2024年5月14日火曜日

場所と経験 4 「その二つ」1

  さて、「場所と経験」には、「部分」の解釈に面白い箇所がある。三段落の中頃の次の一節。

私は東京で計六回引っ越したが、どの土地も住んだ家の周囲数百メートルにしかなじみがない。それより先はよくわからないのだ。むろん地図を見ればわかるし、頭ではわかっている。だが、その二つはすこしも実質的に結びつかない。歩いたことがなければ、場所を実質的に感じることはできないのである。

 この中の「その二つ」とは何と何を指しているか?


 こういう時には頭の中で考えるだけでなく、必ず答を書かなければならない。

 そうしてつきあわせてみると、周囲の人の答は一致していないはずだ。 

 単純な指示内容を問うているだけなのに、ここは複数の解釈ができるのだ。

 だが曖昧に考えたまま話し合いに入って主張の強い人の意見を聞くと、最初からそう考えていたかのように記憶を修正してしまうことが起こるかもしれないのだ。

 皆はそれぞれ、どう答えをまとめただろうか?


 黒板に円を描く。「住んだ家の周囲数百メートル」の円だ。

 「その二つ」とは、円の「内と外」か? 「外と外」か?


 全クラスを通してみると、この二つの解釈を支持する人は、ほとんど半々だ。「いずれでもない」という人もいるだろうか?


 こういうわかりやすい対立点があると授業が盛り上がって面白い。

 解釈の妥当性の根拠を巡って議論を繰り広げてほしいのだが、その前に、まずはそれぞれ、互いの解釈がそれなりに成立することを納得してほしい。

 そして振り返ってほしい。自分が考えたどちらかの解釈は、そうでない解釈との比較検討の上で選んだものではないはずだ。それぞれ自然に、ある一つの解釈が脳内に成立して、それで納得していたのだ。

 我々は通常、他者の存在がなければ、それとは違った解釈が可能であることなど想像しない。

 授業者もまた、かつて授業でこの問いを発したときには、ある解釈をしていて、そうでない解釈をする生徒の答えを最初は一蹴していたのだ。ところがそうした答えが別のクラスでも相次いで提出されることで改めて考えてみて、初めてその解釈もにわかには否定できないことに気付いたのだった。

 授業という場でなければ、こうしたことが起こっていることに気づくことはなかった。

 他人と互いの考えを交換することで初めてこうした解釈の違いが表面化したのだ。


 文脈の中で「その二つ」と指示される対象は、「内と外」「外と外」どちらの解釈の可能性も排除できない。自分はなぜ「自然と」そのどちらかの解釈をして、なんら違和感を感ずることもなかったのか? 相手はなぜ違った解釈にたどりついたのか? 自分の解釈の妥当性を主張し、それ以外の解釈にはどんな不整合があるのかを、相手にどう説得したらいいのか?


 議論を進めると問題点がわかってくる。

 問題の一節

私は東京で計六回引っ越したが、どの土地も①住んだ家の周囲数百メートルにしかなじみがない。②それより先はよくわからないのだ。むろん③地図を見ればわかるし、頭ではわかっている。だが、その二つはすこしも実質的に結びつかない。歩いたことがなければ、場所を実質的に感じることはできないのである。

において、「その」といって指し示せる候補が文脈上、下線を付した①②③の三箇所ある(それより遠くなってしまうと「その」という指示が曖昧になってしまう。だからちょっと遠い「幻想的」と「感性的」といった目立つ対比を指していると考えることはできない)。

 ①②を指しているのだと捉え、③をいわば括弧に括っておくのが「内と外」という解釈だ。一方「その」に近い②③を指していると捉えるのが「外と外」という解釈だ。

 どちらの解釈も、文脈上は成立する。


 それぞれの指示内容に応じて「実質的に結びつかない」のニュアンスが変わる。

「内と外」では「繋がらない・連続しない」といったニュアンス。

「外と外」では「重ならない・一致しない」といったニュアンス。

 後に続く文脈はどうなっているか?

 続く「歩いたことがなければ、場所を実質的に感じることはできないのである」は②が「よくわからない」と言っていることを受けた説明だ。したがって①②の組合わせでも②③の組合わせでも、後に続く文脈は成立する。


 これ以外にも考えられないわけではない。指示していると見なせる候補が三つあるのだから、組合わせは3通りだ。

 残る組合わせは①③だ。つまり①「なじんでいる円の内側」と③「地図でわかっている円の外側」が「結びつかない」というのだ。

 ①③の組合わせでは「歩いたことがなければ」③の「わかる」が①の「なじんでいる」にはならない、と言っていることになる。

「内と外」

 すると「結びつかない」は、③が①に転換しない、とでもいったニュアンスか。


 ABC、それぞれに可能な解釈ではある。

 果たしてどう考えるのが妥当なのか? 柄谷行人は何と何を指して「その二つ」が「結びつかない」と言っているのか?


 かつてこの文章を収録していた二社の教科書の解説書は、それぞれ次のように説明している。

  1. 住んだ家の周囲数百メートル以内の感性的になじみがある場所と、それより先の地図では理解できるが、よくわからない場所。
  2. 家の周囲数百メートルから先の「感性的」に「よくわからない」空間と、地図上で理解した知識(地図を見て頭で理解している地理)。

 1は「内と外」、2は「外と外」だ。


 なんと、それなりに文章が読めるはずの人たちが、違った説明をしているのだ。

 こういうことは、大学入試の選択問題でさえ起こる。出版社・予備校によって、提示される正解が分かれる。


 さて、どう考えたらいいか?


場所と経験3 -「幻想的」とは何か

 三項対立となる対比図を画いた。

 これで文中の論理構造は一望できたが、だからといってこの文章の主旨が「わかる」というためには、もう一歩踏み込んだ考察が必要だ。

 この文章のわかりにくさは、まず対比のラベルとした「感性/幻想/均質」がどのような対立要素を持っているかが、語義的にはまるでわからないことによる。

 例えば「生きた他者」と「理念」、「見たものだけを見たということ」と「意味づけ」を並べて、その対立要素を考えようとしても、なんだか捉えどころがない。だからこそ、そもそも文中から抽出することが難しかったのだ。

 対比する項目同士は、必ず対比を可能にしている共通の土俵と、対比軸を構成する対立要素(「差異」といってもいい)をもっている。


 例えば「感性」の「実質的」「リアリティ・切実感」と「均質」の「擬似的」「抽象的」と並べれば、「感性」と「均質」の対立要素は明らかに感じ取れる。これは語義的な対立がわかりやすい。

 また「幻想的」は、「感性的」の属性である「実質的」の対比で、「実質的ではない・実体がない」などということだと捉えればいいように思える。

 では「実質的/擬似的」と「実質的/幻想的」という対比はどのように違うか?


 「幻想的」と「擬似的」という言葉のもつ対立要素はわからない。

 この文章での最終的な議論は「感性的/均質な」の対立軸を巡って展開されるので「幻想的」にそれほど踏み込む必要はないのだが、実は高校生にとって最も厄介なのは「幻想的」の概念の理解のはずだ。

 「幻想的」とはどういうことか?


 「幻想」という言葉はわかる。耳慣れない言葉ではなく、難解でもない。

 だがさらに、「均質」の「擬似的」とも対立要素をもつ領域として「幻想的」を捉えるには、単に「幻想」という語義からの解釈では不十分なのだ。

 実はここにはある「常識」の決定的な欠落がある。そればいわば時代的なものだ。この文章が書かれた時には、読者にとって常識であり、それがいまや「知る人ぞ知る」になってしまったのだ。

 それが「幻想的」という言葉の意味を高校生が捉え損ねる重要な原因なのだ。


 「場所と経験」が雑誌に掲載された昭和47(1972)年の読者にとって「幻想」という言葉は、「共同の幻覚」の柳田国男などよりよほど自明なものとして、「共同幻想」という言葉を想起させたはずだ。それは完全に当時の言論界にとっての「常識」だった。

 「共同幻想」は1968年に刊行された吉本隆明の『共同幻想論』の流行に伴って完全に人口に膾炙した言葉だった。当時の言論人も大学生も、当たり前のように「それって『共同幻想』だからさあ」などと言っていたのだ(たぶん。80年代に青春を送った授業者には実体験ではないが、当時の文章にはまだ頻出していた)。

 つまり「幻想的」という概念の理解にとって重要なのは、「幻想」という語の含意する「実際には存在しない」などという意味合いとともに、それが共同体の成員に共有されたものである、という点だ。「幻想的」とは、実体はないが皆が信じている、という意味なのだ。

 とすると「幻想的/感性的」の対比を成立させる対立要素は何か?

 「幻想的」が「共同体の成員に共有されたものだ」という意味だとすると、対比軸を挟んで、「感性的」にどういう意味を見出すべきか?


 勘の良い人はすぐにピンとくる。「個人的な」という意味だ。

 ではそうした対立要素に、「均質な」の対比項目から何を置くべきか?


 「幻想」の「共同体・国家」という例から連想されるのは「国際的」だ。

 だがこの「国際的」も、何やら含みのある言葉らしいという感触を察知すべきだ。

 それに続く文脈から判断するとこの「国際的」は否定的なニュアンスを担っているらしいのだ。

 結局、「幻想的/感性的/均質な」という対比は






 という対立要素としてだけでなく、






とでも表現すべき対立としても捉える必要があるということになる。


 捉えにくい(しかも捉え損ねていることが意識されにくい)「幻想的」という語の意味合いを考察することで、三項がどのような対立要素を含んだ対比なのかが明らかになってきた。

 この「幻想的」という概念は先述の通り「場所と経験」の主旨からすると比較的重要ではないのだが、「社会と個人」をテーマとする文章などと読み比べるときなどにはきわめて重要な概念だ。

 例えばもしかしたら公共の授業でも紹介される「想像の共同体」などという概念にも通ずるものとして、「幻想的」の意味合いも捉えておきたい。


場所と経験2 -対立図

 対比として挙げるべき語句は、文中の重要と思われる語句、いわゆるキーワードとは限らない。ここを誤解してはいけない。

 例えば「人間」や「経験」などの語句が気になる。これらはいずれもこの文章を語る上で最重要のキーワードだが、そのままただちにどこかの領域に配置されるわけではない。これらは決定的に重要なキーワードである「場所=空間」が「幻想的」「感性的」「均質な」それぞれの形容を冠してどの分野にも属してしまうのと同じように、それ自体はニュートラルな語だといっていい。

 すなわち「人間」に対して「感性的」に直面することもできる一方で「均質な」空間にいるものとして捉えることもできるし、「感性的な空間」における「経験」もあるし、「幻想的な空間」における「経験」もあるのだ。それぞれの例を文中から指摘することが可能だ。


 あるいは「知識」も目を引く。

 だがこれも「真に『知識』を持つこと」という形で「感性的」に配置できるものの、それは「擬似的な『知識』=もっともらしさ」との対比において初めて意味をもつものであるに過ぎない。つまり「知識」そのものをとりあげるよりも、それを「真」たらしめる条件の方が重要なのだ。

 ここでも、対比的なのは名詞ではなく「真の/もっともらしい」という形容だ。


 これは「無常ということ」の「歴史」も同じだ。歴史はその捉え方で様相を変えるから、対比的なのは歴史の方ではなく向き合い方のなのだ。

 ただ、その主張を述べることで、筆者は「歴史」や「知識」を対比のどちら側にあるものと見做しているのだ、と言うことは可能ではある。


 さて、文中にマークした語句を、Y字で区切られた領域にそれぞれ配置していく。これができれば、この文章の全体の構造が一望できる。









 さて、上記「人間」「経験」「知識」が文中に登場するのは終わりの三段落だ。この部分の読解は、前半ほど容易ではない。

 まず、この三段落が同じ論理展開の反復になっていることに気づくだろうか?

 こうした把握には、段落を一掴みにする感覚が必要だ。一掴みにした感触が、次の段落、その次の段落とよく似ている。

 これができたら、三つの段落が相互に参照可能になる。

 「我々は多くのことを知らされ~」の段落では「均質」と「感性」の対比であることが見て取れる。とりあえずそのままその二つの語が文中に登場しているからだ。

 この対比を「私は『人間』について~」の段落にあてはめると、「理念」が「均質」に、「生きた他者」が「感性」に属することで対比を成すことになる。

 こうした読解は、前の段落の「均質/感性」という対比が明確に意識されていないと難しい。「生きた他者」も「理念」も、この言葉自体の意味合いが「均質」や「感性」といった言葉と結びつく妥当性はない。文脈の対比構造から「生きた他者」と「理念」がそれぞれ「感性」と「均質」に配置されることがわかるのだ。

 同じように「我々は日々多くのことを経験しているが~」の段落では「意味づけ」が「均質」に、「視たものだけを視たということ」が「感性」に属する。これも、三つの段落の論理展開が同じであると見なすからこそ可能な読解だ。


2024年5月9日木曜日

場所と経験1 -対比構造

 「無常ということ」はまだまるきり霧の中にあるが、これを脱するにはスキーマが必要となる。そしてスキーマは基本的に外側にある。

 それこそが次に読む、柄谷行人の「場所と経験」だ。


 戦前戦後を通じて小林秀雄が思想界に対して強い影響力をもっていたように、1980年代における柄谷行人はカリスマだった。後に東大総長となる蓮実重彦とともに、何か「別格」的な扱いだった。

 蓮実重彦の名を覚えているだろうか?

 昨年度、最初に読んだ「思考の誕生」の筆者だ。これでカリスマ3人の文章を読むことになる(もう一人のカリスマは60~70年代の吉本隆明で、彼についてもこの後で触れる機会がある)。


 柄谷の文章は、文章の外部に対する参照事項が多く、同時に小林秀雄の文章に通ずるわからなさがあって、高校の教科書には載りにくいし、大学入試にも出題されにくい。正解・不正解が言えないからだ。ただ、全体として「何だかこの人はすごいことを言っている」感と時々「わかった」と思えたときの達成感がカリスマ性の源泉だった。

 「場所と経験」は文章の外部に対する参照事項が比較的少なく、短く完結した、高校生にも読めなくはない、と感じられる文章であり、柄谷にしては数少ない、教科書に収録された文章だ。

 だが同時に、議論が抽象的に過ぎて結局のところ何が言いたいのかはわかりにくい文章でもある。

 この言い方は正確ではない。「わかりにくい」と感じていたわけではない。ただ、振り返れば「それがどうした」という感じでもあったのだ。「わかった」という感じがおとずれた後になってみると。

 その感じは、「無常ということ」が「わかった」と感じたのと同時だった。

 つまり二つの文章は、互いに相手を、それぞれを理解させるための「枠組み」=スキーマだったのだ。

 それは同時にまた、よりも大きな「枠組み」として、それ以外の文章を理解することに有効な「枠組み」でもある。


 「場所と経験」をスキーマとして使うと言っても、やはりまず構造化が必要だ。スキーマ=枠組みとはそもそも構造のことだ。骨組みを捉えておくことで、スキーマとして有効に働く。


 論の構造を掴むためには対比をとるのが定番の戦略。

 いつものように、対比を構成する「具体例・比喩」「形容」「抽象語・概念語」をマークしていく。いくつか文中に挙がったら「ラベル」としてどの言葉がいいかを共有する。

 この「ラベル」をどうするのかがいささか問題ではあった。

 「無常ということ」が読みにくいのは対比構造が見えにくいことが大きな原因だ。対比要素が対比であることが明白であるように並べられていないし、そもそも考えるための手がかりとしてのラベルが決まらない。

 「『である』ことと『する』こと」ではこれは明白だった。「である/する」がラベルとして使えることは題名から容易につかめる。

 だからといって「場所と経験」は「場所/経験」が対比なわけではない。対比的な要素を挙げる中でそれにふさわしい言葉かフレーズを選ぶのだ。

 さて?


 各クラスで全班に聞いてみたところ、適切なラベルを選べている班は、意外なほど少なかった。読む前からわかっているとは言わないまでも、読んでみれば対比は明白だと思えるのだが。

 文中に明示されている。まず「幻想的な空間/感性的な空間」が対比され、続いて「均質な空間」が「第三の」として対比される。

 つまり、この文章は珍しい三項対立になっているのだ。

 対比は二項対立だという思い込みが適切な語を選ぶことを妨げているのだろうか。








 いつもの直線一本で対比軸を書くのではなく、Y字に三つの領域を区切って、そこに文中の語を配置していく。

 挙げるべき語句は、文中の重要と思われる語句、いわゆるキーワードとは限らない。ここを誤解してはいけない。

 例えば「人間」や「経験」などの語句が気になる。これらはいずれもこの文章を語る上で最重要のキーワードだが、そのままただちにどこかの領域に配置されるわけではない。これらは決定的に重要なキーワードである「場所=空間」が「幻想的」「感性的」「均質な」それぞれの形容を冠してどの分野にも属してしまうのと同じように、それ自体はニュートラルな語だといっていい。

 すなわち「人間」に対して「感性的」に直面することもできる一方で「均質な」空間にいるものとして捉えることもできるし、「感性的な空間」における「経験」もあるし、「幻想的な空間」における「経験」もあるのだ。それぞれの例を文中から指摘することが可能だ。


 あるいは「知識」も目を引く。

 だがこれも「真に『知識』を持つこと」という形で「感性的」に配置できるものの、それは「擬似的な『知識』=もっともらしさ」との対比において初めて意味をもつものであるに過ぎない。つまり「知識」そのものをとりあげるよりも、それを「真」たらしめる条件の方が重要なのだ。

 ここでも、対比的なのは名詞ではなく「真の/もっともらしい」という形容だ。

 これは「無常ということ」の「歴史」も同じだ。歴史はその捉え方で様相を変えるから、対比的なのは歴史の方ではなく向き合い方のなのだ。

 ただ、その主張を述べることで、筆者は「歴史」や「知識」を対比のどちら側にあるものと見做しているのだ、と言うことは可能ではある。


2024年5月8日水曜日

無常ということ 4-対比

 「美学には行き着かない」と決着する第三段落の解釈の結論はまだ出さない。「部分」の解釈は「全体」の解釈と相補的だ。「無常ということ」全体の解釈へ歩を進めよう。


 「無常ということ」はそこらじゅうが「わからない」文章だ。それをいささかなりと「わかる」に変えるためには外部的な「枠組み・型」=スキーマへのあてはめが必要だ。

 だがそのためにも、まずは文章内の論理の整理整頓をしておく。そのために有効な手段は、言うまでもなく「対比」をとることだ。

 だが、いわゆる「論文」の体をなしていないこうした随筆から、明確な対比構造を抽出するのは容易ではない。その困難は「『である』ことと『する』こと」の比ではない。

 これは、この文章が、文中に明示されている対比をラベルとして設定し、そこにそれ以外の要素をはめこんでいく、というような手順はとれないからだ。

 それでも、人間の思考が何事かの輪郭をそれ以外のものとの差異線に沿って描くことでしか成立しない以上、明示的であれ暗示的であれ、対比構造のない思考はない。

 ここでも粘り強く、文中の対比を捉えてみよう。


 文中の対比は、語義的な解釈で対比であることが判断できることもある。

 例えば「生きている人間/死んだ人間」は明らかに対比的だ。

 また「無常/常なるもの」も語義的な対立から対比として抽出できる。

 それだけではなく、文脈の論理から、対比項目であることを判断できる(しなければならない)こともある。

 例えば「一種の動物」は「生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな」という一節からすると、上の対比の右辺に配置される。

 一方、「この世は無常とは決して仏説というようなものではあるまい。それはいついかなる時代でも、人間のおかれる一種の動物的状態である。」という一節からすると、「動物」側に「無常」がこなければならない。

 したがって、何気なく挙げた上記二つの対比は、次のように整列されなければならない。

生きている人間/死んだ人間

  一種の動物/

     無常/常なるもの


 ここにはさらにいくつかの対照的な形容が付されている。

       /動じない・動かしがたい

     脆弱/はっきりしっかり

 しかたがない/のっぴきならぬ

鑑賞に堪えない/美しい

 これらの形容は、はっきりと筆者の姿勢・評価を示している。この文章の主張を探る上で重要な形容だ。


 さて授業では、対比を抽出するにあたって、二つの系列の対比がある、と言った。この二つの系列はもちろん関連しているが、最初から同じ対比軸上に並べていいわけでもない。

 比較的皆が見つけるもう一つの系列の対比として、挙がりやすかったのは次の組合わせだ。

思想/歴史

解釈/歴史

 これらは次の一節からの抽出だ。

そういう思想は、一見魅力あるさまざまな手管めいたものを備えて、ぼくを襲ったから。一方歴史というものは、見れば見るほど動かしがたい形と映ってくるばかりであった。新しい解釈なぞでびくともするものではない

 「歴史」がこのように対比的に読めるのはわからないでもない。

 だが「解釈」は「解釈する」という動詞になる、つまり行為だが、「歴史」はその対象となる観念だ。これを対比として並べるのは不全感がある。

 したがって「歴史」を現段階で対比のどちらかに置くのは控える。

 ではもう一つの系列の対比とは?


