2022年6月28日火曜日

羅生門 11 「心理」を考える意味

 では一般的解釈において未解決な問題とは何か?

 これがみんなからすんなりとは出てこなかったのは、後に述べる理由もあるとはいえ、やはり注意深く小説を読んでいないからではある。

 みんなの目はフシアナだ、などと言ったが、実はそれは生徒ばかりの問題ではない。世の国語の先生も似たようなものなのだ。

 どれほど繰り返し「羅生門」を読んでいても、それが問題であることが意識できないのは、小説を読んでいるのではなく、「一般的解釈」によってこの小説がわかっていると思い込んでいるからだ。

 一小説読者として素朴に読めば、それが気にならないはずはない。

 「それ」とは何か?


 「羅生門」を読むと、その詳細で異様な心理描写に誰もが違和感を抱くはずだ。執拗に描写される下人の心理は、その一つ一つに共感できないばかりか、にわかには理解しがたい飛躍によって急変する。

 実は最初の課題で「羅生門」最大の「謎」として既に「下人の心理の変化」を挙げた人もいる(だがこれは最後の引剥ぎの時の「勇気が生まれてきた」のことだけを言っていたのだろうか?)。

 一方で上のように問うた時に、こうした答えがすんなり出てくるわけではない。何人もに発言を回しているうちに、以下に考察するような「憎悪」や「得意と満足」や「失望」についての疑問が散発的に挙がってくるが、それを「心理描写」「心理の推移」といった抽象度で把握することには、また特別な国語的訓練が必要とされる。

 これは重要な国語力だ。そして生徒はそれを教わって「理解」すべきなのではなく、問われて自分で考えるという「鍛錬」をすべきなのだ。

 また、ようやく思考がそのような抽象度に届いたときに「下人の心情」といった表現が多いことが気になった。これは小学校以来「登場人物の気持ち」を考えなさいと言われ続けてきた名残だろうか。

 授業者はこういう場合「心理」という言葉を使うことにしている。特にここから先の考察には「理」を明らかにすることが重要なのである。「心情・気持ち」という言葉で、論理よりも共感を求める日本の国語科授業の姿勢が、曖昧な読解を招いていると思う。


 小説に書かれていることには必ず意味がある。特別な意味はない、という「意味」でさえ、そう確定されるまでは、それは「完全な」解釈にはいたっていないということだ。まして「羅生門」の異様な心理描写が特別な意味を持たないなどとは、到底納得できるものではない。

 だが一般的な「エゴイズム」論的「羅生門」把握では、最初の「極限状況」と最後の「老婆の論理」を短絡させてしまえば、それだけで下人の「行為の必然性」は説明されてしまう。そこに中間部分の「心理の推移」が意味するものは組み込まれておらず、宙に浮いている。

 これが、従来の「エゴイズム」論が「羅生門」という小説を適切に捉えてはいないと言える最大の理由だ。

 念入りに描写される「心理の推移」に意味がないはずがない。

 それはどのような意味なのか?


 これまでの論で、わずかに「心理の推移」が主題に関わるとすれば、下人のその変わりやすい心理こそが「行為の必然性」を支えている、とする立論だ。

 根拠の貧弱な老婆の論理を鵜呑みにしたのも、不安定故の気の迷いである。主題は「移ろいやすい不安定な心理」とでもいうことになる。

 これは「ペリシテ人のモラル」とも整合的だ。「モラルは時々の情動や気分の産物」なのだ。気分次第でコロコロ変わる。

 確かに、推移の一環としてこの「行為」をとらえるならば、そのような理解における「必然性」はあるといえる。「心理の推移」こそ「行為の必然性」を説明している。

 だがそれでは、結局の所、物語の決着点としての「行為の必然性」は逆に、むしろ薄弱になる。単にふらふらと一貫性のない人物がたまたまある時点でそちらに傾いた、ということになるのだから。そのような人物は、次の瞬間にはまた、自分の行為を反省して恥じるかもしれない。

 だが、「冷然と」老婆の話を聞いて、「きっと、そうか」と念を押し、「右の手をにきびから離して」引剥ぎをする下人の行為には、何かしら、この物語における決着点を示しているという手応えを感ずる。

 それは、途中に描かれる心理のような「推移」の一過程とは違う、この物語の主題に関わる決着点であるという感触だ。それは「不安定な心理」説とは相容れない。

 詳細な心理の描写には、主題の把握に関わる重要な意味があるはずである。そう考えると、老婆の長台詞に至る前までの「心理の推移」こそが「勇気を生む」必然性を用意しているのであって、老婆の言葉は、単なるBGMとまではいわなくとも、下人の心が定まる間の時間経過と捉えればいいということになる。


 一般的な解釈は「行為の必然性」を「極限状況」と「老婆の論理」によって説明する。













 「行為の必然性」とは「変化の必然性」でもある。引剥ぎができなかった下人がどうして引剥ぎできるようになったのかという変化に必然性を与える必要がある。

 これを老婆の言葉によるのだと一般的には考える。













 だが「老婆の論理」は「行為の必然性」を支えられない。

 それよりも「心理の推移」が「行為の必然性」に決着する論理を考えなければならない。










 「羅生門」という物語の構造をこのように捉えて、「なぜ勇気が生まれてきたか?」を考える。


羅生門 10 未解決の問題

 「極限状況」と「老婆の論理」は「行為の必然性」を支えてはいない。

 一般的な解釈は、確かにわかりやすい。むしろあまりにわかりやすいとも言える。だが、論理的強度が足りない。引剥ぎという行為の意味について、確かにそうだと感じられる説得力がない。

 そして何より、そんな小説はちっとも面白くない

 だがこうした論理による「羅生門」理解に納得しがたい最も大きな理由は他にある。

 一般的「羅生門」理解では、重要な点の解釈が未解決なまま放置されてしまうのだ。それは何か?

 こういう訊き方はいささか無茶振りだ。だが一般的解釈を疑え、というのはそういうことなのだ。

 「羅生門」では明らかに意図的に書かれていて、読者は明らかにそのことが容易に腑に落ちないはずなのに、そのことの意味が一般的「羅生門」解釈には組み込まれていない、重要な小説要素は何か?


 気になることはいくつもある。

 なぜ突然フランス語が使われるのか?

 なぜ「作者」が登場するのか?

 なぜ下人が一場面だけ「一人の男」と表現されるのか?

