ではあらためて次の一節について考える。
互いの一部をそれぞれの環世界に摂り込みつつ、時に「親」として、また別の時には「子」として関係することができる。
「環世界」という、一般的には必ずしも耳に馴染んでいるとは言いがたい言葉を、筆者はなぜ、あえて使っているか? この言葉を使うことで、どのようなことを示そうとしているのか?
「環世界」とは各生物がとらえる千差万別な世界像のことだ。これは千差万別=百面相であるところがミソだ。「それぞれ」の生物にとっての「環世界」は「それぞれ」違うのだ。
これは種の違った生物同士の「環世界」がどれほど違うかを示すために提唱された概念だが、ここでドミニク・チェンがあえてこの言葉を使って示すのは、我々人間同士でも、それぞれの「環世界」は実は違っている、という認識だ。
こちらから見る世界は私の「環世界」だが、あちらから見る世界も同様にその人の「環世界」だ。それらが異なったものであることは、あらためて心に留めておく必要がある。
だがそれは「異なっている」だけではない。「互いの一部をそれぞれの環世界に摂り込みつつ」というのは、そうした「環世界」が、それぞれ、相手の作用によってできあがっている、という認識を語ってもいる。
そこで必要となるのが「言葉」だ。
これはとても国語の授業にふさわしいメッセージだとも言える。我々の間をつなぐのは「言葉」だ。
だが、だから国語の授業は大事、というほど単純なことを言っているわけではない。
「身体にも訴える『言語』が必要」のくだりでも考えたように、「言語・言葉」とは文字通りのそれを指すだけではない。
「言語」の言い換えを、同じページから指摘しなさい、という問いに「インターフェイス」という語が指摘できた人は論理が追えている。
我々は、一人一人違った「環世界」に生きている。それをつなぐ「インターフェイス」=「言葉」が必要なのだ。
それが「未来をつくる」。
0 件のコメント:
コメントを投稿