 比較的挙げられていたのは次の対比。

記憶する/思い出す

 これは文脈上は対立であることが容易に見てとれる。ただし語義的には共通性が意識されやすく、対立要素がないから、どういう対比なのかはにわかには腑に落ちない。考察する必要がある。

 この対比にはそれぞれに対応する具体例が挙げられる。

 文末から挙げられるのは次の対比。

現代人/なま女房

 そして「記憶する」のは「多くの歴史家」だ。この「具体例」には対応する例が文中から指摘できる。「鷗外・宣長」である。

多くの歴史家/鷗外・宣長

 この対比が取り出せた人は広い視野と強い論理把握力がある。


 鷗外も宣長も「歴史の解釈」をしなかった人たちだ。したがって、対比の左辺に「解釈する」が配置されることになる。

 すると「思い出す」に対して「記憶する」と「解釈する」が並列的に対比されることになってしまう。

  記憶する=解釈する?


 これを納得するためにはどう「解釈」したらいいのだろうか?

 これが「無常ということ」を読解する一番のポイントだ。


 さて、「解釈」が配置されたことで先ほどの「歴史」をどう考えるか?

 つまり次のような対比になっているのだ。

歴史を解釈する/歴史を思い出す

 つまり「歴史」は、さしあたってそれをどう捉えるかという問題意識の対象となっていると考えられる。

 「歴史」それ自体はニュートラルな語句として、対比軸の一方にのみ属するのではなく、それを軸のどちらかに置く条件や形容が対比的なのだと考えよう。

 もちろん、こうした対比図が完成した後では、「歴史」を、その本質において右辺に属するものとして小林が捉えているのだと考えてもいい。六段落における「歴史」などはほとんどそうした意味で使われている。そこだけを見ると確かに「歴史」を右辺に属するものとして主張したくなる。


 次の一節は明らかな「ではなく」型の対比を示しているにもかかわらず、どのクラスでも挙がらなかった。

思い出となれば、みんな美しく見えるとよく言うが、その意味をみんながまちがえている。僕らが過去を飾りがちなのではない。過去のほうで僕らに余計な思いをさせないだけなのである。

 ここが挙がらないのは、「ではない」の前後が揃っていないからだ。対比させるには、両辺を揃えなくてはならない。「歴史/解釈」を、そのままでは対比に取り上げられないのも、概念の位相が揃っていないからだった。

 上の一節では「ではない」の前後で、主語と目的語が入れ替わっている。これをどちらかに統一して、その述語をとりだしてみる。

 主語は「僕ら」と「過去」とどちらがいいか?

 これは、全体の対比の構図を参照すればいい。「記憶する・解釈する/思い出す」の系統だ。つまり「僕ら」を主語にするのがいい。

 それでも単に受身形にして「飾りがちなのではない/余計な思いをさせられない」と並べれば良いというわけではない。まだどのように「対立」しているかがわからない。

 「対立」型の対比は、一方の項に「ではなく」が付加されることが前提されている。「解釈する〈のではなく〉思い出す」のように。

 さらに「余計なこと」の連想で次の一節が思い浮かべば、それを言い換えに使おう。

余計なことは何一つ考えなかったのである。

 ここまで考えれば、上記の対比的一節から「飾る/余計なことを考えない(=飾らない)」の対比が抽出できる。

 こうしてみると、これも「解釈する/思い出す」の言い換えのバリエーションであることがわかる。


 さて、二つの系統の対比が文中から抽出できた。

 ではこれらの二つの系統の対比はどういう関係になっているか?


 左右は意識して揃うように並べてあるが、といって一つの対立軸だとは言えない。それぞれ別の系統だと感じられる。

 しばらく考えていると、これらの関係がわかってくる。後者が前者に対する姿勢・スタンスを表わしていて、前者はその対象の捉えられ方の違いを表わしているのである。


 そしてその接点に「歴史」がある。


無常ということ 3-美学には行き着かない 2

①子どもらしい疑問

②そういう美学の萌芽とも呼ぶべき状態

③ぼくは決して美学には行きつかない

 それぞれに拮抗する二つの解釈とは次のようなものだ。


問①「子どもらしい疑問」とは?

 A 「純粋で無垢な疑問」という肯定的ニュアンス

 B 「幼稚でとるに足りない下らない疑問」という否定的ニュアンス


 問①「子どもらしい疑問」ではまず「こんな」と指示されている部分がどこなのかも問題になるが、これはまあ前の4行全体を指していると考えればいい。

 その上で筆者を「途方もない迷路」に「押しや」る「子どもらしい疑問」がA肯定的と考える根拠は「押されるままに別段反抗しない」からだ。

 だがそうして押しやられる先は「迷路」だ。これが否定的な比喩であるとすれば、そこに自分を押しやる疑問も悪いものに違いない。とすればB否定的だ。

 つまりAであることもBであることも、それなりに妥当性の根拠は挙がる。

 となれば、後に続く論理をどう構築できるかという問題だ。


問②「そういう美学の萌芽とも呼ぶべき状態」とは次のどちらを指しているか?

 C 美しさをつかむに適したこちらの心身のある状態

 D 「子どもらしい疑問」によって迷路に押しやられている状態


 ②「そういう~状態」では、「そういう」という指示語が、直近の文脈を受けていると考えるのはごく自然な読解作法だから、まずはDの解釈が発想されるはずだ。

 Cの解釈は、もう少し文脈を広く把握しようとしたときに「状態」という語の共通性から発想される解釈の可能性だ。

 ここでも既に両説の妥当性の根拠が挙がる。

 となればどちらが「美学の萌芽」と呼ぶべき状態なのかを論理づける解釈が必要だということになる。

 ある解説書では「美学の萌芽」を次のように説明している。

自分の美的経験に関する素朴な疑問と考察は、哲学的体系との整合性に配慮しつつ論理化された学問としての美学ではないが、美学とその出発点は同じくしているということ。

 何を言っているかよくわからない。「素朴な疑問と考察は」とあるのは、Dと解釈しているということだろうか。

 「ぼくは(迷路に)押されるままに、別段反抗はしない。」ことの理由として「美学の萌芽」に「疑わしい性質を見つけ出すことができない」と述べられているわけだが、Cに「見つけ出すことができない」のと、Dに「見つけ出すことができない」では、どちらが「反抗しない」ことの理由として納得できる論理を形成するか?


 ③はこうだ。

 問③ 末尾「だが、ぼくは決して美学には行きつかない」とは次のどちらのニュアンスに近いか。

 E 美学に行きつくつもりはない

 F 美学には(行きつきたいけれど)行きつけない


 これら三カ所は、問うてみると、必ずみんなの中で見解が分かれる選択肢だ。その組み合わせを考えると、単純には2の3乗で8通りだ。教室の雰囲気が付和雷同に流れなければ、本当に皆の立場は8通りに分かれる。

 そしてそれぞれが納得のできないわけではない、といった解釈を成立させる。


無常ということ 2-美学には行き着かない 1

 「わからない」という印象の殊に強い「無常ということ」を読むためには、適切なスキーマの導入が必要なのだが、それを後回しにして、まずは「部分」の解釈に入る。


 本文第三段落後半は、全体として「わからない」この文章中でも、最もモヤモヤが集中する部分だ。

あれほど自分を動かした美しさはどこに消えてしまったのか。消えたのではなく現に目の前にあるのかもしれぬ。それをつかむに適したこちらの心身のある状態だけが消え去って、取り戻す術を自分は知らないのかもしれない。こんな質を見つけ出すことができないからである。だが、僕は決して美学には行きつかない。子どもらしい疑問が、すでに僕を途方もない迷路に押しやる。僕は押されるままに、別段反抗はしない。そういう美学の萌芽とも呼ぶべき状態に、少しも疑わしい性質を見つけ出すことができないからである。だが、僕は決して美学には行き着かない。

 この部分には「子供らしい疑問」「途方もない迷路」「美学の萌芽」あるいは、なぜ「少しも疑わしい性質を見つけ出すことができない」のか、なぜ「できない」ことが「別段反抗はしない」の理由になるのか、といった数々の疑問が浮かぶ。

 ここに感ずるモヤモヤを晴らすべく、みんなで頭を使ってみる(だが先回りして言ってしまうと、実は唯一の「正解」のようなものを提示するつもりはない。それでも構わない。真摯な考察と議論こそが目的だからだ)。


 問題点を抽出し、分析し、妥当性を検討する考察にはいくら時間があっても足りない。

 時間のある限り、ひたすら議論を続けてもいいのかもしれないが、この部分を解釈の俎上に載せるにあたっては、ある期待から予め注意を促しておいた。

 話し合うときには、自分の解釈と相手の解釈が同じであるかどうかを慎重に判断せよ、と。

 実はこの部分は人によって解釈に違いが生じている。潜在的に。

 だが、お互いに考えが曖昧なまま話し合っているうちに、最初からそうだったかのように相手と解釈が一致してしまう。違った解釈の可能性が見失われてしまう。

 この解釈の違いが、話し合いの中で明らかになっていった班も、少ないながらもあった。有効に議論が機能している。


 解釈がはっきりと分かれるのは、これまで何代もの高校3年生と考えてきた経験からすると、次の3カ所。

①子どもらしい疑問

②そういう美学の萌芽とも呼ぶべき状態

③ぼくは決して美学には行きつかない

 重要なことは、これら一つ一つの問題箇所を個別に説明しようとする問いは有効ではないということだ。例えば「美学の萌芽」とはどういうことか? といった形で問いを立てても、結局決着点が曖昧だから思考を集中しにくい。

 「どういうこと?」という問いは基本的に「正解」をもたない。説明という行為自体が本来、問う側と答える側のコミュニケーションでしかないからだ。

 だからここではむしろ排他的な選択肢のある問いの形が思考を活性化させる。答えがどちらであるかが重要なのではない。結論に向けて目も耳も口も頭も総動員する、その行為自体が国語科学習なのだ。

 そしてその選択肢のどちらを選ぶかが、上記の疑問についての考察を押し進める推進力になればいい。


 さて上記の三カ所について、明確な二択になるような解釈を発想できたろうか?

 例えば「そういう美学の萌芽とも呼ぶべき状態」に対して二つの解釈が可能だというと、「そういう」が「美学」に係っているのか「状態」に係っているのか、という二択を発想することはできる。それはどちらも日本語表現としてありうる。

 だがどちらが適切かと考えればすぐに結論は出る。「美学」に係っていると考えるには、「そういう美学」と指示される対象が前の文中から見つけられなければならない。だがそれがなさそうなところを見て取って、「そういう」は「状態」に係っているのだと考えるのだ。

 では、と「そういう」はどこを指示しているかが、二つ以上の解釈の可能性を生む?

 そうなのだ。これは、どことどこが拮抗するくらいの可能性として二択になるか?

 例えば「子どもらしい疑問が、すでに僕を途方もない迷路に押しやる。僕は押されるままに、別段反抗はしない。そういう美学の萌芽とも呼ぶべき状態に…」からすると、a「迷路に押しやられている状態」、b「反抗しない状態」という二択の可能性がある。

 だがこれも、考えてみればすぐにaに決着するはずだ。

 ただしなぜbではないかを説明するのは容易ではない。「別段反抗はしない。そういう美学の萌芽とも呼ぶべき状態に、少しも疑わしい性質を見つけ出すことができないからである。」の「状態」が「反抗しない状態」だとすると、反抗しないのは反抗しない状態が疑わしくないからだ、という論理になり、これではそれ自身がそれの根拠になるという階層の混乱が生ずるからだ、などと言える人は多くはないはず。

 それでもまあどちらか、はわかる。

 ではどのような二択の可能性があるか? 


無常ということ 1-スキーマとゲシュタルト

 思惑としては、3年生の最初の授業では、1年生の時に読んだ鷲田清一「『つながり』と『ぬくもり』」を再読するつもりだった。

 1年の時にはこれを「自立」をテーマとした文章群に並べて、「近代における『個人』の確立」という文脈で読んだのだった。

 それを改めて読み返すのは、今ではこれが「である/する」図式でも読めることを示そうという意図だった。近代は「する」化していく推移だと今ではみんな認識しているはずだ。「『つながり』と『ぬくもり』」をそうした文脈で読むと、どんな主張だと捉えられるだろう。

 さてこれがTeamsの準備不足で、最初の授業でできないクラスがあり、次の予定の小林秀雄「無常ということ」を読み始めてしまったら、もう後戻りして「『つながり』と『ぬくもり』」を1時間挟むのが面倒になってしまった。

 そのうちどこかで再説できれば。


 さて「無常ということ」だ。

 さほど長くはない。といって長い文章の一部というわけではなく、これだけで完結している。

 戦時下の1942年に書かれ、長らく高校教科書に載り続けてきた文章で、授業者もまた高校時代にこれを教科書で読んだ。いわゆる「人口に膾炙(かいしゃ)した」文章だ。


 とりあえず読む。

 だがおそらく、何のことやらわからないと感じるはずだ。

 少なくとも高校生だった当時の授業者はそう感じていたし、後に教壇に立ってこの文章を扱うようになっても、相変わらずよくわからない、と感じ続けていた。今も考えるたびに、こうかも、と思ったり、やはりよくわからない、と思い直したりし続けている。

 2013年のセンター試験の大問1に小林秀雄の文章が出題され、国語の平均点が過去最低になった。あまりに「わからない」文章を出題したことで世間からの批判も多かった。


 そもそも「完全な理解」などありえないのだし、「完全な無理解」もない(とりあえず日本語としては読める)。

 そうはいっても実際に「わかる」とか「わからない」とかいう感覚はある。その手応えを素朴に言えば、やはりこの文章は、高校の教科書などで読む文章としては最も「わからない」と感じる部類の文章に違いない。


 翻って、「わかる」とはどういうことか?

 聞いてみると、自分なりに他人に説明できることだ、などという回答がほとんどのクラスで返ってきた。確かに文章が理解されている状態を証し立てる状態として「他人に説明できる」は一つの指標ではある。

 だがその前に、内省的にしか捉えられない「わかる」という感覚自体は、脳内で何が起こっているということなのか?


 この問いには授業で答を示したことがある。それを想起してほしくてこの問いを投げかけたのだった。

 どのクラスでも、少数の勘の良い人がすぐにその言葉を口にする。

 スキーマゲシュタルトだ。


 認識とは、入ってきた情報をスキーマにあてはめてゲシュタルトを構成することだ。「ダルメシアン犬」というスキーマにあてはめると、インクの染みにしか見えなかった図柄に、突如ダルメシアン犬が見えるようになる。顔スキーマにあてはめると、天井の木目や岩肌に顔が思い浮かびあがる。心霊写真とは、そのように「わかった」者に認識されたゲシュタルトだ。だから「わかる」とは、本人の内省的な感覚だ。

 だから、「わかる」ことは必ずしも「正しい」ことを意味しない。充分であることも意味しない。

 また、それは「わからない」状態に対する相対的な変化によって起こる感覚でしかない。「完全な理解」などない。


 ともあれ我々は、とりあえずは「わかる」ためにテキストを読む。その際、認識構造・枠組み・型(=スキーマ)が豊富に用意されていることと、情報の整理によってその型にはめこむ技術の総合力が、いわゆる読解力だということになる。


 小林秀雄の文章は総じてどれもわかりにくい。これはスキーマが、にわかには見当つかないことと、文章中の情報の整理が困難なことに因る。

 まず文章内の論理が追えない。あちこちに飛躍があって、どうつながっているのか、どういう関係になっているのかが掴めない。

 同時に、それを位置付けるべき枠組みが見当たらない。


 それは当然かもしれない。小林秀雄に言わせれば、既に読者がわかっていることを言っても意味はないのだから、自分が言っていることは読者が初めて出会うような認識なのだ、ということかもしれない。

 さらに言えば、自分がわかっていることすら書いてもしょうがないとまで言いたいかもしれない。書くことによって何事かを「わかる」ことこそ書くことの意味なのだ、と。途中で「何を書くつもりかわかっていない」という正直な吐露は斬新だ。

 だから「わからない」のは当然なのだ。

 だが上にも言ったとおり「完全な理解」がないように「完全な無理解」もない。わかるとかわからないというのは程度問題であり、それはそこにかける思考の時間によって変化する相対的な感覚だ。

 可能な範囲で情報の整理を進め、同時にこの文章が位置付けられるべき枠組みが何なのかを探る。

 この、情報の整理と枠組みへの位置付けは相補的に機能するもので、それはよく言っている「全体」と「部分」の理解が相補的であることと類比的・相似形だ。

 文章内の情報の整理は毎度の「対比」などのテクニックを駆使して行う。

 そして枠組みを充実させるのが、読み比べだ。


 授業者にとって、長らく「わからない」と感じられていた「無常ということ」が、いささかなりと「わかった」と感じられたのは、授業で別の、ある文章を読んでいた時だ。不意に、ここで言っていることは小林が「無常ということ」で言っていることと同じだ、と思ったのだった。そのいわゆる「腑に落ちた」感覚は、鮮烈な体験として記憶されている。

 この感覚がおとずれることを期待して、今年度のはじめに「無常ということ」を読む。

2024年3月4日月曜日

「である」ことと「する」こと 15 -男の絆、女たちの沈黙

 全クラスでは時間がとれず、読まなかったクラスがあったのは残念だが、尹雄大「男の絆、女たちの沈黙」は読み応えのある文章だった。「市民社会化する家族」のように、抽象的な言い回しが続いて、何のことを言っているのかを把握しにくい文章とは違って、具体的な場面が描かれ、語り口も平易で、いわば「とっつきやすい」文章ではあるのだが、結局どういう主張が、どういう論理展開でなされているか、簡単には言えない。

 この文章が描き出している問題を「である/する」図式で捉えることは、さらに一つの課題ではあるのだが、同時に、そう考えてみることが尹が言っていることの感触を明確に掴む一つの方法でもある。単にこの文章が「わかる」という感触を得るための読解でもあり、同時にこの「社会」をどう考えるかという問題群のバリエーションとしてこの文章を読むのだ。


 授業では本文を二段階に分けて読解した。

 まず最初の3分の1ほど、電車内の不快な出来事からの考察。ここでは筆者は、乗り込んできた不埒な男を批判する立場にいる。

 だが3分の1ほど、読み進んだところから潮目が変わる。この問題をめぐる対立のうち、今度は自身が批判される立場になってしまう。

 筆者の立場が逆転するこの論理展開をまず把握しよう。

 前半の問題では、「『である』ことと『する』こと」の社長とタイピストの関係が連想される。とすれはこれは「非近代」的問題を取り上げているのだと言える。

 具体的にどう言えば良いか?

