2024年2月15日木曜日

「である」ことと「する」こと 9 -前後半の対比構造

 この文章(講演)は、大きく前半と後半に分けることができる。

 その感触を素朴に言えば、前半は「する」推しだったのに、後半は「である」推しだなあ…といったところだろう。

 こうした大きな対比構造が、保留にしているあれと重なることに気づくだろうか?

 再掲する。

ある面では甚だしく非近代的でありながら、他の面ではまたおそろしく過近代的でもある現代日本の問題

 先に保留にしたのは、この一節がこの文章全体の構成に対応しているからであり、丸山真男の中にはその構想ができているのだろうけれど、頭からそこまで到達しただけの読者(聴衆)には、何のことかわからないはずだからだ。

 だが今や最後まで読んで、全体を把握しようとしているみんなは、これと上の、大きな段落分けと重ねてみれば、もう「ある面/他の面」についても考えることができるはずだ。


 この一節が重要であることは、この対比がその後も表現をかえて繰り返されていることからもわかる。

  • 一方で「する」価値が猛烈な勢いで浸透しながら、他方では強靱に「である」価値が根を張り
  • 「『する』こと」の価値に基づく不断の検証が最も必要なところでは、それが著しく欠けているのに、他方さほど切実な必要のない、あるいは世界的に「する」価値のとめどない侵入が反省されようとしているような部面では、かえって効用と能率原理が驚くべき速度と規模で進展している
  • 「である」価値と「する」価値の倒錯│-│前者の否定しがたい意味をもつ部面に後者が蔓延し、後者によって批判されるべきところに前者が居座っているという倒錯

 これら3箇所は上の一節と同じ対比を示しているのであり、これが、「『である』ことと『する』こと」全体を二つに分けたときのそれぞれの「まとまり」をも示しているのだと気づくと、全体が把握される。


 すなわち文章全体は、前半が

ある面では甚だしく非近代的

  ↓

他方では強靱に「である」価値が根を張り

  ↓

「『する』こと」の価値に基づく不断の検証が最も必要なところでは、それが著しく欠けている

  ↓

後者(する)によって批判されるべきところに前者(である)が居座っている


 について述べ、後半は

他の面ではまたおそろしく過近代的

  ↓

一方で「する」価値が猛烈な勢いで浸透

  ↓

他方、世界的に「する」価値のとめどない侵入が反省されようとしているような部面では、かえって効用と能率原理(=「する」原理)が驚くべき速度と規模で進展している

  ↓

前者(である)の否定しがたい意味をもつ部面に後者(する)が蔓延し

 について述べている、と把握できる。


 こうした対比にはラベルを貼っておくのが便利だ。ラベルは短い方が使いやすい。できれば対になる一単語。

 「非近代/過近代」がいいか。


 さてこれがこの文章の前後半(「政治的な事柄から文化の問題に移行すると」)に対応しているというのだから、「政治/文化」=「非近代/過近代」ということになる。

 これが保留にしていた「面」であり、「領域」であり、「ところ」だ。


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