 だがこれらの疑問は些細なことだ。大学生だった芥川が技巧を凝らそうと工夫したのだろう、というくらいで看過して良い。


 なぜ「羅城門」が「羅生門」と書かれるのか?

 「羅生門」とも書くのだ。そこに「生死がテーマだから」などと説明するのはいたずらに理屈をこねているに過ぎない(しかも解釈できてしまったし)。


 下人の行方はどこ?

 ある意味ではわからなくてもよいのだが、わかる、とも言える。

 「羅生門」が最初に雑誌に載ったとき、最後の一文は「下人は、既に、雨を冒して、京都の町へ強盗を働きに急ぎつゝあつた。」だった。芥川は下人の最後の引剥ぎを、盗人になる決意として描いているのだ。

 それを後に「下人の行方は、誰も知らない。」にしたからといって、そこまでの作品の論理が全く変わるわけではない(もちろん、重要な変更が全体の解釈の変更を要請するケースがありえないとは言わない)。

 少なくとも「行為の必然性」は変わらない。それに対する作品全体でのメッセージがいくらか変わることがあるにしても。

 だからまあ何となく余韻をもった終わり方にしたかったのだろう、くらいでいい。


 「にきび」は?

 これは確かに解決が必要な問題だ。それは、とにかくそれが意味ありげだということに拠っている。繰り返し言及される「にきび」はどうみても単なる生理現象以上の何かだ。とりわけ結末で老婆に襲いかかるときににきびから手を離すことには、明らかに何らかの意味がある。

 「にきび」は何を表わしているか?

 だがこのように問うと、「生活が荒れていることを表わしている」などと焦点の定まらないことを考えてしまう。

 そうではなく、ここでは「にきび」を「象徴」と捉えることが必須だ。

 「象徴」とは何か?

 「象徴」という言葉を誰でも知っているだろうが、それを次のように明快に答えることは難しい。

ある具体物がある抽象概念を表わしていると見なされること

 「鳩は平和の象徴だ」というとき、「鳩」という具体物は「平和」という抽象概念を表わしている。

 もちろん文脈によっては、鳩が単なる鳥類の一種である鳩そのものでしかないこともある。だが「平和式典」などのニュース映像で青空を背景に飛ぶ鳩の群は、それが「平和」への祈念を表わしているという約束が放送者と視聴者の間で成り立っている。そういう了解が表現者と享受者の間に成り立っているとき、それは「象徴」と見なされるのだ。

 小説などの虚構では、作者がそれを「象徴」として描くことが意図的であるかどうかはともかく、読者がそれを「象徴」として捉えることはある。「羅生門」の「にきび」などは、具体物として読むべきではない。「烏(カラス)」は「荒廃」や「不気味さ」だろうし、「きりぎりす」は「秋」であり「時間」だ(きりぎりすが姿を消すことで時間の経過が表現されている)。

 では「羅生門」における「にきび」は何の象徴か?

 引剥ぎの実行にあたって手を離すのだから、それは「迷い」の象徴だといえる。

 あるいはここまでの「一般的解釈」からすれば「良心」「正義」「道徳」あたりか(それこそ「モラル」だ)。そこまで心にあった「モラル」から手を離して引剥ぎをするのだ。

 あるいはそれを「若さ・未熟」などと表現することもできる。下人は大人になったのだ。

 つまり「にきび」は従来の一般的解釈の枠内で解決が可能だ。


 では何が?

 まだ重要な未解決要素とは何か?


2022年6月26日日曜日

羅生門 9 「老婆の論理」はあるか

 では「老婆の論理」はどうか。

 先程の考察から、問題は、下人の引剥ぎを「A.自己正当化の論理」を老婆自身に投げ返す行為として捉えるか、「B.悪の容認の論理」を受けて盗人になる決意と考えるかという対立だということが明らかになった。そして従来の理解に拠れば下人の行為をBに従って理解しなければならないはずだが、実際に訊いてみるとAを支持する者の方が多い。

 このことをどう考えるか?


 端的に言えば、Bのように考えることはそれほど説得力はないということを示しているのだ。

 だからといってAを認めるべきでもない。

 先の議論において2を支持する立場から1に対する反論として挙がった論は、Aに対する反論としても有効だ。

 確かにAのように「自己正当化」の理屈を言う老婆に、そっくりそれを投げ返したのだ、という皮肉の切れ味は、小説の味わいとしても悪くない。これは「極限状況」は実は描かれていないという前項の見方にも整合する。

 だがそれでは物語の主人公が老婆ということになってしまう。利己的な自己正当化の論理、詭弁によって逆に自らが罰を受けるアイロニカルな因果応報譚として「羅生門」を捉えることになるからだ。

 そのとき、下人はいったい何者なのか。単に老婆の論理を反射する鏡なのか。下人はどのような立場で老婆の論理を投げ返しているのか。

 これでは結末におけるこの行為が、冒頭の下人にとっての「問題」と対応しなくなる。引剥ぎをするにあたって生まれてきた「勇気」とは「さっき門の下で、この男には欠けていた勇気である」と明確に書かれている。これはこの行為が冒頭の迷いに対する決着であることを示している。

 単に老婆を懲らしめたのだという解釈は、引剥ぎに踏み出す最後の場面だけに注意していて、小説全体を捉えてはいない。


 ではやはり従来の解釈どおりBだと考えるべきか。

 だがこの論理は、上に述べたように「極限状況」が肉体的な感触として描かれていないことから既に破綻している。

 それだけではない。先の検討において、1を支持する立場から2を否定する根拠として挙げられていた根拠は、そのままBを否定する根拠となる。

 盗人にならなければ飢え死にをしてしまう、という状況は最初から変わっていない。それがわかっているにもかかわらず踏み出せなかったのだ。

 だから今更老婆が2の論理(「生きるためならしかたがない」)を語ったからといって、そのことによって下人の心が動く道理がない。とすればそれを動かしたのは、ここで新たに提示された1(「悪人相手ならしかたがない」)の論理しかないということになる、というのが1支持者の主張だった。

 具体的には、物語冒頭の下人はどのような認識をもっていたか。

この「(飢え死にしないために手段を選ばないと)すれば」のかたをつけるために、当然、そのあとに来るべき「盗人になるよりほかにしかたがない。」ということを、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。