 この不遜な男は、会社における人間関係を、それ以外の人間関係にまで適用している。これはつまり人間関係の「物神化」だ。男は会社内での自分の立ち位置を「身分」のように錯覚しているのだ。

 近代では、社会において人は皆、個人として平等だというのが前提だ。この男はそうした近代的前提を無視している。「する」論理に反している。


 後半の論旨はこれより複雑だ。

 筆者の指摘するこうした現代社会の問題は「非近代」的問題なのか? 「過近代」的問題なのか?


 試みに手を挙げてもらうと、両方に手が挙がる。それは授業者の狙い通りだ。

 どういうことか?

 E組S君の表現を借りるなら、この文章はいわば「過近代的な問題が非近代的に根を張っている」社会の問題を告発している。「過近代」と「非近代」は内包関係にある。しかも相互に。

 どういうことか?


 論理の整理には、毎度「対比」を使うのが常套手段。

 文中からいくつかの対立項目が抽出できるが、ラベルとしてふさわしいのはもちろん題名にも明らかなように「男/女」だ。この軸にそれ以外の対比を並べていく。

 男/女

論理/感覚(感情)

簡潔/複雑

社会/個人

意味/声

 これらの対比が「する/である」の対比なのだという「感じ」をまず掴む。それはどのように説明・論証できるのか?


 「する/である」を言い換える言葉を「『である』ことと『する』こと」から用意しておく。ここでは「する=機能・効率・実用/である=それ自体・かけがえのない個体性」あたりを使うのがいい。

 筆者の言う「(男)社会」は、「意味」だけを「簡潔」に示すような、「機能」的「効率」的な「論理」が通用する「社会」だ。つまり「する」論理だ。

 それに対して女たちの話は「複雑」な「感情」を伝える「声」によって成立する。それはその人「個人」の「かけがえのない個体性」を示すものだ。

 そうした「である」価値が、「(男)社会」の「する」論理の中では否定されてしまう。


 このようにこの対比を把握する時、これは「である」価値を認めるべき領域(女)に、「する」論理(男)が侵入・蔓延しつつある「過近代」的状況を告発しているのだと、ひとまず言える。

 だがそこでいう「論理」=「する」原理は、「男に他ならず、この社会における特権的な立場にある」という「する」論理の「物神化」=「である」化によって保障されている。

 「複雑な事柄をのっぺりと均してしまっていて、その見方を疑いもしない」のは「不断の検証」を怠っているということだ。「そもそも僕らの体験を構成しているあり方を検討しなくてはいけないのではないか?」という筆者の問題提起は、男の論理が「自己目的化」=「である」化していることへの疑問だ。

 「自分の中で慣れ親しんだ、男社会の平均的な感覚に従って考えているだけ」とか「彼女たちは「(男)社会」の既存のやり方に従って話すことを求められる」とかいった硬直化した「思考習慣」こそ悪しき「である」状態=「非近代」的状況だ。


 筆者の提起する問題が「過近代」とも「非近代的」とも見えることは、以上のように故あることだ。切り口によってどちらの断面をも露わにする。

 「である/する」図式はこんなふうに、いくつかの評論文を読解する手がかりでもあり、その問題を「近代」とか「社会」の問題として大きな問題圏の中で捉え直す手がかりにもなるのである。

 折にふれ、思い出して使い回したい。


2024年2月26日月曜日

「である」ことと「する」こと 14 -「過近代」的領域

 「市民社会化する家族」は、単独の文章として読むには、それなりに難しいと感じるかもしれないが、今は「である/する」図式と対照させながら読むという構えができているから、頭の使い方が限定されて、それなりに読むことができるはずだ。


 二つの文章の対応する箇所はさまざまに指摘できる。時間がとれなかったのは残念だが、発表する時間をとれば、多様な対応箇所が挙がる(過去の授業では)。

 例えば冒頭の一文。

ひと昔前までの家族の研究は、封建的家制度近代的家族との比較に重点を置いて、家族面における封建制から近代への移行をポジティブな歴史的成果として評価するものであった。

 「封建制」を「である」、「近代」を「する」と措定すると、この一節は次のように言い換えられる。

ひと昔前までの家族の研究は…家族面における「である」から「する」への移行をポジティブな歴史的成果として評価するものであった。

 「する」化がポジティブに評価されるのは「『市民』のイメージ」に顕著な姿勢だ。つまり家族が「市民」化するのは、かつては肯定的なイメージとして評価されていたのだ。


 そうした肯定的なイメージは、その後どうなったか?

子どもを「市民」として扱うこと、また老人を普通の成人と同列に「市民」として扱うことは、一つの暴力である。

 ここでは「家族」を「する」論理で扱うことを「暴力」と否定的に表現している。

 成人は会社で働いたり選挙で投票したりする。そこでは「する」論理による行動が求められる。

 だが家族における「子供・老人」を「市民」=「する」論理で扱ってはならない。「機能・実用の基準・効果・能率」で子供や老人の価値を量るのは、確かに「暴力」だ。この子は何の役に立つのか? などと言わず、その子には「それ自体」の「かけがえのない個体性」があることを認めるべきなのだ。老人には、緩やかな「休止」の時間が流れていて、そこにある豊かな「蓄積」に敬意を払うべきなのだ。


 「する」論理が否定的に語られ、「である」価値の重要性が述べられるということは、「市民社会化する家族」は丸山真男の後半の主張に重なってくるということだ。

 この文章の主題は題名に明らかなように「家族」だ。

 つまり「家族」は、丸山が挙げる学問・芸術、あるい閑暇や教養とともに、「である」価値を認めるべき領域ということになる。


 とするとこの文章は丸山の言う「過近代」的な問題を論じているということになる。

 「近代」はどのように語られているか。

近代を最もよく特徴づける制度は、合理的な経済制度である。

 「合理的な経済制度」とは言うまでもなく「する」論理だ。

 さらに、

近代を理解するかぎが市民社会の中にあるとしばしばいわれたのは正しい。それは(略)経済的市民社会が作り出し、分泌する「精神」や「行動様式」が社会制度の隅々まで浸透していくことを意味するのである。

 「市民社会」とは「する」論理が「社会制度の隅々まで浸透してい」った社会だ。

 そこでは「かつての共同体のメンバーがバラバラにアトム(原子)化」する。

 毎度おなじみの「近代における〈個人〉の確立」!

 そうした「する」化がポジティブに語られる「『市民』のイメージ」と違い、「市民社会化する家族」では次のように語られる。

私たちは、現在、(略)「保守的な」観点から、現代の「社会化」を批判する態度を確立しなくてはならない。

 「保守的」は丸山も言う通り「である」推しの姿勢だ。ここから現代の「社会化」=「する」化を批判すべきだというのだから、これはまさに丸山真男の後半の主張と重なる。

 以上のような「『市民』のイメージ」と「市民社会化する家族」の論旨を、「『である』ことと『する』こと」の図式にあてはめるとどうなるか?









 

 このように、「である/する」図式は、「近代」に関わる問題について把握する手がかりになる。

 汎用性があるのだ。

 同時に、「問題」について考えるというだけでなく、国語的に言えば、評論の読解の手がかりにもなるということだ。

 多くの評論は「近代」批判の姿勢であることが多いので、基本的には「過近代」的問題を論じているということになる(「『市民』のイメージ」は「近代」礼讃の論だったが、これはむしろ珍しい)。

「である」ことと「する」こと 13 -「市民」=「する」論理

 「『市民』のイメージ」は、アメリカの陪審員制度を通して、「市民」という概念について考察している。

 ここでは「『市民』ってまさしく『する』価値・論理を体現している概念だなあ」と思えることが必要だ。

 その感触をもとに、その当否を具体的に跡付ける。「『である』ことと『する』こと」には「市民」は言及されていないのに、なぜ「『市民』のイメージ」が「する」推しだと感じられるのか?


 論証のためにはどう考えればいいのか。

 「『市民』のイメージ」における「市民」という概念と、「『である』ことと『する』こと」における「する」論理を表わす一節をそれぞれ引用し、比較して同じであることを示せばいい。

 例えば「市民」の好例たる陪審員とはどのような存在か?

 「市民たちから無作為に呼び出される」陪審員には「男性、女性、老人、青年、白人、黒人、ネイティブ・アメリカン、アジア系の人たちもいる」。つまり性別や年齢や人種といった「先天的」な要素=「である」論理から切り離されたところに「市民」は存在する。

 そこで「市民」は何を「する」か?


 例えば次の一節を比べてみる。

・「市民」のイメージ

政府権力や大企業の管理・宣伝のままに付和雷同するのではなく、自分の意見をもって自分たちの生活を作り守る、あるいは狭い血縁地縁の利害と興味を超えて広い社会に関心をもつ――というようなイメージを「市民」という言葉は孕んでいる

・「『である』ことと『する』こと」

民主主義というものは、人民が本来制度の自己目的化――物神化――を不断に警戒し、制度の現実の働き方を絶えず監視し批判する姿勢によって、初めて生きたものとなりうる

政治・経済・文化などいろいろな領域で「先天的」に通用していた権威に対して、現実的な機能と効用を「問う」

 「政府権力や大企業の管理・宣伝のままに付和雷同する」ことは「政治・経済・文化などいろいろな領域で『先天的』に通用していた権威」に素直に従うことを意味している。つまり「である」論理に「安住する」こと、すなわち「制度の物神化」だ。

 それに対して「自分の意見をもって自分たちの生活を作り守る」は「制度の現実の働き方を絶えず監視し批判する」こと、つまり「現実的な機能と効用を不断に『問う』」=「する」ことだ。

 「市民」は「する」ものなのだ。


 またC組M君の提起した問題も面白かった。

「市民」という言い方、特に自称の場合は、きわめて理念的な言葉だ。

 ここがどうして「する」なの? と聞き返したのだが、なるほど、「自称の場合」は「なる」要素が強調される。つまり「先天的」ではなくなるわけだ。

 「他称の場合」と比較すればはっきりする。

 「柏市民」とか「流山市民」とかいう場合はもちろん「先天的」だから「である」だし、行政などから一「市民」として他称される場合は、その「市民」的「属性」を指し示されているだけだから、やはり「である」だ。

 それに比べて「市民」を自称する場合は、上記のような「する」論理・価値を「不断に検証」せざるをえないのだ(もちろんそれでも、それが「自己目的化=である化」する危険はあるが)。


 もう一点、重要な接点を捉えたい。例えば次の一節。

具体的証拠と冷静な論理つまり〝筋が通ること〟によって成り立ち支えられる「市民社会」という、より上位のレベルの現実がある。閉じた地縁血縁共同体の情念の濃密さに比べれば、一見抽象的、虚構的にさえ感じられるかもしれないが、それはより普遍的に開かれた現実であり、人類にとって新しい経験である。

 ここから連想される「『である』ことと『する』こと」の論点は何か?


 「人類にとって新しい経験」からは「近代」という概念を連想したい。

 ただし「『である』ことと『する』こと」に「市民」という言葉が扱われていないように、「『市民』のイメージ」には「近代」が登場しない。

 だが「『である』ことと『する』こと」における「近代」とは、煎じ詰めて言えば〈「である」から「する」への移行〉だ。

 上の一節は完全にそれに対応している。

 「人類にとって新しい経験」=「近代」にいたって人類は、「閉じた地縁血縁共同体の情念の濃密さ」=「である」論理から放たれ、「具体的証拠と冷静な論理」=「する」論理によって作る「市民社会」という「上位のレベルの現実」を手にしたのだ。

 「近代」と言えば?

 昨年から繰り返されてきたのは「個人」の確立だ。古い宗教や集団の論理=「である」論理から切り離されて「近代的個人」が誕生した。

 「市民」とは「近代的個人」の確立によって生まれた存在なのだ。


 まずは「同じようなことを言っている」という感触を掴みたい。

 その上で、それがなぜ、どのように「同じ」なのかを言うために、必要な、しかし意味合いを変えることのない言い換えが必要だ。対応関係をみて、文型を揃え、相互に表現を混ぜながら語り下ろしてみると、二つの論が「同じ」であることが実感されてくる。対比構造を意識して使うのも手だ。


 さて次は「市民社会化する家族」だ。こちらはもうちょっと難易度が高い。


2024年2月19日月曜日

「である」ことと「する」こと 12 -使い回す

 「『である』ことと『する』こと」を読むことの意義は、丸山本人がそう言っているとおり、「である/する」図式を、様々な分野の近代化にともなう問題を考える基準として使い回すことにある。

私たちはこういう二つの図式を想定することによって、そこから具体的な国の政治・経済その他さまざまの社会的領域での「民主化」の実質的な進展の程度とか、制度と思考習慣とのギャップとかいった事柄を測定する一つの基準を得ることができます。

 「である/する」図式は考え方・判断の「基準」になる、と丸山は言う。

 つまり日常的に「それって『である』的だよね~」とか言おう、というわけだ(今までの生徒もそんなふうに言っているのを何度も聞いたことがある。先日もB組Yさんと話していて、『星の王子さま』って「である」価値の大切さがテーマだよね、と納得し合ったのだった)。


 さて、実践のための練習課題として次の2つの文章を読解する。

  • 日野啓三「『市民』のイメージ」
  • 今村仁司「市民社会化する家族」

 これは二つの文章の論旨を「である/する」図式を適用して考えようということだ。それが「さまざまの社会的領域での『民主化』の実質的な進展の程度とか、制度と思考習慣とのギャップとかいった事柄を測定する」ということだ。


 三つを一度に視野に収めるために必要な高さまで視点を持っていって、全体を俯瞰する。一つ一つの文章はその分、圧縮してその論旨を捉えておく。

 関係づけるために、接点として使える共通項を見つける必要がある。

 上の二つの文章の共通点は題名に明らかだ。「市民」である。

 だが「市民」は、直接的には「『である』ことと『する』こと」には登場しない。

 「市民」を「である/する」図式に収めるとすると?


 「『である』ことと『する』こと」を前後半に分けるときに、まず直感的に「前半は『する』推しで、後半は『である』推しだなぁ」と思えることが重要なように、三つの文章の関係を把握しようとしたときに、まず「『市民』のイメージ」は「する」推しで、「市民社会化する家族」は「である」推しだ、という印象が把握されなければならない。

 それはどのような論理を背景にした印象なのか。

 それを具体的引用とともに説明する。


「である」ことと「する」こと 11 -レイアウト

 さて、全体論旨を平面上にレイアウトするというのが課題だった。

 レイアウト=配置するということは、その要素をどれくらい上に(下に)置くか、どれくらい右に(左に)置くかを判断するということだ。

 つまり2次元の軸を定め、その軸を目印に配置を決めるのだ(もっとも、以前の生徒で、3次元モデルを作って、その透視図法を書こうと構想しているらしい相談が聞こえてきたこともある)。

 考えられる軸の2方向は対比の形で表せる。どんな対比が考えられるか?


 とにかく自由に考えさせて、いろんな図ができあがるのも楽しみだとも思うのだが、いかんせん時間が充分にとれなかったので、残念ながら認識を共有してしまった。

 まずは「である/する」の対比軸は当然選択肢の1つとして想定される。ここまでの授業でもこの対比軸でさまざまな要素をピックアップしてきた。

 また、前項で整理した対比もまた当然想定されるべき対比だ。すなわち「政治(政治・経済)/文化(学問・芸術)」という「領域・面」の対比だ。

 また、多くのクラスで挙がったのは「理想/現実」といった対比だ。

 評論は基本的に、それが好ましいか否かを論ずる・主張するものだ。したがって、まずほとんどの評論は潜在的に「肯定/否定」の対比で何事かを語っていることが予想される。「理想/現実」というのは、何を否定し、その対比として何を肯定するか、ということだ。

 また、この論が強調している「倒錯」を示す対比「非近代/過近代」も当然選択肢として想起される。だがこれを対比軸のラベルとして採用するのは、やってみると案外にうまくいかないことがわかる。そのラベルでは括れない要素があるのだ。


 というわけで有力と思われる3つの対比から2つを選んで、直行する2方向、いわゆるX軸Y軸とし、文中の要素を配置していく。

  • 「である/する」
  • 「政治・経済/学問・芸術」
  • 「肯定/否定」

 試みに、3つのうち2つを選ぶと、選ばなかったもう1つは、どの位置になるか?

 またその場合の「非近代/過近代」はどこか?


 ここまでは頭の体操として、授業で互いに説明させあった。相手に説明することで「『である』ことと『する』こと」の大きな論理の構造が自身に把握されていることが確かめられただろうか?





2024年2月15日木曜日

「である」ことと「する」こと 10 -抽象度を揃える

 「『である』ことと『する』こと」は、前半では日本の「非近代的」な「面」について述べ、後半では「過近代的」な「面」について述べている、と把握される。

 「日本の急激な『近代化』」の章は前半と後半のいわば橋渡しだと考えればいい。最後の「価値倒錯を再転倒するために」は全体のまとめだ。


 ここまでの考察はかなり論理的に進めているが、それよりもまずは漠然と「前半は『する』推しだったのに、何だか後半は『である』推しになってるなあ。」くらいの捉え方はしておきたい。

 つまり「する」推しなのにそうなってないから「非近代的」だということで、「である」推しなのに「する」が蔓延してくるから「過近代的」だということだ。

 これがぴんとくるためには、この文章の「近代」が「である」→「する」という移行・転換だと捉えられていることが必須だ。


 前項では前半・後半の「面」「領域」「ところ」を「政治/文化」と称しておいた。「政治的な事柄から文化の問題に移行すると」からの抽出だ。「文化の立場からする政治への発言と行動」でも同じ対比が使われている。

 だが本文中に登場する諸要素(抽象語・具体例・形容・比喩…)を全体としてレイアウトしようとするには、「政治/文化」というラベルはいくらか粗い(抽象度が高いとは必ずしも言えないが)。例えば最初の制度や民主主義の話題を「政治」でまとめるとすると、その後に出てくる会社の例の収まりがわるい。

 そこで「政治/文化」を、それぞれ二語ずつに置き換える。抽象度の揃った二字熟語だ。文中にある。何か?


