2023年12月19日火曜日

こころ 55 -もう一つの主題

 ここまでの授業では、テキストから得られる情報を詳細に検討することで、一般的に「エゴイズムと倫理感の葛藤を描いた小説」などと言われる「こころ」を、それとは全く別の物語として読んできた。

 「エゴイズム」を主題とする「こころ」は、「私」の認識した物語としての「こころ」だ。「私」は自らの「エゴイズム」によって友人を死に追いやり、「倫理」感ゆえに苦しむ。

 だが、上野公園の散歩における会話の分析を通して見えてくるのは、互いの言葉がまったく相手に理解されないまますれ違っている意思疎通の不全だ。

 その時「こころ」の主題は、近代的個人がそれぞれに自分の自意識の中で自閉している「こころ」のありようを描いている、と捉えることができる。


 ところで「こころ」には、もうひとつの「こころ」のありようが描かれていると授業者は考えている。

 そうした「こころ」のありようは、それぞれに「近代」という時代が生み出した「個人」の成立とともに生まれたものだ。

 昨年度から「近代」と言えば「個人」だ。

 では「個人」と言えば?


 例えば昨年第三回一斉テストで出題した小坂井敏晶「責任―責任概念と近代個人主義」の一節(早稲田文学部で出題された問題)。

人間は主体的存在であり、自己の行為に対して責任を負う。この考えは近代市民社会の根本を支える。殺人など社会規範からの逸脱が生じた場合、その出来事を起こした張本人を確定し、その者に責任能力が認められる限り、懲罰を与える。人間は自由な存在であり、自らの行為を主体的に選び取るという人間像がそこにある。この責任概念は、(1)行為を生み出す動力因としての自由な主体・意志の存在と、(2)因果律の客観性という二つの仮定に支えられている。以下順に検討し、我々が抱く責任感覚の論理構造と時代拘束性を明らかにしたい。

 冒頭の「人間」は「近代的人間」のことだから「個人」という意味だ。

 ここに述べられている「主体」「自由」「責任」の関係は、近代の入り口に生きた漱石にも、いたいほど感じられていたはずだ。「こころ」にはその感覚がまざまざと書き留められている。

 長い「こころ」の授業の最終段階では、この問題について考察する。


 「自由」と「責任」はどういう関係にあるか?

 この問いにはどこのクラスでも難渋した。

 さしあたり「自由は責任を伴う」などと言うことはできる。「自主自律」が校是になっている本校では、しばしばこうした決まり文句が飛び交う。

 だが今回は「自由」の方を前提に、「責任」の方を先にした言い回しをして、と指定するとたちまち詰まってしまった者が多かった。

 上で小坂井が語っていることをシンプルに言うと責任は自由を前提にしているだ。何のことか?

 意味をはっきりさせるためには、対偶にしてみることが有効だ。

自由でなければ責任を問うことはできない

 さらに具体例が思い浮かんでいることが「理解している=腑に落ちる」ためには必須条件だ。

 例えば刑事責任を問うためには本人が自由に行為できたはずだという前提が必要だ。心神喪失状態は、だから罪に問われない。授業ではマインドコントロール下にある行為なども例に挙がった。

 こうした「自由/責任」が「近代的個人」の条件だ。

 さてこれが「こころ」の主題とどう関係するか?


 にわかにはわかるまい。「個人」というだけなら「こころ」とつながる経路が想像できないことはない。「個人」とは共同体から切り離された存在だ。そこから「孤独」などという単語が思い浮かべば、Kの死因である「淋しさ」とつなげて考えられそうだという見当がつく。

 では「自由と責任」は?


 一方「こころ」の主題は「エゴイズム」と見做されているのは周知の事実だ。授業でもさんざんそう言ってきた(それを否定する意味で)。

 「エゴイズム」とセットになっているのは「罪悪感」で、例えば「こころ」は「エゴイズムと、それゆえ犯した罪に対する罪悪感から死に至る近代知識人を描いた」などと言われる。

 「エゴイズム」と「罪悪感」の関係は「自由」と「責任」の関係に似ている。

 どういう意味で?