 下人は物語の最初から「(生きるために悪を肯定する)よりほかにしかたがない」ことがわかっている。わかっていてできなかったのだ。老婆が何かしら下人の知らなかった認識や論理を語っているわけではない。したがって下人は2に動かされているわけではない。

 この主張は実に論理的である。ただし、だから1だという結論にはならない。2ではなく、やはり1でもないのである。つまりBは「行為の必然性」を支えられない。


 それでもBを延命させるならば、次のような解釈が可能かもしれない。

 人は、自分でわかっているのに実行できなかったことでも、他人の言葉で聞くと動けるようになるということもある。他人の言葉を免罪符として、実行しにくい行為に踏み切るのだ。「羅生門」はそういう人間心理を描いているのだ(F組Kさんなどの解釈)。

 この解釈は、「生きるために持たざるを得ないエゴイズム」などという大仰な主題設定よりはよほど気が利いている。芥川ならそういうのを書きそうだという感じもする。

 だがこれも簡単には納得できない。仮にそのような心理を主題とする小説であるならば、最後の引剥ぎの直前に、老婆の語ることは既に自分もわかっていたことだという認識を下人に語らせるか、気づかない下人に代わって「作者」が解説してしまうはずである。そうでなければこうした心理が「行為の必然性」を支えているという、小説の主題の在処が読者には伝わらない。


 いずれにせよ「老婆の論理」は「行為の必然性」を支える説得力はない。やらなければ「しかたがない」とわかっているのにできずにいたことがなぜできたかというと、やることは「しかたがない」とわかったからだ、というのはパラドクス(自家撞着)である。あるいは無内容なトートロジー(同語反復)である。

 にもかかわらず「老婆の論理」が「行為の必然性」を導いているという理路がまるで疑われないことには理由がある。それは何か?


 理由は明白である。老婆の長台詞の後の次の一文である。

これを聞いているうちに、下人の心には、ある勇気が生まれてきた。

 「ある勇気」とは「盗人になる」勇気である。この「勇気」が引剥ぎという形で実行される。老婆の話が下人の中に「盗人になる」勇気を生じさせているのだ。そして、勇気が生まれさえすればそれを実行するだけの動機は「極限状況」によって保証されている。論理は明白だ。

 だが老婆の言葉がどのように下人を動かしたのか、上に見たとおり、実はよくわからない。にもかかわらず「老婆の論理」が「行為の必然性」を支えているはずだという前提から、こうした理屈が生み出されている。

 これは論理が転倒している。老婆の言葉が、なるほど下人に引剥ぎをさせる論理を備えていると感じられるからそこに「行為の必然性」の根拠を見出しているのではなく、そこに根拠があるはずだと考えるから、その論理を捻り出しているのである。

 確かに、下人が引剥ぎをしたのは老婆の長広舌を聴いたからだと考えることには疑いの余地がないように見える。世の中の全ての「羅生門」論は「老婆の論理」が「行為の必然性」を支えているとして疑わない。

 この論理を否定することは難しい。実際に別の論理を提示することでしか、この因果関係を否定することはできない。

 この時点で考えられる抜け道の可能性を示しておく。


次の二つの表現はどう違うか?

1.これを聞いているうちに、下人の心には、ある勇気が生まれてきた。

2.これを聞いて、下人の心には、ある勇気が生まれてきた。

 並べてみればすぐにその違いを感じ取れるはずだ。

 だがそれを適切に説明することが容易なわけではない。

 聞いてみると、1は「聞いている」途中に「勇気が生まれてきた」が、2は「聞いた」後だ、という説明が多かった。間違っていないがポイントを捉えてはいない。

 次のように二つの違いを表現できた人はすばらしい(即座に反応したB組Mさんなど)。

 2「これを聞いて」は、老婆の言葉を聞くことと「勇気が生まれてきた」の間に因果関係があることを示している。

 だが原文の「これを聞いているうちに」は、言葉通りに解釈すれば、「勇気が生まれて」くる間の時間経過を示しているだけなのだ。因果関係はあってもいいが、ないと考えてもいい(これを、原文では老婆の言葉がBGMのようなものであってさえ構わないということになる、と表現した生徒が去年いた)。

 一般的な「エゴイズム」論は、「これを聞いているうちに」を無自覚に「これを聞いて」と言い換えているのである。一度そうなると、「老婆の論理」と「行為の必然性」の間にある因果関係は決して疑われない。

 だが上記に見たとおり実はそうした因果関係に、それほどの論理的強度はない。


 この小説は「極限状況」を身体性において読者に感じさせようとはしていないし、「老婆の論理」は新たに「勇気が生まれてきた」という変化を下人に起こすほどの論理的必然性をもたない。

 といって授業者は、正直に言えば、そうした論理の脆弱さによって、「なぜ引剥ぎをしたか」がわからないと考えていたわけではない。「極限状況」も了承していたし、老婆の言葉によって「勇気が生まれてきた」のだろうとぼんやり思いつつ、それではこの小説の主題が何なのかがわからない、と感じていたのだ。

 「下人はなぜ引剥ぎをしたのか」がわからないというより、そのように説明される「行為の必然性」から導かれる「主題」=「エゴイズム」が面白いとは思えないのだ。

 「羅生門」が人間のエゴイズムを描いているなどという捉え方は、この小説をぼんやり読んでいるに過ぎない。


羅生門 8 「極限状況」は描かれているか

 ところで、「一般的」だとか「疑問はないように見える」とか「ひとまずは」とかいう表現から、これは、あいつはここまでの考えを否定しようとしているなと、皆はとうに勘付いているはず。

 そのとおりだ。

 「極限状況に置かれた下人が老婆の論理を得る」ことで引剥ぎをした下人の行為を通して、「人が生きるために持たざるを得ないエゴイズム」を描いていると考える「羅生門」理解は、先のネット事典をみても一般的だといって差し支えないと思う。

 ここまで提示した「羅生門」解釈を「理解する」ことは、繰り返すが「羅生門」を授業で読むことの目的ではない。「羅生門」が巷間そのように語られていることを知ることは、一般教養としてはささやかな「言語文化」の継承に資するとも言える。だが国語の学習としてはほとんど意味がない。

 それどころか、既に皆が気づいているとおり、そんな解釈は間違っている、と言うつもりなのだ。


 これまでたどってきたような「羅生門」の解釈に納得がいかないのは、端的に言って面白くないからだ。

 これは授業者個人がそれを面白いと感じないという意味ではなく、それが面白さとして想定されていると考えることができないということだ。

 このように理解される「羅生門」は浅はかで凡庸な小説だとしか思えない。このように書かれた小説が、そうした面白さを実現しているはずだと考える小説家がいるなどと思えない。

 こうした理解は、「羅生門」というテキストを、小説として読まず、ただ理解のための理屈を立てているだけだ。小説を読んだ印象と乖離している。

 授業を受ける生徒としてではなく、いち小説読者として考えよう。

 今までたどってきた「一般的な解釈」はどこがおかしいか?