 文中にある次の対比。

政治・経済/学問・芸術

 全体を把握しようと意識したとき、確かに前半では「政治・経済」という言葉で括れる領域については「する」を大切にすべきだと言い、後半では「学問・芸術」とまとめられる領域について「である」を大切にすべきだと言っているのだ、と考えると、この文章の主旨が腑に落ちるはずだ(休日と宿屋の例が若干収まりが悪いが)。

 「『である』ことと『する』こと」という文章(元は講演録だが)の読解の核心はここだ。

 全体を「非近代/過近代」という二つのまとまりで捉えること。

 そしてそれぞれが対象としている領域・「面」を「政治・経済」/「学問・芸術」という、抽象度の揃った概念語で捉えること。

 この二つができれば、読解のおおよそは完了したと言っていい。


「である」ことと「する」こと 9 -前後半の対比構造

 この文章(講演)は、大きく前半と後半に分けることができる。

 その感触を素朴に言えば、前半は「する」推しだったのに、後半は「である」推しだなあ…といったところだろう。

 こうした大きな対比構造が、保留にしているあれと重なることに気づくだろうか?

 再掲する。

ある面では甚だしく非近代的でありながら、他の面ではまたおそろしく過近代的でもある現代日本の問題

 先に保留にしたのは、この一節がこの文章全体の構成に対応しているからであり、丸山真男の中にはその構想ができているのだろうけれど、頭からそこまで到達しただけの読者(聴衆)には、何のことかわからないはずだからだ。

 だが今や最後まで読んで、全体を把握しようとしているみんなは、これと上の、大きな段落分けと重ねてみれば、もう「ある面/他の面」についても考えることができるはずだ。


 この一節が重要であることは、この対比がその後も表現をかえて繰り返されていることからもわかる。

  • 一方で「する」価値が猛烈な勢いで浸透しながら、他方では強靱に「である」価値が根を張り
  • 「『する』こと」の価値に基づく不断の検証が最も必要なところでは、それが著しく欠けているのに、他方さほど切実な必要のない、あるいは世界的に「する」価値のとめどない侵入が反省されようとしているような部面では、かえって効用と能率原理が驚くべき速度と規模で進展している
  • 「である」価値と「する」価値の倒錯│-│前者の否定しがたい意味をもつ部面に後者が蔓延し、後者によって批判されるべきところに前者が居座っているという倒錯

 これら3箇所は上の一節と同じ対比を示しているのであり、これが、「『である』ことと『する』こと」全体を二つに分けたときのそれぞれの「まとまり」をも示しているのだと気づくと、全体が把握される。


 すなわち文章全体は、前半が

ある面では甚だしく非近代的

  ↓

他方では強靱に「である」価値が根を張り

  ↓

「『する』こと」の価値に基づく不断の検証が最も必要なところでは、それが著しく欠けている

  ↓

後者(する)によって批判されるべきところに前者(である)が居座っている


 について述べ、後半は

他の面ではまたおそろしく過近代的

  ↓

一方で「する」価値が猛烈な勢いで浸透

  ↓

他方、世界的に「する」価値のとめどない侵入が反省されようとしているような部面では、かえって効用と能率原理(=「する」原理)が驚くべき速度と規模で進展している

  ↓

前者(である)の否定しがたい意味をもつ部面に後者(する)が蔓延し

 について述べている、と把握できる。


 こうした対比にはラベルを貼っておくのが便利だ。ラベルは短い方が使いやすい。できれば対になる一単語。

 「非近代/過近代」がいいか。


 さてこれがこの文章の前後半(「政治的な事柄から文化の問題に移行すると」)に対応しているというのだから、「政治/文化」=「非近代/過近代」ということになる。

 これが保留にしていた「面」であり、「領域」であり、「ところ」だ。


「である」ことと「する」こと 8 -段落分けというメソッド

 この文章の大きな対比「である/する」図式で文中の語句を拾い、考察に値する表現を解き明かしてきた。そのようにして全体を通読した上で全体の構造を捉える考察をする。「論旨全体をレイアウトする」の課題にもう一度取り組むのだ。

 小学生のときからお馴染みの読解メソッドとして「段落分けをする」という方法があるが、これは大きな視野でその構造を見ようとする思考のことだ。文章を大きな塊、まとまりとして考えることは、文章を俯瞰して、その構造を捉えようとしているのだ。

 この「構造」はいくつもの階層が重層的に組み合わされている。学校での人間関係が「班」→「クラス」→「学年」→「学校」などと階層化されるように。またそれらの階層に「部活動」「委員会」などの階層が横断的に交錯するように。

 同様に、文章では「段落」→「節」→「章」などという階層がある。「形式段落」は、ある文の句点の後を改行してしまって、次の文を一文字下げることで明示的に示された段落だ。あるいは、ときどき一行空きになっていたり、「『である』ことと『する』こと」のように、見出しをつけて「節」「章」を分けたりもする。

 それもまた、筆者がその構造を読者に示してくれているわけだ。もしも段落も章も全く区切られていなければ、文章の論旨はもっと把握しにくくなる。

 ここでは、全体を二つに分けて、それらがどのような塊なのかを言い表す。つまり明示されている「節/章」よりももう一つ上の階層のまとまりを捉えようというのだ。

 どこかの章から、すっぱりと後半になるわけではない。前半と後半の橋渡しをしている章がある。また、最後の一章は全体のまとめなので、どちらとも言えない。

 だがともかくも、前半と後半は明らかにトーンがかわっている。その変わり目はどのあたりで、それはつまりどのような「トーン」だというのか?


 この「まとまり」は、まずは明らかには言語化できない感触としてとらえられるはずだ。どうもこのへんから流れが変わったぞ…。

 そうして、そこまでの「流れ」とそこからの「流れ」を言語化する。

 「『である』ことと『する』こと」の場合、これら二つの大段落は対比的に表現できる。したがって、片方ずつが把握されるのではなく、同時に発想されるはずだ。

 対比的?

 ということは「である/する」という対比?

 悪くない。だがもう一歩、それが何だというのか?


「である」ことと「する」こと 7 -精神的貴族主義

 さて、最後の章は「わからない」部分がいくつもある。表現の問題でもあるが、文脈の問題でもある。


 比較的易しい疑問から取り上げる。

もし私の申しました趣旨が政治的な事柄から文化の問題に移行すると、にわかに「保守的」になったのを怪しむ方があるならば

 この一節の「保守的」とはどういうことか?

 括弧をつけることで示したいニュアンスは何か?

 なぜ「怪しむ方がある」ことを想定しているか?


 考える(説明する)糸口に対比を使うのは習慣化しておく。

 「保守」の対義語は?

 「革新」「進歩」だ。

 「保守的」「進歩的」、ここではそれぞれ何のこと?

 「保守的」=「である」推し、「進歩的」=「する」推しのことだ。

 後半に入って「である」推し=「保守的」になったのを、なぜ誰かが「怪しむ」のか?

 前半は「する」推しだったのに、後半になって「である」推しになっている、結局どっちやねん! と思う人がいることを懸念しているのだ…といった説明がいくつかのクラスでなされた。

 悪くない、がもう一歩。

 「保守的」というのは、進歩に反する、時代の流れに逆行する姿勢だともいえる。よく趣旨がわからない人はそうした反動的な主張を「怪しむ」かもしれないと心配しているのだ。

 もちろん「である」推しであることは反動的なわけではない。それがわかっているうえで、「いわゆる」というニュアンスを出すために括弧をつけている。


 さて最終章で最も「わからない」という嘆きが集まるのは、次の一節だろう。

現代日本の知的世界に切実に不足し、最も要求されるのは、ラディカル(根底的)な精神的貴族主義がラディカルな民主主義と内面的に結びつくことではないか

 ここにはいくつもの「ノイズ」が混じっていて、ストンと腑に落ちることが妨げられる。「最も要求される」などという言い方もそうだ。「私は日本に~が必要だと思う」という主張を一般論として語る体にするために「日本に~要求される」と表現する。この「れる」は受身ではなく自発だ。不足しているのだから当然必要だよね、というニュアンス。

 さらに、この一節に四つも「~的」という形容が混入している。「知的世界」はまあいい。一般大衆をバカにした言い方にも聞こえるが、たぶん丸山真男の講演を聴きに来た人へのリップサービスなのだろう。

 残り三つがうっとうしい。「ラディカル(根底的)」「内面的」「精神的」どれも、そこでつまずく人が出てくる障害となっている。

 思考を整理するためには対比を意識する。

 何か?

 いくつかの候補がそれぞれのクラスで出たが、ひとまず次のような対比を共有しておこう。

  • 根底的/表層的
  • 内面的/外面的
  • 精神的/実体的

 「精神」の対義語は「肉体」であることが多いが「肉体的貴族」は何のことかわからない。ここでは現実の身分としての「貴族」ではなく、比喩的に「貴族のような心持ち」くらいの意味で「精神的貴族」といっているのだ。

 どれも似たような対比だ。つまり外側だけでなく、形だけではなく、見た目だけでなく、といった意味合いをこめているわけだ。


 結局、この部分の問題の核心は「貴族主義」をどう理解するか、だけだ。それ以外の「ノイズ」に惑わされていると、いつまでたっても考えるべきことが考えられない。

 「貴族」は上に見た通り「精神的」だと言っているのだから、つまり比喩だ。「貴族(のような)主義」なのだ。

 比喩は「花/果実」の考察でもやったように、それが持っている性質の何をとりあげているのかを指摘できれば良い。

 さて「貴族」のような、とはどんな性質、状態、論理、あり方なのか?


 もちろん方針としては、「である」側に分類されている対比項目のどれかを使うことと、「する」側に分類されている項目を「~ではなく」で使うことを考えよう。こういう既習事項を活かさずに「貴族」という言葉を眺めて唸っていても埒が開かない。

 それぞれにどの項目を使えば良いか?


 さらに対比を考える。「貴族主義」は「民主主義」と対比されていて、それが「である/する」に対応することは文脈から読み取れる。

 「貴族主義」と「民主主義」が結びつくというのは「である」と「する」が望ましい形で結びつくということだ。つまり「貴族」という比喩は「である」の肯定的な面を表している。


 さて問題の「貴族」だ。

 この比喩が難しいと感ずるのは、実はこれの対比が文中に既に出ているのに、それに気づかないからだ。だから突飛なものと感じられる。だが丸山は、唐突に「貴族」と言っているわけではない。

 「貴族」の対比は何か?


 あれこれの候補を口々に言うことができるのは、クラスの雰囲気が良いことの表れだ。いくつもの候補が挙がるのは、いきなり「正解」が提示されるよりよほど好ましい。比較の上でその適切さを考えることができるのだから。

 その中で誰かがそれを言い当てる。その人は誇って良い。

 だがむろん、それを訊かれる前にその対比に気づくことができたらなお素晴らしい。授業者がそれに気づいたのも、いくつかの学年で授業をやってからだ。


 さて目指すその言葉はここまで既に2回、文中で使われている。

  1. 学芸のあり方をみれば、そこにはすでにとうとうとして大衆的な効果卑近な「実用」の規準が押しよせてきている
  2. 文化での価値規準を大衆の嗜好や多数決で決められない

 これら「大衆」と対比されて「貴族」の比喩がある。このことに気づかずに「貴族」を解釈するのは難しい。

 ここで「大衆」が否定的に使われていることは、先の文脈で「貴族」が肯定的に使われていることと整合する。「大衆/貴族」が「する/である」の対比なのだから、「大衆」は「する」価値・論理の否定的な面を表しているわけだ。

 1から反照されるのは、「役に立たない」ものに価値を見出そうとする「貴族」のイメージだ。

 「卑近」の対義語を確認しておこう。「高尚」が想起されればOK。

 「貴族」は「実用」性に乏しくとも「高尚」なものに価値を見出すのだ。例えば?


 2から反照されるものは「多数決」の対比で考えよう。

 既に「貴族主義」が「民主主義」と対比されているのだから、「多数決」が「民主主義」だとすれば「貴族主義」は「封建」とか、もっといえば「独裁」とかいった概念を連想させるかもしれない。

 だが「独裁」を肯定するわけがない。

 では「多数決」の否定的な面とは何か?


 上の言葉を使うならば「多数決」では「卑近な実用の基準」によって決定されてしまうおそれがあるということになる。目先の人気投票で物事が決まる。

 それと対比される「貴族」とは、単に人気のある物を良しとするのとは違った価値観を示している。

 大衆の多数決は「流行」を生むが、貴族は「不易」を醸成する。

 貴族的「不易」を表す言葉を文中から探すと?


 既に挙げられている「かけがえのない個体性」であり「それ自体」の価値であり、「蓄積」だ。

 「蓄積」の対比として「大衆」にふさわしい語を文中から挙げよう。二字熟語で、サ変動詞にできる語。

 「消費」が挙がればOK。「大衆は消費する」が「貴族は蓄積する」のだ。

 一時の流行を消費しているばかりでは文化は衰退してしまう。役に立つかどうかで判断していては文化などすぐに捨て去られて蓄積されない。

 そこには「古典」も生まれない。

 「貴族」はそうした一時の流行に左右されない価値(=不易)を重んじ、それを後世に伝える財力も権力もある。

 文化を創り上げてきたのは大衆かもしれないが、それを庇護し、後世に伝えてきたのはそうした「貴族」だ。「パトロン」という言葉があるが、これは芸術家を支援する貴族のことだ。いわゆる「古典」となる芸術作品・文化財は、貴族の財産として受け継がれたことによって人類が手にできている例も多い(古い名家の蔵から発見されました、とか)。


 さてここまで読めば、この章のもう一つの難所である「文化の立場からする政治への発言と行動」を考えることができる。上に確認した通り、これは「貴族主義」の立場から政治に対して発言したり行動したりするということだ(ちなみに「する政治」ではない。「立場からする」だ)。

 具体的にはどんな「発言・行動」を想起すれば良いか?


 こういうときにみんなが想起する例は、適切なものから見当違いなものまで、グラデーション状に散在する。そういうさまざまな例がいくつも挙がり、その適切さについてみんなで考えるというのが有益な学習だ。正解だけが示されても、その適切さを認識することは難しい。不適切さとの比較で適切さが明確になる。だからみんながそれぞれに思いついた例を挙げる。

 いくつかのクラスで挙がったのは、学者や芸術家などの専門家が「文化の立場」から意見を述べる、という例だった。

 これは悪くはない。「文化」がこの文中では「学問・芸術」をまとめた言葉だとちゃんと理解している。政治家に対して学者が意見することは必要だ。

 だがさらに具体的にはどういった「発言・行動」なのか?


 考えるための重要な手がかりは、それが「する」論理・価値に対抗するような「である」価値・論理にくみするような発言・行動であるべきだということだ。

 例えば「コロナの感染症対策に専門の医者が意見を言う」などという例が挙がったクラスが多いが、これはどういう意味で「する」論理に「である」論理が対抗していることになるのか不明確。


 さらに、「行動」には誰の「行動」が含意されているか?


 これが一般人向けの講演であることを考えれば、ここには専門家だけでなく、我々国民一人一人の「行動」を念頭に置いて話しているはずだと考えるべきだ。直前の「政治化」とは、政治が国民に開かれたものになることを表している。

 国民が「政治」に対して起こすべき行動とは?


 我々市民の行いうる活動といえば、署名集めでもデモ(示威行動)でもいい。あるいは投票も「行動」として当然想定されているはずだ。

 それらが「文化の立場からする」と言いうる例を想起すればいいのだ。


 さて、適切な例として安易に思う浮かぶのは、そのまんま文化保護や文化支援を支持する「発言・行動」だ。かつ、それが政治・経済=「する」論理に対抗しているような場合を想起すれば良い。

 例えば貴重な文化遺産を壊してしまうような開発に対して反対すること。道路を通すことは経済性の原理(「する」原理)からすれば好ましいことであるが、そのために古い町並みや遺跡を壊して良いのか? 儲かるとか役に立つとかいうことにとらわれない価値を提示するのが「である」価値だ。

 専門家なのか一般市民なのかは問題ではない。「である」価値に与する「発言・行動」なのかどうかだ。

 例えば、実体としての「貴族」なき現代における「精神的貴族主義」的な「行動」として、政府や自治体や企業によるメセナ(文化支援)活動などを挙げてもいい。

 あるいはいくつかのクラスで挙がった「環境保護」もいい。環境保護はなぜここでの「発言・行動」として適切なのか?

 「効率・機能・実用」だけで政策が決定されてしまうと、「自然」などというものは損なわれるおそれのある。自然環境とは長い時間を掛けて「蓄積」された「かけがえのない個体性」を持った生態系だ。それを「大衆」の「実用性」によって「多数決」で損なってしまうと、二度と取り返しがつかないかもしれない。そうした価値を守ろうとするのが精神的貴族主義だ。

 あるいは最近の例でいえば、「大学改革」として、成果を上げていない学部の予算を縮小しようなどという動きがある。しかし基礎研究は目先の成果では計れない、蓄積の上に生じる価値だ。

 あるいは文系学部縮小論もそうだ。大学の文系の学問は、経済性・実用性という観点から見れば「役に立たない」ものに見えかねない。だが人文学は効率性・実用性よりも、人間にとっての「価値」を考える学問だ。そうした価値の蓄積の上に人類の文化があるのだ。

 こうした「である」価値を守ろうという「発言・行動」として、今自分が想起した例が適切であるかどうか考えよう。



「である」ことと「する」こと 6 -花/果実

 このまま後半(244頁~)の対比もとってしまおう。

 ここから後の本文中にも、「する」論理を表す既出の「不断」「機能と効用を問う」が頻出する(微妙な言い換えも含めて)。

  • 効用と能率原理
  • 有効に時間を組織化する
  • 効果と卑近な「実用」の規準
  • 果たすべき機能
  • 不断に忙しく働いている

 一方の「である」論理・価値を表す語句としてとりあげておきたいのは次のような表現。

  • かけがえのない個体性
  • それ自体
  • 蓄積


 こうした対比を表す表現として「花/果実」という比喩が登場する。

 この比喩によって表される意味合いを説明してみよう。


 この比喩が「である/する」に対応することは文脈からわかる。文脈の論理を正しく追えていることは、評論の読解には必須条件だ。

 それと、語句の意味合いとを対応させる。なぜ「花」が「である」で、「果実」が「する」なのか?


 いくつかのクラスで次のような説明が発表された。

  • 花は果実になる過程であり、果実は結果だから。
  • 花は見るだけだが、果実は食べられるから。

 前の説明は「する」=「業績」となじむが、「プロセス」と相反する。

 後の説明は「食べる」が「する」なのはいいとして、「見る」はなぜ「する」ではなく「である」なのかが不明確。

 さてどう言ったらいいか?


