまり科挙(国家公務員Ⅰ種試験)の合格者=官僚を指す比喩だ。

 李徵はかつて虎だった。それがエリートコースを外れ、詩家としても成功せず、一地方官吏におちぶれている。

 つまり李徴にとって虎とは、かつての栄光に満ちた自分を象徴するものであり、虎になるとは失った栄光をとりもどすことなのだ。

 虎になる場面でも「何か体じゅうに力が満ち満ちたような感じで、軽々と岩石を跳び越えていった」と、何やら肯定的な表現が使われている。

 だがそれを求めて虎になることは、人としての生を完全に捨て去ることになってしまう。これが「山月記」の悲劇なのだ。


 これはある意味では魅力的な解釈だ。意表をつかれて腑に落ちる感覚もある。

 だがこれでは「なった」理由の2、例の「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」の働きが充分に組み込まれているとにわかに納得することは難しい。李徵が語っている理由の裏に、上のような願望があることを認めても良いが、印象としてはいささかシンプルすぎると感ずる。

 まだ「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」という精妙な設定のメカニズムはまだ明らかではない。


山月記 9 李徴にとって詩とは何か

 もう一つ、最終的な考察に臨む前に考えておきたい問題がある。これもまた「山月記」の読者としては看過してはならない箇所だ。

 どこだ?


 次の一節はどうみても気になる。

なるほど、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、どこか(非常に微妙な点において)欠けるところがあるのではないか

 この「欠けるところ」とは何か?

 ひとまずそう問いたくなる。「~が欠けている」にあてはまる言葉をあれこれと考えてみる。

 だがこの問題の本質は、作者はなぜ李徴の詩に「欠けるところ」があると袁傪に感じさせたのか、という点だ。「欠けるところ」とはこれだと積極的に明示できないとしても、その情報の提示にどのような必要性があるかは納得されなければならない。


 最も素直な答えは、李徴の才能がその程度であることが端的に表現されているのだ、という解釈だ。

 とすると、なぜ作者はそう設定したのか? そのような設定は、どのような論理に組み込まれるべきなのか?


 だが、そういうことではない。袁傪が言っているのは、「素質」は「第一流」だが、「作品」が「第一流」には「欠けるところがある」ということだ。

 それは何か? どんなところか?


 「なぜ虎になったか?」の三つの答えの3番目、「妻子よりも詩を気にしているから」考えるならば、「肉親への情愛」などと表現することもできる。人間らしい心の温かみがないことが詩に表れているのだ、などと。

 これを否定する必要はないが、これで充分とは思えないはずだ。

 では2の理由から「欠けるところ」を考えることはできるか?


 次の一節がこの問題の言わば種明かしになっていると考えられる。

おれは詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交わって切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。

 つまり厳しい鍛錬の場にさらされていないのだ。本人の才能だけでは到達できない修行の跡が見られないのだ。


 種明かしがされてしまったならば、この疑問はもう氷解したと考えていいだろうか?

 この問題について考える糸口として、さらに次の問いを掲げておく。

李徵にとって詩とは何か?


 「~とは何か?」という問いは抽象的でとりとめがない。何を言えば正解なのかわからない。

 こういうときの考え方は、これまで何度も体験した。

 対比を使うのだ。

李徴にとって詩は  ではなく  である。

 「ではなく」によって何かを否定することで、表現したいことを明確にする。


 この問いに答えるために参照すべき記述を指摘する。冒頭の段落から。

故山、虢略に帰臥し、人と交わりを絶って、ひたすら詩作にふけった。下吏となって長く膝を俗悪な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に遺そうとしたのである。

 さらに、李徴が自作の詩の伝録を袁傪に依頼した場面。

作の巧拙は知らず、とにかく、産を破り心を狂わせてまで自分が生涯それに執着したところのものを、一部なりとも後代に伝えないでは、死んでも死にきれないのだ。

恥ずかしいことだが、今でも、こんなあさましい身となり果てた今でも、おれは、おれの詩集が長安風流人士の机の上に置かれているさまを、夢に見ることがあるのだ。


 もちろんここからは李徴の詩への強い執着が読み取れる。

 とすると、  には「夢」「願望」「存在意義」などという言葉が想起されるが、それでは  に入る言葉が思いつかない。そもそも「夢」では強いのか弱いのかもわからない。

 ここは、李徴は純粋に良い詩を書きたいと思っていたのではなく、名声がほしかっただけなのだ、といった分析がほしい。

 これを、どのような対比で表現したら良いか?


 授業では「芸術作品ではなく自己顕示の道具」という表現も挙がった。巧みな表現だ。

 さて、想定しているのはこれと同じ趣旨のこんな表現。

李徴にとって詩は目的ではなく手段である。

 それぞれのクラスで誰かがこの表現を想起する。

 「目的」と「手段」を対にするのは、例えば「自己目的化」だという表現において見られる把握だ。本来手段に過ぎないものが、いつのまにかそれ自身、目的と見做されてしまう。金儲けは豊かな生活という「目的」のための「手段」に過ぎないのに、いつの間にか金儲け自身が「目的」と化してしまう…。大学入学はその先の人生の選択肢を広げるための「手段」に過ぎないのに、それ自身が「目的」であるように錯覚されてしまう…。


 さて、李徵が何か自己目的化をしているというわけではない。ただ、李徵にとって詩は目的ではなく手段だ、といってみることは、李徴の詩の「欠けるところ」についての考察にも一つの解答を与える。

 つまり李徴は芸術としての詩に真摯に向き合っていないのだ。名声を目的とし、詩を手段として扱っている。そうした姿勢が「欠けるところ」があると袁傪に感じさせている。


 世の中には「山月記」の悲劇を、詩への耽溺によって心を狂わせた悲劇として捉える論考がある。

 確かに文学者や芸術家が、自死や発狂といった悲劇に向かう例は歴史上数多くある。ある種の芸術創作は魂を削る行為なのかもしれない。

 だが李徴の悲劇をそのように捉えることは、「山月記」という小説の要素をバランス良く捉えていない。

 李徴の詩への執着は、純粋な芸術創造へ向かっているのではなく、名声への妄執なのだ。


 さて、李徴にとって詩が手段であることと次の一節には奇妙な齟齬がある。何か?

自分は元来詩人として名を成すつもりでいた。しかも、業いまだ成らざるに、この運命に立ち至った。かつて作るところの詩数百編、もとより、まだ世に行われておらぬ。遺稿の所在ももはやわからなくなっていよう。

 李徴の詩への執着という点から見れば、伝録を依頼する事情として読み流してしまいがちだが、問題は「もとより、まだ世に行われておらぬ」という一節だ。

 これはつまり李徴の詩はほとんど発表されていなかったということだ。

 これは先に引用した一節とも符合する。李徴は「師に就いたり、求めて詩友と交わっ」たりすることをしなかった。そんな者の詩がどうやって他人に読まれるのだろう。インターネットもない時代に。

 つまり李徴は独りでせっせと詩を作り、それを発表もせずにしまいこんでいたのだ。

 これは、詩が李徵にとって純粋な自己表現ではなく名声を得る為の手段だという上記の解釈からすると不合理だ。


 だがどうしてそうなったかと言えば、「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」がそのまま李徴のそうした行動を説明している。詩は「自尊心」を満たすための手段でありながら、「才能の不足を暴露するかもしれないとの卑怯な危惧」から、発表ができないのだ。

 だがむしろこのことは、李徴を虎にさせたメカニズムのひとつの表れであるとみなすことはできないだろうか?

 つまり、だから「虎になった」のだ。

 どういうことか?

2023年6月27日火曜日

山月記 8 「虎」の象徴性

 さて「李徴はなぜ虎になったのか?」という問いに含まれる二つの側面のうちの一方「なぜ虎なのか?」について考えてみよう。

 李徵がなったものはなぜ虎なのか、を考えることは、何を考えることなのか?


 まずは「虎」の属性を明らかにするということだ。そしてそれは虎以外のもの、牛と、犬と、猫と、虫と、ライオンと「虎」を比較することで、虎の特性を明らかにすることにほかならない。

 これをさらに抽象化して言おう。これはどのような問いなのか?


 それは単に生物としての虎がどのような動物かということではない。

 「虎になる」とは、ホモサピエンスという動物が虎という動物に変化する、SF的な現象を指しているわけではない。

 とすれば「虎とは何か?」という問いの趣旨は何なのか?


 この問題は初めてではない。こういうときに定番の問いの立て方があるのだ。それを想起したい。

 文芸作品を解釈する時は「それは何の象徴なのか?」という形で問いを立てる必要があることがある。「羅生門」の下人のにきび、「夢十夜」の運慶、「I was born」の蜉蝣はそれぞれ、単にそれそのものではない。それらは「象徴」として作品中に存在する(ちなみに「第一夜」の「真珠貝・星の破片」も明らかに象徴めいているが、あれらが何の象徴かを考えるのは生産的ではないと授業者は考えている。あれらは単なるギミックだと思う)。

 「象徴」とは?

 具体で何らかの抽象概念を表わすこと、と即答できなければならない。

 とすれば今求められているのは、その「抽象概念」を指す語の想起と選択だ。

 「虎」が意味している抽象概念を、単語であれ形容であれ、何らかの言葉にしてみる。そしてその表現が、李徵が「虎になる」ことの必然性を説明する上で使えるかどうかを検討する。

 とはいえ、さしあたり名詞を挙げてみよう。


 各クラス、それぞれの班で多様な候補が出る。バリエーションというだけなら、各クラスとも10前後の語が提出される。

 それらを似たような意味合いでグループ化する。おおよそ二つの系統に分類できる。

 一つは「孤独・孤高・孤立」など「独り」のイメージ。これは虎の、群れを作らないで単独行動する生態に対応している。

 もう一つは「強さ」のイメージ。「虎の威を借る狐」では虎は百獣の王だ(「百獣の王」といえばライオンではないか、という者もいるが、アフリカでは獅子、アジアでは虎なのだ)。

 この二面は前回考察した「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」の二面性そのままである。

 「臆病」「羞恥心」に表われる「独り」のイメージ。

 「尊大な」「自尊心」に表われる「強さ」のイメージ。

 ということは、この二つは「虎」の属性であるとともに、そのまま李徴の性格でもある。人と馴染まない狷介さと、一方で優秀さとプライドの高さ。


 ところで、「強さ」を表す語をさらに二つに分類して示すと、興味深い意見の相違が見られた。

 一つは「威厳」「気高さ」「畏怖」など、どちらからといえばプラスのイメージ。

 もう一つは「凶暴」「獰猛」など、どちらかといえばマイナスのイメージ。

 どちら寄りに考えると「虎になる」ことの説明になりそうかという問いに、みんなの意見は分かれた。こういうのは面白い論点だ。


 また、どちらに属するとも単純には言いがたい語彙として「怒り」「恐怖」なども提案された。「恐怖」は「畏怖」に近いが、また微妙に方向の異なる語でもある。李徵自身の「恐怖」なのか、他から李徵に向けられる「恐怖」なのかも問題だ(提案者はどちらともだ、と言っていた)。

 「虎の威を借る」の故事から「愚かさ」という語も提案された。「虎になる」とは「愚かな存在になる」ということだ…。

 いずれにせよ、どんな言葉が、李徵が「虎になった」わけを説明する際に有効なのか、と考えてみる。


2023年6月21日水曜日

山月記 7 内なる猛獣

 「瓦に伍することもできない」=「詩友と交わらない」と解釈したくなるが、そうだと言って済ますことはできない。

 それは、「詩友」は切磋琢磨するような存在であって「瓦」などと下に見るべき存在ではないから、というような理由ではなく、至極論理的な文脈の解釈による。

 まず「碌々として瓦に伍することもできなかった」が「俗物の間に伍することも潔しとしなかった」の言い換えなのだろうと読むのは自然だ。「伍する」の繰り返しを手がかりに「瓦」が「俗物」の比喩なのだろうと考えることは容易にできる。

 とするとそれは「詩友」とイコールでは結べない。引用しよう。

進んで師に就いたり、求めて詩友と交わって切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、また、俺は俗物の間に伍することも潔しとしなかった。

 「かといって」は、その前後が選択的・排他的な関係にあることを示している。したがって「詩友と交わる」と「俗物の間に伍する」は異なった事態を表していることになる。そして「俗物の間に伍する」が「瓦に伍する」だとすると「瓦に伍する」は「詩友と交わる」ではないということになる(三段論法によって)。「詩友と交わることをしなかった。かといって、また、詩友と交わることもしなかった」と代入してみると意味不明な日本語になってしまうことからもそれがわかる。

 では「瓦に伍する」は何のことを言っているか?


 上の引用部分の「かといって」の前が詩家を目指している期間、後が詩家を諦めてからの期間だと考えると「瓦に伍する」は詩家の夢を捨てて一般市民として生きることを指しているのだろうか? 「瓦」とは「一般市民」?

 それは間違っていない。だがそれだけで終わるべきではない。

 詩家を諦めた李徵はどうしたか?

