2022年11月10日木曜日

夢十夜 15 第六夜再考

  さて「第六夜」については小論文としてまとめた。

 みんな、満足のいくものが書けただろうか。


 保留してある論点のうち、②「明治の木には仁王は埋まっていない」については、執筆の前に考える糸口を示しておいたクラスもあった。

 「埋まっていない」とは実際には「彫れない」ということだ。だがそれを「埋まっていない」と表現することにどんな意味があるのか?


 「明治の木には仁王は埋まっていない」とは「運慶には彫れるが自分には彫れない」ということなのか「鎌倉時代の木には仁王が埋まっているが明治の木には埋まっていない」ということなのか、と言い換えることができる。前者を「木のせい」、後者を「自分のせい」と表現しておいた。

 そして、再考においては、この区別がそもそも意味を成していないのだという授業者の見解を示しておいた。

 どういうことか?

 上の問いは「運慶にも、明治の木から仁王を掘り出すことはできないのか?」という問いを背後に隠し持っている。裏返して言えば鎌倉の木からなら自分にも掘り出すことができるということになる。

 だが運慶にそれができないとは思えないし、自分にできるとも思えない。

 それはつまり問題の立て方が間違っているということだ。


 「自分」が「仁王は埋まっていない」と思ったのは「明治の木」だ。

 「明治の木」とは何か?

 それは運慶にも仁王が掘り出せないような木なのか。では山門で彫っているのは「鎌倉の木」なのか。

 そんな想定が無意味に思えるということは、つまり「明治の木」とは明治人であるところの「自分」が彫っている木のことなのであって、運慶が掘ればそれはすなわち「鎌倉の木」ということになるのだ。明治人の「自分」が彫ろうとすれは、木には仁王が「埋まっていない」のであり、それは明治人の「自分」には「彫れない」ことを意味する。したがって「埋まっていない」と「彫れない」は同じことを意味している。

 ここから導かれる結論は、問題は「明治の」という条件付けであり、「自分」個人の問題ではなく、「明治」という時代なのだ、ということである。


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