 「果実」には、「おいしい」とか「栄養がある」などという「効用・効果・実用性・機能」がある。

 一方「花」は食べられない。「効用・効果・実用性・機能」的価値よりも、そこに「美」を見出す者にとっては「それ自体」に価値がある、と言っているのだ。

 こんなふうに、文中から挙げられている「である/する」を表す語句を使う。挙げる語句の有用性は、説明や考察に使えるということだ。



2024年2月7日水曜日

「である」ことと「する」こと 5 -「宿命的」な混乱

 「ギャップ=くいちがい」の考察を利用して次の4章の一節を考える。

日本の近代の「宿命的」な混乱は、一方で「する」価値が猛烈な勢いで浸透しながら、他方では強靱に「である」価値が根を張り、その上、「する」原理をたてまえとする組織が、しばしば「である」社会のモラルによってセメント化されてきたところに発しているわけなのです。

 ここで考察に値するのはどこか?

 「物神化」同様「セメント化」という見慣れない表現に目を奪われてしまう人も多い(だからここが脚問になっている)のだが、こんなところは大した問題ではない。これは単に「固まっている」という比喩に過ぎない。

 これは、具体例が思い浮かべばいいのであって、しかもそれは既に文中で述べられている。

 前項の「ギャップ=くいちがい」の考察をそのまま応用すれば、会社は「する」原理をたてまえとする組織のはずなのに、人々のモラルが「である」のまま固まっている=「セメント化」しているということだ。


 それよりもこの一節の問題は「一方/他方」という対比にある。

 この対比が指し示しているのは、実は先に保留にした「ある面/他の面」とほとんど同じなのだが、そうすると同様に、これも保留することになる。


 ここでは先の考察にからめて次の問題を考察する。

 「日本の近代の~混乱」は「ギャップ=くいちがい」を生ずるからだが、なぜこの混乱には「宿命的な」という形容が入っているか?


 この括弧のニュアンスは「わかるでしょ?」という感じだ。丸山は読者(聴衆)に向けてサインを送っているのだ。この「混乱」は例の、あれだよ、と。

 読者はこの混乱が「宿命的」であるわけについてわかっていなければならない(ちなみに、この後の誘導によって全員に気づいてもらう想定で授業を進めるのだが、試しにH組でK君に、ノーヒントで「宿命的って何のことだかわかる?」と聞いたら、K君は「ああ、あの『皮相、上滑りの話ですよね』とこともなげに言ったのだった! 心底驚いた。この言葉ですら、何のことかわからない人が多いはずだ)。

 なぜ「混乱」は日本にとって「宿命的」なのか?


 勘の良い者は気づいているだろうが、皆で一斉に気づくためにこの章の終わりの次の一節に注目する。

私たち日本人が「である」行動様式と「する」行動様式とのゴッタ返しのなかで多少ともノイローゼ症状を呈していることは、すでに明治末年に漱石がするどく見抜いていたところです。

 漱石?

 これもまた説明不足だが、わかる人にはわかることだと見なして喋っているのだ(K君のように!)。

 そして皆もまた「わかる」べきなのだ。去年読んでいるのだから。


 それが、今年度の教科書には、111頁~に載っている! 夏目漱石「現代日本の開化」だ。

 これをどこで読んだ?

 「夢十夜」の「第六夜」解釈の参考資料としてプリントして配った。

 先のK君の「皮相、上滑りの話」というのはこれのことだ。

 そして皆が使うなら、「皮相、上滑り」と言い換えられている「外発的」という言葉がちょうどいい。ざっと目を通して、皆がこの言葉に目を留めたのは勘が良かった。

 ここで漱石が「現代の開化」と呼んでいるのは、明治の「文明開化」のことであり、それはつまり日本における「近代化」のことだ。

 漱石は日本の近代化が「外発的」だったという。

 明治の開国とともに西欧の文化の流入にさらされた日本の「開化」は「外発的」であり、その変化は急激だった。

 これが「ギャップ=くいちがい」を生ずる。

 「内発的」とは、自然の、必然の推移を表わしている。「開化」が「内発的」に起こった西欧は、その変化には相当の時間をかけている。だから「ギャップ」が生まれない(日本に比べれば)。

 「外発的」に近代化した日本の混乱は「宿命的」だったのだ。


「である」ことと「する」こと 4 ギャップ=くいちがい

 さて、第二章で考えたいのは、章の終わりの次の一節。

私たちはこういう二つの図式を想定することによって、そこから具体的な国の政治・経済その他さまざまの社会的領域での「民主化」の実質的な進展の程度とか、制度と思考習慣とのギャップとかいった事柄を測定する一つの基準を得ることができます。そればかりでなく、例えばある面では甚だしく非近代的でありながら、他の面ではまたおそろしく過近代的でもある現代日本の問題を、反省する手がかりにもなる

 この一節の後半は、難物という以上に、そもそもここまで読んだだけではこれが何のことかはわかるはずがない。とりわけ難しいのは「過近代/非近代」という見慣れない言葉ではなく「ある面・他の面」が何を指しているかだが、これは後で考える(だが皆はこの文章を最後まで読んでいる。だからわかってもいい)。

 したがってここではこの部分の解釈を行うことはしない。

 まずはこの部分の前半を考える。

 ここで「測定」されるという「制度と思考習慣とのギャップ」とは何か?


 これもまた、ここだけで考えないであちこちを参照すると、次の章の最後に次の一節がある。

領域による落差、また、同じ領域での組織の論理と、その組織を現実に動かしている人々のモラルのくいちがい

 この「領域による落差」というのは、上で保留した「面」ごとの「非近代/過近代」の「落差」のことなので、これもやはり保留する。

 だがその後の「組織の論理と、その組織を現実に動かしている人々のモラルのくいちがい」は「制度と思考習慣とのギャップ」ときれいに対応している。

 「ギャップ=くいちがい」とは何か?

 さらに条件を付け加える。文中の具体例でこの「ギャップ=くいちがい」を説明する。


 あれこれ説明の言葉は考えればいい。とりあえずお互いに喋る中で消化していけばいい。

 ただし、必ず使わなければならない言葉があり、それを使えば明瞭に説明できる。そのことは意識されていなければならない。

 何か?


 この文の始まりは「私たちはこういう二つの図式を想定することによって」だ。「二つの図式」? わかりきったことだ。「である/する」だ。

 つまり「である/する」を使えば「ギャップ」が「測定」できるのだ。

 具体例としては会社員の例を使う。


 ということで次のように言えばいい。

「制度=組織の論理」が「する」化しているのに、その組織を現実に動かしている人々の「思考習慣=モラル」がまだ「である」論理であるという「ギャップ=くいちがい」

 会社という組織は「する」論理で動くべきなのに、そこで働く人が「である」思考習慣で動いてしまうという「ギャップ」があるのだ。


「である」ことと「する」こと 3 物神化・自己目的化

 引き続き第二・三章の対比。

  • 自己目的化・物神化/
  •     /点検・吟味・警戒・監視・批判
  • 「属性」・内在/そのつど検証
  •   定義や結論/プロセス
  •     先天的/
  •  身分・ドグマ/
  •   血族・人種/
  •      権威/現実的な機能と効用
  •      to be/ to do
  •        /業績
  •      君主/会社の上役
  •   まるごとの/仕事という側面についての


 これらは必ずしも対になっているわけではない。また既出の表現が繰り返し使われたらマークする(「不断」など)。

 こうして図式化したものを通観すると、この文章で「である/する」という対比で表したいものが見えてくる。


 さて、上の対比項目で考察すべき表現は「自己目的化・物神化」だ。

 これが「である」側に振り分けられることは、語義的にわかるわけではなく、文脈でわかる。「自己目的化―物神化―を不断に警戒し…」は「『である』化しないように絶えず『する』化し…」と言い換えられるのだと考えるから「自己目的化・物神化」は「である」なのだ。

 さてこの「自己目的化―物神化」とはどういうことか?


 こういうとき、対象となる部分だけを見ていてはいけない。周囲を見回して文脈の中で把握する思考が「読解」には重要だ。

 「物神化」と関連性・親和性も感じられる既出項目はどれか?

 「置き物」「祝福」だ。「物神化」とは、それを「置き物」として据え、神の恩寵のように「祝福」するという意味だと考えればいい。


 「物神化」は見慣れない比喩に惑わされてしまうが、ここで理解が試されるのはむしろ「自己目的化」だ。

 「自己目的化」も「物神化」も、まずは語義の確認も必要。そしてそれが文脈において何を意味するかを説明する。

 「自己目的化」の説明のためには「目的」ともう一語、必須の言葉がある。それがただちに思い浮かんでいなければならない。

 「手段」である。


 「自己目的化」とは、本来手段に過ぎないものが目的に置き換わることだ。

 ということは、ここでの「目的」と「手段」を明らかにすることが的確な説明のために必要だ。


 「民主主義」がどちらかであるわけではない。「民主主義」における「目的」と「手段」が何か、だ。

 「制度の自己目的化を不断に警戒し」とあるから、「制度」が「手段」だということだ。では目的は?


 民主主義という制度の「目的」は民主=国民主権だ。すなわち独裁や専制を許さないことが民主主義の目的なのだ。

 そのための手段が「制度」だということなのだが、「民主主義という制度」は抽象度の高い表現だから、ここはさらに具体的な制度を想起しよう。

 何を想起すべきか?


 ここでは選挙を挙げたい。議会制が挙がったのも良かった。

 さらに、授業で憲法が挙がったのは、なるほど、だった。

 「憲法」はなぜ民主を目的とする手段となる制度なのか?


 「法治原則」そのものが、そもそも権力の横暴を防ぐ手段でもありうるのだが、とりわけ憲法が他の法律と違うのは、他の法律が国民を縛るものであるのに対し、憲法は権力を縛るものという基本性質があるからだ。


 さて「自己目的化」の説明に、さらに条件をつける。

 どういう意味か、という説明とともに、これを用いて前頁の「ナポレオン三世のクーデター・ヒットラーの権力掌握」を説明してみる。すなわちこれらの例は「自己目的化」したことによって「血塗られ」ているのだ。

 どういうことか?


 さて、話し合う声を聞いていると、迷路に彷徨っているらしいグループもいる。「人民が…自己目的化を…不断に警戒し」の「自己目的化」の主語をナポレオン三世やヒトラーとして語っている。ヒトラーが権力掌握という「目的」のために選挙という手段を「自己目的化」した…。

 そうではない。

 「自己目的化」したのは「人民」だ。


 「ナポレオン三世のクーデター」がどのようなものかはよくわからなくても、論理的に推測できればいい。しなければならない。

 つまりナポレオン三世もヒトラーも選挙によって「民主」的に選ばれたのだ。そこでは目的のための手段である建前に則っている。

  • 目的―民主(国民主権)
  • 手段―制度=選挙

 なのにそれが民主的な制度であることに「安住」して、人々が制度そのものを、あるいは選挙結果を「物神化」し、「不断の検証」を怠っているうちに、権力者は徐々に独裁的にふるまって、やがては本来の目的であった「民主」を機能不全にしてしまったのだった。


「である」ことと「する」こと 2 対比

 さて、文章の読解に活かせる方法的思考は、ここまでにいくつか実践してきたが、中でも多用される方法で、しかもこの文章が典型的にそれを活かせる文章だという、あの方法は、直ちに思い浮かんでいなければならない。

 何?


 いうまでもなく「対比」だ。

 「永訣の朝」でも「なぜ頼んだのか?」の考察と「ふってくる/沈んでくる」の違いの考察で対比を用いたが、あれは対比される言葉を自分たちで考えた。

 一方、評論の場合は、まずは文中に出てくる語句を対比図に振り分ける。そうすることで文章の構造を見えるようにする。

 この文章はどうみても対比的に考察が進んでいる。そうした対比を示す言葉が文中に散らばっている。それらを取り上げて整理し、通観する。

 振り分けるため、またそもそも探すため、対比される領域にラベル/見出しをつけておくと便利だ。文脈から対比されていることがわかるが、それが何の対比なのかがわからない場合もあるが、この文章の場合はいうまでもなく「である/する」だ。

 本文から、「である/する」のどちらかに分類できる表現を探し、本文にマークするとともに、ノートに書き出す。どちらも必要な作業だ。マークしてあれば、本文を読むときに頭が整理された状態で内容を把握できるし、ノートに書き出しておくと、一覧してその共通性が把握できる。


 さてしばらくはそうした頭の使い方に慣れるために、実際にやってみる。

 挙げる(マークす)べき語は次のような語句だ。

  • 抽象語・概念語
  • 具体例・比喩
  • 形容

 これらは排他的な三つではない。「客観的・主観的」などという定番の対比は抽象語でもあるし「的」がつけば形容だ。「~のような」といった比喩形容でもある。

 ポイントは、どちらかに振り分けられる特徴的な表現かどうかを判断することだ。判断は語義に基づく場合と、文脈に基づく場合がある。両面から考えて一致するのが望ましい。

 まず第一章から挙げてみる。「債権者である/請求する」は「である/する」に傍点がふってあるから、明らかにそうした対比を表している。

 だがそれよりも、ここでマークしておくことに価値があるのは「債権者であることに安住していると」の「安住する」だ。これはもちろん「時効を中断する」と対比されているからそちらもマークしてもよい。だが「時効を中断する」は汎用性がない。「する」論理を表すには表現が限定的すぎる。それに比べて「安住する」は次の頁にも使われる。

 「安住する」に比べて「債権者」は「である」論理を表しているわけではない。「である」がついているから「である」なのであって、「債権者である」と同様に「債権者する」状態を想定することもできるからだ(日本語としては不自然だが趣旨はわかる)。「請求する行為によって時効を中断する」はまさに「債権者する」ことだ。その意味で「債権者」という言葉はそれ自体ではどちらにも振り分けられない。

 それに比べて「安住する」が「する」論理を表すことはない。だからこの言葉を「である」論理を表現しているとみなしてマークしておくことは有意義なのだ。

 次頁ではこの「安住する」が「行使を怠る」と言い換えられるから、逆に言えば「行使」は「する」だ。

 さらに次頁では「行使」が「祝福」と対になる。


 同様に「不断の努力」を「する」に挙げたい。ここでは「努力」よりも「不断の」という形容の方が重要だ。次の章で三回も出てくる。

 また「置き物」を「である」に挙げる。「ねむる」も「安住する」も「祝福する」も置き物も、対比の性質を示す比喩だ。


 個別の箇所の判断は、詳述していけば上記の様に、なぜどちらかに振り分けられるかの説明がつくが、実際には読みながら、何となくわかる、といった程度で構わない。挙げていくと、その共通性からどちらかであることが判断できるようになる。

 第一章全体でこんなかんじ。

  •   である/する
  •    眠る/
  •  安住する/行使する
  •  祝福する/行使する
  •   置き物/不断の努力
  • 惰性を好む/
  • よりかかる/立ち上がる


「である」ことと「する」こと 1 論旨をレイアウトする

 「永訣の朝」が終わって、今年度の授業は残り8回ほどしかない。この中で可能な限り評論を読んでいく。

 軸となるのは「『である』ことと『する』こと」だ。ここにいくつかの評論をからめていく。

 正直、時間はもっとほしい。

 だが今回の塊もまた、それらから得られる認識を来年度にお土産として持って行きたい重要な議論がなされている評論群だ。


 まずは「『である』ことと『する』こと」。

 この文章の読解の目標は「全体の論旨を平面上にレイアウトする」だ。

 具体的には、文中から、論旨を語るために必要な語やフレーズを挙げ、それらを平面上に配置(レイアウト)して、その関係性を位置関係で示す。必要に応じて囲ったり、線や矢印で結んで論理関係を示したりする。


 文章や人の話(「『である』ことと『する』こと」は講演)は線状(1次元的)に情報が配置され、読み手(聞き手)は時間軸に沿って情報を受け取る。

 だが、その情報、つまり文章の内容・論理は、本来は3次元(立体)以上の次元構造をもつ。こことここが結びつく、という論理のつながりは横にだけつながっている(1次元)わけでもなければ、平面(2次元)上でのみ展開されているわけでもない。ここにもあそこにも繋がる。その繋がりは縦横無尽でありうる。

 我々は時間軸にそって1次元的に提示される情報を、脳内で、そうした多次元構造に再構築している。それが読解という行為だ。

 だが立体模型を作るのは、それ自体が厄介な大仕事になってしまうので、授業という制約の手に余る。

 そこで、線状に配置されている情報を平面上に配置し直すところまでを授業で行う。もともと時間順に生起するわけではない論理を平面上で同時に見えるようにする。


 ということで全体の論旨を把握して大まかな設計図を構想する。

 同時に、部品を集める。文中から語句をピックアップする。


2024年2月3日土曜日

永訣の朝 15 「まつすぐにすすんでいく」とは?

 さて、「まつすぐにすすんでいく」に戻ろう。これは具体的に何を意味しているか?


 「わたくしも」の「も」の意味、つまり「わたくし」が妹と並列されることの意味を充分に説明できるだけの具体性をもって、と言うと、「妹の後を追って、私も真っ直ぐに天国に進んでいく」という解答にいたるのは、思考としては論理的だ。そうした解釈をつい発想して黙って苦笑している者もいるだろうし、わざと口にして積極的に笑いを取りにゆく者もいる。

 だがこの解釈も、単なる受け狙いではなく、それなりに整合的に解釈しようという工夫もあった。

 死にゆく妹と並列するからにも、兄も「まつすぐに」、天に向かって「すすんでいく」のだ。ただそれは、直ちに死ぬということではない。誰もが迎える死という終着点まで、一歩ずつ着実に歩んでいくということだ。とすれば、死に向かって「進んでいく」とは、ほぼ「生きていく」の同義だ。

 なるほど、言いようだ。


 一方、「悲しみを乗り越えて生きていく」という解釈の不整合に対しても、別なアイデアが提出された。

 「わたくし」が「すすんでいく=生きていく」のに対して、妹が「とおくへいく=死ぬ」を並列することはできない、というのが上記の考え方だが、「生きる」も「死ぬ」も、現時点に留まっていない、つまり、お前もこの世に未練を残さずにあの世に「すすんでいく」ことを裏返しに願っているのだ、と解釈すれば並列は可能なのではないか、というのだ。

 これもまたにわかには否定できない論理だ。


 だが上記二つの解釈は、後述する解釈に比べて、前の文脈から「わたくしも」という並列が引き出される必然性を充分に納得させる解釈にはなっていない。


 この詩行に至る文脈を確認しよう。

 前の部分からの論理を追うと、「も」が示す並列は、前の行の「わたくしのけなげないもうとよ」の中の「けなげ」を受けていることがわかる。

 「まつすぐにすすんでいく」とは「けなげ」であることを指しているのだ。妹が「けなげ」であったように「私も健気に生きていく」と言っているのだ、という解釈ができる。

 では「健気」とはどういうことを指しているか?

 さらに具体的な意味合いを捉えよう。

 ここらでヒントを出してもいい。

 ここで並列されるとし子の人となりがわかる詩句を後半から探す。

 それと、以前の授業の考察が伏線になっている。


 読解とはテキスト間の関連(文脈)において意味を読み取る行為だ。その部分だけを切り取って考えてはならない。

 着目すべきなのは、49行目からの「(うまれでくるたて/こんどはこたにわりやのごとばかりで/くるしまなあよにうまれてくる)」というとし子の言葉だ。これを「まつすぐにすすんでいく」の直前の部分と読み比べると、何か気付くことはないか?