 小説全体に視野が届いていれば、この比喩は冒頭段落の李徵のプロフィールの中の「昔、鈍物として歯牙にもかけなかったその連中の下命を拝さねばならぬこと」を指していると考えるべきであることに気付くはずだ。「鈍物~連中」は「瓦」の比喩にふさわしい。


 「碌々として瓦に伍することもできない」、つまり平凡な連中と肩を並べられないなどという態度は確かに「尊大」だ。

 他人を「瓦」と呼ぶ「尊大」(あるいは傲慢)な李徵にとって、一般市民や鈍物たる同僚ばかりでなく、俗悪な上司も「瓦」であるにちがいない。だから時期の対応にしばられずに、李徵の精神構造から考えれば「瓦に伍する」が「下吏となって長く膝を俗悪な大官の前に屈する」ことを指していると考えてもいいし、それだけでなく上記の文脈の論理からは否定した「詩友と交わる」こともまた李徵にとっては「瓦に伍する」ことなのだろう。

 だから「瓦に伍するもことできない」が「詩友と交わらない」のことを指していると考えてしまったのは故ないことではない。文脈上は否定されるが、決して間違った印象ではない。


 他人を「瓦」と見る「尊大な」「自尊心」は、「己の珠にあらざることを惧れる」という「臆病」を裏に隠しもっているがゆえに、その事実が露わになるのをおそれて「人との交わりを避け」る「羞恥心」を生ずる。「瓦に伍する」ことをしないのは「尊大」ゆえでもあるが、「臆病」だからでもある。

 つまり「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」の形容・被形容は、語意からはその方向性が相反しているにもかかわらず、それらが分かちがたく結びついた同じ性質の表裏であることを表している。

 一見方向性の反対の方向性をもった言葉が、捻れて形容・被形容で接続するのは、その関係性を巧みに表わしている。


 「山月記」では常に問題となるフレーズをとりあえず整理してみたが、それが虎なのだ、だから虎になったのだ、と言うのは、論理の飛躍がある。臆病な人は虎になるのか、尊大な人は虎になるのかといえば、ただちに当然とは言えまい。

 問題はそれがなぜ「虎になる」という極端な事態を招いたのかという論理だ。


山月記 6 珠と瓦

 さて「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」の読解には、もうちょっと地ならしが必要だ。

 「臆病な…」の次の一文は、いくぶんモヤモヤするはずだ。

の珠にあらざることを惧れるがゆえに、あえて刻苦して磨こうともせず、また、己の珠なるべきを半ば信ずるがゆえに、碌々として瓦に伍することもできなかった。

 ここはそんなにすっきりとは読めないだろうと想定していると、問いとしてここに言及する班がちっとも現れない。なぜだ? わかりきっているのか? そんなはずはない。ここに使われている比喩表現はそんなに自明のことか?

 地道な考察を展開するために、まず確認。

 「珠」「瓦」という比喩は何を意味しているか?


 「瓦」は「値打ちの低いもののたとえ」という語注がある。そして「伍する」の繰り返しから推測すると、前の文の「俗物」の言い換えになっていると考えられる。「俗物」=「値打ちの低いもの」だ。

 「珠」は、訊くと「才能」という答えが返ってくることが多いが、これは若干微妙な誤解を含んでいるかもしれない。

 「己珠」と括って「自分の才能」と直訳してはいけない。「の」は所有格ではなく主格で、「己の」は「珠」に係っているのではなく、「あらざる」「なるべき」に係っている。つまり「自分」「珠にあらざる」「珠なるべき」なのだ。

 ということで「珠」は「優れた者」の比喩だ。

 「伍する」は?

 「落伍者」という言葉は知っているだろうか(みんななんとなく微妙な反応だった)。そこから考えると「同等の位置にならぶ。肩を並べる。」などという意味が抽出される。

 こういう地道な確認を互いにしあうことを心がけよう。

 言葉の意味が確認できたところで、これはこの前後のどの記述に対応しているか? あるいは小説中のどんな状況を表現しているか?


 「己の珠にあらざることを惧れる」は、次ページの「才能の不足を暴露するかもしれないとの卑怯な危惧」に対応している。

 がゆえに、「あえて刻苦して磨こうとしない」。これが「刻苦をいとう怠惰」と言い換えられている。怖くて磨かないことと怠惰で磨かないのとでは違うと突っ込むこともできるが、これは李徵の自嘲癖の表れとみなそう。

 「己の珠なるべきを半ば信ずる」は「自分が才能ある者であることを半ば信じる」だ。これは「自尊心」の表れだと言って良いが、冒頭近くにもこれに対応する記述がなかったか?

 「自ら恃むところすこぶる厚く」だ。最初の時間のやりとりを思い出して、すぐに想起できただろうか。

 ではそれゆえに「碌々として瓦に伍することもでき」ないとは?


 さしあたって数行前の「努めて人との交わりを避けた。」に対応している。

 これをもっと具体的に表現しているのが、同じ段落の「求めて詩友と交わって切磋琢磨に努めたりする」であるように感ずる。

 こう考えることは適切か?


 さしあたって、そう解釈するのは間違っている、と言ってもいい。

 なぜか?


2023年6月20日火曜日

山月記 5 問いを分解する

 李徴が「虎になった」理由として重視すべきなのは、最初に挙げた三つのうち、やはり2「性情が表に出た」なのだろうと、素朴に思う。

 そして2は、それなりに「わかる」。そういう話か、という、ある感触は得られる。

 だがそれがどういうことなのかをすっきりと説明できるわけではない。説明しようとしても、現状では本文をそのまま引用することになりそうだ。

 さらにそれを抽象化して「主題」として語ることは難しい。


 さて2の「性情」=「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」とは何か?

 ここが、問題の「李徵はなぜ虎になったのか?」の答えとして充分に説得的であるかどうかというのが、「山月記」という小説の読解の中心課題であり、現段階でここに踏み込むことはとどめておこう。最終的な考察をする前に、ここではまず当面「わかる」べきことをわかっておく。

 当該の段落をすっきりと「わかる」ためにどんな考察が必要か、というのが既に問題ではある。再三言っている通り、「問いを立てる」ことはきわめて重要だ。適切に考えるためには考えるべきことの焦点が定まっている必要がある。

 だが今回も変わらずこの課題にみんな難渋した。「わからないところがわからない」と言いたい気持ちはわかる。がそれは考えることをサボっている、放棄している、諦めているのだ。

 もちろん問題の焦点が「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」であることはみんな感じ取る。それが「猛獣」なのだし、それが外形を「虎」にしたのだと李徵は語っている。

 だがなぜそれを「どういうこと?」とか「どうして?」と言っただけでは、考えるべき焦点はまるで明確にならない。疑問が同語反復しているだけだ。


 そもそもこのフレーズには、読者が、あるひっかかりを感ずるべき違和感がある。

 この違和感はどこから生じているか?


 それは形容と形容される言葉の方向性が食い違っていることによる。

 「臆病」であることと「尊大」であることは、一見反対の方向性をもっているように見える。「自尊心」と「羞恥心」も同様だ。

 これが、ちくはぐに組み合わされている。

 形容を入れ替えて「臆病な羞恥心」「尊大な自尊心」とすれば違和感はない(今度は「頭が頭痛」のような重複による冗長さが違和感となるが)。

 ではなぜこうした形容が入れ替わって組み合わされているのか?

 そしてなぜそうした形容が可能なのか?


 「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」とはどういうことか、という「大きな問い」を、例えば上記のように分析して、より「小さな問い」に置き直す。

 さらに、このフレーズを考えるために考えるべきことは何か?

 語れる者はすぐに「解釈」を語ってしまうが、それはどんな疑問を解いているのか?


 まず、そもそも「臆病」「羞恥心」「尊大」「自尊心」がそれぞれ何のことを指しているかを明確にすることが必要なはずだ。語っている者はそれを語っているはずだし、そうでなければ、何も語れずに黙ってしまうか。

 ここが、この部分を考える上で立てなければならない問題の焦点であることは、分析的に考えないと意識できない。

 適切に問いを立てることはいつも難しい。

山月記 4 「答え」の重み付け

 「李徵はなぜ虎になったのか?」という問いに対する「答え」として三つの候補を文中から挙げた。

  1. わからない
  2. 性情が表に出た
  3. 妻子よりも詩業を気にかけているから

 これらの「答え」を検討しよう。

 もちろん2を考えることが「山月記」読解の本丸になる。だから先に1と3を軽く考えておく。


 1を問いの答えとするということは、つまりこの小説のテーマをどのようなものだと考えるということか?

 それを言い表す単語を想起しよう。何か?


 二字だったら「運命・宿命」が文中の「さだめ」から連想される。四字だったら「諸行無常」「輪廻転生」とかいうのもアリかもしれない(もっとも李徵はまだ死んでいないので「転生」ではない)。

 三文字という指定をした。想定している三字熟語は「不条理」だ。「理不尽」もわるくないが、文学作品のテーマとして使われる頻度は「不条理」の方が高い。

 授業ではそれ以外に「受動的」が挙がった。なるほど、生物は「運命」の定めるところに対して「受動的」なのだ。

 また「無意味」という語も挙がった。人間であることも虎であることも、それ自体に「意味」はないのだ、という思想をこの小説は語っているのだ。

 これらは「不条理」という捉え方と同じ範疇にあると考えていいだろう。

 確かに「不条理」をテーマとする小説というのはある。人間が望むような「物語」=「条理」を否定することを主題とする小説が。

 では「山月記」をそのような小説として読むのは適切だろうか?

 どうもそうは思えない。それよりも2を重視して、その「条理」を考えるべきだという気がする。

 2よりも1を重視すべきではないと判断することの妥当性はどこにあるか?


 まず情報量として1や3に比べて2は情報量が多い。大事なことは詳しく語られる。

 また、小説中の順番は1,2だ。後出しジャンケンのごとく2の方が優位なのだ。

 後から述べられたことの方をより重視すべきだという妥当性はある。

 仮に2より1の方が後で語られていれば、1を無視できなくなる。あれこれ2のように理屈をこねたが、やっぱり「わからない」が正解かもしれないと小説的には言っているのだ、と。

 だが順番は1,2だ。

 後ろまで語って結局先に述べた1を結論として重視すべきであると考えるには、2や3で語られる理屈に対する疑義が小説中に置かれている必要がある。本人がいくら理屈をこねても、そんなものはあてにはならない、と。

 だがその痕跡は見つからない。とりあえずは。

 見つけられないでいるうちは、素直に2や3を重視すべきなのだ。

 こうした論拠を安易と感じ、そこに懐疑を抱くことは可能だが、そもそもこれは虚構=作り物なのであり、その創造の意図を探ろうとする思考においては、その蓋然性の判断は必要なことだ。

 そしてまた、適切な判断の根拠を自覚しておくのは有益なことなのだ。


 1は虎になった当初の混乱の中で発せられた感慨だが、その後熟慮の末にたどりついたのが2だ。やはり2がこの小説の肝なのだ。


 では3はどうか?

 1を候補から除外した時と同じ、情報量という点からはどうみても2が優勢だ。

 では3は、単なる自嘲癖の一つの表れとして看過すべきか?


 だが「関係」という言い方で考えさせたとき、2と3は、あながち別のことを言っているわけではない、という感触をもった人も多いだろうと思われる。どこのクラスでも3は2の具体例だ、という声が聞こえる。

 最初の「問い」に対して2から形成される「答え」と3から形成される「答え」が同じであるなどということは、どう考えれば可能か?


 こうした対比(類比)には、抽象度を上げる必要がある。

 3の記述からは、虎になった理由をどのような言葉で捉えることができるか?


 さしあたって皆から挙がるのは「身勝手」「自己中」「利己的」だ(はからずもこちらも三文字熟語が揃った)。

 3の記述から見出せるこれらの「理由」は、2で語られる「理由」と同じだと言って良いのだろうか?


 今直ちにそれに対して適否の判断を出すのは難しい。

 まずはいったん3は措いて、2について考察を進めよう。


2023年6月13日火曜日

山月記 3 三つの答え

  李徵はなぜなったのか?

 「山月記」の読解とは、ひとまずはこの問いの答えを探す考察だ。


 さて、小説中から、この問いの答えになりそうな箇所を3カ所見つける。全ページを斜め読みし、まずは探す。

 「答えになりそう」というのがどのレベルの直截性なのかはまた問題ではあるのだが、とりあえず皆が納得しやすいところとして衆目の一致するのは次の3カ所だろう。

 なぜこんなことになったのだろう。わからぬ。まったく何事も我々にはわからぬ。理由もわからずに押しつけられたものをおとなしく受け取って、理由もわからずに生きてゆくのが、我々生き物のさだめだ。(38頁)

 俺はしだいに世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚とによってますます己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。人間はだれでも猛獣使いであり、その猛獣に当たるのが、各人の性情だと言う。俺の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これが俺を損ない、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、俺の外形をかくのごとく、内心にふさわしいものに変えてしまったのだ。(42頁)

 飢え凍えようとする妻子のことよりも、己の乏しい詩業のほうを気にかけているような男だから、こんな獣に身を堕とすのだ。(44頁)


 シンプルに

  1. わからない
  2. 性情が表に出た
  3. 妻子よりも詩業を気にかけているから

としておく。

 さしあたってこの3点を検討する。

 これ以外には、李徵が虎になる場面で、闇の中から呼ぶ声の存在が書かれているが、これは1か2の表れの一つと考えていいのではないかと判断しておく。また冒頭の段落には「自尊心が傷ついたから」と見做すことの可能な記述があるが、これは2に含めて考えよう。


 どう考えるべきか?

