「暁」とは夜明けのことだ。
「暁の星を見た」と表現される事態は、精確に言うと、「星を見た」→「『あれは暁の星だ』と認識した」と二段階に分解される。
そして、あれは「暁の」星なのだという認識は、もう夜が明けるのだ、という認識にほかならない。
夜明け?
だがそれまで「赤い日」がいくつも通り過ぎていった。そのたびに夜は明けていたではないか?
そうは思えない。「赤い日」はただ書き割りのような空を背景として通り過ぎていくだけだ。昼に対応する夜も描かれていない。「自分」が眠ったり起きたりする様子もない。したがって、日が昇ったり沈んだりするからには、その度ごとに「暁」はあったはずなのだろうが、結局のところ時間がいくら経過していても、そこに本当の夜明けが来ていたような印象はない。
「自分」はただ、女を埋めた時のまま、夜の底にひとり座り続けていたのではないか?
そして「自分」が「暁の星」を見た瞬間にようやく夜明けがおとずれる。
その時、そこまでの女をめぐるあれこれ、すなわち一夜の夢が終わる。
「百年」とは、物語内部の論理レベルでは「女が来るまで」である。「百年が来た」とは、すなわち「女が来た」ということだ。
一方で例えば「百年」とは「永遠」を意味している、などという解釈もある。女の約束に「待っている」と答えてひたすら待つ男から「永遠の愛」が主題だなどと言ってみたり、「百年経ったら会いに来る」とは、もう会えないという意味であり、結末で男は死んでいるのだなどと解釈して、そこから「愛の不可能性」が主題だと言ってみたりする。
「百年」とは「永遠」という意味だ、という解釈は、物語内部の論理レベルを超えた抽象度で、その意味を捉えようとしている。「象徴」あるいは「隠喩」である。「第六夜」で試みたのもそのような解釈だ。
だが「第一夜」については、そうした解釈は、小説読者が純粋に小説を読むことから乖離した「解釈ごっこ」になっていると思う(「暁の星」が女の象徴だと言ったりする解釈もそうだ)。
一方、上で示した解釈は「百年」を「夢の終わりまで」を意味しているとするものだ。これもまた、物語内部の具体レベルを超えた解釈ではある。
「百年がもう来ていたことに気づいた」とは、夢が終わることを悟る刹那の気配を示している。
「夢オチ」という表現があるが、それが夢だと気づく視点は、世界を外側から見ている。メタな視点からこの物語を「夢」として捉えている(「メタ」とは上の次元から対象を見る高次の階層だ)。
それはちょうど、我々読者がこの物語を「小説」としてどう読んだかということと入れ子構造をなしている。
夢は、目が覚めて思い出すときに作られるという。我々の語る夢は多かれ少なかれ、覚醒時から遡って解釈される。
解釈とは何らかの合理化だ。そこに論理を見出すのである。
そして夢の中の納得は、目覚めてから思い出すと、何だか奇妙な論理で成立していることがある。
目覚めるということは夢が終わるということだ。夢が終わるからには、女との約束が果たされなければならない。すなわち百年が来なければならない。だとするとこの百合が女の生まれ変わりなのだ。
こうした奇妙な納得のありようは夢の感触として我々には覚えがあるはずだ。ああ、これは…なんだなあ、と何だかよくわからない納得をしている。「百年はもう来ていた」の「もう」という副詞も、「来ていた」の過去完了も、既に終わったことを今になって思い出す時の既視感のようなニュアンスをうまく表現している。冒頭近くの「確かにこれは死ぬな」にもそうした感触が鮮やかに表現されている。
ということは先ほどの論理は転倒している。
百合が女の生まれ変わりだと気づいたから「百年はもう来ていたんだな」と気づいたのではなく、むしろ百年が来ていたという結論から、百合が女の生まれ変わりだったのだという解釈が生まれたのだ。「百合が女の生まれ変わりであることに気づいた」という認識は、いわば遡って捏造されたのだ。そして振り返ってみた時にはそれが忘れられているのである。
そしてそれは我々読者の思考である。上の捏造は「自分」がしたのではなく、読者がしたのだ。「自分」がそれに「気づいた」と、小説中に書かれてはいない。
我々読者もまた、百合が女の生まれ変わりだと気づいたりはしなかった。最後の一文で百年が既に来ていたことを知らされ、そこから遡って百合が女であると解釈したのだ。それ以外の読解がされようはずがない。
だがそのことは忘れられてしまう。
最初の要約課題の際に、「百合の花が咲いた」ことと「百年が来ていたことに気づいた」ことを、明らかな因果関係として記述した人は多い。例えば「咲いたので~」などという記述は珍しくない。「女が百合に生まれ変わって」とはっきり書いている者もいる。
だがそうした因果関係もそのような事実も、小説に書かれているわけではない。読者がそう解釈したのだ。
もちろん漱石はそうした解釈を誘導するように意図的に書いている。だからある意味ではそれは「正しい」解釈だ。誘導にのってそのように解釈するとき、「物語」は完結する。
こうして、いかにも夢らしい感触を感じさせる「夢の論理」は、同時に、我々が小説を読むということの三つ目の側面をも照らし出す。
夢が終わるからには百年が来なければならないという「夢の論理」は、「物語」が終わるからには「欠落」が「回復」しなければならないという小説享受の論理と同型だ。我々は物語を完結させんとする要請によって、百年の到来=女の再来という結末をまず受け入れたのだ。その後で、女が百合に生まれ変わって会いに来たのだと信じたのだ。
そのことを思い出すとき、「自分」が気づいた百年の到来が夢の終わりを意味しているという解釈も「思い出す」ように腑に落ちる。
ずっと待っていた女の再来によって百年の終わりが来たという結末は、基本的には「欠落」→「回復」という型で認識されるハッピーエンドとして認識される。
だが一方で夢の女とは夢の中でしか会えない。だから夢の終わりとは夢の女との永遠の訣別でもある。
ここには約束の成就と約束成就の不能、「回復」の成功と失敗という正反対の論理が階層を違えて同居している。
「第一夜」のハッピーエンドは喪失の切なさを内包して成立している。
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