賢治は、ほとんど同じ光景を描写する二つの詩句において、前者の「降る」を後者では「沈む」に置き換える。
先に、「どう違うか?」という問いの後に、それと「どうして変えたのか?」が一致するかどうかを考えよう、と述べた。だがむしろここでは「沈む」という動詞はどのような思考によって発想されたのか? と考えよう。
ここからの考察において重要なのは、この詩句を読んだ自分の心の裡に生じたイメージを、できるかぎり正確に捉えることと、それが詩句のどの部分から、どのような機制によって形成されたかを、できるかぎり正確に捉えることだ。つまり、主観的な読みの様相を客観的に捉えるのだ。そして自分以外の他者に届く言葉で語る。
それが目指されている限り、この考察に統一的な決着点を想定する必要はない。だがそれはよく世間で飛び交う「詩の読みはひとそれぞれ。理屈は要らない」などという不誠実を誤魔化したもっともらしい「文学趣味」な言説とは違う。誠実な思考だけが可能にする自己理解、他者理解を目指しているのだ。
語り手が最初から「おもて」にいるという読解は、詩の前半の読みに決定的な変更を迫る。
それを「ふつてくる/沈んでくる」の違いという点から考えよう。
「ふつてくる/沈んでくる」の違いとして挙げられた諸点を確認しよう。
ふって/沈んで
軽い/重い
速い/遅い
客観的/主観的
見上げる/見下ろす
このうち、語り手のいる場所「室内/屋外」から導かれた「違い」を修正する。
視線の向きと時間の経過は、大きな修正を迫られる。語り手のいる場所の違いはない。時間の経過もほとんどない。
「降り方」やみぞれの様子の違いは、印象としてはあるが、それが時間の経過による、実際のみぞれやその降り方の差を表わしていると考える必要はない。
となると「降る/沈む」という動詞そのものの違いからこの2行の違いを考えるべきだということになる。
動詞自体の違いを明らかにしよう。「降る」と「沈む」という二つの動詞はどう違うか?
そもそもどういう意味の言葉か?
日常的な場面で「降る」と「沈む」を適切に使うことはできる。つまり意味はわかっている。だが「わかっている」ことと「説明できる」ことは違う。これがまずは第一の課題だ。
まず、「降る」は空気中を下降する様子であり、「沈む」は主に液体中を下降する様子を表しているのだ、とシンプルに言葉にできただろうか?(経験上、これは案外に難しい。辞書に載せる「意味」を的確に表現するのは、「わかっている」ことより遙かに高度なのだ)
「降る」は、みぞれの下降を表す動詞として自然な、無色透明な動詞だ。だからそれが「沈む」と言い換えられることの意味を考えるというのがこの後の課題だ。
「みぞれが降る」というニュートラルな表現に比べて、「みぞれが沈む」という不自然な表現は、いわば動詞による比喩表現だと言える。
動詞の比喩?
直喩=明喩で言うと?
「『沈む』ように『降ってくる』」のだ。
それはどんなイメージか?
まずはみぞれの粒と降り方の印象の違い。
「空気中を下降する/液体中を下降する」という違いから、「降る」が「軽い・速い」、「沈む」が「重い・遅い」とイメージされるのは「降る/沈む」という動詞から生じる違いとして納得できる。したがって同じみぞれでも「沈む」の方が水分含有量が多いような印象がある。
だがこれは「沈んでくる」の時点で水分含有量が多くなった、ということではない。時間的にそれほど差のない二つの描写において、みぞれの降り方やその粒の感触が変わるわけではない。「びちよびちよ」と形容されている時点で、みぞれは最初から水分を多く含んでいたと言ってもいい。
とはいえ、実際に違った動詞から形成されるイメージには、やはり違いがあるのだ、とは言える。「降る」では、単なる事態の「説明」になっていたのが、「沈む」では、より水分量を増して、ゆっくりと下降するイメージとなる「描写」になるのだ、と言ってもいい。
では、「沈む」を心情表現として解釈するのはどうか。
やはりこれも、語り手の心情の変化として捉えるべきではない。6行目と15行目の時間的経過はわずかなものだろうし、気分が「沈んで」いるとすれば、それは詩の語り出しの時点からそうだったのだ。だからこそ「へんに」なのだし「いつさう陰惨な雲」なのだ。
そして「沈んでくる」みぞれは「さっぱりした雪」だし、それを採っていくことが「わたくしをいつしやうあかるくする」のだ。
とりわけ6行目から15行目に向かって重みを増すように気分が「沈」んでいく変化は詩句の中からは認められない。
だがもちろん、最初から「沈んで」いた語り手の心情が、ここであらためて表現の一部として示されることで、読者を共感させる機能を持っていることは認めてもいい。
だが上の二点よりも重要なのは次に述べるイメージだと、個人的には思う。
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