さて、「まつすぐにすすんでいく」に戻ろう。これは具体的に何を意味しているか?
「わたくしも」の「も」の意味、つまり「わたくし」が妹と並列されることの意味を充分に説明できるだけの具体性をもって、と言うと、「妹の後を追って、私も真っ直ぐに天国に進んでいく」という解答にいたるのは、思考としては論理的だ。そうした解釈をつい発想して黙って苦笑している者もいるだろうし、わざと口にして積極的に笑いを取りにゆく者もいる。
だがこの解釈も、単なる受け狙いではなく、それなりに整合的に解釈しようという工夫もあった。
死にゆく妹と並列するからにも、兄も「まつすぐに」、天に向かって「すすんでいく」のだ。ただそれは、直ちに死ぬということではない。誰もが迎える死という終着点まで、一歩ずつ着実に歩んでいくということだ。とすれば、死に向かって「進んでいく」とは、ほぼ「生きていく」の同義だ。
なるほど、言いようだ。
一方、「悲しみを乗り越えて生きていく」という解釈の不整合に対しても、別なアイデアが提出された。
「わたくし」が「すすんでいく=生きていく」のに対して、妹が「とおくへいく=死ぬ」を並列することはできない、というのが上記の考え方だが、「生きる」も「死ぬ」も、現時点に留まっていない、つまり、お前もこの世に未練を残さずにあの世に「すすんでいく」ことを裏返しに願っているのだ、と解釈すれば並列は可能なのではないか、というのだ。
これもまたにわかには否定できない論理だ。
だが上記二つの解釈は、後述する解釈に比べて、前の文脈から「わたくしも」という並列が引き出される必然性を充分に納得させる解釈にはなっていない。
この詩行に至る文脈を確認しよう。
前の部分からの論理を追うと、「も」が示す並列は、前の行の「わたくしのけなげないもうとよ」の中の「けなげ」を受けていることがわかる。
「まつすぐにすすんでいく」とは「けなげ」であることを指しているのだ。妹が「けなげ」であったように「私も健気に生きていく」と言っているのだ、という解釈ができる。
では「健気」とはどういうことを指しているか?
さらに具体的な意味合いを捉えよう。
ここらでヒントを出してもいい。
ここで並列されるとし子の人となりがわかる詩句を後半から探す。
それと、以前の授業の考察が伏線になっている。
読解とはテキスト間の関連(文脈)において意味を読み取る行為だ。その部分だけを切り取って考えてはならない。
着目すべきなのは、49行目からの「(うまれでくるたて/こんどはこたにわりやのごとばかりで/くるしまなあよにうまれてくる)」というとし子の言葉だ。これを「まつすぐにすすんでいく」の直前の部分と読み比べると、何か気付くことはないか?
妹は何を言っているのか? 「また人に生まれてくるときは」「自分のことばかりで苦しまないように」どうしたいと言っているのか?
この部分の直前と「うまれてくるたて…」はともに「他人のために生きる」という点において重ね合わせることができる。
それぞれのクラスで、誰がこのフレーズを口にするだろう?
このフレーズが場に提出されれば、他の者の中でも、ある論理が形成されるはずだ。
この部分、「また生まれてくるときには」と「こんなに苦しまないように生まれてきます」を短絡させてはいけない。「苦しみたくない」と言っているのではない。「自分のことばかりで苦しむ」ことを悔やんでいるということは、本当は「自分のことばかり」ではなく「他人のことで苦しむ」ことが望みだったということだ。むしろ「苦しみたい」と言っているのだ。
できるなら「他人のために生きて苦しむ」ことこそ、彼女の本望であったなのだ。それが叶えられないで死にゆく者の言葉として「(うまれでくるたて/こんどはこたにわりやのごとばかりで/くるしまなあよにうまれてくる)」は読める。
一方で「まつすぐにすすんでいくから」の前の部分では先の「なぜ頼んだのか?」の考察が伏線になっている。
兄にみぞれを採ってきてくれと頼む妹の要請が、自らの生理的な欲求によるものではなく、「わたくしをいつしやうあかるくするために」なされたのだと語り手は気づく。死の間際にありながら、それでも他人のことを考える妹の「けなげ」さに対して語り手は「ありがたう」と言っている。それを受けて「わたくしも」なのだ。
とすれば、「まつすぐにすすむ」とは、妹がそうしていたように、あるいはもっとそうしたかったように「他人のために生きる」ことにほかならない。この「から」は、そうして妹の遺志を継ぐことの宣言を理由として、妹が安心して天に召されることを願っていることを示しているのだ。
さて、こうした考察によって初めて明らかになる一節がある。
こうした賢治の願いと呼応する表現はどれか?
「呼応する」とは曖昧だが、逆に言えば、これを踏まえていなければ意味のわからない表現がある。
先の「沈む」と「気圏」を結びつける問いと同様に、これも答えを限定する問いではないが、聞けばなるほどとなるはずだ。
55行目の「おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに」の中の「みんなとに」である。
この「みぞれ」「雪」は、いわば妹の死に水、末期の水だ。「わたくし」はそのつもりで「おもて」に走ったのではなかったのか。それが「みんなとに」もたらされる理由はない。だからこの「みんなとに」の挿入は唐突だ。にわかには論理が見出せない。
「みんなとに」がここに挿入されるのは、ここがいわば、妹の死後、それを願っていた妹の遺志を継いで兄が「みんなのために生きる」ことを妹への手向けの言葉として宣言しているからだ。
これは、この部分の直前の「うまれてくるたて…」と詩の前半部の「まつすぐにすすんでいく」とを結ぶ隠れた論理を読み取ることによってこそ、ようやく辿り着く読解だ。
「永訣の朝」という詩において、語り手が「他人のために生きる」ことを誓っているという解釈は、このようにして詩の論理として読み取ることができる。
だがそれは必ずしもこの詩を「読む」ことによってもたらされる認識であるとは限らない。世の教師は、「銀河鉄道の夜」のジョバンニや蠍の祈り、「雨ニモマケズ」、あるいは宮沢賢治が農民のために一生を捧げた教師であるといった伝記的事実を事前に知っており、実はそれをガイドラインにして詩を読んでいるからだ。
だがそうした詩の周辺の知識を「外部」から持ち込むことで賢治の祈りを捉えるよりも、目の前の詩の言葉を丹念に読むことによってそうした読みを生成することができる。そのダイナミズムを味わう方が、国語科の授業としてよほど意義深い。
我々は授業において宮沢賢治という人物について知ろうとしているわけではないし、「永訣の朝」という詩について理解しようとしているのですらない。「国語」の学習をしているのだ。
それは読者ひとりひとりが目の前のテクストを「読む」ことによってこそ成立する。
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