「第一夜」を素材に、皆に考えてほしかったのは、小説を読むという体験がいかなるものであるか、だ。ここまでの作業を通してその二つの側面を浮かび上がらせた。「構造」を捉え、細部の豊穣を源泉掛け流しの温泉のように身に浴びる(そして「第六夜」のように抽象化された「意味」を捉えることもまた小説を読むという行為の別の側面だ)。
だが「第一夜」を読むことからは、もう一つ興味深い体験になりうる可能性が引き出せる。それはやはりある種の「解釈」だ。だがそれは「第六夜」で考察したような、主題を抽象したり、象徴を読み取ったりする「解釈」ではない。
「第一夜」には、ある種の夢の構造が表出している。そして「夢を見る」ことと「小説を読む」ことを重ねてみることで、「小説を読む」ことのまた別の側面が明らかになる。
考える糸口は次の問い。
なぜ「自分」は
①「百年がまだ来ない」と考えたのか?
②「百年はもう来ていた」と気づいたのか?
物語の最後で白い百合が咲く前に「自分」は女に欺されたのではなかろうかと考える。①はその直前に置かれた記述。②は百合に接吻して物語が終わる最後の一文だ。
二つの問いに、整合的な論理で答える。
まず①。
カウントが「百年」に達していないということではない。なぜか?
自分は途中で数えることを放棄しているからである(「いくつ見たかわからない」)。
ではなぜ「まだ来ない」と考えられるのか?
①「女がまだ会いに来ないから」である。
女は「百年経ったらきっと会いに来る」と言った。その女が現れないから、百年はまだ来ていないと考えたのだ。
これを裏返せば、「百年がもう来ていたことに気づいた」のは②「女が会いに来たから」ということになる。
これはつまり、百合を女の再来と認めたということにほかならない。
①と②は裏表に補完し合っている。
先に、読者はこの小説を完結した「物語」として読める、と述べた。それは①②の論理を了解しているということだ。喪失によって生じた「欠落」は、試練の末「回復」したのだ。
こんな明白な論理について問答をしたのはさらに次のように問うためだ。
本当に「女が百合になって会いに来た」と本文に書いてあるのか?
答えは、否、である。
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