 罪悪感があるということはそのことに責任があると見做しているということだ。Kの死に罪悪感を感じるのは自分のせいだと思っているからだ。

 責任を問うには、主体が自由であることが前提だ。つまり罪悪感を抱くのは、自分でそれをする自由があったということだ。

 自分が利己的であることに罪悪感を感じるということは、己に利するように行為する自由があったということに他ならない。

 この「エゴイズム/罪悪感」と「自由/責任」の問題をすっきりと説明するのは、どこのクラスでも実に難渋した(だからこれをすっきりと説明してみせたH組K君は大したものだった)。

 こうして近代的個人がもつとされる「自由と責任」の問題が「こころ」につながってくる。

 さて、「こころ」の「私」は自由だろうか?


 「こころ」の主題を「エゴイズム」が主題だというのは、「私」がKを裏切ってお嬢さんを自分のものにしようとあれこれ画策したことを「私」の「利己心=エゴイズム」によるものだと見なすからだ。

 だが「私」の折々の選択は本当に「利己心」という言葉が示しているように「己に利する」ものであったのか。

 確かに「私」はそうしようとしてもいる。

 だが同時に、その選択は常に、どうにも不自由な、やむにやまれぬといったような、まるで外部から強いられたような息苦しさを感じさせる。

 そうした不自由さによって「私」がむしろ自分では選択できずにいるうちに、事態はますます「私」を不自由な状況に追い込む。「私」は常に事態に遅れるように、そう選択することしかできない。

 こうした蟻地獄のような悪循環は、実に巧妙な設定によって、読者にも我がことのように感じられる。読者は様々な場面で「自分でも確かにそうしてしまうだろう」と感じる。

 「こころ」には、この感じ、身近な、何だか身につまされる、身に覚えのある、ある感覚がみなぎっている。

「いや考えたんじゃない。やったんです。やった後で驚いたんです。そうして非常に怖くなったんです」(「上/十四」)

 これは第一部で「先生」が、大学生の「私」に向かって言う言葉だ。

 最近の脳科学の成果は、人間の「意志」などというものが、実は錯覚なのだという仮説を提示している。我々は脳の無自覚な働きでまず行動し、それが自分の決断だったのだというストーリーを後からでっち上げているというのだ。

 百年以上前に漱石が書いていることが、まるで最新の科学の知見を先取りしているようで面白い。

 これは身に覚えのある感覚でもある。なんで自分はそんなことをしてしまったのか?

 授業の最終段階では、このような不思議な「こころ」のはたらきについて考察したい。


こころ 54 -Kの自殺に至る心理

 「二日余り」の出発点、問題の木曜日のKの心理について考えよう。


 奥さんから結婚話を聞いたKの様子は、「変な顔」「最もおちついた驚き」と記述されている。このKの反応をどう解釈するか?

 Kは全てを見通していたのだ、という解釈もある。

 だがそれではその後、自殺に至るKの心理や、上野公園での会話における二人のすれ違いの分析と整合しない。

 咄嗟の強がりか。強い自制心の表れか。

 衝撃の余り、かえって反応がなくなってしまったということか。

 それとも本当にKの人間としての度量の広さを表しているのか。


 Kが悲しみや怒りや強い驚きを示さないことについて、そこに理由を考えようとするのは、逆にそうした反応があるはずだという前提があるからだ。

 だが「私」とお嬢さんとの婚約がKに「打撃」をあたえるであろうという想定は「私」の思考が投影されたものでしかない。Kは「私」にとって、恋の自白以来、恋敵として想定されている。だから、婚約を知ったKは、「失恋」という「打撃」を受けつつ、ただちに「私」の裏切りに気付いてそれを非難するに違いないと「私」は思う。

 だからこそそれをせずに「私に対して少しも以前と異なった様子を見せな」いKが「立派」と感じられてしまう。自分がKの立場だったらという想定のもとに、その態度の意味を斟酌してしまう。


 だがそうした「私」の思い込みを排してKの思考を想像してみるならば、この「最もおちついた驚き」と形容される反応が表しているのは、単に友人の裏切りによる衝撃を受けとめてみせたKの自制心の強さではなく、言うならば「不審」「怪訝」「とまどい」といったものではないか?