 まずはこの3点の関係を考え、重み付けをしよう。

 とはいえ、2を重視すべきであることは誰しも何となく感じ取っている。問題は1と3をどう扱うかだ。無視していいのか? それともしかるべき重みで受け取ればいいのか?


山月記 2 二つの問い

 「山月記」はどういう話か?

 「どういう話か」という把握のことを「主題(テーマ)」と言う。昨年度の「羅生門」や「夢十夜」でもそう言っていた。「主題」とは何か小難しい話ではない。「どういう話か」という把握のことだ。

 「山月記」はどういう話か?

 といって単に設定粗筋のことを指しているわけではない。それを言うなら「虎になった男の話」であり、「虎になった男がかつての友人と山中で出会ってその経緯を話す話」だ。

 「主題」というのは、それより一段抽象化した言葉で対象を把握することだ。

 最終的に考えるのは「山月記」の主題だとして、その前に「わかる」べきことはわかっておかなければならない。

 「山月記」を読解できたと見なすための最低限の条件は何か?

 「わからない」とすれば何が「わからない」のか? 「わかった」とすれば何が「わかった」のか?

 まず、問いを立てる。


 「山月記」がひとまず「わかった」と思えるための試金石は明らかだ。ブレたりはすまい。読者は皆そう感じるはずだ。

 すなわち次の問いに答えられることである。

李徴はなぜ虎になったのか?

 これに、今直ちに答えられるだろうか?

 この問いはちょうど「羅生門」における「下人はなぜ引剥ぎをしたのか?」に対応している。わからないわけではない。だが「わかる」と即答することにもためらわれる。

 おそらく授業前の状態は、この問いに対する答えが明確な形を成しているとは言えず、といって見当もつかないというわけでもないボンヤリとした手応えだけがあるという状態のはずだ。

 ここに明確な形を与えることを目標とする。


 適切に考えるために問い自体の成り立ちを的確に把握しておく。

 「羅生門」の「下人はなぜ~したか?」は、「何のためにしたか?」ではなく「なぜできなかったことができるようになったのか?」だった。

 「なぜ」という疑問詞は通常「理由・原因」を喚び出すために使われるが、時には「目的」や「経緯」を引き出す場合もある。「どうして」という疑問詞も「なぜ」の場合も「どのように」の場合もある。理由か方法か。

 「羅生門」では、引剥ぎの目的だの経緯だのを考えたのではなく「行為の必然性」を考えたのだった。「なぜ」と問えば「生きるため」と答えることも可能だが、そこが問題ではない。最初からわかっている「生きるためには盗人になるしかない」が、なぜか最初はできずにいて、最後にできるようになったのはなぜか、を問うているのだ。

 同様に、「なぜなったか」は「どのようにしてなったのか」ではない。「虎になった」ことの経緯ではない。理由あるいは原因と言っても良いが、それよりも、筆者がこの小説で李徵を虎にしたことに、どのような必然性を与えているかということだ。


 ところで「李徴はなぜ虎になったのか?」という問いには二つの問いが含まれている。

 何か?

 「なぜ」という疑問詞が「虎に」に係っていると見做すか、「なった」に係っていると見做すかで、以下の二つの問いに分解できる。

なぜ李徴は人間でないものになったのか?

なぜ李徴がなったものはなのか?

 最終的な「答え」には、これら二つの要素が含まれていることが条件だ。


 これらを説明するために、それぞれの問いにおいて、考えるべき問題の輪郭を明らかにする。輪郭を明確にするには対比を応用するのが常套手段だ。

 「なぜ虎なのか」を考えるには、虎以外の生物(牛・馬・犬・蠅・蛞蝓…いや生物でなくとも、ロボットでも棒でもいい)ではなく虎であることの意味を考える。

 したがって「なぜ虎なのか?」は「なぜ虎以外の物ではないのか?」と言い換えられる。「虎」を「虎以外の物」と比較することで、「虎」であることの意味が明確になる。「虎になった」ことの意味を考える上で「犬になることとどのような違いがあるのか?」と考えてみる。

 では「なぜなったのか」は、どのように言い換えられるか? 何と対比すれば「なった」ことの意味を明確にできるか?


 「なった」の対比は素直に言えば「ならなかった」だ。

 そこまではみんなわかるのだが、「ならなかった」の否定を表現するのは難しい。

 「ならなくはなかった」?「ならなかったわけではない」?

 ここに「なぜ」という疑問詞をつけても、何を聞いているのかわからない。

 「なった」ことの必然性は「ならない」ことの必然性の裏返しだ。といって「なぜ他の人は虎にならないのか」は不要な仮定だ。他の人が虎になる必然性はそもそもない。

 「なぜ人間に戻れないのか」は、虎になることが可逆的なのか不可逆的なのかもわからないのでやはり不要な仮定だ。

 ともかく李徵は虎に「なった」のだ。その必然性は、「ならなかった」=「人間のままでいる」必然性の裏返しとして明確になる。

 したがって、この場合の対比は、「なぜなったか?」を「どうすればならずにいられたか?」と言い換えることで得られる(疑問詞を置き直す必要があるところで行き詰まった者も多かった)。

  • 李徴はどうすれば虎にならずにいられたか?
  • 李徴はなぜ犬や馬ではなく虎になったのか?

 これら二つの要素を含むよう、「虎になった」ことの意味を明らかにする。


2023年6月11日日曜日

山月記 1 小説を読む

 授業で中島敦の「山月記」を読む。

 いったい何をすべきか?


 小説を読むことは娯楽だ。それは好きか好きじゃないか、面白いか面白くないか、感動するかしないか、という個人的享受の問題だ。


 一方で小説は芸術作品かも知れない。「文学」だの「文芸」だのという言い方で、小説を芸術作品として享受することもありうる。

 娯楽は既存世界の安定的反復をめざし、芸術転覆をめざしているのかもしれないが、いずれにせよ、小説を読むということは個人的な営みだ。


 だが今、我々が置かれているのは、国語教育が行われようとしている授業という公共の場だ。そこでは国語力の伸張が期待されている。そうした目的と、娯楽や芸術の享受という個人的な営みはどのように一致するか?


 一方で国語教育は道徳教育でもない。小説は教訓を読み取るための寓話ではない。


 娯楽や芸術の享受は楽しみや感動を期待する行為だが、それは個人的な営みだ。教室にいる全員が楽しんだり感動したりすることをめざすことが果たして可能か。それを期待するのは構わない。多くの者が感動できれば結構なことだ。だがそれをどのようにしてめざすのか?

 一方で、教訓を得て道徳観念が涵養されるのは結構なことだ。だが「教訓を与える」ことは、本当に道徳観念の涵養に益するのか?


 国語教育の目的は、国語力の伸張である。「適切な」読解をめざした結果、それが娯楽であれ芸術であれ、楽しんだり感動したりできれば重畳、それは余録だ。それを目的にしてはならない。

 道徳観念の涵養に益する教訓が得られるのも同様。文学はむしろ常識的な「教訓」の破壊を目論んでいるかも知れないのだ。文学に触れることが必ず道徳観念の涵養につながることを期待してはいけない([羅生門]がそうであったように)。


 まずは「読解」だ。その先の感動やら教訓やらといった余録は、僥倖であり恩寵である。


 ところで「山月記」を読むのは、ある意味では、それ自体が目的でもある。

 「山月記」は、「文スト」でもおなじみ、日本人にとっては広く人口に膾炙した作品だ。

 というのはこれもまた「羅生門」と同じく、教科書の定番だからであり、高校を卒業した人たちが高い確率で読んでいる。みんなもこれで多くの日本人の仲間入りをするわけだ。

 今回もまた、家庭で親御さんと、兄姉と、これから授業で「山月記」を読むのだと伝えて話題にして欲しい。

 「山月記」は日本人にとって、みんなにとってどのような小説でありうるか?


2023年5月19日金曜日

思考の誕生 17 環世界をつなぐ

 ではあらためて次の一節について考える。

互いの一部をそれぞれの環世界に摂り込みつつ、時に「親」として、また別の時には「子」として関係することができる。

 「環世界」という、一般的には必ずしも耳に馴染んでいるとは言いがたい言葉を、筆者はなぜ、あえて使っているか? この言葉を使うことで、どのようなことを示そうとしているのか?


 「環世界」とは各生物がとらえる千差万別な世界像のことだ。これは千差万別=百面相であるところがミソだ。「それぞれ」の生物にとっての「環世界」は「それぞれ」違うのだ。

 これは種の違った生物同士の「環世界」がどれほど違うかを示すために提唱された概念だが、ここでドミニク・チェンがあえてこの言葉を使って示すのは、我々人間同士でも、それぞれの「環世界」は実は違っている、という認識だ。

 こちらから見る世界は私の「環世界」だが、あちらから見る世界も同様にその人の「環世界」だ。それらが異なったものであることは、あらためて心に留めておく必要がある。


 だがそれは「異なっている」だけではない。「互いの一部をそれぞれの環世界に摂り込みつつ」というのは、そうした「環世界」が、それぞれ、相手の作用によってできあがっている、という認識を語ってもいる。

 そこで必要となるのが「言葉」だ。


 これはとても国語の授業にふさわしいメッセージだとも言える。我々の間をつなぐのは「言葉」だ。

 だが、だから国語の授業は大事、というほど単純なことを言っているわけではない。

 「身体にも訴える『言語』が必要」のくだりでも考えたように、「言語・言葉」とは文字通りのそれを指すだけではない。

 「言語」の言い換えを、同じページから指摘しなさい、という問いに「インターフェイス」という語が指摘できた人は論理が追えている。

 我々は、一人一人違った「環世界」に生きている。それをつなぐ「インターフェイス」=「言葉」が必要なのだ。

 それが「未来をつくる」。


2023年5月13日土曜日

思考の誕生 16 環世界

 こちらから考察を提案したのは次の一節。

互いの一部をそれぞれの環世界に摂り込みつつ、時に「親」として、また別の時には「子」として関係することができる。

 読んでいて皆がここにちゃんと反応したかどうかわからないが、この「環世界」は読み流すべきではない。


 いったん「論理国語」の、日高敏隆「生物の作る環境」を迂回する。クラスによってGW前に読んだクラスとそうでないクラスがあったが、この文章をここにつなげる。文中で「環世界」が説明されている。

 「環世界」とは、ユクスキュルの唱えた「ウンベルト」の訳語で、「環境」という概念の一部ではあるが、それよりも生物にとっての「世界観」とでもいったような概念だ。

 「生物の作る環境」という見出しはたぶん教科書編集部のつけたものだろうが、この文章の主旨は「生物が環境を作る」という表現からイメージされる事象とはだいぶ違う。「生物の捉える世界」とでも言うべきだろう。

 「世界観」は生物ごとに異なっていて、それぞれをその生物の「環世界」と呼ぶ。

 この文章は今までのどこにつながるか?


 ここまでの4編の中で、この文章の論旨とほとんどそのまま重なるのは「真実の百面相」であることは明白。

 論旨を重ねるために、これもまた、一文で言ってみればいい。

環世界は生物によって違う。

 一方の「真実の百面相」の主旨を同じ構文の一文で言うと?

真実は見る人によって違う。

 こう言ってみれば、上記の「生物の作る環境」と同じであることが一目瞭然だ。「真実」が「環世界」に対応している。「環世界」は百面相なのだ。


 これらがどのような命題を否定していることになるのか?

 「真実の百面相」ならば「唯一の客観的な『真実』がある」だし、「生物の作る環境」ならば「どの生物にとっても同じ客観的な『世界』がある』だ。

 「真実」も「世界」も主観的なものだと言っているのだ。それゆえそれらは「百面相」になる。


 さてこうした認識には昨年も触れたことがある。

 年度終盤の「視点を変える」シリーズがそれではないか。

 「見方を変えると見え方は変わる」は、まさしく上記の「真実の百面相」「生物の作る環境」と同じ認識だ。

 そういえば「木を見る、森を見る」は「アリの目に、この世界はどう見えているのだろうか。」と結ぶ。いかにもユクスキュル的問いかけではないか。


思考の誕生 14 未来をつくる言葉

 ここで「文学国語」に登場してもらう。ドミニク・チェンの「未来をつくる言葉」を読む。

 ドミニク・チェンは現在、早稲田大学の文化構想学部の先生だから、将来ドミニク・チェンに教わることになる人もいるかもしれない。既に本校の卒業生が教わっているかもしれない。


 この文章も一筋縄ではいかない。メッセージは、ある意味ではわかりやすいのだが、それがここまでの議論にどうからんでくるか?


 全体の論旨と、ここまでの文章群とのかかわりを考える前に、この、一筋縄ではいかない文章については細部の考察もしてみよう。

 読んでいて引っかかるところ、腑に落ちないところをピックアップして話し合う、という時間をとった(授業時間の多いクラスでは)。話し合いの活発に続くクラスは、これだけで国語の授業が成立しているなあと思えて心強い。自分で読んでわからないところを話し合いの中で解決しようと議論する。十分ではないか。

 話し合いが続かないのは、それだけ「考えていない」ことの表れだ。「『わからない』ところがわからない」ということはもちろんあるが、それを粘り強く考えて、どこに引っかかっているんだろうと、問題点を明らかにしたり、それを班のメンバーに投げかけることこそ思考の入り口だ(と蓮實は言っているのだ)。


 複数クラスで疑問として提示されたのは、例えば次の一節。

(人々の間に)理性だけではなく身体にも訴える「言語」が必要となる。

 何が「わからない」?