 小説読者として受け容れ難いのは、まず「行為の必然性」の根拠の前提、「極限状況」の捉え方をめぐる違和感だ。

 「行為の必然性」は、下人が置かれている「極限状況」が根拠となるという。だが小説読者としてはどうもそうだと思えない。

 この説明はどこがおかしいか?


 「極限状況」は、確かにテキスト中に書かれている。

 だがこれが読者に「極限状況」として感じられるはずはない。下人は物語中「腹が減った」の一言もない。動作は素早く、力強い。到底死にそうには見えない。

 つまり言葉の上では確かに「極限状況」ともいえるものは示されているが、下人に感情移入しながら読み進める読者が「極限状況」に置かれていると感じるような肉体的な感触は描かれてはいないのだ。

 そもそも「飢え死にか盗人か」という問題設定は、読者にとって本当にリアルな「問題」と感じられるだろうか?

 「生きるための悪は許されるか」などという「問題」は、随分と暢気なものだ。「極限状況」が本当ならば、そもそも迷う余地がない。だから素朴に言えば、この男は何を迷っているんだろう、と昔から授業者は感じていた。迷う余地があるということは「極限状況」などではないということだ。

 小説読者が物語を受け取る上で、登場人物の不道徳な行為に対する抵抗のハードルは、現実よりもずっと低い。何せ虚構なのだ。そもそも小説は現実離れした奇矯な世界を描くのだ。引剥ぎなど、「極限状況」という言い訳があればたやすく受け入れられる。そのような問題が「問題」となる倫理観など、小説読者は持ち合わせていない。だから「飢え死にか盗人か」という選択が問題になること自体が不可解なのである。

 ここに「エゴイズム」という言葉をあてはめて主題を語るのも軽すぎる。「極限状況」であれば自分の命が優先されるのは当然であり、そのような根源的な生存欲求を、近代的個人が持つに至った「エゴイズム」などという自意識過剰な言葉で表わすのはまるでそぐわない。

 このように「極限状況」も「エゴイズム」も、まるで内実を伴わない空疎な評語であるとしか感じられない。

 小説の読解は読者にとって一つの体験としてある。抽象的な問題設定が提示されて「思考実験をする」ことと、状況設定、描写、人物造型、様々な要素によってつくられた物語を生きる=「小説を読む」という体験は違う。先の「問題」はそうした違いを無視して、観念的に設定されている。

 極限状況における悪は許されるか、人間存在のエゴイズムは肯定されるか、この小説の読者はそんな問いを生きはしない。ただ論者がそうした問題設定を観念的に弄んでいるだけだ。「小説の解釈」が「小説を読む」という体験から遊離しているのである。

 だから「生きるために為す悪は許されるか」などという問いを掲げて、そこに「カルデアネスの舟板」を引用したり、法律概念である「緊急避難」などを持ち出したりするのは、この小説を読むという体験とは何の関係もない(こういうことを言っている教師は世の中にいっぱいいる)。

 確かな肉体的感触として下人に(そして読者に)生きられてはいない「極限状況」は、「行為の必然性」を支えてはいない。

 それはすなわち、作者が下人の「行為の必然性」を「極限状況」に拠るものとは考えていないことを示す。芥川のような巧みな書き手が本当にこうした問題を提起したいなら、そうした問題の前に読者を立たせるはずだ。読者を「極限状況」に曝すはずだ。下人の窮状を体感させるはずだ。

 それをしていない以上、「極限状況に露呈される人間存在の悪」などという大仰な主題設定はこの小説を読んだ実感とはかけ離れていると考えるべきなのだ。芥川には、そんなつもりはない。このような読みは単に小説をまともに読んでいないというだけなのだ。

 「老婆の論理」をめぐる議論で、1もしくはAを支持する者が多かったのは、そうした皆の、小説読者としての素朴な感覚を表している。そして2もしくはBを支持する者が少なかったのは、「一般的な解釈」が読者の感覚を無視していることを証明している。


 そうはいっても「極限状況」は書かれてはいる。肉体的感触としては描かれていないが、下人の行為を動機付けるものとして意識されてはいる。

 これは否定できないのではないか?

 だが今問うているのは、何のために引剥ぎをしたかではなく、なぜできなかったことができるようになったのかだ。何らかの論理的決着の上で、物語の最後に引剥ぎが行われることをどう納得するかだ。行為の必要性ではなく、変化の必然性だ。

 だから、「極限状況」が「行為の必然性」をもたらすという物語の論理を表現するなら、「極限状況」が物語の進行に従って次第に下人の身に迫って―どんどん腹が減って―こなければならない。

 そうした変化が描かれていない以上、「極限状況」は「行為の必然性」を支えない。

 これは「老婆の論理」を検討した際に、「生きるため」を否定する根拠として「老婆を罰する」支持者から指摘された根拠だ。


 下人の行為を「生きるためのエゴイズム」の発露と考える根拠の一方がこれで揺らいだ。さらにもう一方の根拠を検討する。


2022年6月23日木曜日

羅生門 7 「老婆の論理」を検討する

 「羅生門」とはどんなことを言っている小説なのか、一般的な理解を辿ってきた。

 ここまでの流れの中で「老婆の論理」についてさらに突っ込んで考察すると、面白いことが明らかになる。

 下人が引剥ぎをする直前の老婆の長台詞には二つの理屈が混ざって語られている。

 これを「極限状況」と同じく、二つに分けてみよう。

1.相手が悪人ならば悪が許される。

2.生きるためならば悪が許される。

 このうち、どちらがより強く下人を動かしているか?

 「行為の必然性」を支えるのはどちらか?