 妹は何を言っているのか? 「また人に生まれてくるときは」「自分のことばかりで苦しまないように」どうしたいと言っているのか?


 この部分の直前と「うまれてくるたて…」はともに「他人のために生きる」という点において重ね合わせることができる。

 それぞれのクラスで、誰がこのフレーズを口にするだろう?

 このフレーズが場に提出されれば、他の者の中でも、ある論理が形成されるはずだ。

 この部分、「また生まれてくるときには」と「こんなに苦しまないように生まれてきます」を短絡させてはいけない。「苦しみたくない」と言っているのではない。「自分のことばかりで苦しむ」ことを悔やんでいるということは、本当は「自分のことばかり」ではなく「他人のことで苦しむ」ことが望みだったということだ。むしろ「苦しみたい」と言っているのだ。

 できるなら「他人のために生きて苦しむ」ことこそ、彼女の本望であったなのだ。それが叶えられないで死にゆく者の言葉として「(うまれでくるたて/こんどはこたにわりやのごとばかりで/くるしまなあよにうまれてくる)」は読める。


 一方で「まつすぐにすすんでいくから」の前の部分では先の「なぜ頼んだのか?」の考察が伏線になっている。

 兄にみぞれを採ってきてくれと頼む妹の要請が、自らの生理的な欲求によるものではなく、「わたくしをいつしやうあかるくするために」なされたのだと語り手は気づく。死の間際にありながら、それでも他人のことを考える妹の「けなげ」さに対して語り手は「ありがたう」と言っている。それを受けて「わたくし」なのだ。

 とすれば、「まつすぐにすすむ」とは、妹がそうしていたように、あるいはもっとそうしたかったように「他人のために生きる」ことにほかならない。この「から」は、そうして妹の遺志を継ぐことの宣言を理由として、妹が安心して天に召されることを願っていることを示しているのだ。


 さて、こうした考察によって初めて明らかになる一節がある。

 こうした賢治の願いと呼応する表現はどれか?


 「呼応する」とは曖昧だが、逆に言えば、これを踏まえていなければ意味のわからない表現がある。

 先の「沈む」と「気圏」を結びつける問いと同様に、これも答えを限定する問いではないが、聞けばなるほどとなるはずだ。

 55行目の「おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに」の中の「みんなとに」である。

 この「みぞれ」「雪」は、いわば妹の死に水、末期の水だ。「わたくし」はそのつもりで「おもて」に走ったのではなかったのか。それが「みんなとに」もたらされる理由はない。だからこの「みんなとに」の挿入は唐突だ。にわかには論理が見出せない。

 「みんなとに」がここに挿入されるのは、ここがいわば、妹の死後、それを願っていた妹の遺志を継いで兄が「みんなのために生きる」ことを妹への手向けの言葉として宣言しているからだ。

 これは、この部分の直前の「うまれてくるたて…」と詩の前半部の「まつすぐにすすんでいく」とを結ぶ隠れた論理を読み取ることによってこそ、ようやく辿り着く読解だ。


 「永訣の朝」という詩において、語り手が「他人のために生きる」ことを誓っているという解釈は、このようにして詩の論理として読み取ることができる。

 だがそれは必ずしもこの詩を「読む」ことによってもたらされる認識であるとは限らない。世の教師は、「銀河鉄道の夜」のジョバンニや蠍の祈り、「雨ニモマケズ」、あるいは宮沢賢治が農民のために一生を捧げた教師であるといった伝記的事実を事前に知っており、実はそれをガイドラインにして詩を読んでいるからだ。

 だがそうした詩の周辺の知識を「外部」から持ち込むことで賢治の祈りを捉えるよりも、目の前の詩の言葉を丹念に読むことによってそうした読みを生成することができる。そのダイナミズムを味わう方が、国語科の授業としてよほど意義深い。


 我々は授業において宮沢賢治という人物について知ろうとしているわけではないし、「永訣の朝」という詩について理解しようとしているのですらない。「国語」の学習をしているのだ。

 それは読者ひとりひとりが目の前のテクストを「読む」ことによってこそ成立する。


永訣の朝 14 ―語りの重層性

 兄の「まつすぐにすすんでいく」という決意と「私は私で一人、行きます」という呟きを重ねてみる。妹の死を乗り越えて強く生きていく、というような意味に両者をとる。

 この解釈をどう考えるか?


 これには反論が挙がらなければならない。

 「Ora…」が前述の通りそれ解釈できたとしても、「まつすぐにすすんでいく」が「妹の死を乗り越えて強く生きていく」ことだと考えるのが不適切である理由を挙げることはできる。何か?

 「わたくしまっすぐに」の「も」と不整合なのだ。

 「も」は並列を表す副助詞だ。妹と「わたくし」が並列されているのだ。これが「わたくしまつすぐにすすんでいく」ならば「妹の死を乗り越えて」でもいい。だが「わたくしも」だ。「すすんでいく」が「生きていく」ことであるならば、妹と自分を並列にすることはできない。


 だがもうちょっと解釈の可能性を探ってみる。

 まず「Ora…」を妹の言葉だと捉え、「ひとりでいく(Shitori egumo)」を「ひとりで遠くへ行く=死ぬ」の意味に解釈する。

 次に「まつすぐにすすんでいく」を「ひとりで生きていく」の意味でとるならば、それぞれが「ひとり」だという点で「も」の並列はとれるのではないか?

 つまり「わたくしも」の並列が「いく」に係っていると考えるときには、死にゆく妹と生きていく兄を並列には解釈できないが、「ひとりで」に係っていると考えれば、兄と妹の並列が解釈できるのではないか?


 これは「まつすぐに…」と「Ora…」を関連させて考えることで可能な論理ではあるが、22行目を読んでいる時点ではこのような解釈には無理がある。22行目までに「ひとり」であることが示されている詩句はないからだ。


 結局、「(Ora Orade Shitori egumo)」を「まつすぐにすすんでいく」と関連させる解釈は「Ora…」をどちらに解釈するにせよ、いずれも行き詰まってしまう。


 だがこうした考察を誘発する「Ora」が誰を指しているのか? という問いは不問に付されている。

 なぜか世の国語教師は始めから妹の言葉だと決めてかかって、「誰の言葉か?」ではなく「なぜローマ字で書かれているのか?」を問う。

 この問いについては、たとえば、「独りで逝きます」という妹の言葉を受け入れたくないという思いがこの言葉を異国の言葉のように書かせているのだ、などという答えが用意されている。

 どこからこんな解釈が出てくるのか?


 これがとし子の言葉であると「わかる」のは、連作「松の針」の中で「ほんたうにおまへはひとりでいかうとするか/わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ」と書いてあるからだ。つまりテクストの外部情報によってだ。「永訣の朝」の中で妹の言葉であることが確定できるわけではない。

 そしてローマ字である理由についての上記の解釈もまた「松の針」から導かれている。「永訣の朝」の読解によってそのような解釈をすることは不可能だ。できると考えるのは錯覚に過ぎない。そのように解釈できるというに過ぎないのに、一度そう解釈してしまうと、もうそうであるとしか思えなくなっている。

 だがこんな解釈は、否定はしないが魅力的でもない。なるほど、と思えない。

 賢治自身は、原稿ではこれ以外の二カ所のとし子の言葉もすべてローマ字で書いてから一度全てひらがなに直し、最終的にこの言葉だけをローマ字に戻したのだという(残っている草稿の調査からこういうことがわかる)。こうした成立過程は、賢治の中で、このローマ字がどのような効果を読者にもたらすかについての計算が働いていることを感じさせる。それは悲痛の余りそう書かざるを得なかった詩人、などという「作者神話」とはどうみてもズレてしまう。

 あるいは作者が関心を持っていたラテン語やエスペラント語らしい響きにしたかったからだ、などという解釈もある。だがそんなことはテクスト読解の範疇ではない。大学あたりで宮澤賢治研究でもやるのなら、そういう考証もあってもいいが、それは高校生にとっての国語の学習ではない。

 「Ora」が誰を指しているのかを問いとして提示する授業案は存在しないのは、国語の授業が「正解」の提示にこそ意味があると考えられていることの裏返しだ。はじめから結論のわかっている問題には考察の意義がないと考えられているのだ。

 だが今我々が臨んでいる授業という場は、あらかじめ結論の出た「正解」を周知する場ではなく、テクストを読解することによる合意を共有する場であるはずだ。


 そして、これがローマ字であることの効果について、授業者は特別な見解をもってはいない。わざと意味をとりにくくしているのだろうと思うのは、読者として意味が分かりにくいからだ。

 ともかくも、すぐにはわからない、という、読解に負荷をかけることに意味があるのであって、わかったときに、それが妹の言葉であろうが兄の言葉であろうが「独りで行く」ことの痛みを読者に感じさせることになるという効果が、このローマ字にあるとは思う。

 少なくとも、ローマ字といい、方言といい、回想の丸括弧といい、語りの階層を意図的に分けることで、重層的な、立体的な語りの構造を作っているのだろう、とひとまずは思う。

 こうした詩の技法や効果自体について語ることは、「永訣の朝」という悲哀に満ちた詩を読むという行為の重みに対して、少々「浮いて」しまう感じも否めないが、といって否定する気にはなれない。

 作者は間違いなく死者を悼み、慟哭にふるえている。

 だが同時に、詩人としての賢治が詩の表現技法について自覚的であることもまた、間違いないことなのだ。


永訣の朝 13 ―「Ora」とは誰か?

 22行目の「まつすぐにすすんでいく」という比喩は何を意味しているか?

 これを「今まで通りの道を逸れずに」とか「目的に向かって一直線に」などと言い換えても、まるで具体的ではない。「道」「目的」とは何を意味しているかがあらためて問題になるだけだ。

 「人として正しい道を進んでいく」でも、ほとんど同語反復だ。

 この詩の文脈に沿って、これがどのような事態を喩えたものであると考えると、妹が安心することとの因果関係が成立するのか?


 さて、この問題と合わせて考察してみたいのは、39行目「(Ora Orade Shitori egumo)」についてだ。

 この行については誰しも、なぜローマ字表記なのか? と考えたくなる。

 だがこれを問う気にはならない。この疑問について何かすっきりと腑に落ちる解釈を授業者はもっていないからだ。

 もちろんこの問題への主流の解釈は知っている。だがそれを聞いても、別段なるほどとは思えない。

 それは専ら、この部分の解釈が「なぜ賢治はローマ字で書いたのか?」という形で問われることに因る。つまり解釈の発想が「作者の意図」に向かっているのだ。

 だがそれはどこまでいっても推測に過ぎない。だから後で紹介する一般的な「解釈」を聞いても、何だか怪しげだと思ってしまう。


 それよりもこの詩句については時間があれば問うべきなのは次の問題なはずだ。

 「(Ora Orade Shitori egumo)」は誰の言葉か

 「Ora」とは誰を指しているか


 註には「私は私でひとりいきます」という意味だと書いてあるだけで「私」が誰を指しているかは書いていない。

 これを問いとして想定する授業案を見たことはない。

 だが問うてみれば、必ずどのクラスでも兄と妹に意見は分かれる。

 意見が分かれるということは考察の余地があるということだ。

 「Ora=私」とは誰なのか? そして「ひとりでいく」とはどういう意味か?


 このことが問われない理由ははっきりしている。結論は既にわかっているものとして看過されているのだ。

 だが詩の言葉自体からはそれが確定できず、どちらの解釈も可能だ。それなのにこうした問題が授業で問われないことには二つの要因があると思う。

 一つは、つまり解釈の結果を生徒に提示するのが授業の役割だと考えられていること。

 もう一つは、「作者の言いたいこと」を考えるのが読解だと考えられていること。


 一つ目の認識が誤っていることははっきりしている。授業は生徒の学習のためにあるのであり、現代文の学習とは生徒の国語力を伸ばす練習だ。解釈という行為自体が学習なのであり、その結果の提示はほとんど学習にはならないばかりか、タイミングによっては学習の機会自体を奪うことになる。

 もう一つは、評論文については間違っているわけではない。読解はそのテキストが示す「意味」を探る行為であり、それはほとんど「作者の言いたいこと」でもある。

 だが文学作品というテキストは、単に「意味」を指し示す散文と違って、読者との間に新たな「意味」を算出する開かれた芸術作品だ。

 だから問題は「降る/沈む」の考察同様、まずは読者がどのように感ずるか、だ。そしてそれが作者の意図によるものかどうかを推測し、そこに明確な答えを見つけられなくとも仕方ないと受け止めるべきなのだ。


 あらためて「Ora=私」とは誰なのか?

 兄説、妹説、双方を検討してみよう。

 妹説の根拠は、丸括弧で括られている他のふたつ「あめゆじゆ…」「うまれて…」が明らかに妹の言葉だから、というものだ。

 もちろんこの推測は一定の説得力をもっている。

 だが「丸括弧は妹の言葉だ」という判断は、根拠ではない。それ自体がある解釈の結果だ。

 ではそもそもこの詩における丸括弧はどのような意味を持っているか?

 丸括弧内の言葉とそれ以外の言葉にはどのような違いがあるか?


 この問いに「丸括弧は妹の言葉だ」と答えることが論理的に間違っていることは、誰もが自覚しなければならない。

 この問いに答えることは先の「ふる/沈む」の語義を答えるのと同様の、わかるはずのことを正しく言い当てることの難しさがある。だから誰かがそれを言い当てた時に「ああそうか」という納得の反応が皆から上がる。

 丸括弧に括られている言葉は、三つとも方言であり、それ以外の地の文は標準語だ。それ以外の違いはない。

 そこから括弧内の言葉を、口に出された言葉であるという解釈がなされ、文脈によってそれが妹が口にした言葉であると解釈される。

 だから「括弧内は妹の言葉」は解釈の結果なのだ。

 だがその語り手が統一されている保証はない。むしろ、これだけがローマ字で、三文字下げになっていない、といった差異によって、(Ora…)は他の二カ所と区別されているとも言える。

 ではこれが兄の言葉だと考えるとは、どのような解釈なのか?

 心中語なのだ。他の詩行とは違う形式でそれを挿入することによって語りを重層化しているのだ。


 この解釈を否定する論理はないはずだ。括弧を使って語りを重層化する手法は、賢治の他の詩にも見ることができる。

 だがなぜか、この言葉は妹のものであることは世の解釈においては前提されていて、どちらであるかが検討された跡は見られない。世の授業者自身は、一読者としてこれを疑問には思わなかったのだろうか?

 丸括弧が付されていることを根拠にこれを妹の言葉として読んだという、自らの読みを根拠に、これが妹の言葉だと主張するのは、単なる同語反復だ。これは「語り手のいる場所」の考察における、「外にいたら『おもてはへんに…』とは言わない」という主張と同じだ。反対側の解釈の可能性を検討して選択したわけではない自らの唯一の解釈を盲信している。


 内容的にはどう考えるべきか?

 この一行を挟む「けふおまへはわかれてしまふ」「ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ」の間にこの言葉を置く。

 妹だとすると、残していく兄を案じて、妹が別れを告げた言葉だいうことになる。あえて、一見冷たくも見える別れの言葉に、これからも生きていかねばならない兄への気遣いが見てとれる。

 一方兄だとすると、妹との別れを受け入れ、生き続けていこうとする決意の言葉だと受け取れる。それを心の中で呟いてさえ受け入れ難いその認識をもう一度「ほんたうに」と繰り返すのだ。

 そして36行目の「わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ」の「いつしよ」が「Shitori(ひとり)」になってしまうことへの悲痛な思いは、それがどちらの言葉であっても読者にそれと感じられるはずだ。

 やはりどちらにも解釈できる。どちらの解釈が適切であるというような有意な差はない。


 さて、この問題をこのタイミングで提示するのは、もちろんミスリードを意図している。「まつすぐにすすんでいく」とこの「私は私で一人、行きます」を結びつけさせようとしているのだ。

 どうなるか?



永訣の朝 12 -「から」の謎

 語り手のいる場所についての考察は、詩の中を流れる時間についての把握や、フィクションにおける「事実」の認定の問題、賢治の世界認識のありかたにまでいたる、案外に広い射程をもった考察だった。

 全体を捉えること。細部を見つめること。詩を読むためのアプローチはさまざまな角度から企図されていい。

 とはいえ、言わばこの詩の「定番」といえるいくつかの問題点については、すべてに触れるわけではない。

 たとえば「みかげせきざい」は唐突だなあと違和感があるが、とりたててそこに意味を見出すことはできていない。「まがったてっぽうだま」もあれこれ考察はできるが、それほど面白い認識の更新が起きていない。

 あるいは「永訣の朝」を授業で扱う際に言及されることの多い「二」という数字の意味についても、とりたてて関心がない。確かに「二」はどうみても意味ありげに繰り返される。だが、なぜ陶椀を「ふたつ」持つのかも、賢治が妹と自分をセットにして考えているからだろうという素朴な解釈以上のものはない。何か、認識が更新されるような感慨がおこらない。だから、なぜ賢治は陶椀を「ふたつ」持って出たのか? などと授業で聞く気にはなれない(C組の授業後にNさんから寄せられた、前半で「雪のひとわんを/おまへはわたくしにたのんだ」と言っているのに、後半では「おまえがたべるこのふたわんのゆき」となっているのはどういうことだ? という疑問は尤もだと思うが、あまり関心はない。後述する解釈に含まれるものとしてスルーしたい)。


 最後に扱うのは、この詩の主想に至る考察を導く問いだ。

 22行目の「わたくしもまつすぐにすすんでいくから」はどこに係るか?

 句読点のない詩を読むとき、我々は、倒置されている可能性も含めて係り受けを判断しながら文構造を把握している。どこかの詩行は文の途中であり、どこかの行は文末だ。

 「から」は終助詞ではないから、「いくから」という行末はどこかに係るものと、まずは思う。

 だが23行目は「(あめゆじゆとてちてけんじや)」のリフレインでつながらない。24.25行目「はげしいはげしい熱やあへぎのあひだから/おまへはわたくしにたのんだのだ」でも意味がわからない。その後にも22行目を受ける詩行はない。

 倒置の可能性も考えて、前を遡って探しても見つからない。

 つまりこの「から」はどこにも続かない。係っていない。といって「から」は終助詞ではないから通常の「文末」とは思えない。

 では何だ?

 つまり文末が省略されているのだ。

 では「~から」の後には何が省略されているのか? 「から」の後に何と補うか?

 難しくはない。無意識にそこを補っているからこそ「から」が宙に浮いてしまっていることにも、とりわけ違和感を覚えずにいるのだ。

 「安心して逝きなさい」「心配しないでおやすみ」「安らかに成仏してくれ」等々…。


 さて、ここからが問題。

 「から」は理由を表す接続助詞だ。「わたくしもまつすぐにすすんでいく」ことが「安らかに成仏してくれ」と言いうる理由になっているのだ。

 では「わたくしもまつすぐにすすんでいく」ことは、なぜ妹が「安心する」ことの理由になるのか?