 「身体」が「理性」と並列されているところにひっかかるはずだ。

 こういうときは具体例を思い浮かべる。「わかる」とは具体例の見当がつくことだ。

 実はもう一つの問題は「言語」に括弧がついていることの意味を正しく捉えているかどうかだが、この二つの問題は関係している。

 さて「身体にも訴える『言語』」の実例は?


 話し合わせれば「表情」「仕草」などの例が挙がる。

 ほら、殴り合いをした後、互いに相手を「友よ!」とかって、認め合うことがあるじゃん、などという話をB組S君など、あちこちでしているのも聞こえた。拳という肉体「言語」もまた、人と人をつなぐこともある。

 つまり「言語」とは、いわゆる言語そのものを含んでいるが、それを拡張した、人々のコミュニケーションの媒介全般を指していると考えるべきなのだ。

 「手話」の例も挙がったが、これは文字通りの言語とそれを拡張した「言語」の中間的な例だ。


 上記のような例が思い浮かべば充分だと思うが、例えばドミニク・チェンの頭には以下のような例まで想定されているのだろうと思われる。

 「生者と死者が交わるインタフェース」「人と微生物をつなぐロボット」は、何のことか、文中ではわからない。これは文章の外へ出て調べてみるしかない。

 「生者と死者が交わるインタフェース」は例えばこの記事の「心臓祭器」のことだろうし(記事では「環世界」についても触れられている)、「人と微生物をつなぐロボット」はこの記事の「ヌカボット」のことだろう。

 「言語」は、これらのインターフェイスも含めた、象徴的な意味で使われている。

 我々の間をつなぐのは、文字通りの「言葉」だけでなく、「身体」にもはたらきかける「言語」によるコミュニケーションだ。


2023年5月1日月曜日

思考の誕生 13 人にとって「物語る」とは

  • 思考は他人性から生まれる。「思考の誕生」
  • 物語は何もないところから生まれる。「物語るという欲望」


 内田は、物語が生まれるのは、対象が「わからない」ときだ、と言う。二つの事象の「論理がつながらない」時、我々はそこに「論理」の橋を架けようとする。その時「物語」が生まれる。

 一方蓮實は、思考は他人と一緒に考えるときにのみ誕生すると言う。この「他人」とは「他人性」をもった相手、つまり「わからない」相手だ。「自分の内面を投影」している相手は「他人」ではない。そうした対象は既に「わかっている」。自分の内面が投影されているのだから。

 本当に相手を「他人」だと認識しない時は、既にわかっていることしか脳内には存在しない。相手を「わからない」存在であると認め、そこに橋を架けようとする時にのみ、「思考」が誕生する。

 思考(と呼ぶにふさわしいもの)も「物語」も、「わからないもの」と出会った時に生まれる。

 「物語」はテクストと読み手が出会うときに「一回性」をもったものとして生まれる。その「一回性」の出来事こそ蓮實が「具体的な体験」と呼ぶものだ。「思考」は「具体的な体験」としてのみ生まれるものであり、決してネットや教師から「教わる」ものなどではない。読み手の、観客の、思考しようとする者の主体的な関わりの中で「誕生する」ものだ。


 この「主体的な関わり」は、ともすれば「自分で考えることが大事」という、蓮實の言うところの「抽象的」な理念と混同されてしまう恐れもあるかもしれない。

 だが両者はまったく対照的な姿勢を示している。

 内田の言う「主体的な関わり」とは、テクストや映像の意味は、もともとテクストや映像の中にあり、読者や観客がそれを受動的(=客体的)に読み取るのだ、というモデルを否定している。読者は主体的にテクストに出会うのである。

 一方蓮實の攻撃する「自分で考えることが大事」という言説は、そうしたテクストや映像や「他人」との出会いを経ずに、自分の中だけで思考が完結しているようなモデルであり、そうして認識されるのは、実はどこかで誰かが言っていることに過ぎない。

 つまり「自分で考える」ことの称揚こそが実は、逆説的に人を「受動的」にしてしまうのだ。

 「他人」は、相手をそのように見ようとする者の前で初めて「他人」としてその姿を現わす。そこに「何もない」ことを見ようとする者に対してしか「断絶」は見えない。

 そしてそこに橋を架けようとせずに「自分で考える」ことが大事だというのは、所詮抽象的な理念にとどまる。


 人にとって「物語る」とは、隣にいる「他人」と、読んだテクストと、観た映画と、自分を取り囲む世界と出会うことで、そこに何らかの意味を作り出す具体的な体験だ。

 そのようにして人はこの世界に自分の居場所を見つける。


 さらにここから「物語」とは「スキーマ」のことである、といったところにつながる可能性があるのだが、これはまた機会を見て考察しよう。


 さて、以上のような考察を600字にまとめる。

 一例を示す(読み返してみると我ながら「美しく」ない。必要なことを並べただけ、みたいな)。

 内田は「物語るという欲望」の中で、人には「わからない」ことを解釈したい欲望があると述べる。そうして解釈されたものが「物語」である。人は「物語る」ことで世界を捉える。世界は最初から「意味」をもっているのではなく、「意味のわからないところ」=「反-物語」を脈絡づけることで、「物語」として姿を現すのだ。「読む」のテクストの例も同じだ。テクストの意味はテクストの中にあらかじめあるのではなく、読み手が「読み込む」ものだ。テクストの意味は「読む行為」=「解釈」=「物語る」ことによって作られる。これは大森が言う「真実」と同じである。「真実」は事象を観察する人が作るものだ。したがってそれは「百面相」となる。客観的な唯一の真実などない。

 物語が生まれるのは「意味のわからない」ところを架橋しようとする時だ。意味が明白であればそれ以上の解釈はしない。蓮實が「他人」と呼ぶのは、そうした「意味のわからない」相手だ。「自分で考える」ことは、実は既にわかっていることしか考えないということだ。あるいは自分で考えたつもりになって、どこかで聞いたことの受け売りになってしまう。「他人と考える」ときに思考が生まれる。「他人性」とは相手を「意味のわからない」存在だと認識することだ。そしてそこに橋を架ける=解釈する=「物語る」ことによって「意味」が生ずる。そのようにして誕生したものしか「思考」と呼ぶに値しないと蓮實は言っているのである。

2023年4月30日日曜日

思考の誕生 12 何もないところ

 「物語るという欲望」を読めば、冒頭近くの「モジューヒンの実験」が「真実の百面相」と重なることはすぐにわかる。

 同じモジューヒンの表情が、見る人によって「苦々しさ」「微笑」「悲しみ」に見える。同一の顔が、見る人の中で「百面相」に解釈される。

 映像の「意味」は観客による「主体的な読み込み」によって作られたものだと内田は言う。

 この主張は「読む行為」では「すべての読み手はそれぞれ固有の仕方で物語に関わっており…無数のファクターが、読み手の『読み方』に関与する」と述べられている。映画の二つの映像の「間」に生ずる意味も、テクストと読み手の「間」に生ずる意味も同じだ。

 そうした「意味」について、大森はそのどれもが「真実」であると言う。もともと単独の映像であれテクストであれ、そこに固定的な・客観的な・唯一の「意味」があらかじめあるわけではない、といっているのだ。


 この「意味」を生成する「主体的な読み込み」=「解釈」を内田は「物語る」という言葉で語る。つまり「物語られたもの」=「物語」は、「読む行為」における「読み」であり、「真実の百面相」における「真実」であり、「思考の誕生」における「思考」だ。

 そしてこの「物語る欲望」は、対象の「意味のわからないところ」=「何もないところ」に生ずるのだと言う。わかっている対象はわかっているのだから、それ以上の解釈を必要としない。だが「わからない」とき、我々はそこに「橋を架ける」ことで「わかる」ものにしたいと欲望する。

 「読む行為」ではこの「何もないところ」についての言及はない。「真実の百面相」では、岩だとか人だとか、わかる前の対象がいわば「わからない」ものなのだろうが、それが主題化されているわけではない。

 この点について主題化しているのが「思考の誕生」だ。

 GW前に「何もないところ」=「他人性」という点だけは、いわば「種明かし」として共有してしまったが、後からこのことを後悔した。ここを明かさずにGWに入ってしまえば、そこにたどり着いた人とそうでない人の差が出て面白かったのだろう。だが明かしてしまったので、小論文はそれだけ「団栗の背比べ」になってしまったかもしれない。

 この点こそ、最も論理把握力と思考の柔軟性が必要とされる部分であり、自力でここに気づいた者は高い読解力を持っていると自信を持っていい。

 さて、まずは上記を対応させた単文をつくってしまうのが、頭の整理整頓には簡便。

  • 思考は他人性から生まれる。
  • 物語は何もないところから生まれる。

 これを頭に留めて論を展開する。


2023年4月29日土曜日

思考の誕生 11 論旨を重ねる

 小論文の評価に向けて、書けそうなこと、書くべきことの認識について共有しておこう。


 まず最初の「思考の誕生」と「真実の百面相」と「読む行為」の重なりを確認しておこう。


 「思考の誕生」の主旨を一文で言ってみる。

思考は他人と考えることで誕生する。

 この命題に近いと感じられる論旨を「読む行為」から抽出する。

テクストの読みは、読み手とテクストの間に生ずる。

 「思考」と「テクストの読み」、「自分と他人」と「読み手とテクスト」、「誕生する」と「生ずる」が対応しているのは一目瞭然。

 もう一つ、「読む行為」後半からは次のような論旨も抽出できる。

「読み手」は、テクストを読むことによってつくられる。

 ここでは「読み手」と「思考」が対応している。だがこれは概念のレベルが揃っていないと感じる。

 だが「読み手」とはそのように「思考」する人のことなのだと考えれば、「読み手の誕生」と「思考の誕生」は同じことだ。「思考」が誕生するまでは、そのように思考する人=「読み手」もまた存在しなかったのだ。


 一方「真実の百面相」の主旨は題名に明らかだ。

真実は百面相だ。

 こうした論旨が「読む行為」に見出せるのか?

テクストの読みは、読み手とテクストの間に生ずる一回性の、固有なものだ。

 「読む行為」前半の趣旨はこのようにまとめられる。

 読み手は様々な背景を持つ、一人一人それぞれ違った存在だから、テクストの読みもまたそれぞれ違ったものになる。「一回性」を持つ「固有」なものだ。

 つまり「百面相」なのだ。


 これはどのような命題を否定しているのか?

 「真実の百面相」ならば「唯一の客観的『真実』がある」ということであり、「読む行為」ならば「読む行為に先立つ唯一の「意味」があらかじめテクストにある」ということだ。

 裏返してみることで認識が明確になる。これは「対比」の考え方だ。


 これで最初の3編の論旨を重ねることはできた。

 さて、ここに「物語るという欲望」を重ねる。


2023年4月28日金曜日

思考の誕生 10 小論文

 さてここからは小論文。

 テーマは「人にとって『物語る』とはどのような行為か」としておく。

 「思考の誕生」「真実の百面相」「読む行為」「物語るという欲望」の4編を、「物語る」というキーワードでつないで論ずる。「物語る」を起点として、他の3編の文章で扱っている論点にそれぞれ言及しているものを高評価とする。

 まずは共通した論理を捉えよう。600字程度では相違点をあえて取り上げる必要はない。

 さらに一方の論旨を代入してもう一方の論を発展させるよう論理を展開することができればなお素晴らしい。例えば「物語るという欲望」で言っているが「思考の誕生」では言っていないことを、共通部分でつなぐことで「思考の誕生」の方で展開する、というようなことも考えてみよう。

 それが内田樹の言う「読み込む・書き込む」ということだ。もともとのテクストに書いてあるわけではないのに、読み手が主体的に「読み込む・書き込む」ことでそこに存在することになる「意味」。

 もちろんそうした「書き込み」が、元々の文章が持つ可能性として妥当だとみなせるかどうかは判断の微妙な問題ではある。その文章の論じている問題が、延長線上にそのような論理に至る可能性があると、本当に見なせるかどうか。それが読み手に見当外れに感じられてしまえば論文としては欠点だ。だが、ただこういう共通点があります、で終わるだけの論文に比べて、ということは…と論理を展開してその可能性を拡げる方が面白いのは確かだ。


 さて、4編をつなぐうえで、難しいのは「思考の誕生」と「物語るという欲望」ではないかと思われる。実はこれを考えるヒントは、GW前の最後の授業で各クラスで明らかにした(休んだ人のためにここに示す)。

 「何もないところ」の言い換えを探したのは、これが「物語るという欲望」でも重要なキーワードだからだが、これは「思考の誕生」の中の何に対応するか?

 この難題に、各クラス、少数の人がたどり着くことができた。「他人性」がそれにあたるのだと閃くためには、文章構造の確かな理解や頭の柔らかさが必要になるはずだ。

 「何もないところ」=「他人性」?