 一般的な解釈によれば2こそ「行為の必然性」を支えていることになる。生命の危機に直面しているという「極限状況」を正しく受けているのは2だ。やらなければ死んでしまうという状況で、やってもいいのだというお墨付きをもらったからやったのだという理屈は理に落ちすぎるほどだ。

 だが1を支持する者は意外に多かった。というかむしろ1の方が優勢だった。

 1を支持する根拠としてどのクラスでも挙げられたのは次の一節。

その時の、この男の心持ちから言えば、飢え死になどということは、ほとんど、考えることさえできないほど、意識の外に追い出されていた。

 これがなぜ1を支持することになるのか?

 「飢え死に」と選択になっているのは「盗人になる」であり、「飢え死にを考えない」は「盗人になることしか考えない」ということだ。

 これは別にどちらかの根拠になるわけではない。「盗人になる=生きる」だから、むしろ2を支持しているようにさえ思われる。

 それなのになぜ1支持者がこれを挙げるのか?

 B組S君の解説によると、「飢え死に」が「意識の外」だというのは、生死が問題ではない、つまり「生きるため」ではないということなのだ。だから2ではなく1が問題だということなのだ。

 なるほど。だがそうか?


 さらに、引剥ぎをするにあたって下人が口にする台詞も検討された。

「では、俺が引剥ぎをしようと恨むまいな俺もそうしなければ、飢え死にをする体なのだ。」

 言葉通りとればこれは「生きるためにするのだ」と言っているのだから、2を支持する根拠ということになる。実際にこれを挙げたのは2支持者だった。

 だが「俺も」とは、自分と老婆が同じ立場であることを殊更に強調している。そしてそれによって、自分の行為を相手が「恨まない」ことが念押しされている。

 つまり下人は、自分の行為の差し迫った必要(生きるため)よりも、自分の行為が相手の言った論理に則っているということを示して、相手が自分の行為を了承するしかないことを言い立てているのである。

 1が支持されるのは、この台詞の印象に基づいているのではないか?


 こうした検討から明らかになることは、本当の問題は、下人が1と2のどちらに動かされているか、という対立ではないということだ。

 問題は下人の引剥ぎを、次のどちらの意味合いで捉えるかなのだ。

A.老婆の自己正当化の論理を老婆自身に投げ返す。

B.老婆の悪の容認の論理を受け入れて引剥ぎを実行する。 

 Bならば引剥ぎはすなわち「今後生きるために盗人になる」ことを意味するが、Aでは、この時の老婆に対してのみ行われる行為だということになる。

 最初1を支持している者は、実は1と2のどちらかというより両方を含めた「老婆の論理」に含まれる「自己正当化の論理」に対する怒りや不快が下人を動かしていると感じているのだ。授業では「老婆を懲らしめる・老婆を罰する」などの表現が使われた。

 一方Bもまた1と2の両方を含むものであり、2と一致しているわけではないが、「容認」されるべき正当性はおもに2に負っていると考えるから、2支持だということは下人の行為をBだと感じているということなのだろう。

 ABではそれぞれの表現する「エゴイズム」も様相を異にする。

 Bならば、「エゴイズム」とは、老婆と下人が等しく持っている「生きるためのエゴイズム」であり、物語はその容認(あるいは必然)を表現していることになる。これは従来の「羅生門」理解だ。

 だがAならば、例えば「エゴイズム」とは、老婆の語る自己正当化のエゴイズムであり、物語は老婆への処罰という形でそうしたエゴイズムを痛烈に批判していることになる、などと言える。ただしこれは一般的な「羅生門」の主題とは一致していない。それをどう表現したらいいか。A支持者は考えなければならない。


 さてAを支持する根拠をさらに挙げよう(もともと1支持の根拠として挙げられたものだ)。

 『今昔物語』の原話の盗人が老婆の抜いた死人の髪や死人の着物も一緒に持ち去るのに対して、「羅生門」の下人は老婆の着物だけを剥ぎ取る。つまり盗人の行為が生活のための実用的な行為であるのに対して、下人の行為は老婆にのみ向けられている。「生きるため」ではなく「老婆を罰する」なのである。

 また上記の台詞を言う際に「かみつくようにこう言った」という形容がある。「生きるために」引剥ぎをするのなら、老婆に対する感情を表わす「かみつくように」という形容がなぜ必要なのかわからない。下人は老婆に対する敵愾心で動いている(H組K君の指摘)。

 さらに重要な論拠なので必ず指摘したいのは、下人が老婆の言葉を聞いた後「きっと、そうか」と念を押す声に嘲るような」という形容が付せられていることだ。これがどうしてAを支持する根拠になるのかを説明することには、意外とみんな苦労した。

 これは自己正当化の論理がそのまま自分に返ってくることに気付かない老婆を嘲っているのだ、と考えられる。お前、そういうこと言うなら自分がされてもいいよな?

 これらの形容は、作者が意図して付加しているのであり、その意味は必ず解釈されなければならない。そしてそれはAを支持しているように思われる。


 Aを支持するには、積極的にAを支持する根拠を挙げるだけでなく、Bを否定する論拠を挙げてもいい。ここで挙がった根拠については後述する。


 一方、Bを支持することは、「極限状況」と「老婆の論理」を結ぶ論理の線上に素直に乗ることであって、それ以上に積極的な根拠を言う必要がない。

 そしてBを否定する論拠は後に述べる。


 この議論は盛り上がった。両陣営に分かれて論戦をする中で、積極的に発言をする人が現れるのは楽しかった。

 そして、それぞれを支持する論拠、それぞれを否定する論拠が提出される中で、問題が1と2の対立なのではなく、AとBの対立なのだということがわかってきた。

 こうしたAとBとの対立を最初から設定することはできない。1と2の対立をめぐる議論の中で初めてそうした相違が浮上してきたのだ。これに気づかされたのは、授業者にとって今年度の大いなる収穫だった。

 これは後の展開に繋がる重要な考察だ。


2022年6月15日水曜日

羅生門 6 ペリシテ人のモラル

 ところで芥川本人が「羅生門」の主題を「moral of philistine」だとノートに書いた覚え書きがあることが公になったのは比較的最近のことだ。

「羅生門」は私の人生観の一端を具現化しようとした短篇である。(略)ここで私が扱いたかったのは「モラル」である。私の考えでは、「モラル」(少なくとも、“moral of philistine”=「教養のない俗物のモラル」)は時々の情動や気分の産物であって、それもまた時々の状況の産物である。(英文で書かれたメモ「Defence for “Rasho-mon”」を和訳)

 これと「エゴイズム」を主題とする「羅生門」解釈の関係はどうなっているのか?


