さて、仮に妹の頼み事を兄が叶えることが兄を「一生明るくする」ことになるのだと実際に妹が考えたとしても、兄がいくらかでも「明るくなる」ことができたとしたら、それは妹の意図通りになっているからでもあり、さらにそうした妹の意図をくみ取ったこと自体のせいでもある(またしても入れ子構造!)。
だがまた、それだけでもないとも思う。
今年度面白かったのは、兄に雪を採ってくれと頼むことがなぜ兄を明るくすることになるか? という問いに「雪で妹の身体が少しでも楽になるなら、それで兄の気持ちも楽になるから」という答えがあったことだ。
これは前項で説明した、想定していた機制とどう違うか?
上の理由は、頼み事の内容が雪であること自体が「明るくなる」機制に関わっている。
だが元々想定していた理屈によれば、妹の願いを叶えることで「明るくなる」のだから、その願いの中身は問われていないことになる。言ってしまえば、ある切実さがありさえすればどんな依頼でもよいということになる。
もちろん、どちらかが正解でそうでない方が間違っているというようなことではない。
頼み事の内容が雪であることがかかわる「理由」として、「白い雪が、暗い病室を明るくするから」という答えも出た。思わず教室中で笑ったのだが、実はこれはあながち見当外れな解釈でもないかもしれない。
そのことが感じられるかどうかは、問題の三行をどう読むかによる。
わたくしをいつしやうあかるくするために
こんなさつぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
この一節からまずは、依頼を叶えることで「わたくし」が「あかるく」なるのだ、という上の論理を読みとることができる。
この論理によれば、その願いの中身は問われない。妹の願いを叶えた、という論理があればよいからだ。
だが「するために」がかかっていく重点が「たのんだのだ」ではなく、次の行にあると読むこともできる。つまり、とし子は兄を「あかるくする」ための依頼の内容を決めるにあたって、そのもの自体が兄を「あかるくする」ことができるものとして「こんなさつぱりした雪」を意識的に選んだのだ、という論理である。
つまり「こんなさつぱりした雪のひとわん」だからこそ「あかるくする」ことができるのだ、という論理として読むことも可能なのだ。
「死に水」「末期(まつご)の水」という言葉がある。さまざまな物語の中で「おまえの死に水はとってやる」などという科白を聞いたことのある者は多いはずだ(と思ったが、授業中のみんなの反応はそうでもなかった)。
「死に水」「末期の水」とは死者の末期(まつご)に、口に注ぎ入れる水のことだ。釈迦の入滅の際のエピソードが元になっている風習だという。現在では、実際には医師に臨終を告げられてから、湿らせた綿で死者の唇を拭うのが一般的な作法だという。葬儀で行われるのを見たことがある人もいるかもしれない。
この詩の中で兄がとってくる雪は、妹にとってのいわば「死に水」「末期の水」なのだ。それはどのようなイメージをおびたものとして描かれているか。
具体的に詩の中の表現を挙げよう。
最初のうち「雪」は「みぞれ」と呼ばれ、「陰惨」「びちよびちよ」「くらい」といった陰鬱なイメージで語られる。
そのイメージが途中から変わる。「すきとほる」「まつしろ」「うつくしい」からは、前半とは明らかに異なった肯定的な雪のイメージが感じ取れる。
途中から雪のイメージが変化したのはなぜか?
これが前項の、雪をとってきてくれと頼んだ妹の意図に気づいたからだと言うのはいささか牽強付会にすぎるだろうか。
さて、肯定的にイメージされる雪が妹の「末期の水」として、妹を苦しみから救うのだ、だから兄も救われるのだ、という論理は正しい。
それだけではない。
「銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの/そらからおちた」「天上の」「聖い」などの形容からは、この妹の「さいごのたべもの=末期の水」である「雪」が、まぎれもない聖性をもったものとして描かれていることも感じ取れるはずだ。
それが、妹の死を浄めるように感じられるのだ。
読者にも、そして兄にも。
それが兄を「いつしやうあかるくする」のだ。
だがこれは、妹がそれを意図して兄に「たのんだ」のだということではない。妹が意図していたとすれば、兄に何か役割を与えようというところまでだろう。いやそれすら兄の妄想かもしれない。だが兄はそれを信じているし、同時に、聖性を持った「雪」を頼んだことも、それが兄を救うための妹の気遣いであったとすら言っているのである。
ともあれ、どこまでが妹の意図であるかを詮索するまでもなく、兄にとっての聖性を帯びた「雪」のイメージが兄に救いをもたらし、「いつしやうあかるくする」のだという詩の論理は捉えておきたい。
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