引き続き第二・三章の対比。
- 自己目的化・物神化/
- /点検・吟味・警戒・監視・批判
- 「属性」・内在/そのつど検証
- 定義や結論/プロセス
- 先天的/
- 身分・ドグマ/
- 血族・人種/
- 権威/現実的な機能と効用
- to be/ to do
- /業績
- 君主/会社の上役
- まるごとの/仕事という側面についての
これらは必ずしも対になっているわけではない。また既出の表現が繰り返し使われたらマークする(「不断」など)。
こうして図式化したものを通観すると、この文章で「である/する」という対比で表したいものが見えてくる。
さて、上の対比項目で考察すべき表現は「自己目的化・物神化」だ。
これが「である」側に振り分けられることは、語義的にわかるわけではなく、文脈でわかる。「自己目的化―物神化―を不断に警戒し…」は「『である』化しないように絶えず『する』化し…」と言い換えられるのだと考えるから「自己目的化・物神化」は「である」なのだ。
さてこの「自己目的化―物神化」とはどういうことか?
こういうとき、対象となる部分だけを見ていてはいけない。周囲を見回して文脈の中で把握する思考が「読解」には重要だ。
「物神化」と関連性・親和性も感じられる既出項目はどれか?
「置き物」「祝福」だ。「物神化」とは、それを「置き物」として据え、神の恩寵のように「祝福」するという意味だと考えればいい。
「物神化」は見慣れない比喩に惑わされてしまうが、ここで理解が試されるのはむしろ「自己目的化」だ。
「自己目的化」も「物神化」も、まずは語義の確認も必要。そしてそれが文脈において何を意味するかを説明する。
「自己目的化」の説明のためには「目的」ともう一語、必須の言葉がある。それがただちに思い浮かんでいなければならない。
「手段」である。
「自己目的化」とは、本来手段に過ぎないものが目的に置き換わることだ。
ということは、ここでの「目的」と「手段」を明らかにすることが的確な説明のために必要だ。
「民主主義」がどちらかであるわけではない。「民主主義」における「目的」と「手段」が何か、だ。
「制度の自己目的化を不断に警戒し」とあるから、「制度」が「手段」だということだ。では目的は?
民主主義という制度の「目的」は民主=国民主権だ。すなわち独裁や専制を許さないことが民主主義の目的なのだ。
そのための手段が「制度」だということなのだが、「民主主義という制度」は抽象度の高い表現だから、ここはさらに具体的な制度を想起しよう。
何を想起すべきか?
ここでは選挙を挙げたい。議会制が挙がったのも良かった。
さらに、授業で憲法が挙がったのは、なるほど、だった。
「憲法」はなぜ民主を目的とする手段となる制度なのか?
「法治原則」そのものが、そもそも権力の横暴を防ぐ手段でもありうるのだが、とりわけ憲法が他の法律と違うのは、他の法律が国民を縛るものであるのに対し、憲法は権力を縛るものという基本性質があるからだ。
さて「自己目的化」の説明に、さらに条件をつける。
どういう意味か、という説明とともに、これを用いて前頁の「ナポレオン三世のクーデター・ヒットラーの権力掌握」を説明してみる。すなわちこれらの例は「自己目的化」したことによって「血塗られ」ているのだ。
どういうことか?
さて、話し合う声を聞いていると、迷路に彷徨っているらしいグループもいる。「人民が…自己目的化を…不断に警戒し」の「自己目的化」の主語をナポレオン三世やヒトラーとして語っている。ヒトラーが権力掌握という「目的」のために選挙という手段を「自己目的化」した…。
そうではない。
「自己目的化」したのは「人民」だ。
「ナポレオン三世のクーデター」がどのようなものかはよくわからなくても、論理的に推測できればいい。しなければならない。
つまりナポレオン三世もヒトラーも選挙によって「民主」的に選ばれたのだ。そこでは目的のための手段である建前に則っている。
- 目的―民主(国民主権)
- 手段―制度=選挙
なのにそれが民主的な制度であることに「安住」して、人々が制度そのものを、あるいは選挙結果を「物神化」し、「不断の検証」を怠っているうちに、権力者は徐々に独裁的にふるまって、やがては本来の目的であった「民主」を機能不全にしてしまったのだった。
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