2024年2月7日水曜日

「である」ことと「する」こと 3 物神化・自己目的化

 引き続き第二・三章の対比。

  • 自己目的化・物神化/
  •     /点検・吟味・警戒・監視・批判
  • 「属性」・内在/そのつど検証
  •   定義や結論/プロセス
  •     先天的/
  •  身分・ドグマ/
  •   血族・人種/
  •      権威/現実的な機能と効用
  •      to be/ to do
  •        /業績
  •      君主/会社の上役
  •   まるごとの/仕事という側面についての


 これらは必ずしも対になっているわけではない。また既出の表現が繰り返し使われたらマークする(「不断」など)。

 こうして図式化したものを通観すると、この文章で「である/する」という対比で表したいものが見えてくる。


 さて、上の対比項目で考察すべき表現は「自己目的化・物神化」だ。

 これが「である」側に振り分けられることは、語義的にわかるわけではなく、文脈でわかる。「自己目的化―物神化―を不断に警戒し…」は「『である』化しないように絶えず『する』化し…」と言い換えられるのだと考えるから「自己目的化・物神化」は「である」なのだ。

 さてこの「自己目的化―物神化」とはどういうことか?


 こういうとき、対象となる部分だけを見ていてはいけない。周囲を見回して文脈の中で把握する思考が「読解」には重要だ。

 「物神化」と関連性・親和性も感じられる既出項目はどれか?

 「置き物」「祝福」だ。「物神化」とは、それを「置き物」として据え、神の恩寵のように「祝福」するという意味だと考えればいい。


 「物神化」は見慣れない比喩に惑わされてしまうが、ここで理解が試されるのはむしろ「自己目的化」だ。

 「自己目的化」も「物神化」も、まずは語義の確認も必要。そしてそれが文脈において何を意味するかを説明する。

 「自己目的化」の説明のためには「目的」ともう一語、必須の言葉がある。それがただちに思い浮かんでいなければならない。

 「手段」である。


 「自己目的化」とは、本来手段に過ぎないものが目的に置き換わることだ。

 ということは、ここでの「目的」と「手段」を明らかにすることが的確な説明のために必要だ。


 「民主主義」がどちらかであるわけではない。「民主主義」における「目的」と「手段」が何か、だ。

 「制度の自己目的化を不断に警戒し」とあるから、「制度」が「手段」だということだ。では目的は?


 民主主義という制度の「目的」は民主=国民主権だ。すなわち独裁や専制を許さないことが民主主義の目的なのだ。

 そのための手段が「制度」だということなのだが、「民主主義という制度」は抽象度の高い表現だから、ここはさらに具体的な制度を想起しよう。

 何を想起すべきか?


 ここでは選挙を挙げたい。議会制が挙がったのも良かった。

 さらに、授業で憲法が挙がったのは、なるほど、だった。

 「憲法」はなぜ民主を目的とする手段となる制度なのか?


 「法治原則」そのものが、そもそも権力の横暴を防ぐ手段でもありうるのだが、とりわけ憲法が他の法律と違うのは、他の法律が国民を縛るものであるのに対し、憲法は権力を縛るものという基本性質があるからだ。


 さて「自己目的化」の説明に、さらに条件をつける。

 どういう意味か、という説明とともに、これを用いて前頁の「ナポレオン三世のクーデター・ヒットラーの権力掌握」を説明してみる。すなわちこれらの例は「自己目的化」したことによって「血塗られ」ているのだ。

 どういうことか?


 さて、話し合う声を聞いていると、迷路に彷徨っているらしいグループもいる。「人民が…自己目的化を…不断に警戒し」の「自己目的化」の主語をナポレオン三世やヒトラーとして語っている。ヒトラーが権力掌握という「目的」のために選挙という手段を「自己目的化」した…。

 そうではない。

 「自己目的化」したのは「人民」だ。


 「ナポレオン三世のクーデター」がどのようなものかはよくわからなくても、論理的に推測できればいい。しなければならない。

 つまりナポレオン三世もヒトラーも選挙によって「民主」的に選ばれたのだ。そこでは目的のための手段である建前に則っている。

  • 目的―民主(国民主権)
  • 手段―制度=選挙

 なのにそれが民主的な制度であることに「安住」して、人々が制度そのものを、あるいは選挙結果を「物神化」し、「不断の検証」を怠っているうちに、権力者は徐々に独裁的にふるまって、やがては本来の目的であった「民主」を機能不全にしてしまったのだった。


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