 とはいえこんなことは疑問として意識されたりはしない。「まっすぐ」も「すすむ」も肯定的な意味合いを持った言葉だ。だから「まつすぐにすすんでいく」というのはそれだけで何やら良いことのように思われる。それで妹が安心することに不審を覚えたりはしない。

 では「まつすぐにすすんでいく」とは具体的に何を意味しているのか?


永訣の朝 11 ―「沈んでくる」のイメージ

 「視線の向き」という点について、語り手のいる場所ではなく、動詞のもともと持っている文脈的背景から、それが形成するイメージについて考えてみる。

 ここではそれぞれの動詞が通常使用される際に付随する助詞と補助動詞に注目する。

 「降る」は「~から降んでくる」、「沈む」は「~沈んでゆく」だ。「降る」のは「空から」であり、「沈む」のは「底へ」だ。

 「沈む」という動詞から我々の脳裏に浮かぶイメージは見下ろす視線となる。通常我々は水面上にいるからだ。「ふる/沈む」の対比で「沈む」が「見下ろす」だという意見は故あることだ。

 だが実際には、詩の中では「陰惨な雲から/みぞれはびちよびちよふつてくる」と「暗い雲から/みぞれはびちよびちよ沈んでくる」と、同じ文型に「降る/沈む」がはめ込まれている。

 「降る」については通常の文型だから、問題は、本来は不自然な文型に「沈む」が嵌め込まれていることの意味だ。普通は下向きの視線を想像させる「沈む」という動詞を、「~から~てくる」という本来不整合な文型に嵌め込むことによってどのような意味が生ずるか?

 「~から~てくる」という文型で表されている以上、視線は「から」の方向に向けられていると想像するしかない。つまり語り手はどうしても空を見上げなけらばならない。

 一方で「沈む」という動詞は、語り手自身のいる場所を「水底」としてイメージさせる。地上を水底と見立て、そこに立つ自分を、はるか上空から見下ろすイメージだ。

 その間の空間は、水面から底まで、液体の充満した空間―海かプールか水槽のような―だ。その底にポツンと立つ自分に向かって、みぞれはゆらゆらと「沈んで」ゆく

 先に、「みぞれが沈んでくる」という表現は動詞の比喩だと述べた。比喩とは、喩えるものと喩えられるもの、異なった二つの映像を重ねるはたらきをもった表現技法だ。動詞と文型がそれぞれ異なった映像を同時に生み出しているのだ。

 カメラは一台ではない。


 こうした「沈む」の解釈は、詩の中の他のどの言葉と響き合っているか?


 答えを限定するような問いではないが、同様に感じている者は必ずいるはずだ。

 14行目の「銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの」である。

 とりわけ「気圏」は、自分のいる地上が「底」であるという認識と響き合って、大気圏全体を(さらにその先に拡がる宇宙を)、広い空間として捉えさせる。

 そしてさらに詩の後半まで視野を広げさせると、それが最後に「天上」と響き合うことに気づく。

 逆にそうした賢治の認識から生み出されたのが「沈んでくる」という表現なのではないか。


 「沈む」という動詞は、確かに水分を多く含んだ重い「みぞれ」のイメージから導き出されたものかもしれないし、悲しみに「沈む」語り手の心情から導き出されたものかもしれない。

 だがそれよりも、「沈む」という動詞が、自分がいるこの地上を「大気の底」として捉えるイメージから発想されたものだと考えるのが、今のところ授業者にとっては最も腑に落ちる。

 この地上を「大気の底」―「天の下」と捉える認識は、科学的な世界観と宗教的な世界観が合致する地点にある。そのように世界を捉える人としての賢治という詩人の認識がこの「沈んでくる」という表現に表出しているように思える。


永訣の朝 10 ―「ふる/沈む」の違い

 賢治は、ほとんど同じ光景を描写する二つの詩句において、前者の「降る」を後者では「沈む」に置き換える。

 先に、「どう違うか?」という問いの後に、それと「どうして変えたのか?」が一致するかどうかを考えよう、と述べた。だがむしろここでは「沈む」という動詞はどのような思考によって発想されたのか? と考えよう。

 ここからの考察において重要なのは、この詩句を読んだ自分の心の裡に生じたイメージを、できるかぎり正確に捉えることと、それが詩句のどの部分から、どのような機制によって形成されたかを、できるかぎり正確に捉えることだ。つまり、主観的な読みの様相を客観的に捉えるのだ。そして自分以外の他者に届く言葉で語る。

 それが目指されている限り、この考察に統一的な決着点を想定する必要はない。だがそれはよく世間で飛び交う「詩の読みはひとそれぞれ。理屈は要らない」などという不誠実を誤魔化したもっともらしい「文学趣味」な言説とは違う。誠実な思考だけが可能にする自己理解、他者理解を目指しているのだ。


 語り手が最初から「おもて」にいるという読解は、詩の前半の読みに決定的な変更を迫る。

 それを「ふつてくる/沈んでくる」の違いという点から考えよう。

 「ふつてくる/沈んでくる」の違いとして挙げられた諸点を確認しよう。

   ふって/沈んで

  軽い/重い

  速い/遅い

 客観的/主観的

見上げる/見下ろす

 このうち、語り手のいる場所「室内/屋外」から導かれた「違い」を修正する。

 視線の向きと時間の経過は、大きな修正を迫られる。語り手のいる場所の違いはない。時間の経過もほとんどない。

 「降り方」やみぞれの様子の違いは、印象としてはあるが、それが時間の経過による、実際のみぞれやその降り方の差を表わしていると考える必要はない。


 となると「降る/沈む」という動詞そのものの違いからこの2行の違いを考えるべきだということになる。

 動詞自体の違いを明らかにしよう。「降る」と「沈む」という二つの動詞はどう違うか?

 そもそもどういう意味の言葉か?

 日常的な場面で「降る」と「沈む」を適切に使うことはできる。つまり意味はわかっている。だが「わかっている」ことと「説明できる」ことは違う。これがまずは第一の課題だ。


 まず、「降る」は空気中を下降する様子であり、「沈む」は主に液体中を下降する様子を表しているのだ、とシンプルに言葉にできただろうか?(経験上、これは案外に難しい。辞書に載せる「意味」を的確に表現するのは、「わかっている」ことより遙かに高度なのだ)

 「降る」は、みぞれの下降を表す動詞として自然な、無色透明な動詞だ。だからそれが「沈む」と言い換えられることの意味を考えるというのがこの後の課題だ。

 「みぞれが降る」というニュートラルな表現に比べて、「みぞれが沈む」という不自然な表現は、いわば動詞による比喩表現だと言える。

 動詞の比喩?

 直喩=明喩で言うと?

 「『沈む』ように『降ってくる』」のだ。

 それはどんなイメージか?


 まずはみぞれの粒と降り方の印象の違い。

 「空気中を下降する/液体中を下降する」という違いから、「降る」が「軽い・速い」、「沈む」が「重い・遅い」とイメージされるのは「降る/沈む」という動詞から生じる違いとして納得できる。したがって同じみぞれでも「沈む」の方が水分含有量が多いような印象がある。

 だがこれは「沈んでくる」の時点で水分含有量が多くなった、ということではない。時間的にそれほど差のない二つの描写において、みぞれの降り方やその粒の感触が変わるわけではない。「びちよびちよ」と形容されている時点で、みぞれは最初から水分を多く含んでいたと言ってもいい。

 とはいえ、実際に違った動詞から形成されるイメージには、やはり違いがあるのだ、とは言える。「降る」では、単なる事態の「説明」になっていたのが、「沈む」では、より水分量を増して、ゆっくりと下降するイメージとなる「描写」になるのだ、と言ってもいい。


 では、「沈む」を心情表現として解釈するのはどうか。

 やはりこれも、語り手の心情の変化として捉えるべきではない。6行目と15行目の時間的経過はわずかなものだろうし、気分が「沈んで」いるとすれば、それは詩の語り出しの時点からそうだったのだ。だからこそ「へんに」なのだし「いつさう陰惨な雲」なのだ。

 そして「沈んでくる」みぞれは「さっぱりした雪」だし、それを採っていくことが「わたくしをいつしやうあかるくする」のだ。

 とりわけ6行目から15行目に向かって重みを増すように気分が「沈」んでいく変化は詩句の中からは認められない。

 だがもちろん、最初から「沈んで」いた語り手の心情が、ここであらためて表現の一部として示されることで、読者を共感させる機能を持っていることは認めてもいい。


 だが上の二点よりも重要なのは次に述べるイメージだと、個人的には思う。



2024年1月24日水曜日

永訣の朝 9 ―詩を「体験」する

 かつて室内にいる語り手を想像していた授業者は、冒頭で「いもうとよ」と呼びかけられる妹は眠っている(意識を失っている)ものと特に考えるでもなく想像していた。熱にあえいでいるとはいえ、意識のある妹に「おもては」とか「みぞれは」とかいう窓の外の眺めを描写するのは不自然だからだ。

 だがこの想像は、よく考えると不自然だ。詩句からは、7行目以降に妹が目を覚まして「採ってきて」と言ったようには思えない。「あめゆじゆとてちてけんじや」は、この詩の最初の一行より前に発せられたものであろう。だからこそ「あめゆじゅとてちてけんじゃ」は4回とも回想だと思える。

 とすると、妹に「熱やあへぎのあいだから」みぞれを採ってきてくれと言われた兄は、なぜかその時点では動かず、妹が眠りにつくまで枕元にいて、なぜか窓の外の様子を(心の中で)語りかけ、その後、何をきっかけにしたのか、突如思い立って焦ったように「てつぱうだまのやうに…飛びだした」ということになる。しかもそのみぞれを、いつ目覚めるとも知れない妹に食べさせるつもりなのだ。

 こうした想像は不自然で辻褄が合わない。

 といって、最初の時点で妹が目覚めたままであるとしても、やはり意識のある妹に外の様子を語るのは不自然だし、なぜ頼まれてすぐに採りに行かないのか、何をきっかけに飛び出したのかはやはり説明がつかない。


 それよりもこう考えるのが自然だ。

 語り手は妹に雨雪を採ってきてくれと言われてすぐに、「てつぱうだまのやうに」「おもて」に「飛びだした」のだ。明らかに妹が食べることを想定しているからだ。語り手が妹の枕元で長居する時間はない。まして意識のない妹の枕元にいる機会などない。

 妹は眠ってなどおらず、今しも病室で熱にあえぎながらも兄の採ってくるみぞれを待っている。

 その妹に呼びかける詩の冒頭が、この詩の現在時点だ。

 これは「あめゆじゆ…」の科白が実際に妹の口から発せられてから、およそ1分程のことであろう。

 そして、飛びだして見るとみぞれを降らせる雲は「くらい」にもかかわらず、全体として「おもてはへんにあかるい」。この「へんに」に感じられる胸騒ぎは、妹に死が迫った状況を素直に受け入れられない語り手の心情を表してもいようが、同時に、室内から見ていたのとは違っておもてに出てみると、というニュアンスでもあると考えると腑に落ちる。

 とすると「ふつてくる」と「沈んでくる」の詩句の間には、わずかな回想の間があるだけで、ほとんど時間経過はなく、詩の終わりまでみても、雨雪をどこから採るかに彷徨しているとはいえ、全体として5分程のイメージとなる。


 こう考えてみると、冒頭の「おもてはへんにあかるいのだ」の語り手が室内にいるという想像は、詩句の与える情報の不整合を単に看過することで成立しているのだ。一度、最初から外にいるという「読み」について知って、それを本気で想像してみると、もう、そうとしか思えない。むしろ、両方の読みの可能性を知った上で、やはり室内なのだと主張する者がいるとは思えない。

 この妥当性は誰にも納得されるはずだ。


 とはいえこうしたシミュレーションを分析的に語ることは、詩を読むこととは相容れないことのように感じるかもしれない。もちろん、詩というフィクションの虚構性/現実性の区別など、一義的に決定できない実に曖昧なものだ。

 とはいえ「永訣の朝」という詩は、他の賢治の詩とは違って、現実に基づいているというメタ情報によってこそ、フィクションとして「体験」される。「春の修羅」の「序」を「体験」することは難しいが、妹を失う朝にみぞれを採りに庭に走る「体験」を想像することはできる。

 フィクションを享受することは、一方ではその世界をもう一つの現実として「体験」することでもあり、同時に、一般的に詩を読むことは、リアルな時間感覚を超越した超現実的な「体験」でもある。

 だが少なくとも、過去の数知れない読者―授業者自身を含めた―は、現実的な「体験」の水準としては、「室内からみぞれの降る空を見る」という、詩の中には存在していない、間違った「体験」をしていたのだ。


 ではなぜ賢治はこんなにわかりにくい、殆どの人に誤解されるような書き方をしているのか?

 そうではない。賢治は想定の中で、語り手を庭先に立たせて詩を語りはじめながら、それが「室内にいる」などという別の解釈を成立させる余地があることに、おそらくまったく思い至ってはいないのだろう。だからわざわざそのことを誤解なく読者に伝えなければならない、という意識すらしていない。

 だが、それでもその想定は詩句の選択や造型、配置の際、上に指摘したような細部にその痕跡をとどめているのだ。


永訣の朝 8 ―「おもて」にいる根拠

 二つの全く異なった読みを提示したが、どちらが正しいかをディベートのように議論することはできない。人数に偏りがありすぎるのと、結論が一方に想定されているからだ(ディベートはどちらも主張しうるような問題設定の時にのみ成立しうる)。

 語り手が詩の冒頭部分で「室内にいる」という読みの方が妥当性が高いと考える根拠はおそらく、ない。「おもては」にしろ「飛びだした」にしろ、室内にいることの根拠にはならない。なるように感じるのは前述の「因果関係の逆転」だ。


 実は授業者の思い描いていたのも、最初に「永訣の朝」を読んで以来永らく「わたくし」が室内にいる光景だった。

 それから30年あまり経って、授業者に別の「読み」の可能性をもたらしたのは高校生の息子だった。

 その授業では、詩の中で繰り返される「あめゆじゅとてちてけんじゃ」の変化が議論されたのだそうだ。そして、最初の2回はとし子の直接の発言で、後の2回は回想なのだという見解が示されたのだと。

 この見解は授業者も解説書で見たことがある。馬鹿げた解釈だと思う。授業者には、この言葉は4回とも回想されたものとして、エコーがかって聞こえてくる。たとえ最初の2回が、語り手が室内にいる場面だとしても。

 この馬鹿げた解釈は、語り手が2回目までは室内にいたことを根拠としてなされたものだが、この問題について議論してきた息子が家に帰って問題にしたのは、回想か直接の言葉かではなく、最初の場面で室内にいるという読みについてだった。彼は「みんな室内にいるって言うんだけど、私には最初から外にいるように思える」と言ったのだった。

 それを聞き、半信半疑でその可能性を検討したときの感覚は、いわゆるちょっとした「コペルニクス的転回」だった。驚いたことに、語り手が詩の最初から「おもて」にいて、今しも「みぞれ」をその身にあびているのだという解釈は他のどの詩句とも矛盾しない。それどころか、そう考えてこそ詩句の細部が整合的に納得されると感じた。


 そう、授業はそちらの解釈を合意する方向で展開する。

 ではその妥当性の根拠は何か?


 歴代の生徒たちや今年度のみんなが挙げた緒論点はいくつかある。

 そのうちでも最も多く指摘されるのは、室内にいるのなら6行目は「ふつてくる」ではなく「ふつている」の方が自然だ、というものだ。

 誰もがこれを認めるだろうが、では室内だと思っていた者は、これをどう納得していたのか?

 「ふってくる」のは空から地上に、だ。つまり自分のいる場所を、窓の外か室内かという区別をせずに「地上」という括りで捉えているのだ。


 あるいは12行目の「このくらいみぞれのなかに飛びだし」の文末の過去の助動詞「た」は、語り手の行動については詩の中でここだけでしか使用されていない、これは「飛びだした」が回想であることを示している、という主張もある。

 これもまた一理あるが、ではなぜ室内という解釈も可能なのか?

 「た」という口語助動詞は過去と完了の区別ができない(「模様のついた」の「た」は過去ではなく存続)。「飛びだした」は回想にも感じられるが、たった今の完了でもいいのだから、ほとんど現在時点の記述であるとも読める。


 まだ根拠は挙がる。

 9行目と12行目に注目すると「青い蓴菜の~」から「飛びだした」までが回想だと感じられる根拠が指摘できる。みんな誘導に乗って正しくそのことを説明できただろうか?

 ポイントは9行目の「これら」と12行目の「この」だ。

 このふたつの言葉を取り除くと、この部分が現在進行形の行為の描写であるように感じられるが、「これら」は、既に陶椀が語り手の手中にあることを示しているし、「この」は、既に語り手が「みぞれのなか」にいることを示している。だからこの5行がまるごと回想であるように感じられるのだ。


 これらはそれぞれに説得力があるが、といって「室内ではあり得ない」と言いうるだけの絶対性のある根拠ではない。だからこそみんな「室内」という解釈に対して疑問を抱かないのだ。

 だが語り手は最初から「おもて」にいると考えるべき最大の理由は他にある。

 詩の冒頭で語り手が「室内にいる」「庭先にいる」それぞれの想定において、詩の中のできごとを時系列順に並べ、そのどちらが自然かを想像してみよう。

 どのようなシミュレーションがなされるか?


永訣の朝 7 ―「わたくし」は「おもて」にいる

 詩の最初の場面、語り手は室内にいるか、屋外にいるか?

 どちらが正しいかを考えるより先に、まずは両方の読みを確実に掴むことが重要だ。

 想像してみる。熱に苦しむとし子の病床の傍らで、賢治が己の無力さをかみしめつつ「いもうとよ」と呼びかける。窓の外を見て「みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ」と心の中で妹に語りかける(これらの詩句が、直接口に出され、妹に語りかけられたものだとは考えにくい)。窓の外の空を見上げ、みぞれが降ってくる様子を語り、それから「陶椀」を手にしてみぞれを採りに「おもて」に飛びだす。

 一方、あらたに想像しようとしているのは、はじめからみぞれの降る庭先に立つ賢治の姿だ。「わたくし」は暗い雲の下に佇んで、そこから室内の病床に横たわる妹に「けふのうちに/とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ」と語り始める。今しも「おもて」にいる語り手が、さっき明るい室内から見た時の印象と違ってここは「へんにあかるいのだ」と表現しているのだ(庭先から語りかけているのだから、こちらももちろん心中語)。

 驚くべき認識の変更が訪れないだろうか?