 「対応している」とは、同じ構文の同じ場所に入るということだ。これらの言葉が入るシンプルな文を作って、互換性があることを確認しよう。

 もちろんそこには「亀裂・断絶・飛躍・反ー物語」も入りうるということだ。


 短く言うことで論旨の核心や論理構造を捉えやすくしておいて、後は必要と思われる説明を展開していく。

 各自、「美しい」論理展開を心がけよう。


思考の誕生 9 物語るという欲望

 「思考の誕生」「真実の百面相」「読む行為」三つの文章の対応を考えているところに、さらにもう一編を追加して考える。「読む行為」と同じ内田樹の、こちらは教科書所載の「物語るという欲望」。

 この、最後に追加した「物語るという欲望」の、「物語る」という語をキーワードとして、4編を通観しよう。


 読解のスキルとして「シンプルな文で論旨を切り取る」ことの有効性を説いた。

 もう一つ、「言い換えの表現をマークする」ことも推奨したい。

 キーワードとなる「物語る」は、文中でどのように変奏されているか?


 次のような言い換えが見つかればOK。

  • 脈絡づける
  • 解釈する
  • 橋を架ける(架橋する)
  • 読み込む(書き込む)


 同様に「何もないところ」の言い換えを探そう。

 ひとまず「亀裂・断絶・飛躍」を指摘したい。だがそれ以外に、この文章特有の表現を一つ。

 「反ー物語」がそうだと指摘できれば上出来。


 これらが言い換えだというのは、シンプルな文にしたときに、相互に入れ替えが可能だということだ。例えば「物語は『何もないところ』から生まれる」という文は「物語は『断絶・亀裂』から生まれる」と言い換えてもいいということだ。

 とはいえ、どの言葉を選ぶかによって、他の文章との相似性を把握するときに相性の良さに差はあるかもしれない。だから、こうした言い換えを場面によって自由に使いこなせる方が、論旨の共通性を捉えやすいとはいえる。


 授業では「単純な文で言ってみる」「言い換えを探す」の他にさらに有効なスキルを二つ紹介した。

 「何が否定されているかを考える」「対偶を考える」というテクニックだ。

 例えば「人の能力とは他者との共鳴によって引き出される」という命題は「人の能力は個人が占有している」を否定している。これはつまり「~ではなく」の部分を考える(か、文中から見つける)ということだ。

 これは昨年から繰り返しやってきた「対比」の考え方だ。否定されているものを考えることで、命題の意味が明瞭になる。

 もう一つ「対偶」は、「~は~である」を「~でないものは~ではない」とか「~すると~する」を「~しないと~しない」と、同じ意味になるように言い換えてみようということだ。

 「人の能力とは他者との共鳴によって引き出される」では「他人との共鳴に拠らに既にあるものだけが能力ではない」くらいか。ちょっと捻ってるな。でもまあ、こうして表現を工夫しながら対偶を言うことで、命題の意味が明瞭になるのは、「対比」と同じだ。というか、腑に落ちる対偶をとろうとすることで、命題の意味がいやおうなく理解されるのだ。

 試してみよう。読解のために有益だというだけでなく、説明の際にも、意味が明確にすることができる。


思考の誕生 8 読む行為

 内田樹の「読む行為」を読む。この名には見覚えがあるはずだ。大学入試にも頻出で教科書やテキストの常連。去年の「現代の国語」の教科書には「『身銭』を切るコミュニケーション」という文章が載っていたが、これは授業では取り上げなかった。授業では「労働」にまつわる文章を二つ読んだ。「労働」の対価は個人が受け取るべきではなく、集団にもたらされるのだ、という趣旨の文章。


 さて「読む行為」の趣旨は「思考の誕生」や「真実の百面相」ほど単純ではない。というか、両者に通ずる論旨が含まれているので、それをそれぞれ抽出しようというのだ。

 そしてそれらを同じ構文にして並べてみる。「思考の誕生」と「共鳴し引き出される力」でやってみせたように。


 まず「思考の誕生」「真実の百面相」それぞれの主旨をシンプルに捉えておく。

  • 思考の誕生 思考は他人と考えることで誕生する。
  • 真実の百面相 真実は「百面相」だ。

 文をシンプルな形にすることで、書くにせよ喋るにせよ考えるにせよ、取り回しが楽になる。主語・目的語・述語の同じ箇所にそれぞれ、対応する語・表現を当て嵌めれば、同じ論理であることが見て取れる。

 論旨の抽出の段階で同じ構文にしようと意識しておくと楽だ。


 さて「読む行為」から、同様のシンプルさで切り取れるような論旨を抽出しよう。

  • テクストの読みは、読み手とテクストの間に生ずる一回性のものだ。
  • 「読み手」は、テクストを読むことによってつくられる。


 さて、何が何に対応しているか?


2023年4月25日火曜日

思考の誕生 7 藪の中

 続いて大森莊藏「真実の百面相」を読む。

 哲学者である大森莊藏の文章は多くの教科書で読むことができるが、それらはみな、一筋縄ではいかない「哲学的」で難解なものばかりだ。

 ところがこの文章は拍子抜けするくらいわかりやすい。題名の通り真実は百面相だ、と言っているだけだ。これを聞いてコナン君はどんな顔をするか。


 ところで文中に言及される芥川龍之介の「藪の中」のことを知っているだろうか?

 日本人の基礎教養なので知っておいてほしい。青空文庫はこちら→ 

 例えば「真相は『藪の中』だ」などと言う。これは、隠れている・隠されていることを意味する比喩だと言っても間違いではないが、多くの日本人は芥川の「藪の中」のことをそこに重ねてみる。

 「藪の中」とは、藪の中に残された死体をめぐって、発見者や目撃者や関係者の証言から、真相が一つに定まらないことを描いた小説だ。犯人として捕まった男は、確かに自分が殺したと言い、逃げた女は自分が殺したと言い、巫女に呼び出された死者の霊は自殺だと言う。

 だから結局真相がわからない=藪の中に隠れていると言っても間違いではないが、むしろ、見る人によって真相が様々に映っていることを意味する比喩だというのがより正しい解釈だ。


 さらにところで、ChatGPTが出始めの頃に「芥川龍之介の『羅生門』の主題は?」と尋ねたことがある。世間に流布されている「『羅生門』の主題」をまとめてくれるのだろうと思ったら、どうもおかしい。

 ChatGPTはこんな風に答えた。

芥川龍之介の小説「羅生門」は、真実の多面性や人間の本性に関する主題を探求しています。

物語は、平安時代の京都で起こった殺人事件を題材にしており、事件の真相を探るために証言する複数の人物たちの視点から物語が進んでいきます。それぞれの証言には、事件の真相について矛盾があり、誰が犯人なのか明確には分かりません。

この小説は、人々が真実を把握することが困難であること、人間の心には様々な欲望や感情が混ざり合っていること、そして真実や正義についての概念が曖昧であることを示しています。また、社会や人間関係においても、権力や地位によって人々の評価が変わることが描かれています。

 あれっ? これはどうみても「藪の中」のことだ。

 なぜこんなことになったか?

 理由は推測できる。

 世界的に有名な映画監督・黒澤明の代表作の一つに「羅生門」という映画がある。雨の夜の羅生門に、雨宿りに集まってきた男たちが、とある殺人事件について語る…。

 「殺人事件」? 「男たち」? 「下人」は? 「老婆」は?

 つまり実はこの映画、羅生門を舞台にしてはいるが、物語は「藪の中」なのだ。ChatGPTが語っているのは黒澤明の「羅生門」という映画の話であって、芥川の小説「羅生門」ではない。確かに「原作は芥川の小説」なのだが、それは実は「藪の中」なのだ。

 芥川龍之介の小説「羅生門」について訊いているのに、AIは芥川龍之介の小説「藪の中」について答えてしまう。

 こんなことが起こるのも、ChatGPTが集めてくる情報が、外国語(英語)由来のものが多いからなのだろう。日本語では「羅生門」といえば下人が老婆の着物を引剝ぎする、芥川の小説だが、英語で世界に流れているテキストでは黒澤明の映画「羅生門」であり、中身は「藪の中」なのだ。


 閑話休題。

 この文章の趣旨は特に難しくもない。だからこれを読解しようというのではない。「思考の誕生」に結びつけようというのだ。

 だがこれだけでは、ほとんど接点はなく、途方に暮れてしまうはずだ。

 ここにもう一つ「読む行為」という文章をぶつける。


思考の誕生 6 逆説

 なぜ現代社会では「他人性」は「希薄」になったか?

 前の考察を使うならば、思考とは自分一人で考えることだという、個人を完結して完成されたものと見做す近代的「個人」観から説明できそうではある。「個人」はカプセルの中に閉じこもって「他人」と隔絶されている、だから「他人性」は希薄なのだ…。

 だがこれは「互いに自己の内面のイメージを投影しあうこと」となじむ説明だろうか?


 なぜ「他人性」は「希薄」なのか? は、なぜ「互いに自己の内面のイメージを投影しあ」うことが他人を理解することだと思われてしまうのか? とも言い換えられる。並列的な言い換えになっているからだ。

 なぜ我々は「他人」をそのように見てしまうようになっているのか?


 近代史的な視野からこれを考えてみよう。

 宇野重規「〈私〉時代のデモクラシー」に次のような一節がある。

現代において個人主義は〈私〉の個人主義ですし、平等は〈私〉の平等です。価値の唯一の源泉であり、あらゆる社会関係の唯一の起点である〈私〉抜きに、社会を論じることはできなくなっています。そのような〈私〉は、一人一人が強い自意識を持ち、自分の固有性にこだわります。しかしながら、そのような一人一人の自意識は、社会全体として見ると、どことなく似通っており、誰一人特別な存在はいません。このようなパラドックスこそが〈私〉時代を特徴づけるのです。

 この一節を朗読して、「近代」「逆説的」を説明の中で使うよう条件づけた。

 「近代」と言えば「近代における『個人』の誕生」だ。これをふまえる。

 「逆説」は上の一節の「パラドックス」だ。


 〈私〉が「価値の唯一の源泉である」などという一節は、前回の「別の主張」を連想させる。

 だがそう思っている人たちはみな「似通っている」と宇野は言う。

 つまり「みんな違う/同じ」が「逆説的」に同居しているのだ。


 同じような構造は「思考の誕生」にも示されている。

 「自分で考えることは大事」などと言う人自身が、自分で考えてそう言っているのではなく、みんながそう言っているのを反復しているだけだ。「自分の意見」は実は「みんなの意見」なのだ。


 例えば「『誰か』の欲望を模倣する」でも、自分の「主体的」な欲望だと思っているものが、実は他人の欲望を模倣したものなのだと語られていた。「個性的」な欲望は実は「社会的」なのだ。

 自分の中にも他人の内面が投影されている。同様に「他人の内面」にも自分の心が投影されている。


 金子みすゞの有名な「みんなちがって、みんないい。」もまた「かけがえのない個性を持った一人一人」のことを言っているが、すでに「みんな」という言葉でそれら一人一人を一括りにしている。

 近代の「個性を持った個人の称揚」は、実は「個人の平準化」とパラドキシカル(逆説的)に同居しているのだ。

 我々は、互いの固有性(他人性)を尊重しようとして、実は相手を自分の想像の範囲でしか見ていない。互いに「自己の内面のイメージを投影しあう」のである。


 さて、今年度最初に読んだ「思考の誕生」は、もともとは上記のような主旨をメッセージとしてみんなに送りたかったから選んだのだが、思いのほか読解しがいのある問題も含まれていた。

 メッセージそのものとして、これまで読んだ文章で最も似ているのはなんだとみんなは思った?

 そう思っていた人もいたと思うが、授業者は、この文章の趣旨はまるで「共鳴し引き出される力」だなあと思っていた。

 似ていることを示すには、両者の論旨を同じ構文で示せば良い。

 なるべくシンプルで互換性の見やすい文。

 すぐに次のような文が想起できれば上出来。





 「思考の誕生」のためには「他人」と出会わなければならない。

 だがそれには「感性」を研ぎ澄まさなければならない。

 授業で話し合う時も、互いの話に曖昧にうなずいているだけでは「思考の誕生」の瞬間は訪れない。「そうか…なるほど」はまあ話の潤滑油として必要でもあるが、それだけで終わらず、「えっ、どういうこと?」「そうかなあ…」と勇気を出して言ってみることによって、「他人」であるような互いの存在が濃密(「希薄」の対義語)になる瞬間が生まれるのだ。



2023年4月19日水曜日

思考の誕生 5 希薄な「他人」

 「思考の誕生」は「残酷」な体験だ。

 そして「希薄」でもあると蓮實はいう。

 「希薄」?


 直前の一節で「思考の誕生」は「あなたの在学中に、かろうじて一度立ち会いうるかどうかという希薄な体験なのです」と言っている。とすればこれは「頻度が少ない」という意味だろう。

 確かに「希薄」はもともと「稀薄」と表記し、「稀」は「まれ」と訓読みできるから、頻度の少ない、めったにないこと、でもある。

 だが「希薄」という言葉は日常的には「稀薄な空気」などの気体の密度について言うか、「存在・意識・関係…」のような「空気」が比喩的に使えるような対象に使う。「まれ」より「うすい」のニュアンスの方で使われているのだ。だから「思考の誕生は希薄な体験だ」は変な使い方だと感ずる。

 ところでもうちょっと前に次の一節もある。

「他人」の「他人性」を希薄にすることが、「他人」を理解することだと考えられてしまうのです。

 この「希薄」が文末に影響しているとみるのは穿ち過ぎだろうか?


