2024年2月15日木曜日

「である」ことと「する」こと 8 -段落分けというメソッド

 この文章の大きな対比「である/する」図式で文中の語句を拾い、考察に値する表現を解き明かしてきた。そのようにして全体を通読した上で全体の構造を捉える考察をする。「論旨全体をレイアウトする」の課題にもう一度取り組むのだ。

 小学生のときからお馴染みの読解メソッドとして「段落分けをする」という方法があるが、これは大きな視野でその構造を見ようとする思考のことだ。文章を大きな塊、まとまりとして考えることは、文章を俯瞰して、その構造を捉えようとしているのだ。

 この「構造」はいくつもの階層が重層的に組み合わされている。学校での人間関係が「班」→「クラス」→「学年」→「学校」などと階層化されるように。またそれらの階層に「部活動」「委員会」などの階層が横断的に交錯するように。

 同様に、文章では「段落」→「節」→「章」などという階層がある。「形式段落」は、ある文の句点の後を改行してしまって、次の文を一文字下げることで明示的に示された段落だ。あるいは、ときどき一行空きになっていたり、「『である』ことと『する』こと」のように、見出しをつけて「節」「章」を分けたりもする。

 それもまた、筆者がその構造を読者に示してくれているわけだ。もしも段落も章も全く区切られていなければ、文章の論旨はもっと把握しにくくなる。

 ここでは、全体を二つに分けて、それらがどのような塊なのかを言い表す。つまり明示されている「節/章」よりももう一つ上の階層のまとまりを捉えようというのだ。

 どこかの章から、すっぱりと後半になるわけではない。前半と後半の橋渡しをしている章がある。また、最後の一章は全体のまとめなので、どちらとも言えない。

 だがともかくも、前半と後半は明らかにトーンがかわっている。その変わり目はどのあたりで、それはつまりどのような「トーン」だというのか?


 この「まとまり」は、まずは明らかには言語化できない感触としてとらえられるはずだ。どうもこのへんから流れが変わったぞ…。

 そうして、そこまでの「流れ」とそこからの「流れ」を言語化する。

 「『である』ことと『する』こと」の場合、これら二つの大段落は対比的に表現できる。したがって、片方ずつが把握されるのではなく、同時に発想されるはずだ。

 対比的?

 ということは「である/する」という対比?

 悪くない。だがもう一歩、それが何だというのか?


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