2022年6月15日水曜日

羅生門 6 ペリシテ人のモラル

 ところで芥川本人が「羅生門」の主題を「moral of philistine」だとノートに書いた覚え書きがあることが公になったのは比較的最近のことだ。

「羅生門」は私の人生観の一端を具現化しようとした短篇である。(略)ここで私が扱いたかったのは「モラル」である。私の考えでは、「モラル」(少なくとも、“moral of philistine”=「教養のない俗物のモラル」)は時々の情動や気分の産物であって、それもまた時々の状況の産物である。(英文で書かれたメモ「Defence for “Rasho-mon”」を和訳)

 これと「エゴイズム」を主題とする「羅生門」解釈の関係はどうなっているのか?


 「モラル=道徳」と「エゴイズム」は馴染みの良い言葉だ。「生きるための悪は許されるか」というのは確かに「道徳」的な問いに違いない。

 これは「道徳」がどうだと言っているのか。それと「エゴイズム」が主題だと考えることは一致するのかしないのか。

 ひとまずはこう考えられる。通常「道徳」と「エゴイズム」の方向性は反対だ。「生きるためのエゴイズム」が描かれているということは、「道徳」が否定される状況だということなのだ。

 ところでこれは一体何のことを言っているのか?

 「道徳」とは具体的には「羅生門」の中の何を指しているか?

 この問いに適切な答えが提出されるまでに妙に手間がかかったのは、頭からの論理の辿り方のせいで、みんなが「引剥ぎ」と「道徳」を結びつけようとしていたせいだろう。

 冷静に考えれば、物語冒頭で下人が盗人になることを躊躇うことを指していると考えるのが素直な解釈だ。悪を為さないことで飢え死にの可能性があることを承知で迷っているのは「モラル」があるからだ。そしてその延長として、死人の髪の毛を抜く老婆を憎悪する心理がある。

 なぜそうした「モラル」を芥川は否定するのか?

 ところで芥川が書いた「philistine=ペリシテ人」は「俗物、実利主義者、教養のない人」を指す慣用表現だ。

 「俗物の道徳」とは何のことか?


 「俗物の道徳」は「時々の情動や気分の産物」だと芥川は言う。

 だからコロコロと変化する。生きるためには仕方がないという「老婆の論理=実利」を得たとたんにあっさりと「意識の外に追い出され」てしまうほど脆弱、浮薄なものだ。

 「ペリシテ人のモラル」が主題であるとは、そのような芥川の道徳観を表わしているのだ、と理解することができる。

 ひとまずは。


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