Kの恋の自白の場面と自殺を発見する場面に共通する構造とは何か?
そこから見えてくる問題を、「こころ」の主題として捉える。ゴールの目印は近代的個人が持つとされる「自由と責任」の問題だ。
考察も大詰めだから、考える時間をまとめてとるために、なるべくこちらから提供する情報や条件を揃えておこう。
一つ目。
授業でこの部分を考察すると、二つの場面とも、「私」にとって想定外の展開だったのだ、と語る生徒がいる一方で、どちらも、決定的な瞬間にいたる前に「私」は何か予感のようなものを感じている、と指摘する生徒もいる。
こうした食い違いは何を意味するか(対立する意見というのは話し合いを盛り上げる良い契機だ)。
予感はあったのか? なかったのか?
「驚き」「衝撃」を共通要素として挙げるならば、予感はなかったというしかない。
実際に恋の自白の場面では、「私の予覚はまるでなかったのです」とあからさまに言っている。恋の自白などということ自体が、Kの日頃の言動に不似合いだ。
また、Kの自殺は、勿論それを事前に知ることなぞできるはずもなく、「意外」「予想外」であってこそ衝撃的な展開たりうるのだ。
だが一方で先に指摘した「既視感」は、自覚されない予感があったことの裏返しなのではないか?
三十六章の「私はまた何か出てくるなとすぐ感づいた」や、四十八章の「暗示を受けた人のように」などの記述は、「予覚はなかった」という言葉とは裏腹な不吉な「予感」のようなものがあったことを示してはいないだろうか?
これは何を意味しているか?
二つ目。
この二つの「ほぼ同じ」場面に、さらに二つの状況を並列して共通点を探る。
この「ほぼ同じ」と言われる場面と、似たような感触、似たような衝撃を覚える場面は、教科書に収録されている部分のエピソード、場面ではどれか?
そう訊かれてあれこれの場面を思い返したとき、次の場面を想起できれば、授業者が感じているのと「ほぼ同じ感じ」を共有していることになる。
最初の「曜日の特定」の展開の中ではエピソード6と称していたエピソード、奥さんが、娘と「私」の婚約の件をKが知っていることを「私」に伝える場面だ。
同じような「感じ」が、この場面にもないだろうか?
もう一つ。最後に「こころ」の主題を考え直すこの展開の中で考えた「正直な道を歩く」問題だ。
結論を出さないまま、次の授業では「黒い光」「ほぼ同じ感じ」問題の考察に展開したのは、これらが同じ問題に通じていると授業者は考えているからだ。
「正直な道」「歩くつもりで」の解釈を巡って、大きく二つの解釈を提示して議論をくり広げてきたが、問題は「足を滑らす」とはどのような事態を指しているか、だ。
実はここにも、同じ要素、同じ構造があるというのが授業者の見通しなのだ。
三つ目。
四つの状況に共通した構造が何なのか考えるために、もう一度、そもそもの二つの場面の共通性を本文の表現で確認しておく。
二つの場面(115/138頁)で共通した表現をそのまま抜き出す。
共通するのは「しまった」という「私」の第一声だ。自殺の場面では「またああしまったと思いました」とあるから、これが「同じ」「感じ」を表現していることがわかる。
115頁ではこの「しまった」が直後に「先(せん)を越された」と言い換えられ、138頁では「もう取り返しがつかない」と続く。
これらはどちらも「しまった」の解説なのだから、同じことを表現していると見なしていいだろう。つまり「先を越され」ると「もう取り返しがつかな」くなるのだ。
この「しまった」は、原文では「失策った」と表記され「しま」というルビがふられている。
Kに「先を越され」て自白されたのは「失策」なのであり、Kの自殺も「取り返しのつかない」「失策」なのだ。
それぞれの場面での「先を越された」=「もう取り返しがつかない」失策とは、具体的に何のことか?
Kの自殺したこの場面を読む読者には、「もう取り返しがつかない」という表現は、Kの命が失われたという事態の重大さに釣り合っているように感じられる。
だが先述の通り、「第一の感じ」が「しまった」に言い換えられていることを認めるならば、恋の自白の場面にも「もう取り返しがつかない」が(程度問題としてそこまで重大でないとしても)適用されるはずだ。
「先を越され」ると、何の「取り返しがつかない」のか?
なるべくみんなが一斉に結論にたどり着くよう誘導していく。
糸口、四つ目。
「こころ」の最初の授業で観たテレビ番組の中では、「こころ」が扱っている問題をどのように表現していたか?
「恋の三角関係を扱った」は、まあ間違ってはいない。実はKにはその気があったわけではないのだとこの授業では考えているのだが、「私」の主観では、三人は確かに三角関係だ。
その時、「私」の選択を、番組はどう表現していたか?
「恋愛か友情か、あなたならどうする?」だ。
これがまるで見当外れな「こころ」把握であることを、その時に指摘した。「私」がそのような選択に悩む場面は一度もない。「私」がお嬢さんとKを選択の天秤にかけているような場面は「こころ」には存在しない。
にもかかわらずそのように表現されて、多くの人は不審に思わない。
だがこれは人物関係と状況、出来事の展開を雑に捉えたときにのみ見えている「問題」なのだ。
では「こころ」において「私」が決断に迷う選択肢は何か?
教科書に収録されている展開の中で、「私」が常に迷っているのは「言うか言わないか」だ。
問題は、これがどのような力の綱引きになっているか、だ。
「恋愛/友情」は「エゴ/倫理」の綱引きになっている。そうして「私」は「恋愛」、つまり「エゴイズム」を選ぶ。そうした「こころ」把握が「エゴイズム」主題観なのだ。
そして小説を真っ当に読んだ者が「言うか言わないか」が「私」の選択だと捉えたとしても、これがまた「エゴ/倫理」の綱引きになっていると短絡されてしまうことはありうる。すなわち「言わない(狡猾)=エゴ/倫理=言う(正直)」という対応だ。
だが、まともな小説読者ならそんなふうに感じたりはしないはずだ。
「言わない/言う」の綱引きには、確かに倫理観が関係している。だが「言う」動機は単に倫理観に拠るわけではない。「言う」方がいいという判断もまた、自分の立場を安定させようという「エゴイズム」だと言っても良い。
これらの「問題」を扱った小説として、「こころ」をどんなふうに把握するか?
それこそが「こころ」の主題だ。
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