 「モラル=道徳」と「エゴイズム」は馴染みの良い言葉だ。「生きるための悪は許されるか」というのは確かに「道徳」的な問いに違いない。

 これは「道徳」がどうだと言っているのか。それと「エゴイズム」が主題だと考えることは一致するのかしないのか。

 ひとまずはこう考えられる。通常「道徳」と「エゴイズム」の方向性は反対だ。「生きるためのエゴイズム」が描かれているということは、「道徳」が否定される状況だということなのだ。

 ところでこれは一体何のことを言っているのか?

 「道徳」とは具体的には「羅生門」の中の何を指しているか?

 この問いに適切な答えが提出されるまでに妙に手間がかかったのは、頭からの論理の辿り方のせいで、みんなが「引剥ぎ」と「道徳」を結びつけようとしていたせいだろう。

 冷静に考えれば、物語冒頭で下人が盗人になることを躊躇うことを指していると考えるのが素直な解釈だ。悪を為さないことで飢え死にの可能性があることを承知で迷っているのは「モラル」があるからだ。そしてその延長として、死人の髪の毛を抜く老婆を憎悪する心理がある。

 なぜそうした「モラル」を芥川は否定するのか?

 ところで芥川が書いた「philistine=ペリシテ人」は「俗物、実利主義者、教養のない人」を指す慣用表現だ。

 「俗物の道徳」とは何のことか?


 「俗物の道徳」は「時々の情動や気分の産物」だと芥川は言う。

 だからコロコロと変化する。生きるためには仕方がないという「老婆の論理=実利」を得たとたんにあっさりと「意識の外に追い出され」てしまうほど脆弱、浮薄なものだ。

 「ペリシテ人のモラル」が主題であるとは、そのような芥川の道徳観を表わしているのだ、と理解することができる。

 ひとまずは。


羅生門 5 一般的解釈

 「この小説は何を言っているのか(主題は何か)?」を考えるために「下人はなぜ引剥ぎをしたか?」を考える。謎だと言っているのだから「わからない」はずだが、まあ現状で言えるだけ言ってみよう、ということだ。

 さて、この問いには典型的な「答え」がある。

極限状況に置かれた下人が老婆の論理を得たから

 これが「行為の必然性」に対する一般的な説明だ。

 これはどのようなことを言っているのか?


 まずは「極限状況」を構成する要因を二点に分けて指摘してみよう。

 1.天災により都が荒廃していること。

 2.下人が主人に暇を出されていること。

 言わば社会的状況と個人的事情、二つが揃って「極限状況」を構成している。

 まず災害による人命の損失やそれにともなう人心の荒廃が語られる。仏具は打ち壊されて薪とされ、物語の舞台となる羅生門の上には引き取り手のない死体がごろごろと転がっている。そうした中で下人は失職して行くあてもない。それが「おれもそう(引剥ぎ)しなければ、飢え死にをする体なのだ」という、追い詰められた状況を招いている。

 こうした状況は確かに「極限状況」であると言ってもいいように見える。これが引剥ぎという「行為」を要請している。


 次に「老婆の論理」とは何のことか? 

 これが下人の引剥ぎの実行の直前の老婆の長広舌を指していることはすぐにわかる。

死人の髪の毛を抜くということは、なんぼう悪いことかもしれぬ。じゃが、ここにいる死人どもは、みな、そのくらいなことを、されてもいい人間ばかりだぞよ。(略)せねば、飢え死にをするじゃて、しかたがなくすることじゃわいの。じゃて、そのしかたがないことを、よく知っていたこの女は、おおかたわしのすることも大目に見てくれるであろ。

 この老婆の台詞の論旨を、よく「悪の容認の論理」などと言う。「悪いことをしても許される」という趣旨の主張である。


 これで下人が引剥ぎをしたわけは、すっかりわかってしまった。「やらなければ死んでしまう状況に置かれた下人が、やってもいいという理屈を得たから」なのだ。

 だとすると、「羅生門」の主題はどのようなものだと考えられるか?

 「行為の必然性」という具体レベルから、「小説の主題」という相対的に抽象度の高い問題に繋げるという抽象化の能力は、国語力にとどまらない重要な思考力の一つだ。

 どのように表現したら良いか?


 課題の回答には「善悪の判断」といった表現が多かったが、「善悪の判断」がどうだと言っているのかを表現したい。

 同様に多かったのが「人間の身勝手さ・醜さ」だ。これはこの後で提示する回答と同内容だと言っていいだろう。

 さて、これが一般的になんと言われているかをYahoo!知恵袋やWikipediaで調べてみよう。

 いくつものQ&Aを読み比べてみると、共通した表現、頻出するワードがある。

人が生きるために持たざるを得ないエゴイズム

 「羅生門」は「エゴイズム」を描いた小説だ、というのが一般的な「羅生門」理解である。

 「なぜ引剥ぎをしたか?」を「極限状況に置かれた下人が老婆の論理を得たから」だと考えることと、「羅生門」の主題を「生きるために持たざるを得ないエゴイズム」だと考えることにはどのような関係があるか? 

 生きるために悪いことをしなければならない状況に置かれた下人が、生きるためには悪いことをしてもいいのだという老婆の言葉を聞いて、それをしたのだ、人間にはそうした悪=エゴイズム(利己主義)があるということをこの小説は描いているのだ…。

 つまり下人の行為、引剥ぎの必然性が、エゴイズムの発露として理解されているのである。


 このように、「極限状況」と「老婆の論理」は、二つ揃って「行為の必然性」を支え、それが「エゴイズム」という主題を具現化しているのだというのが、一般的な「羅生門」の捉え方だ。

 この論理に疑問はないように見える。

 だが本当にそうか?


羅生門 4 翻案の意図

 「行為の必然性」の重要性については、この小説のもとになっている『今昔物語』の一編 「羅城門登上層 らじゃうもんの うはこしにのぼりて 見死人盗人語」 しびとをみたる ぬすびとの かたりけること と読み比べることで確認できる。

 原話と、翻案された小説「羅生門」の、重要な相違点は何か?


 最も重要な相違点として挙げられたのは各クラスで共通していた。

 原話との最も重要な相違点は、原話の「盗人」が小説では「下人」となっていることだ。

 「盗人」と「下人」の違いは何か?