 「『他人』の『他人性』」とは「他人」という「存在」に対する「意識・関係」のことだろうから、我々が普段使っている「希薄」の使い方として違和感はない。「他人性」が「希薄」だから、「他人」によって可能になる「思考の誕生」もまた「希薄」なのだ、という理屈なのだ。

 ではなぜ現在の我々にとって「他人性」は「希薄」なのか?


 「『他人』の『他人性』を希薄にする」は直前の言い換えだから、上の問いは、なぜ「『他人』たちが、充分に『他人』として意識されがたい風土が蔓延しがち」なのか? と言い換えられる。


 また文末の「あなたの知性は、その希薄さと残酷さへの感性をはぐくむために費やされなければなりません」を使うならば、なぜ「希薄さ」への感性は鈍くなったのか? と言い換えてもいい。


 本文ではこの事情について説明されていないから、今までに学んだことを元に推測で「他人性」の「希薄」さという「風土」が成立したわけを説明しよう。

 なぜ現代社会では「他人性」は「希薄」になったか?

思考の誕生 4 別の主張

  • 「歴史的な役割」とは何か?
  • 「別の主張」とはどのような「主張」か?
  • 「残酷」とはどのような意味か?

 三つの問いを関係づけて通観する。


 まず「歴史的な役割」は「そんな姿勢の歴史的な役割」だから、「そんな」がどこを指しているかを確認する。直前の一節から「自分で考える」ことの擁護、とまとめておく。

 「別の主張」は「そう主張する」と並列になっているので、「そう」の指示対象を確認する。これは「自分で考える」ことは重要だという主張だ。

 つまり「そんな姿勢」と「そう主張する」は同じ「自分で考えることは大事」という姿勢・主張なのだ。

 そして「別の主張」は、そうした主張と根っこは同じはずだ。無意識に「別の主張」をしたいのだが、それがそうした主張として表れているのだと蓮實は言っているのだから。


 また「残酷な体験」とは「思考の誕生」を指している。

 「思考の誕生」は「他人と考える」ことによって起こると言っているのだから、それは「自分で考えること」(つまり上の「役割」「主張」)と対立している。

 「思考の誕生」は「残酷」だという。だから「自分で考えること」の擁護とは、その「残酷」さに直面したくないというひそかな動機に基づいている。

 そうした無意識はどんな「主張」をするか?


 おそらく最も微妙な工夫が必要になるのは「別の主張」をどう表現するかだ。この問題の山場はここに、腑に落ちる表現を見つけることだ。

 各クラスでの発表の多くは、「自分で考えることは大事」に似過ぎていて、それじゃあもう言葉が見つかっているじゃん、意識できているじゃん、になってしまっているか、「対立する主張」=蓮實重彦の主張になってしまってるじゃん、だった。

 もしくは「主張」と言うに値するような命題の形になっていないか。

 H組のN君の表現が秀逸だったので各クラスで紹介したが、つまりここに隠れた本音は「俺ってすげえ」なのだ。

 ただこれでは「主張」っぽくないので、もうちょっと一般論ふうに言い直す。ここが難しくてどのクラスでもみんな詰まった。


 例えば次のように言ってみよう。

・人にはそれぞれ独自の価値がある。

・人は誰も皆かけがえのない存在だ。

 これは「個人の確立」から導き出される命題であり、それが「自分で考えることは大事だ」という形で語られる。だがそれは実は「自分には独自の価値がある」と信じたい欲求の表れだと蓮實は言っているのだ。

 とすれば「思考の誕生」は確かに「残酷」だ。「俺ってすげえ」と思いたいのに、お前一人の考えなんか大したことはないと言われて、「かけがえのない個性を持った自分」などというものが幻想でしかないことを認めなければならないのだから。

 「思考の誕生」はその「残酷」さを引き受けて初めて手にできる体験なのだ。


思考の誕生 3 残酷

 さて、「歴史的な役割」と「別の主張」とともに、もう一つ、文末近くの次の一節についても問う。

思考の誕生に立ち会うことは、貴重で、残酷な体験ともなるでしょう。あなたの知性は、その希薄さと残酷さへの感性をはぐくむために費やされねばなりません。

 この一節で「思考の誕生に立ち会うこと」はなぜ「残酷」と形容されているのか? あるいはどのような意味で「残酷」なのか?


 以上三つの問いは、相互に関係づけて考えることでそれぞれが明確になる。

 どういうふうに関連しているのか?


 「別の主張」とは何か、と問うと「自分で考えることは大事」という主張に対立する主張なのだと考えたくなる(ちなみにChatGPTに「別の主張」とは何か訊いたら「本文では述べられていないので推測だが」と断った上で、まさに「対立する主張」を答えた)。

 そうではない。対立しているのは、こうした主張を「歴史的な無知」と言う蓮實であって、「別の主張」をしたがっているのは、蓮實にそう言われてしまっている人だ。「別の主張」とは、表に表れた「自分で考えることは大事」という主張の裏に隠れた、いわばその人の本音とも言うべき「主張」のはずだ。根っこは同じなのだ。

 そしてその「本音」とは、「思考の誕生」に立ち会うことの「残酷」さを避けたいという情動だ。「別の主張」とは「残酷」さから目を逸らしたいという動機に基づいてなされている。

 それはまた「自分で考えること」の称揚の「歴史的な役割」が終わってしまったことを認めたくない、という動機でもある。

 これらに共通する動機とは何か?


 さらに、昨年から何度も話題に上がった認識が、ここでも参照される。

 試みに、昨年読んだどの文章を思い出した? と訊くと、「『つながり』と『ぬくもり』」「ほんとうの『私』とは?」「〈私〉時代のデモクラシー」にそれぞれ手が挙がった。

 それらに共通する認識は何か?

 「近代における『個人』の確立」である。

 ああっ、また、と思う? 思ってほしい。

 この言葉が使えれば「歴史的な役割」について説明するのが随分楽になるはずだ。


 近代以前、人は属する集団や宗教によって規定される存在だった。近代はそうしたさまざまな「くびき」から人々を解放し「個人」を生み出した…といった表現は去年読んだ文章群で繰り返し使い回された。

 現代はそうした近代への反省が求められている(これを「近代の超克」と呼ぶ)。

 最初に読んだ「自立」シリーズでは、他人に依存しない「個人」を良しとする近代的「個人」観から、互いに緩やかに依存し合う社会のイメージが語られている。その後の「『つながり』と『ぬくもり』」では、孤立した「個人」の寂しさが語られ、人々がつながりあうことが称揚された。

 だがそうしたポジティヴな面には、一方で「残酷」な反面もある。

 そうした認識をネガティヴに語っていたのは例えば「〈私〉時代のデモクラシー」であり「空虚な承認ゲーム」であり「暇と退屈の倫理学」あたりだろうか。

 そこではどんなネガティブな面が語られていただろうか?


2023年4月14日金曜日

思考の誕生 2 歴史的な役割

 さて、メッセージとしてはシンプルな文章なのだが、多少は「読解」じみたことをやっておこうと問いかけたら、案外これが面白いことになった。


「自分ひとりで考え」たことなど「たかが知れている」というのは、まぎれもない事実です。人間が社会的かつ歴史的な存在である以上、それは当然でしょう。実際、一つの思考は、一つの考える主体がいくつもの考える主体と遭遇し、そこでの葛藤を通して、初めて思考の萌芽的な可能性として形成されるものです。あたかも、この宇宙に自分一人しか存在していないかのような孤独な思考を「自分で考えること」として擁護する姿勢は、いかにもロマン主義的なものだというほかはありません。そんな姿勢の歴史的な役割は、遥か以前に終わっているはずなのです。にもかかわらず、なお「自分で考えること」の重要さが改めて指摘されたりするのは、どうしてなのでしょうか。

  この一節の「歴史的な役割」とは何か?


 上記引用から問いまでをそのままコピーしてChatGPTに貼り付けると一瞬で以下の回答が出力される。

この一節で言及されている「歴史的な役割」とは、孤独な思考を「自分で考えること」として擁護する姿勢が、ロマン主義的な時代や、近代以前の時代において重要な役割を果たしたことを指しています。そのような時代背景においては、個人の自由や独立性が重んじられ、社会的なつながりや集団の意見に従うことが否定される傾向があったため、自己決定や自己表現の重要性が強調されました。しかし、現代においては、社会的かつ歴史的な存在である人間が個人的な考えを独自に形成することは、必ずしも肯定されるべきことではなく、多様な視点や情報源からの情報収集が求められる時代になっています。

 うーん。賢い。

 だが、あれっ? というところがないでもない。どのへん?

 もちろん、ChatGPTが多少ピント外れなことを言っても、それは引用されている部分が短いから、ともいえる。

 とはいえ。


 さて授業はさらにこの問いかけを解決することなく次の問いへとつなげる。

 続く一節。

それは、そう主張する者の歴史的な無知をあからさまに示しています。あるいは、その指摘で何か別の主張をしたいと思いながら、それにふさわしい言葉が見当たらないのか、それとも別の主張をしたがっている「自分」自身に無意識なだけなのかもしれません。

 この一節の「別の主張」とは何か?

 「別の」なんだから、「自分で考えることは大事」以外なら何でもありか?

 そうではない。蓮實はここに入る「主張」がどのようなものかを想定しているはずだ。

 それはどんな「主張」?

 この問いはたぶんかなり難しい。 

思考の誕生 1 具体的な体験

 今年度最初に読むのは蓮實重彦「思考の誕生」。

 こんな、教科書の後ろの方にある文章を最初に読ませたいと思ったのは、これが年度当初のメッセージとしてふさわしいと思ったからだ。

 教科書の最初の文章はそういうメッセージ性をもったものが意図的に置かれることがあるが、この教科書冒頭の「アイオワの玉葱」に、これからこの教科を学ぶ高校生へのメッセージがあるのかどうか、よくわからない。じゃあといって昨年の教科書冒頭の「木を見る、森を見る」はどうだったかといえば、アリのように新鮮な目で世界を見てほしいというメッセージだったのだろうか。あれも、読んだのは年度のすっかり後半になってからだったが。

 さて「思考の誕生」にはどんなメッセージがあるか?

 「自分で考えること」が重要だと世の中では言われているが、そんなのは歴史的な無知の表れで、危険だ、というのだ。

 世の趨勢に反するこうした主張をいったいどういう理屈で語るのか?


 この文章が書かれたのは蓮實重彦が東大総長だったときで、だからおそらくこのメッセージは東大新入生へ向けたものだ。文中に唐突に「教育の場」とか「在学中」とかいう言葉が出てくるが、あれは東大生が送る東大生ライフを想定しているのだ。

 そこで総長は「自分で考えること」などたかがしれている、と言う。

 東大総長がこれを言うことの意味は、よくよく噛みしめるべきだ。お前たちが自分の頭で考えたことなどたかがしれていると自覚しなさい、と東大生に言っているのだ。手厳しい。

 では単に、他人に教わりなさい、という「謙虚のススメ」か?

 だが単にそんなことを若者に言っても耳にタコができているような聞き飽きたお説教にしか感じられまい。

 蓮實の言っているのはそれともまたちょっと違う。

「他人の考え」を「自分の考え」としてうけいれることではありません。

とはっきり文中で言っている。


 蓮實の言っているのは「他人とともに考える」ことのススメであり、それは「具体的な体験」なのだと言う。

 こうしたメッセージは、当然授業者もまた東大生ならぬ君たちにも送りたい。1年生ならぬ2年生にも、また。

 確かに受け身でなく能動的に「考える」ことを日頃から奨めてはいるが、それは蓮實の言う「抽象的な」お題目ではなく、隣の席の級友との出会いで生ずる具体的な「体験」だ、と言っているのである。

 例えば授業とはそれが期待される「場」だ。

 授業は、教師の言うことを聞いて、それを覚えたり理解したりする場ではない。だから「わかった?」などと念押ししたりしない。ここはテストに出す、などと脅しもしない。

 みんなで一緒に、ある「体験」をするのだ。

 そのために必要な心構えは何か?

 ここがこの文章のミソなのだが、それが何かわかるだろうか?

2023年4月9日日曜日

新年度開始

  昨年度から始まった新教育課程で「現代の国語」という科目が新設され、40年ぶりに「現国」という略称が復活した、などと1年前に書いていたのだが、今年度からまた本授業者の担当授業は「現代文」という名称になってしまった。となると略称は「現文」か。昨年は「ゲンブン」といえば「言文」で、つまりは「古典」のことだったのに、今年は「現代文」を指し、「古典」はそのまま「コテン」と呼ばれることになるのだ。3年生は「ゲンブン」は「現代文」を指し、相変わらず1年生は「言語文化」を指すんだろう。

 さて2年生は。


 ブログ名を書き換えるか、とも思ったが、新教育課程の最初の年に開設されたことを記しておくためにそのままにしておく。

 だが中身は、これから2年間は「現代文」について書き綴っていく。

 テキストは筑摩書房「論理国語」「文学国語」だ。収録文章はどちらもこれらの科目の他社の教科書群の中でもとびきり多い。どんなふうにこれらを逍遙し、どんな出会いがあり、どんな体験ができるのか楽しみだ。

2023年2月27日月曜日

テストの「正解」とは何か

  国語のテスト問題において「正解」とは何か?

