2024年2月3日土曜日

永訣の朝 11 ―「沈んでくる」のイメージ

 「視線の向き」という点について、語り手のいる場所ではなく、動詞のもともと持っている文脈的背景から、それが形成するイメージについて考えてみる。

 ここではそれぞれの動詞が通常使用される際に付随する助詞と補助動詞に注目する。

 「降る」は「~から降んでくる」、「沈む」は「~沈んでゆく」だ。「降る」のは「空から」であり、「沈む」のは「底へ」だ。

 「沈む」という動詞から我々の脳裏に浮かぶイメージは見下ろす視線となる。通常我々は水面上にいるからだ。「ふる/沈む」の対比で「沈む」が「見下ろす」だという意見は故あることだ。

 だが実際には、詩の中では「陰惨な雲から/みぞれはびちよびちよふつてくる」と「暗い雲から/みぞれはびちよびちよ沈んでくる」と、同じ文型に「降る/沈む」がはめ込まれている。

 「降る」については通常の文型だから、問題は、本来は不自然な文型に「沈む」が嵌め込まれていることの意味だ。普通は下向きの視線を想像させる「沈む」という動詞を、「~から~てくる」という本来不整合な文型に嵌め込むことによってどのような意味が生ずるか?

 「~から~てくる」という文型で表されている以上、視線は「から」の方向に向けられていると想像するしかない。つまり語り手はどうしても空を見上げなけらばならない。

 一方で「沈む」という動詞は、語り手自身のいる場所を「水底」としてイメージさせる。地上を水底と見立て、そこに立つ自分を、はるか上空から見下ろすイメージだ。

 その間の空間は、水面から底まで、液体の充満した空間―海かプールか水槽のような―だ。その底にポツンと立つ自分に向かって、みぞれはゆらゆらと「沈んで」ゆく

 先に、「みぞれが沈んでくる」という表現は動詞の比喩だと述べた。比喩とは、喩えるものと喩えられるもの、異なった二つの映像を重ねるはたらきをもった表現技法だ。動詞と文型がそれぞれ異なった映像を同時に生み出しているのだ。

 カメラは一台ではない。


 こうした「沈む」の解釈は、詩の中の他のどの言葉と響き合っているか?


 答えを限定するような問いではないが、同様に感じている者は必ずいるはずだ。

 14行目の「銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの」である。

 とりわけ「気圏」は、自分のいる地上が「底」であるという認識と響き合って、大気圏全体を(さらにその先に拡がる宇宙を)、広い空間として捉えさせる。

 そしてさらに詩の後半まで視野を広げさせると、それが最後に「天上」と響き合うことに気づく。

 逆にそうした賢治の認識から生み出されたのが「沈んでくる」という表現なのではないか。


 「沈む」という動詞は、確かに水分を多く含んだ重い「みぞれ」のイメージから導き出されたものかもしれないし、悲しみに「沈む」語り手の心情から導き出されたものかもしれない。

 だがそれよりも、「沈む」という動詞が、自分がいるこの地上を「大気の底」として捉えるイメージから発想されたものだと考えるのが、今のところ授業者にとっては最も腑に落ちる。

 この地上を「大気の底」―「天の下」と捉える認識は、科学的な世界観と宗教的な世界観が合致する地点にある。そのように世界を捉える人としての賢治という詩人の認識がこの「沈んでくる」という表現に表出しているように思える。


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