 「盗人」は最初から盗みをしようという意図が明確である。だが「下人」は最初のうち、迷っている。まだ「盗人」ではない。

 つまり『今昔物語』の原話では「行為の必然性」が問題にされてはいないのである。「盗人」が老婆の着物を剥ぎ取るのは当然であり、行為に対する迷いもない。彼は当然のように行為する。だからそもそもそこに「主題」の感触を見出すこともできない。

 ではこの原話は何を伝えたい話なのか?


 この挿話の主題は、盗人の「行為」にあるのではなく、羅城門の上層には死体がいっぱいあった、という「状況」そのものを読者に伝えることにある。

 一方「羅生門」では引剥ぎという「行為」の意味が問われている。

 「行為」は当然「動機」や「情動」によって意味づけられる。下人の「内面」「心理」を考えないわけにはいかない。

 そこにこそこの小説の主題がありそうなのである。


 それ以外に指摘された相違点を紹介しよう。

 老婆に髪を抜かれている死人の女の素性が違う。原話では老婆の主人、小説では蛇を干し魚と偽って売っていた女だ。これは芥川が小説化にあたって『今昔物語』の別のエピソードを合成したものだ。このことによって主題に関わる相違が生じているか?

 また、原話では盗人は老婆の着物以外に死人の着物と老婆が抜いた髪の毛を奪って逃げる。だが小説では老婆の着物だけを奪う。このことは後の議論にどう影響するか?


 次の諸点に気づいた者は注意力がはたらいている。

原話では雨が降っていないが「羅生門」では雨が降っている。

原話では羅城門の近くに人の往来があるが「羅生門」では人気はない。

原話では「日のいまだ明」るい時刻だが「羅生門」では上層に上がる頃には暗くなっている。

 これらの描写が小説版の、陰鬱として物寂しい雰囲気を醸し出している。


 また、小説版の方がとにかく長いのだから、いろいろな要素が付け加わっているに違いない。その中でも「老婆に対する憎悪」「老婆の釈明」あたりは重要な要素として指摘された。

 また原話の「羅城門」が小説では「羅生門」と表記されている点についてはしばしば、小説が生と死をテーマにしているからだ、というような説がまことしやかに語られることがある。だがこれは眉唾だと思う。羅城門が羅生門と表記されるようになったことは歴史的な事実であり、別に芥川の創作ではない。どちらの表記も存在したのだ。それをわざわざ「羅生門」という表記を選んだのだ、と考えることにそれほどの蓋然性があるか怪しい。


 これらの変更あるいは付加から、芥川の意図を読み取ることができるかもしれない。

 それは「羅生門」というテキストの読解のための手がかりとなるかもしれない。


2022年6月10日金曜日

羅生門 3 行為の必然性

 下人が最後に実行する「引剥ぎ」は、確かによくわからない。なぜ彼はそうすることにしたのか?

 だがこの問いは自覚的な思考によって選ばれているわけではなく、一読した読者には自然に思い浮かんでいる、といった体の疑問でもある。

 ではそれが「羅生門」を読むための中心となる「問い」だと、なぜ感じられるのか?


 これは難しい問いだ。そここそが最も「わからない」と感じられるから、というのが素朴な答えではあるが、それではなぜ重要かが明らかにされているわけではない。その「わからなさ」がどこから生じているかを分析し、他の様々な「わからなさ」の中で、この点が最も重要である理由を分析する。

 「わからない」というだけならば、なぜ平安時代が舞台なのかとか、なぜ突然フランス語が文中に登場するのかとか、なぜ「にきび」がこれほど強調されるかとか、下人はどこへ行ったのかとか、「わからない」ことはさまざまある。中でも下人の心に燃え上がる「憎悪」などは(そして「得意と満足」や「失望」なども)、読者にとっては「わからない」はずだ。

 その中でもこの引剥ぎという行為こそ最も重要な謎であると感じられるのはなぜか?


 もちろん、どんな小説でも常に登場人物の特定の行為の必然性が物語の「主題」を支えるというわけではない。物語中にはとりたてて必然性に疑問のない大小様々な「行為」が描かれている。「羅生門」の物語中、下人は大小様々な行為の主となる。冒頭で雨止みを待ち、その後石段に腰掛け、羅生門の二階に上がり、老婆を取り押さえ、「にきび」に手をやり…。その中には特別に理由を問う必要のないほど当然の行為も、理由の明示されている行為もある。その中で、「引剥ぎ」は特権的に重要な位置にある。

 それは、引剥ぎという行為が、読者にとって自然に受け入れることのできない大きな違和感とともに提示されているから、ではある。素直に「わからない」のだ。

 最後にそこに踏み出すときに、明確な理由が書いていない。そしてその実行には、ある飛躍が感じられる。この行為は何を意味しているのか、そこに必然性を見出さないまま読み終えることができない謎が読者に提示されている。


 引剥ぎが重要だと見なせる理由はその飛躍の大きさ(わからなさ)とともに、単に物語の終わり近くの行為だから、でもある。途中の行為は最後の行為につながる中でその意味が決まってくる。となれば重要なのは最後の行為だ。

 だがそれだけではない。最後近くの行為の中でも、この「引剥ぎ」がとりわけ重要だと見なせる理由が明確にある。

 何か?

 「引剥ぎ」こそが問題の焦点だと感じられるのは、この行為が冒頭近くの問題提起に対応しているからである。

 引剥ぎは成り行きの中で唐突に行われるわけではない。冒頭でこの行為に対する迷いが提示され、最後にそれが実行されて終わる。この物語の構造は、その対応を作者が読者に対して積極的に提示しているように見える。

 つまり「羅生門」という小説の意味は、この問題提起と結論をつなぐ論理の中で把握されそうだと感じられるのである。読者は下人が引剥ぎをすることの論理的必然性を理解しなければならない。


 「なぜ下人は引剥ぎをしたか?」という問題は、つまり「引剥ぎ」という「行為」の「必然性」をどう納得するか、という問題である。

 これは「下人がなぜ引剥ぎをしたか」という問いであるとともに「作者がなぜ下人に引剥ぎをさせたか」という問題でもある。下人がそうすることが必然であるように、作者がこの小説を書いているのだ。

 それがどのような意図による、どのような論理によるものなのかを明らかにすることが「羅生門」を読解するということだ。

 ひとまずは。


羅生門 2 問いを立てる

 テスト前までの授業で「問いを立てる」練習したことがある。問いを立てることは思考を集中させるためにきわめて有効だ。

 「この文章は何を言っているか?」という問いは、常に有益な問いだ。授業でそういう時間をとらなくても、常に自分で考えなければならない。

 小説の場合、これを「この小説の主題は何か?」などという言い方で表わすのだが、つまりは「何を言っているか」だ。

 「羅生門」が何を言っている小説かは、一読してただちにわかるものではない。わからないから授業で扱うのだ、とも言える。


 だが、このレベルの抽象度の問いに、最初から立ち向かうのは得策ではない。

 まずはもっと具体的なレベルの問いから始めよう。

 といって瑣末な問いではない。「羅生門」を読み解くために最優先されるべき、最重要の問いだ。

 「羅生門」を一読した今、最も大きな謎は何だと感じられているか?

