語り手はどこにいるか?
「ふつてくる/沈んでくる」はどう違うか?
まず「ふつて/沈んで」の違い。
こういうときは自分の感受性を信じて、まずは「感じて」みる。想像してみる。同時にそれを分析しつつ言葉にしていく。その表現と自分の感じているものが一致しているか、先入観を持たずに確かめる。
どのクラスでもまず挙げられるのは、みぞれの降り方の印象だ。
「ふつてくる」の方が、みぞれは相対的に軽く、速く、「沈んでくる」の方が重く、遅い。
「ふつてくる」が「客観的」、「沈んでくる」が「主観的」という印象もいくつかのクラスで挙がった。
視線の向きについての言及も多い。
「ふつてくる」は見上げていて「沈んでくる」は見下ろしている。
ふって/沈んで
軽い/重い
速い/遅い
客観的/主観的
見上げる/見下ろす
さて、これらの違いはどこから生じているのか?
読解に影響するのは、基本的にはテキスト内情報と、明示されていない、我々があらかじめ持っている常識だ。
テキスト内情報とは何か?
いうまでもなくここでは「ふる/沈む」という動詞の違いが、まずはこのフレーズの違いを生んでいる。
もう一つは、どこにそれぞれのフレーズが置かれているかというこの詩の中の位置の違い。その前後の文脈の違いが二つの行の印象に影響する。
上の対比的な違いは、これらのどちらから生じているか?
例えば、妹の病状の変化、あるいは妹の病状を思う兄の心情の変化から両者の違いを捉える意見もある。「沈む」という動詞は「気分が沈む」という慣用表現でも使われる。したがって、妹の病状を思いやるにつれ、兄の気分は重く、「沈んで」いく。確かに文学作品においては、文中に描かれた情景は基本的に感情の表現として読むべきである。
とすれば、これは「沈む」という動詞自体の意味と、文脈の両方を根拠とした解釈だということになる。
それ以外の相違点は?
さて、「ふつてくる/沈んでくる」の違いについて、「こころ」でも何度か言及した教科書の解説書では、以下のような説明をしている。
「ふつてくる」は室内から見える雪の様子を捉えているが、「沈んでくる」は外に出た「わたくし」に向かって降ってくる雪の動きの印象を捉えた表現となっている。(明治書院)
「ふつてくる」の方は、家の中から外を見やっての情景として印象づけられるが、「沈んでくる」の方は、みぞれが地面=底にいる自分に向かって降ってきて、自分がそのみぞれを仰ぎ見ている情景という印象が強い。(大修館)
(みぞれは)妹の病床に付き添っていた室内から見ている時は、気が滅入るように降り続ける。外へ出て、空を見上げると、みぞれが自分に向かって沈み込んでくるように感じられる。降っていた「みぞれ」は沈み込むような重量感を加えられ、陰惨さを増す。(東京書籍)
「ふつてくる」の方は、室内から戸外に降るみぞれに対して眼差しを向けた表現であり、「沈んでくる」は、実際に戸外にいてみぞれを感じながら、自分の足元にみぞれが沈みたまっていく様子を描いている。(筑摩書房)
4つの出版社の解説書から引用してみたが、こうしてみると、「みぞれ」そのものの印象について言及しているものは、みんなの考察に比べて意外なほど少ない。「ふつてくる/沈んでくる」の違いは語り手の視座の位置の違いとして説明されている。そしていずれの解説でも「ふつてくる」は室内から外を眺める視線であり、「沈んでくる」は外にいて見上げる視線だと解説されている。
さて、こういう「先生」の説明に対して、みんなはどう思うか?
明らかに食い違うのは「沈んでくる」は「見下ろす」だというみんなの大方の意見と、上の説明の「仰ぎ見る」だ。
そうした解釈の根拠になっているのは語り手のいる場所だ。
「ふつてくる」の時点では室内にいて「沈んでくる」では屋外にいる。
これが「語り手はどこにいるか?」という問いについての「答え」だ。この想定が、「ふつてくる/沈んでくる」の違いを考える上で前提されている。
だが本当にこの見解には、全員が賛成しているのか?
そうではない読みが、議論の中でかき消されてしまったということはないか?
こう聞いてみるのは、授業者の経験では、この見解には少数ながら異論を唱える者がいるからだ。
どこが違うのか?
今年も、総じてクラスに2名前後の者が、「わたくし」は、詩の最初から屋外にいる、と言う。
室内から外を見るような場面は、この詩に存在しない、と。
そんな読みがありうるのだろうか?
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