 多数の日本語の使い手が妥当だと認めるところのものだ。つまりテストの正解は多数決で決まる。

 多数決といっても過半数をようやく超えるくらいの賛成では、正解としての正統性(「正当性」でも「正答性」でもない)が疑問視されるから、テストの正解となれば、大多数の日本語の使い手が妥当と認めるものでなければならない。

 他の教科の「正解」も実は同じではある。「客観的事実」などというのものは大多数の者がそれを事実と認めているということでしかないから、単に知識を問うているだけにみえる社会科の問題の正解も、○×が明確だと思われがちな数学の正解も、多数決という意味では本質的には同じだ。ただ、国語科はその正解を支持する人が100%から大きく隔たるというだけの違いでしかない(これを称して「国語に正解はない」などという俗説が跋扈することになるのだが、これついては別稿で)。

 だが大多数の日本語の使い手がそれを妥当と認めるような答えが正解となるのなら、国語のテストというのは論理的必然として正答率が高く、つまり易しくなってしまう。

 だがそれでは受験者に差をつけることが目的であるようなテストの場合、その機能を適切に果たせない。テストは平均が6割くらいになるのが望ましいということになっている。受験者が、そこを頂点とする正規分布を作るように正答するのが適切なテストだ。

 ということは、実は「正解」は、本当に大多数の日本語の使い手がそれを妥当と認めるようなものではなくて、6割程度の日本語の使い手がそれを妥当と認めるようなものになっている可能性もある。それどころか「難しい問題」つまり正答率の低い問題とは、実は単にそれを妥当と認める人が少ない、おかしな問題というだけなのかもしれないのだ。


 テストにおける「良い問題」とは、その道の専門家が解けば正答率が高く、同時に素人には正答率が低くなるような問題だ。専門家にも正答率が低ければそれは単に問題が不適切だということだし、素人に正答率が高い問題は易しすぎる。

 あるいは、短時間で解いたときには正答率が低く、時間をかけたときには正答率が高くなるような問題が「良い問題」だとも言える。

 つまり、専門家が時間をかけて考えると正答率が極めて高くなり、素人が時間をかけずに解くと正答率が確率的ばらつきに近くなるような問題こそ「良い問題」なのだ。


 さて、公立高校の入試問題には、毎年いくらかの割合で「良くない問題」が出題される。問題作成者に比べてもその専門性が劣るはずのない国語科教員が揃って不適切だと思う問題が。

 その不適切さの度合いや種類は様々で、問題の条件からその「正答」に至ることが多くの偶然に依拠するしかないような「運ゲー」要素が強い問題や、「正解」と同程度に正解とするしかないような別解がある問題など。

 今年度の問題にもそうした不適切な問題はあった。

 本文についての解説が問題で示され、その解説文の空欄にあてはまる文言を、本文から抜き出してあてはめる、その一節を答えるタイプの問題。字数が示されていることが正解についての条件となっているから、それが別解を排除する一つの制限にはなる。だが、同じ字数で、その空欄にあてはめても全く問題がないと思われる箇所が他にも本文中に存在するのだ。

 全ての県立高校は、県の示す「正解」に基づいて採点しなければならない。したがって、「別解」に得点を認めることはできない。だが、設問はその「別解」を不適切であると言うことのできる条件を備えていない。県の示す「正解」でもいいが、別の、この一節を挙げることが国語力の低いことを意味しない。


 こうした不適切な問題がなぜできてしまい、なぜそれがチェックの眼を逃れて実施されてしまうか?

 国語の問題というのは、先に答えを決めてから問いを作る。ある解答を答えさせようと問題を設定する。確かにその問いに対してそう答えることは適切かもしれない。だが問題が受験者の思考をよほど的確に制限しない限り、その問いから考えられる範囲はその答えよりも広いかもしれないのだ。寿司を答えさせようとして「多くの日本人の好きな食べ物は?」と問う。寿司が不適切だとは言わないがカレーでもラーメンでもいい。

 問題作成者だけでなく、チェックをする者が必ずいるはずだ。だが、自分で問題を解いてみれば「カレーかラーメンかオムライスか…」と迷うはずなのに、自分で解く前に答えを見て「寿司」という答えに納得してしまう。問題の問題点は看過されてしまう。

 こうしたことは程度問題としては不可避だが、できるだけ避けるべく問題を真摯に検討するのが誠実というものだ。


 さて、県に、別解を認める気はないか問い合わせをする。そのまま採点して、後から訂正することになるのは面倒だから、という理由でもあるのだが、それよりもまず、このまま採点することは国語科教員としての良心に反するからだ。

 だが県が認めるだろうことを期待してはいない。問題に不備があったことを認めることなど、県はよほどのことがなければしない。そして、こうした、文章の解釈次第ですと言い逃れられるようなタイプの問題では、決して訂正を認めない。認めるのは、こちらの字でも辞書に載っています、といったような「客観的」証拠を示せるような漢字の問題くらいだ。

 で、結局認められない。「正解」には正解の理がある。もともとそれを否定しているわけではない。それよりもこちらの提示した別解もまた日本語の使い手として自然に思えると言っているだけだ。だが認めない。

 こうした結末は予想どおりだ。だがこうした意見表明には意義があるはずだ。

 先述の通り、国語の問題の「正解」は多数決であり、専門家であるところの採点をする国語教師たちが揃って別解も「正解」とすべきであると判断しているのだ。論理的に言ってこれが「正解」でないはずがない。

 本当は全ての県立高校がこうした問い合わせをすべきなのだ。そうすればそれが多数意見であることが白日の下に晒されるのに。どうせ認められないよといって問い合わせをしないでいることで、問い合わせをするような学校が「少数意見」であると県に言わしめてしまう。

 だがまっとうに考えてそんなはずがあるものか。一つの職場の全員が同意していることに、県下のほとんどの教員が賛成しないわけがない。

 だが現実には、ほとんどの教員は、県に何を言っても無駄だと諦めているか、単にその問題について自分では考えていないかだから、結局こうした「問題のある問題」が実施され、受験生はその分、運不運で合否が決定されるのだ。

 嘆かわしくも憤ろしく、いたましいことだ。

2023年2月25日土曜日

視点を変える 10 メディアがつくる身体2

 「メディアが作る身体」では、前回の「全体」の把握を短く済ませて、「部分」の読解に時間を費やした。最初に読解に入ったF組で「わからないところを挙げて」と無茶振りして挙がってきた箇所を、後のクラスでも考察した。

 文字によって私たちは…長文を「記憶」する必要もなく、いつでも膨大な情報へとアクセスでき、メディアを経由して「想起」することができる(もちろんこの「想起」は単なるインプットではなく、外部化された「記憶」の検索作業でもあるのだが。)

 考察対象としたのは括弧内だが、もちろん解釈には括弧の前の部分から読む必要がある。「部分」を解釈するにも、文脈を見渡すことが重要だ。

 さてこの部分が「わからない」と感じるのはなぜか?

 わからないと感じるのはなぜか? と考えるのは「I was born」の読解の時にも試みた。「わかる」ためには、なぜ「わからない」かを分析して戦略を立てる必要がある。また、説明とは誰か「わからない」と感じている人に対してするものだ。その「わからなさ」がどのようなものであるかがわからなければ、適切な説明はできない。

 この括弧内の記述の「わからなさ」は次の3点による、というのが授業者の分析。

  • 「ではなく」型の対比がここに含まれているのは間違いないが、何と何が対比されているのか?
  • 「想起」は「思い出す」のだから「インプット」ではなくむしろ「アウトプット」ではないか?
  • 「想起」と「記憶」になぜ括弧がついているのか?

 これらの疑問が解消するように説明をする。


 まず対比されているのは何と何か?

 文型からは「インプット/検索作業」という対比なのだと考えたくなる。つまり「想起はインプットだ」と「想起は検索作業である」が対比され、「単なる」前者が否定されているのだ。

 そう考えて二つ目の疑問につきあたる。「想起はインプットだ」って何だ?

 そうではない。並列的に対比されているのは「インプット/外部化された」だ。

 これが両方とも「記憶」に係っている。文脈を読むにはこの「係り受け」を正しく把握することが重要だ。

 この文の係り受けが把握しにくいのは荻上チキの文章が不親切だからだ。ここは「インプット(した)記憶」と「外部化された『記憶』」とが並列なのだと、丸括弧内(した)を補って考える必要がある。

 それさえ把握できれば、この文は次の二つの文の合成であることがわかる。

  • 想起とはインプットした記憶の検索作業である。
  • 「想起」とは外部化された「記憶」の検索作業でもある。

 つまり、脳内に覚えている情報を検索して思い出すのが通常の「想起」だが、単にそれだけではなく(それに加えて)文字で記録した情報を検索することも「想起」だと言っているのだ。覚えている電話番号を思い出すのが普通に言う「想起」だが、電話帳から探し出すのも「想起」と呼ぼうというのだ。

 こうして文構造を把握してしまえば、言っていることは至極あたりまえのことだ。暗記してあることでもメモしておいたことでも、必要な情報が取り出せれば「想起」なのだ。

 「わからない」のは、その内容が複雑だったり深遠だったりするからではなく、単に構造が未整理だからなのだ。


 もう一カ所は次の一節。

「昔に返れ。」といった説教が、感情的メンテナンスの役には立っても、システム構築の代案としては常に無効だったように…。

 ここは、具体例を出して説明せよ、という条件をつけた。

 評論文の一節が「なんだかわからない」と思っている時には、具体と抽象の変換が滑らかにいっていないことが原因であることがある。抽象的な記述は、どのような具体例を想起すればいいかわからない時に「わからない」と感ずるし、具体例が挙がっていても、それを抽象化できなければ「わからない」。

 特にここでは「感情的メンテナンス」を必要としている人がどのような人かを的確に言うことができれば問題は解決する。クラスによって、これを的確に言える班がいくつ目の指名で回ってくるかはさまざまだった(「説教する人」「説教される人」等々、全く違うとは言わないが適切ではない)。

 ここでは「新しいメディアについていけないことに不安を抱いている人」と言えればOK。その「不安」が和らげられるのが「感情的メンテナンス」だ。

 また「昔に返れ」という説教が「説教」であるためには、それなりの一理がなければならない。だから、新しいメディアの登場によって起こるマイナスの面を挙げなければ「説教」として成立しない。

 さらにそこで期待されている「システム」が何のシステムなのかが、やはり具体例に応じて抽象的な言葉で表現されなければならない。

 これらの条件を満たすように具体例を設定する。

 例えばEメールで連絡したのに、直接対面での報告をしなかったからミスが起きたのだというような「説教」に対し、脇で聞いていた、同じくEメールを使いこなせないことに引け目を感じている人はホッとするが、それでは新しい連絡システムは構築できない、といったような例はすぐに想起されていい(ちなみに課題の提出が遅れた人はメールでなく直接言いに来いと言っている当授業者は、彼がどんな口調でどんな表情で言い訳をするのか直に見たいと思っているのであって、Eメールを活用した連絡システムを否定する気はない)。

 クラスによってシステムの例として「連絡」「流通」「決済」「宣伝広告」「記録」「情報共有」「教育」「接客」など、いろいろな例が挙がったが、こうした抽象度の言葉でそれを表せるようにしておくことも大切。こういうことができるのが国語力。

 上の「想起」をめぐる一節の直前に次の一節がある。

ソクラテスはタモスの言葉を借りて、文字を「記憶の秘訣ではなく、想起の秘訣」であると批判したが…

 これがなぜ「批判」なのかも問うた。

 これもまたわかってしまえば呆気ない。ソクラテスは文字は「想起」を可能にはするが「記憶」の助けになるわけではないと言っているのだ。これは裏返して言えば、文字で記録することはむしろ記憶の妨げになるともいえる。書いておけば良いと思うと、人は覚えておかなくなる。

 実はこれも上記の「説教」なのだ。文字はその時代、新しいメディアだったのである。ソクラテスは文字を操る一部のエリートに脅威を感ずる人々の不安を代弁して「感情的メンテナンス」をしているが、世界はその後、文字を使った「記録システム」を構築していく。


 上記二つとも、解釈が済んでしまえば、きわめて日常的に経験する事例であって、何か特に深遠な、複雑な話をしているわけではない。

 だがこの二カ所の解釈に、それぞれ30分くらいの時間を費やすことになってしまったのは、1年の終わりとしてはいささか情けない。10分くらいで片付けたい。「昔に返れ」から「初心に返れ」という「お説教」を連想している人が各クラスにいたのは、文脈を把握していないこと甚だしい。

 だがこれは単に「読解力」とか「理解力」という問題ではなく、どちらかというと「問題の整理力」というか「説明力」の問題だとも思う。上で解説したような解釈を、ほとんどすぐに「わかっていた」人も多いと思う。だがすぐにそれをそのように班員で共有することができたかといえばそうではないはずだ。

 これは「議論力」とでもいうべき問題であって、このあたりは今後の課題だなぁ、と思う。

 今年度の終わりに心に留めておく。


 時間がなくなってしまったが、次の一節も気にはなる。

今や、全ての身体は、象徴的な義体なのである。

 「義体」という言葉をこの世代の人が使うときは、間違いなく「攻殻機動隊」がイメージされている(3:40のカットがとりわけ有名)。

 上の劇場映画版第一作の監督をした押井守がインタビューで答えている。

 ここで1:14:00あたりから押井が喋っているのは、まるで上記の荻上の言葉そのものだ(2分くらい聞いてみて)。

 「象徴的な」の解釈が若干揺れる。そうした身体の在り方は社会の在り方を「象徴している」という意味で「象徴的な」なのか、もっと軽く、「比喩的な意味で」くらいのニュアンスなのか。どちらもそれほど違いはないが。


視点を変える 9 メディアがつくる身体1

 「ちくま評論入門」から「東京タワー」も読むつもりだったが割愛し「グーグルマップの世界」を1時間読んだ。これらも「視点を変えると見え方が変わる」というスキーマに沿って読むことができる。

 さてその後は、要約課題として読んでいる「メディアがつくる身体」だ。

 このつながりは「メディア」という共通項を介している。

 「グーグルマップの世界」では地図が、「メディアがつくる身体」のいくつかの例の中では文字が「メディア」だという。どういうことか?


