かつて室内にいる語り手を想像していた授業者は、冒頭で「いもうとよ」と呼びかけられる妹は眠っている(意識を失っている)ものと特に考えるでもなく想像していた。熱にあえいでいるとはいえ、意識のある妹に「おもては」とか「みぞれは」とかいう窓の外の眺めを描写するのは不自然だからだ。
だがこの想像は、よく考えると不自然だ。詩句からは、7行目以降に妹が目を覚まして「採ってきて」と言ったようには思えない。「あめゆじゆとてちてけんじや」は、この詩の最初の一行より前に発せられたものであろう。だからこそ「あめゆじゅとてちてけんじゃ」は4回とも回想だと思える。
とすると、妹に「熱やあへぎのあいだから」みぞれを採ってきてくれと言われた兄は、なぜかその時点では動かず、妹が眠りにつくまで枕元にいて、なぜか窓の外の様子を(心の中で)語りかけ、その後、何をきっかけにしたのか、突如思い立って焦ったように「てつぱうだまのやうに…飛びだした」ということになる。しかもそのみぞれを、いつ目覚めるとも知れない妹に食べさせるつもりなのだ。
こうした想像は不自然で辻褄が合わない。
といって、最初の時点で妹が目覚めたままであるとしても、やはり意識のある妹に外の様子を語るのは不自然だし、なぜ頼まれてすぐに採りに行かないのか、何をきっかけに飛び出したのかはやはり説明がつかない。
それよりもこう考えるのが自然だ。
語り手は妹に雨雪を採ってきてくれと言われてすぐに、「てつぱうだまのやうに」「おもて」に「飛びだした」のだ。明らかに妹が食べることを想定しているからだ。語り手が妹の枕元で長居する時間はない。まして意識のない妹の枕元にいる機会などない。
妹は眠ってなどおらず、今しも病室で熱にあえぎながらも兄の採ってくるみぞれを待っている。
その妹に呼びかける詩の冒頭が、この詩の現在時点だ。
これは「あめゆじゆ…」の科白が実際に妹の口から発せられてから、およそ1分程のことであろう。
そして、飛びだして見るとみぞれを降らせる雲は「くらい」にもかかわらず、全体として「おもてはへんにあかるい」。この「へんに」に感じられる胸騒ぎは、妹に死が迫った状況を素直に受け入れられない語り手の心情を表してもいようが、同時に、室内から見ていたのとは違っておもてに出てみると、というニュアンスでもあると考えると腑に落ちる。
とすると「ふつてくる」と「沈んでくる」の詩句の間には、わずかな回想の間があるだけで、ほとんど時間経過はなく、詩の終わりまでみても、雨雪をどこから採るかに彷徨しているとはいえ、全体として5分程のイメージとなる。
こう考えてみると、冒頭の「おもてはへんにあかるいのだ」の語り手が室内にいるという想像は、詩句の与える情報の不整合を単に看過することで成立しているのだ。一度、最初から外にいるという「読み」について知って、それを本気で想像してみると、もう、そうとしか思えない。むしろ、両方の読みの可能性を知った上で、やはり室内なのだと主張する者がいるとは思えない。
この妥当性は誰にも納得されるはずだ。
とはいえこうしたシミュレーションを分析的に語ることは、詩を読むこととは相容れないことのように感じるかもしれない。もちろん、詩というフィクションの虚構性/現実性の区別など、一義的に決定できない実に曖昧なものだ。
とはいえ「永訣の朝」という詩は、他の賢治の詩とは違って、現実に基づいているというメタ情報によってこそ、フィクションとして「体験」される。「春の修羅」の「序」を「体験」することは難しいが、妹を失う朝にみぞれを採りに庭に走る「体験」を想像することはできる。
フィクションを享受することは、一方ではその世界をもう一つの現実として「体験」することでもあり、同時に、一般的に詩を読むことは、リアルな時間感覚を超越した超現実的な「体験」でもある。
だが少なくとも、過去の数知れない読者―授業者自身を含めた―は、現実的な「体験」の水準としては、「室内からみぞれの降る空を見る」という、詩の中には存在していない、間違った「体験」をしていたのだ。
ではなぜ賢治はこんなにわかりにくい、殆どの人に誤解されるような書き方をしているのか?
そうではない。賢治は想定の中で、語り手を庭先に立たせて詩を語りはじめながら、それが「室内にいる」などという別の解釈を成立させる余地があることに、おそらくまったく思い至ってはいないのだろう。だからわざわざそのことを誤解なく読者に伝えなければならない、という意識すらしていない。
だが、それでもその想定は詩句の選択や造型、配置の際、上に指摘したような細部にその痕跡をとどめているのだ。
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