兄の「まつすぐにすすんでいく」という決意と「私は私で一人、行きます」という呟きを重ねてみる。妹の死を乗り越えて強く生きていく、というような意味に両者をとる。
この解釈をどう考えるか?
これには反論が挙がらなければならない。
「Ora…」が前述の通りそれ解釈できたとしても、「まつすぐにすすんでいく」が「妹の死を乗り越えて強く生きていく」ことだと考えるのが不適切である理由を挙げることはできる。何か?
「わたくしもまっすぐに」の「も」と不整合なのだ。
「も」は並列を表す副助詞だ。妹と「わたくし」が並列されているのだ。これが「わたくしはまつすぐにすすんでいく」ならば「妹の死を乗り越えて」でもいい。だが「わたくしも」だ。「すすんでいく」が「生きていく」ことであるならば、妹と自分を並列にすることはできない。
だがもうちょっと解釈の可能性を探ってみる。
まず「Ora…」を妹の言葉だと捉え、「ひとりでいく(Shitori egumo)」を「ひとりで遠くへ行く=死ぬ」の意味に解釈する。
次に「まつすぐにすすんでいく」を「ひとりで生きていく」の意味でとるならば、それぞれが「ひとり」だという点で「も」の並列はとれるのではないか?
つまり「わたくしも」の並列が「いく」に係っていると考えるときには、死にゆく妹と生きていく兄を並列には解釈できないが、「ひとりで」に係っていると考えれば、兄と妹の並列が解釈できるのではないか?
これは「まつすぐに…」と「Ora…」を関連させて考えることで可能な論理ではあるが、22行目を読んでいる時点ではこのような解釈には無理がある。22行目までに「ひとり」であることが示されている詩句はないからだ。
結局、「(Ora Orade Shitori egumo)」を「まつすぐにすすんでいく」と関連させる解釈は「Ora…」をどちらに解釈するにせよ、いずれも行き詰まってしまう。
だがこうした考察を誘発する「Ora」が誰を指しているのか? という問いは不問に付されている。
なぜか世の国語教師は始めから妹の言葉だと決めてかかって、「誰の言葉か?」ではなく「なぜローマ字で書かれているのか?」を問う。
この問いについては、たとえば、「独りで逝きます」という妹の言葉を受け入れたくないという思いがこの言葉を異国の言葉のように書かせているのだ、などという答えが用意されている。
どこからこんな解釈が出てくるのか?
これがとし子の言葉であると「わかる」のは、連作「松の針」の中で「ほんたうにおまへはひとりでいかうとするか/わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ」と書いてあるからだ。つまりテクストの外部情報によってだ。「永訣の朝」の中で妹の言葉であることが確定できるわけではない。
そしてローマ字である理由についての上記の解釈もまた「松の針」から導かれている。「永訣の朝」の読解によってそのような解釈をすることは不可能だ。できると考えるのは錯覚に過ぎない。そのようにも解釈できるというに過ぎないのに、一度そう解釈してしまうと、もうそうであるとしか思えなくなっている。
だがこんな解釈は、否定はしないが魅力的でもない。なるほど、と思えない。
賢治自身は、原稿ではこれ以外の二カ所のとし子の言葉もすべてローマ字で書いてから一度全てひらがなに直し、最終的にこの言葉だけをローマ字に戻したのだという(残っている草稿の調査からこういうことがわかる)。こうした成立過程は、賢治の中で、このローマ字がどのような効果を読者にもたらすかについての計算が働いていることを感じさせる。それは悲痛の余りそう書かざるを得なかった詩人、などという「作者神話」とはどうみてもズレてしまう。
あるいは作者が関心を持っていたラテン語やエスペラント語らしい響きにしたかったからだ、などという解釈もある。だがそんなことはテクスト読解の範疇ではない。大学あたりで宮澤賢治研究でもやるのなら、そういう考証もあってもいいが、それは高校生にとっての国語の学習ではない。
「Ora」が誰を指しているのかを問いとして提示する授業案は存在しないのは、国語の授業が「正解」の提示にこそ意味があると考えられていることの裏返しだ。はじめから結論のわかっている問題には考察の意義がないと考えられているのだ。
だが今我々が臨んでいる授業という場は、あらかじめ結論の出た「正解」を周知する場ではなく、テクストを読解することによる合意を共有する場であるはずだ。
そして、これがローマ字であることの効果について、授業者は特別な見解をもってはいない。わざと意味をとりにくくしているのだろうと思うのは、読者として意味が分かりにくいからだ。
ともかくも、すぐにはわからない、という、読解に負荷をかけることに意味があるのであって、わかったときに、それが妹の言葉であろうが兄の言葉であろうが「独りで行く」ことの痛みを読者に感じさせることになるという効果が、このローマ字にあるとは思う。
少なくとも、ローマ字といい、方言といい、回想の丸括弧といい、語りの階層を意図的に分けることで、重層的な、立体的な語りの構造を作っているのだろう、とひとまずは思う。
こうした詩の技法や効果自体について語ることは、「永訣の朝」という悲哀に満ちた詩を読むという行為の重みに対して、少々「浮いて」しまう感じも否めないが、といって否定する気にはなれない。
作者は間違いなく死者を悼み、慟哭にふるえている。
だが同時に、詩人としての賢治が詩の表現技法について自覚的であることもまた、間違いないことなのだ。
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