 「メディア」という言葉を我々が日常で目にする時には、ほとんどが「マス・メディア=マスコミ」の意味で使われている。テレビ・ラジオ・新聞・雑誌・インターネットなどの、マス(大衆)に情報を発信するメディアのことだ。だがそれでは「地図・文字はメディアだ」というのが何のことなのかわからない。

 ここではメディアという言葉がどのような概念であるかを確認しておく。

 メディアは「媒体」と訳されている。「媒介するもの」という意味だ。媒介されるものの多くは情報だ。マスメディアは情報源と大衆を媒介して情報を伝えるものだ。

 では地図は何と何を媒介しているというのか?

 「グーグルマップの世界」で「地図はメディアだ」という時、地図を通して人は「世界」(社会・土地・場所・空間…)を捉えているのだと、その機能が論じられている。地図は人と「世界」を媒介しているのである。

 同じように文字は人と人とを媒介している。

 この場合、文字と並列されるのは、例えば何か?

 並列を想起できるためには、その概念がどのような「層」に位置づけられるかを正しく捉えている必要がある。

 文中で並列されている「数字」は、しかし文字とは正確な並列ではない。数字は文字の一種だから、概念のレベルが違う。「文字と数字」は「動物と犬」のような包含関係になっている。並列ではない。

 文中の「数字」は、実際は「数」という概念を表しているのだ。「数」は、人間が外界の「量」を把握するために使うメディアである(一種の「スキーマ」だと言ってもいい)。

 また、話し合いの中であちこちで挙がっている「記号」も「文字」とは並列しない。文字も「記号」の一種だから、これも包含関係になってしまう。

 「文字はメディアである」と言う場合、文字によって伝えられる情報とは言葉だ。人から人へ言葉を伝える手段として、文字と並んで日常的な場面で多用されるのは何か?

 そう考えれば自ずと想起されるのはである。書いて伝えるか話して伝えるかである。

 上の問いに、まず音声を想起できるできるかどうかは、「文字はメディアである」という命題を正しく把握できているかどうかの試金石となる。

 それに続いて各クラスで挙がった手話・ジェスチャーあたりはまだ「言葉」に翻訳可能な情報だろうが、図・映像となると「言葉」を含む「情報」というレベルに層が上がっていることになる。確かに「情報」という概念には「言語」も含まれるし、言語で表せない種類の情報も含まれる(それを言おうとすると言語に翻訳してしまうので「それ以外」とでも言うしかない)。


 さてこの文章もまた「視点を変えると見え方が変わる」なのだ。

 どこが?


 人は地図によって世界を、ある見方で把握する。縮尺によって、地図に盛り込まれた情報の種類によって。地図の中心をどこにするかでさえ、すでに世界の見方を示している。

 そしてグーグルマップというメディアは、世界の見方を「個人化」する、というのが「グーグルマップの世界」の主題だ。これはこれで「フィルターバブル」「エコーチェンバー」の問題としてまたこの先どこかで触れることになるかもしれない。

 同様に、どんなメディアを手にしているかで、世界の見え方は変わる。スマホが存在するのとしないとでは社会のあり方は変わる。それは我々の世界観が変わることを意味する。そういう意味でメディアは我々の世界観を作るスキーマなのだ。


2023年2月16日木曜日

視点を変える 8 鳥の眼と虫の眼4

 小論文はうまく言いたいことが書けたろうか。600字はみじかすぎる。収めるのに苦しんだかもしれない。

 字数を気にせずに以下に授業者の読解を示す。


 この文章で最も重要な対比が「鳥の眼/虫の眼」であることは明白だ。

 そしてこの文章の最重要プレーヤーはサン・テグジュペリとアリスであることもまた明白であり、この二人が「鳥の眼/虫の眼」という対比に対応していることがまず指摘されなければならない。すなわちサン・テグジュペリが「鳥の眼」を持つ者、アリスが「虫の眼」を持つ者である。

 そしてこの対比は、どちらかが中心だったり、どちらかが肯定的/否定的であったりはしない。アリスもサン・テグジュペリも、どうみても肯定的な存在として描かれている。

 だから「鳥の眼も虫の眼もどちらも大事」ということになるのだが、それだけで終わってはならない。「木を見る、森を見る」なら結論はそれでもいい。だがこの文章ではどのような論理で、どちらも大事、と言っているのかが論じられなければならない。


 問題は、もう一つの交換不可能な対比「西洋/非西洋」と「鳥/虫」の対比、二つの対比の関係をどう考えるかだ。

 この二つの対比は「鳥の眼」が「支配者」に通じるところから、同一軸上に並びそうにも思える。だがそうではない。

 「鳥/虫」は肯定否定の対比ではなく、対立的でもない。だが「西洋/非西洋」は対立的な対比だ。二つの対比は同じ軸上にはない。

 そもそもサン・テグジュペリもアリスもどちらも西洋人だから、「鳥/虫」の二人とも「西洋/非西洋」という対比の左側にきてしまうのだ。そういう意味でも二つの対比は同じ軸上にはない。


 「征服者/訪問者」は文中で対比的に言及されているが、よく考えるとこの対比は捻れている。

 「征服者」の対立項目は征服者」だ。

 「訪問者」の対比項目は訪問者」だろう。

 征服者/被征服者

被訪問者/訪問者

 二つの対比の左辺同士、右辺同士は、まるで違う。だからこの二つの対比は、別の軸による別の対比だ。
 ではなぜ「征服者/訪問者」が対比として並べられるのか?

 「訪問者」はアリスを指している。白人(アメリカ人)のアリスが南の島を訪れる。そこにいるのは「非西洋」の人々だ。

 西洋/非西洋

アリス/南の島の人々

 「西洋/非西洋」の関係は歴史上「征服者/被征服者」の関係だった。

征服者/被征服者

 西洋/非西洋

 だがアリスにとってそれは「訪問者/被訪問者」の関係だ。
 「アリスは征服者ではなく訪問者だ」というのは、アリスと南の島の人々は「西洋/非西洋」の関係だが、それは「征服者/被征服者」の関係ではなく、「訪問者/被訪問者」の関係だ、と言っているのだ。二つの対比同士対比されているのである。

 西洋/非西洋

アリス/南の島の人々

 ×征服者/被征服者

  訪問者/被訪問者 

 つまり「虫の眼」とは、「西洋/非西洋」を「征服者/被征服者」としてではなく「訪問者/被訪問者」の関係として捉えることで、その対立を乗り越える一つの視点を示しているのである。


 一方「征服/被征服」における「被征服者」に近い対比要素にあたるのは、文中の語では「不帰順族」だ。「帰順」とは征服を受け容れるという意味だから、本当は「征服者/被征服者=帰順族」が対になるのだが、「帰順」するにせよしないにせよ、どちらも「征服者」に対立する立場としては同じだから、「不帰順族」もまた「征服者」に対置される。

 そして「鳥の眼」は「支配者=征服者」の視点に通じるように見える。

 西洋/非西洋

征服者/被征服者

支配者/不帰順族

  鳥/虫

 だが文章の流れが、そうではないと言っていると読めることは明らかだ。

 「鳥の眼」をもつサン・テグジュペリの在り方は、「西洋/非西洋」の対立を超える、アリスとは違うもう一つの可能性を示している。

 白人であるサン・テグジュペリは、非西洋人である遊牧民に「人間」の顔を見る。西洋人/非西洋人という対立を超えて、どちらも「人間」として対峙することを可能にしているものこそ「鳥の眼」だ。

 上空から見るとすべての人々が「ともしびの一つ一つ」に見える。彼らと「心を通じあう」ことをサン・テグジュペリは希求する。そのとき、サン・テグジュペリにとって「西洋/非西洋」という対立は存在せず、同じ「人間」がいるだけだ。彼が救援する者と待つ者の「奇妙な役割の転倒」を確信するのは、自分を救援してくれる者が「人間」であるように、自分も同じ「人間」でありたいと彼が思っていることを示している。

西洋/非西洋

サン/遊牧民

人間/人間

 現実に存在する「西洋/非西洋」という対立構造を超える可能性を「鳥の眼と虫の眼」という二つの視点から語るのがこの文章のメッセージである。

 「鳥の眼」によって、全てを人々を同じ「人間」として見ることで。

 「虫の眼」によって、全ての人々に同じ「人間」として接することで。


 以上、600字をはるかに超えるのでちょっとズルい。

 600字程度にまとめてみる。

 題名に明示されている「鳥の眼/虫の眼」という対比は、『オリエンタリズム』や『大草原』で示される「西洋/非西洋」という対比とどのような関係にあるか。
 「西洋/非西洋」という対比は歴史上「征服/被征服」という対立の関係にある。サン・テグジュペリとアリスによって示される「鳥の眼/虫の眼」という対比は、現実に存在する「西洋/非西洋」という対立構造を超える可能性を、二つの視点から語る。
 アリスと南の島の人々は「西洋/非西洋」の関係である。だがアリスは両者の関係を「征服/被征服」の関係ではなく「訪問者/被訪問者」の関係として捉える。それは「西洋/非西洋」という対立を超えた、同じ人間として両者を見る視点を示している。これを可能にしているのがアリスが体現している「虫の眼」である。
 一方「鳥の眼」を体現するサン・テグジュペリも、自分に水を与える遊牧民に「人間」の顔を見る。フランス人であるサンと遊牧民は「西洋/非西洋」の関係である。だが両者を「征服/被征服」という関係ではなく、同じ「人間」として見る視点を可能にしているのが、空からの視点である。はるか上空から見下ろすとき、地上の人々は全て小さな「ともしび」なのである。
 そしてこれら二つの視点を共にもつことが「人類」学者である石井氏の願いである。
以上、評価の参考に。

追記
 小論文を書く段階で、当ブログの「鳥の眼と虫の眼3」前回記事までがアップされていたので、それを参照することができた。その中で「西洋/非西洋」という対比が重要であり、それと「鳥/虫」という対比の関係を考えるように誘導したのだが、やはり「西洋/非西洋」という対比を組み込んだ論を展開している人は少なかった。単にそこまでの考察をたどって、「鳥/虫」のどちらも大切、と結論するだけの論も多かったし、さらに逆にそこまでの考察が的確に把握されていない論も多かった。
 確かにこの文章はなまなかなことでは読みこなせない。だが一方で、自分の文章を客観的に読む意識ももってほしい。相互評価はそうした意識を高めるのが狙いだ。
 評価の高かった小論文の中でも出色の作と授業者が評価したF組Eさんの文章を紹介する。

 黒人と白人、西洋人と非西洋人、世の中にはそんなあらかじめ決められた絶対的な対比が溢れている。そのため、ローラの父のように人々は自分の中に固定概念を確立し、物事を多角的に見られなくなる。
 絶対的な対比に対し、英雄と普通の人、主人公と異端者などのような相対的な対比も存在する。これらの対比は、視点を変えれば違った風に捉えることができる対比だ。例えば、物語の隅に登場する異端者も、その人物に焦点を当てれば主人公に変わる。
 視点を変えるために必要なこと、それは鳥の眼と虫の眼、その両方を持つことだ。飛行家という職業柄、鳥の眼で物事を見ることが多いサン・テグジュペリを筆者が征服者と表現しなかったのは、彼に小さなともしびと通じ合おうとする虫の眼の視点があったからであろう。また現地の人と親しみ、虫の眼で土地を歩いたアリスは村に花の種をまくが、そこには風に乗って運ばれ、遠い場所で花を咲かせたルピナスを見たという背景がある。もし鳥の眼で遠くに目を向けなければ、村に花が咲き誇ることはなかったであろう。
 筆者が調査地から遠ざかる瞬間、それは虫の眼が鳥の眼にかわる瞬間だ。虫の眼で人々と心を通わせたからこその相手に対する理解、鳥の眼への変換があるからこそ感じる懐かしさ、二つの視点があることによって、はじめて調査地の人々に対する愛が生まれる。二つの視点を持つことで愛をおくりたい、そんな筆者の想いが伝わる。
  論理も的確な上に、なにより文章が美しい。驚嘆すべきエッセイだ。

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