 二つの読みを主張する者の割合は前述の通り甚だしく偏っているが、それは読みの妥当性を証明するわけではない。双方とも語り手が室内にいるか屋外にいるかという二つの解釈の可能性を考えた上で選んだものでは、おそらくない。単にそうした解釈しか思い浮かべていなかったというだけなのだ。

 授業の意義はここにある。それぞれ読者は、何かきっかけがなければ自分の「読み」を相対化することができない。自分の中に生成された「読み」は、あらためて自覚的に考え直さない限りは絶対的なものだ。

 だからこそ、自分以外のものが周りにいて、それぞれの「読み」を提出しあうことに意味がある。

 少数の「語り手は始めから外にいる」という読みをした読者もまた、実は自身が少数派であることを知らずにいる。

 それどころか、おそらくそのように読んだ者も、「語り手はどこにいるか?」という問いかけによって、はじめて最初から外にいる語り手の姿が想像されているという自らの読みを「発見」するのだろう。

 そしてその発見が自覚的でない場合、議論をしているうちに、周囲の多数派の「室内にいる」という疑いのない前提に触れると、たちまち自分の「外にいる」という感じを撤回して(あろうことかそれを忘れてしまいさえして)、「室内にいる」前提の議論に巻き込まれてしまう。

 それは残念なことだ。

 どんな可能性も、まずは根拠に基づいて検討されるべきなのだ。

 どちらかの「読み」を正解として理解することが学習ではない。

 そんなことを「教える」気は、授業者にはない。問題はそうした読解の適切さの検討だ。


 最初から外にいるという説を聞いた時に、「室内」派が反論として挙げるのは、「みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ」という一節だ。外にいたら「おもては…のだ」とは言わない、と彼らは主張する。

 これは実は因果が逆転している。語り手が室内にいると主張する者は、「おもては」によって室内であることを確信したのではなく、室内だという想像の後に「おもては」という言説を理解し、得心しているのだ。「おもては」から限定的に室内であることが想像される蓋然性はない。前提を留保し、虚心坦懐に、屋外にいるところを想像してからこの詩句を読めば、それが何ら不自然でないことは理解できるはずだ。


 そもそも語り手が室内にいるという読解はどのように生じたのか?

 ひとつの有力な要因は11~12行目「わたくしはまがつたてつぱうだまのやうに/このくらいみぞれのなかに飛びだした」だ。ここで「飛びだした」のだから、そこまでは室内にいたのだ。

 一方語り手が最初から屋外にいると読んだ者は、この部分をどう考えるのか?

 回想と考えればいい。今現在屋外に佇む語り手が、自分が今「おもて」にいる事情を回想しているのだ。「わたくしは」さっき「飛びだし」て、今「みぞれのなか」にいる。

 このように、最初から屋外にいたという解釈が可能であることを示すことはできるが、それがただちに屋外であることの根拠になるわけではない。そうも考えられる、というだけだ。

 「『飛びだした』とあるからそこまでは室内にいるのだ」という説明もおそらく、やはり因果が逆転している。読者は「飛びだした」を根拠として、そこまでを「室内にいる」と読んだわけではない。読者からしてみれば、明示されていないのに、語り手が「おもて」にいるという想像をすることはそもそも不可能なのであり、妹の危篤状態という詩の中の状況が把握されるのと同時に、病床につき添う語り手の姿が自然に想像されているということなのだろう。そうした想像を「このくらいみぞれのなかに飛びだした」以降が屋外なのだ、という確認が補完する、というのが実際のところなのだ。

 では、最初から外にいるという読みはいったいどこから生まれたのか? 


永訣の朝 6 -「ふつて/沈んで」の違い

 語り手はどこにいるか?

 「ふつてくる/沈んでくる」はどう違うか?


 まず「ふつて/沈んで」の違い。

 こういうときは自分の感受性を信じて、まずは「感じて」みる。想像してみる。同時にそれを分析しつつ言葉にしていく。その表現と自分の感じているものが一致しているか、先入観を持たずに確かめる。

 どのクラスでもまず挙げられるのは、みぞれの降り方の印象だ。

 「ふつてくる」の方が、みぞれは相対的に軽く、速く、「沈んでくる」の方が重く、遅い。

 「ふつてくる」が「客観的」、「沈んでくる」が「主観的」という印象もいくつかのクラスで挙がった。

 視線の向きについての言及も多い。

 「ふつてくる」は見上げていて「沈んでくる」は見下ろしている。

 ふって/沈んで

  軽い/重い

  速い/遅い

 客観的/主観的

見上げる/見下ろす

 さて、これらの違いはどこから生じているのか?

 読解に影響するのは、基本的にはテキスト内情報と、明示されていない、我々があらかじめ持っている常識だ。

 テキスト内情報とは何か?

 いうまでもなくここでは「ふる/沈む」という動詞の違いが、まずはこのフレーズの違いを生んでいる。

 もう一つは、どこにそれぞれのフレーズが置かれているかというこの詩の中の位置の違い。その前後の文脈の違いが二つの行の印象に影響する。 

 上の対比的な違いは、これらのどちらから生じているか?


 例えば、妹の病状の変化、あるいは妹の病状を思う兄の心情の変化から両者の違いを捉える意見もある。「沈む」という動詞は「気分が沈む」という慣用表現でも使われる。したがって、妹の病状を思いやるにつれ、兄の気分は重く、「沈んで」いく。確かに文学作品においては、文中に描かれた情景は基本的に感情の表現として読むべきである。

 とすれば、これは「沈む」という動詞自体の意味と、文脈の両方を根拠とした解釈だということになる。

 それ以外の相違点は?


 さて、「ふつてくる/沈んでくる」の違いについて、「こころ」でも何度か言及した教科書の解説書では、以下のような説明をしている。

「ふつてくる」は室内から見える雪の様子を捉えているが、「沈んでくる」は外に出た「わたくし」に向かって降ってくる雪の動きの印象を捉えた表現となっている。(明治書院)

「ふつてくる」の方は、家の中から外を見やっての情景として印象づけられるが、「沈んでくる」の方は、みぞれが地面=底にいる自分に向かって降ってきて、自分がそのみぞれを仰ぎ見ている情景という印象が強い。(大修館)

(みぞれは)妹の病床に付き添っていた室内から見ている時は、気が滅入るように降り続ける。外へ出て、空を見上げると、みぞれが自分に向かって沈み込んでくるように感じられる。降っていた「みぞれ」は沈み込むような重量感を加えられ、陰惨さを増す。(東京書籍)

「ふつてくる」の方は、室内から戸外に降るみぞれに対して眼差しを向けた表現であり、「沈んでくる」は、実際に戸外にいてみぞれを感じながら、自分の足元にみぞれが沈みたまっていく様子を描いている。(筑摩書房)

 4つの出版社の解説書から引用してみたが、こうしてみると、「みぞれ」そのものの印象について言及しているものは、みんなの考察に比べて意外なほど少ない。「ふつてくる/沈んでくる」の違いは語り手の視座の位置の違いとして説明されている。そしていずれの解説でも「ふつてくる」は室内から外を眺める視線であり、「沈んでくる」は外にいて見上げる視線だと解説されている。

 さて、こういう「先生」の説明に対して、みんなはどう思うか?


 明らかに食い違うのは「沈んでくる」は「見下ろす」だというみんなの大方の意見と、上の説明の「仰ぎ見る」だ。

 そうした解釈の根拠になっているのは語り手のいる場所だ。

 「ふつてくる」の時点では室内にいて「沈んでくる」では屋外にいる。

 これが「語り手はどこにいるか?」という問いについての「答え」だ。この想定が、「ふつてくる/沈んでくる」の違いを考える上で前提されている。

 だが本当にこの見解には、全員が賛成しているのか?

 そうではない読みが、議論の中でかき消されてしまったということはないか?


 こう聞いてみるのは、授業者の経験では、この見解には少数ながら異論を唱える者がいるからだ。

 どこが違うのか?


 今年も、総じてクラスに2名前後の者が、「わたくし」は、詩の最初から屋外にいる、と言う。

 室内から外を見るような場面は、この詩に存在しない、と。

 そんな読みがありうるのだろうか?


永訣の朝 5 -リフレイン

 語り手のいる場所とともに、並行してもう一つの問いを投げかけておく。

 次の二つの表現はどう違うか?

6行目 みぞれはびちよびちよふつてくる

15行目 みぞれはびちよびちよ沈んでくる

 詩という形式は、意図的にある文言を繰り返すリフレインという技法を使うことが多い。「小景異情」にも「サーカス」にもリフレイン=繰り返されるフレーズがある。「永訣の朝」では「あめゆじゆとてちてけんじや」というとし子の言葉が繰り返される。

 リフレインは、そのまま同じ形で繰り返されるだけでなく、少しずつ変形しながら繰り返されることもある。歌詞の1番と2番のように。とりわけサビでは明らかにリフレインを意識した相似性の中で、微妙に表現を変えることが、意味の響き合いを生む効果を狙っていることが多い。

 「永訣の朝」の5・6行目

うすあかくいつそう陰惨な雲から

みぞれはびちよびちよふつてくる

と14・15行目

蒼鉛いろの暗い雲から

みぞれはびちよびちよ沈んでくる

 は内容的にも文構造的にも共通している。つまり意図的なリフレインだと考えられる。「変形」型の。

 この変形は何をもたらすか? 何のための変形か?

 ただし前の「~雲」までの変更については授業者の方に特にアイデアがないので扱わない。何か面白いアイデアがあったら聞かせて。

 授業では末尾の「ふつてくる」と「沈んでくる」の違いについては考える。

 この表現の変更は何を意味しているのか?


 考える際には次の1,2の順に考える。

どう違うか?

なぜ変えたのか?

 まず、自分の心に問いかける。どう違うように感じるか?

 そしてその違いが作者の表現したかったものであるかどうかを検討する。それが一致するのがコミュニケーションとしての幸せな解釈というものだ。

 だが、作者の意図しない「意味」が発生することを、テクスト解釈は避けられない。それは作品を享受する受け手の自由だ。作品は作者の手を離れて自由なのだ。


 語り手のいる場所とリフレインの変更。

 これら二つの問題を関係づけて考える。

 この二つの問題は関係づけて考えなくてはならない。テクストを文脈において解釈するとは、そういうことだ。

 語り手はどこにいるか?

 「ふつてくる/沈んでくる」はどう違うか?



永訣の朝 4 -語り手はどこにいるか?

 すべての言葉には「語り手」がいる。その存在感の濃淡には様々な程度があるが、すべての言葉は、誰かから誰かに対して発せられたものだ(独り言でさえ!)。

 文章の場合、「筆者」などという言い方もある。さらに小説や詩などの場合には「作者」という言い方もあるが、「語り手」と「筆者」、「作者」は、それぞれ別の概念であり、対象は同一だったりまったく異なったりする。

 三人称小説の場合は語り手の存在そのものが希薄になるから、作者と語りの違いはそれほど明らかには感じられない。

 だが一人称小説の「私」は、基本的に作者その人ではない。うら若い少女の「あたし」を創造した作者が、中年の男性だったりする。

 例えば手紙という体裁をとった小説の場合、語り手は明らかに登場人物の誰かであり、受け手もまたその手紙を受け取るはずの登場人物の誰かだ。「こころ」の「下」は語り手が「先生」で、受け手は大学生の「私」だった。

 「語り手」という概念は、現実から虚構までの様々なレベルで想定しうる。

 語り手と受け手が誰なのか、どのような関係なのかといった情報は、その言葉の解釈に強い影響を及ぼすメタレベルのコンテクスト(文脈)だ。


 「語り手」は、虚構作品の場合、あくまでフィクショナルな存在だと考えなければならない。小説に比べると詩は虚構と現実の境が曖昧で、「私」が登場しなければ、語り手はほとんど作者に見えてしまう。だが作者と同一視されかねない「私」が語る詩でも、性別や年齢によって、「私」のイメージはさまざまでありうる。老齢の詩人が語る詩と青春期にある若者が語る詩とでは、読み方も変わる。

 「I was born」の、中学1年生の出来事を思い出している語り手は、何歳くらいなのだろうか。彼を作者本人と考える必要はない。詩の中に描かれた物語そのものがおそらくフィクションだ。

 とはいえ「永訣の朝」においては、「わたくし」は賢治その人のイメージと重なることを避けられない。妹とし子の死は現実の出来事だった。「永訣の朝」を読むほとんどの読者はそのことを知っている。だからそれ自体が解釈に影響するメタ情報であることを否定できない。

 だが今問題にしているのは、詩を書きつつある作者ではなく、みぞれを採ろうとしている「わたくし」だ。この詩が「朝」という設定になっているのは、これがフィクションとして享受されることを保証している。現実には、詩は妹の死後に書かれているのだろうから。そして、我々読者にとっては常に作品は他人事なのだから。


 さて、考えたいのはこの詩の中で、「わたくし」=語り手はどこにいるか、という問題だ。

 語り手/受け手が誰なのかというだけでなく、語り手のいる場所が解釈にとって極めて重要な意味をもっていたのは「小景異情」の解釈においてだった。語り手が「ふるさと」にいると想定するか「みやこ」にいると想定するかで「ふるさとは遠きにありておもふもの」の解釈はまるで異なる。どのように?

 端的な表現で言うならば「みやこ」にいる語り手が語っていれば「郷愁」とでもいうことになるだろうし、「ふるさと」にいる語り手が言えば「幻滅」とでもいう情感が詠われていることになる、という昨年の考察を授業でも確認した。


 「永訣の朝」の場合、語り手のいる場所は、この物語を体験する読者にとっての映像的なイメージに関わっている。ここでは「語り手」とは、そこで語られている情景を捉えている視点、情景を写すカメラのようなものだ。

 たとえば次の例文において、語り手はどこにいるか?

a.彼は部屋の中に入ってきた。

b.彼は部屋の中に入っていった。

c.彼は部屋の中に入った。

 三つの文で示される事態は同一だ。違うのは「語り手」のいる場所だ。

 それぞれの文の「語り手」はどこにいて、どのような情景を見ているか?


 言うまでもなくaは室内でbは室外(廊下?)だ。

 aではドアから入ってくる彼の顔が見え、bではドアの向こうに消える彼の背中が見える。

 一方「天皇は日本の象徴だ。」「愛は地球を救う。」などの抽象的な文では、「天皇」や「地球」の映像が思い浮かびはするものの、カメラの位置が想像できるような空間は想定できない。文の内容が抽象的になれば語り手の位置・場所を確定することはできない。する必要もない。

 だが「c.彼は部屋の中に入った。」では、事態は充分に具体的だが、語り手のいる場所は明確ではなく、カメラの位置は任意なものとなる。読み手は恣意的に映像を思い浮かべる。その像に妥当性があるとすれば、文脈の中での整合性が保証されるかどうかだ。

 だから本当は、「語り手」という概念は、単にカメラに例えられるような空間的に定位できる「視座」のことではない。cの語り手は、その事態を知りうる存在であり、そのことを誰かに伝えようとしている存在であり、登場人物を「彼」と呼ぶ存在である。だがその存在感は稀薄だ。

 それに比べ、この詩において、みぞれを採りに走る「わたくし」の存在感は明確であり、読者がこの詩を読みつつある今、確実にこの詩の中にいる。

 それはどこか?


2024年1月15日月曜日

永訣の朝 3 -雪のイメージ

 さて、仮に妹の頼み事を兄が叶えることが兄を「一生明るくする」ことになるのだと実際に妹が考えたとしても、兄がいくらかでも「明るくなる」ことができたとしたら、それは妹の意図通りになっているからでもあり、さらにそうした妹の意図をくみ取ったこと自体のせいでもある(またしても入れ子構造!)。

 だがまた、それだけでもないとも思う。


 今年度面白かったのは、兄に雪を採ってくれと頼むことがなぜ兄を明るくすることになるか? という問いに「雪で妹の身体が少しでも楽になるなら、それで兄の気持ちも楽になるから」という答えがあったことだ。

 これは前項で説明した、想定していた機制とどう違うか?


 上の理由は、頼み事の内容が雪であること自体が「明るくなる」機制に関わっている。

 だが元々想定していた理屈によれば、妹の願いを叶えることで「明るくなる」のだから、その願いの中身は問われていないことになる。言ってしまえば、ある切実さがありさえすればどんな依頼でもよいということになる。

 もちろん、どちらかが正解でそうでない方が間違っているというようなことではない。

 頼み事の内容が雪であることがかかわる「理由」として、「白い雪が、暗い病室を明るくするから」という答えも出た。思わず教室中で笑ったのだが、実はこれはあながち見当外れな解釈でもないかもしれない。

 そのことが感じられるかどうかは、問題の三行をどう読むかによる。

わたくしをいつしやうあかるくするために

こんなさつぱりした雪のひとわんを

おまへはわたくしにたのんだのだ

 この一節からまずは、依頼を叶えることで「わたくし」が「あかるく」なるのだ、という上の論理を読みとることができる。

 この論理によれば、その願いの中身は問われない。妹の願いを叶えた、という論理があればよいからだ。

 だが「するために」がかかっていく重点が「たのんだのだ」ではなく、次の行にあると読むこともできる。つまり、とし子は兄を「あかるくする」ための依頼の内容を決めるにあたって、そのもの自体が兄を「あかるくする」ことができるものとして「こんなさつぱりした雪」を意識的に選んだのだ、という論理である。

 つまり「こんなさつぱりした雪のひとわん」だからこそ「あかるくする」ことができるのだ、という論理として読むことも可能なのだ。


 「死に水」「末期(まつご)の水」という言葉がある。さまざまな物語の中で「おまえの死に水はとってやる」などという科白を聞いたことのある者は多いはずだ(と思ったが、授業中のみんなの反応はそうでもなかった)。

 「死に水」「末期の水」とは死者の末期(まつご)に、口に注ぎ入れる水のことだ。釈迦の入滅の際のエピソードが元になっている風習だという。現在では、実際には医師に臨終を告げられてから、湿らせた綿で死者の唇を拭うのが一般的な作法だという。葬儀で行われるのを見たことがある人もいるかもしれない。

 この詩の中で兄がとってくる雪は、妹にとってのいわば「死に水」「末期の水」なのだ。それはどのようなイメージをおびたものとして描かれているか。

 具体的に詩の中の表現を挙げよう。


 最初のうち「雪」は「みぞれ」と呼ばれ、「陰惨」「びちよびちよ」「くらい」といった陰鬱なイメージで語られる。

 そのイメージが途中から変わる。「すきとほる」「まつしろ」「うつくしい」からは、前半とは明らかに異なった肯定的な雪のイメージが感じ取れる。

 途中から雪のイメージが変化したのはなぜか?


 これが前項の、雪をとってきてくれと頼んだ妹の意図に気づいたからだと言うのはいささか牽強付会にすぎるだろうか。


 さて、肯定的にイメージされる雪が妹の「末期の水」として、妹を苦しみから救うのだ、だから兄も救われるのだ、という論理は正しい。

 それだけではない。

 「銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの/そらからおちた」「天上の」「聖い」などの形容からは、この妹の「さいごのたべもの=末期の水」である「雪」が、まぎれもない聖性をもったものとして描かれていることも感じ取れるはずだ。

 それが、妹の死を浄めるように感じられるのだ。

 読者にも、そして兄にも。

 それが兄を「いつしやうあかるくする」のだ。


 だがこれは、妹がそれを意図して兄に「たのんだ」のだということではない。妹が意図していたとすれば、兄に何か役割を与えようというところまでだろう。いやそれすら兄の妄想かもしれない。だが兄はそれを信じているし、同時に、聖性を持った「雪」を頼んだことも、それが兄を救うための妹の気遣いであったとすら言っているのである。

 ともあれ、どこまでが妹の意図であるかを詮索するまでもなく、兄にとっての聖性を帯びた「雪」のイメージが兄に救いをもたらし、「いつしやうあかるくする」のだという詩の論理は捉えておきたい。


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