 「羅生門」がひとまず「わかった」と思うためには、何がわかればいいのか?


 課題の回答を見ると、問いの趣旨がつかめず、徒らに捻ったり細部に拘ったりする問いを考えてしまう者もいた。

 「下人はどこに行ったか?」を挙げた者は各クラスにいるが、これは最優先に答えを得るべき問題ではない。答えがありそうだという見込みもない。

 「悪は許されるか?」のように抽象的な問いでは考えるべき焦点が曖昧になる。これは「主題」に踏み込みすぎていて、考えるべき行程が多過ぎる。また「Yes-No」で答えられる問いはあまり有益ではない。どちらかの結論が重要なのではなく、その結論を導く論理が重要だからだ。


 最大にして最優先の問いは明白だ。

 すなわち「なぜ下人は引剥ぎをしたか?」である。

 物語の終わりに、下人は老婆に対して引剥ぎをはたらく。この行為の意味こそが、「羅生門」という小説の「最も大きな謎」である。

 半分くらいの者はこの点を問いとして立てていた。

 ただし表現はいくつものバリエーションがあった。多かったのは「なぜ心が変わったのか?」だ。「変わった」とは何を指すのかを具体的に明確にしよう。

 あるいは「なぜ悪を選んだのか?」「なぜ盗人になることを選んだのか?」などという表現をした者は多かったが、「引剥ぎをする」と「盗人になる」は厳密に同一ではない。引剥ぎをした下人ははたして「盗人になった」のか?

 「盗人になる」には既に解釈が含まれている。下人が最後に行った引剥ぎが「盗人になる」ことを意味すると見なすことには留保がいる。

 さしあたっての共通認識として、小説内事実としての引剥ぎという「行為」の意味を問いとして立てておこう。それを支える下人の「心理」はこの問いに答える過程で考察しよう。


2022年6月9日木曜日

羅生門 1 小説を読む

 これから数時間「羅生門」を読む。


 昨年の秋頃、令和四年度から始まる高等学校「新課程」の教科書のニュースとして、一つの国語教科書が話題に上っていたことがある。(例えば→

 「新課程」では高校1年生の国語が「現代の国語」と「言語文化」に再編された。この中で小説や詩の扱いは「言語文化」に含むというのが文科省の打ち出した方針だった。

 だがある出版社の教科書だけが「現代の国語」に小説を収録し、それが文科省の検定を通り、しかもそれが採択率トップだった。つまり現場の先生方は小説を「現代の国語」で扱いたいと思っているのだ。文科省の方針通りに「言語文化」に小説を収録した他の出版社は怒り、検定を通した文科省を批判した。だが文科省は一度通した検定結果を覆すことはせず、現場には「適切に扱うように」と通達した。


 実際のところ、問題は「羅生門」だ。誰が授業で「羅生門」をやるか。

 一人の教員が同じクラスの「現代の国語」「言語文化」を担当するのなら問題はない(それでも、その評価をどちらの科目に含めるかという問題はある)。だが担当者が分かれている場合、古典を扱う担当者が小説を扱うことになる。建前上は。

 高校の国語では古典の勉強の方が時間がかかる傾向にあるから、小説を扱いたくないと考える教師もいる。あるいは古典で教えるべきことは決まっていてやりやすいが現代文は何をやったらいいかわからないから避けたいと言う国語教師もいる。

 一方で「羅生門」は定番教材だからやり方が決まっていて、誰もがやりたがるとも言える。どの出版社の教科書にも収録されているのはそういうことだ。

 「羅生門」は教員の思惑の微妙なバランスの上にある。


 「羅生門」を読むことは「現代の国語」の目的に適っているか、「言語文化」の目的に適っているか。

 実は学習指導要領の「現代の国語」と「言語文化」の目標は、それほど違ったものではない。それにどちらも必修科目だ。結局は有益な国語の力を養うことが国語という教科の目的なのだ。小説をどちらで扱うかはまったく本質的な問題ではない。

 問題なのは「羅生門」という小説を、ある種の「文学趣味」のような姿勢で「教える」ということだ。
 評価の定まった有名な文学作品を、一般的にすっかり定まった評価と解釈のまま「教える/教わる」ことは、いくらか「文化の継承」に資するかもしれないが、高校生の国語力を高めることにはならない。
 このブログでも最初から言っている。「羅生門」を、こういう作品だと「教える」ことはこの授業の目的ではない。

 ただ、「羅生門」というテクストを素材として、思考し、議論し、表現することが、これからの授業の手段であり、同時に目的だ。


 「羅生門」は特異な作品だ。

 発表されてから100年以上経った今、間違いなく、最も多くの日本人が読んだことのある小説だと言っていい。

 それは人気作だということではない。「鬼滅の刃」が、「進撃の巨人」が、「ドラゴンボール」「名探偵コナン」がいかに多くの読者を得ているとしても、読んだことのない日本人も多い。

 だが「羅生門」を読んだことのある日本人は、16歳から70台くらいまでの日本人の8割くらいにはなるはずだ。みんなのお父さんお母さんも、日本の高校を出ていれば間違いなく読んでいる。こんな小説は他にはない。

 それは「羅生門」が全ての出版社の国語教科書に収録されているからだ。そして高校の進学率が長らく9割の後半を推移している以上、それら日本の高校生を経験した大人のほとんどが「羅生門」を読んでいることになる(どれほど真面目に読んだかはともかく)。

 いわば「羅生門」は日本人の基礎教養、共通常識なのだ。


 みんなも今回晴れてその大多数の日本人の仲間入りをしたことになる。

 だが実は授業はこれから先、みんなをその大多数の日本人とは違う道に導くことになる。

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