 Kには事態がよく飲み込めなかったのだ。

 Kはそれまで、自分の心を惑わすお嬢さんを、友人もまた同じように恋慕しているなどとは考えもしていない。

 Kはそれよりも自分の問題で頭を充満させているのであり、上野公園での会話でもKはそのことしか問題にしていない。そしてKはそれがため既に死を「覚悟」し、あまつさえ遺書を書き上げてもいる。

 もちろんそれは「薄志弱行で行く先の望みがない」自分のことであり、「私」が考えるような意味では、お嬢さんのことではない。

 つまり、唐突にもたらされた友人とお嬢さんとの婚約という展開は、Kにはまるで想定外であるばかりか、ほとんど関心外なのだ。

 Kはただ事態を把握できないとまどいの中で、友人の婚約をひとまず、素直に喜ぶべきことだと捉える。「微笑を洩らしながら、『おめでとうございます』と言った」のは、何らの演技でもない。

 そうしたKの態度は「私」にはKの度量の広さ、人間としての立派さと映る。

 だがこうしたKの「超然とした」態度は「私」の「こころ」の投影に過ぎない。

 友人の行為を「卑怯」と責めるつもりはKにはない。Kはただ、思いがけない事態の展開に置いてきぼりをくらって、ひとりそれまでの展開を振り返っている。

 例えば上野公園でのやりとりを。あるいは日常のあれこれを。

 そのうちにゆっくりと腑におちてくる。そうか、と納得がやってくる。

 自分が、その苦悩を打ち明けて「公平な批評を求めるよりほかにしかたがない」と考えた友人は、その間、自分の恋愛の進展にのみ汲々として、あろうことか友人であるはずの自分を出し抜いてまで自らの恋愛の成就に腐心していたのであった。

 Kはお嬢さんに「進む」つもりなどまるでなかったし、お嬢さん自身もまた「私」を結婚相手として望んでいたのに。

 しかも、そうしたすれ違いに、自分だけでなく相手もまた全く気づいていないらしいのだ。一つ所で会話をしながらも、お互いが自分の問題にのみ関心を払って、まるで相手の言うことを理解していなかったことが、ようやくわかったのだった。

 このばかげたすれ違いに、Kはこの「二日余り」の間に、どこまで明確にかはともかく、徐々に思い至ったのではあるまいか。

 「襖」と「血潮」の象徴性が示すように、Kは「私」に対して基本的に心を開こうとしている。だからこそこのすれ違いの事実は、Kの「たった一人」という認識を否応なく際立たせる。

 Kは自殺を決行するまでの「二日余り」で、「たった一人で」あることの認識に覚めながら、死に向かって傾斜していったのだ。


 こう考えてくると、Kの自殺の動機があくまでK自身の自己処断であることは認めながら、それではなぜその決行が婚約成立の後であったかという理由がようやく納得されてくる。

 Kにはもともと自己処断の「覚悟」があった。その動機は下宿に来る前からあったのだし、夏の「ちょうどいい、やってくれ」はほとんど「覚悟」といっていいほどの明確さでKに自覚されている。そしてまた十日余り前には遺書さえ書いている。

 Kはそのことを再三「私」に話していたのだった。図書館で、下宿で、旅先で。

 友人に安易な救いを求めていたとは言わない。有益なアドバイスがもらえると期待したわけでもなかろう。

 だが他人に話しているうちは、少なくとも事実としてKはその「覚悟」を実行に移すことはなかったのだ。

 だが、確かに話をしていたと思っていた相手とは、まるですれ違っていたことに、今気づいた。

 ならばそれは単に自分自身の問題でしかないのだ。

 Kの遺書にある「もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろうという意味の文句」が示しているのも、こうしたKの思考だ。

 自分が「死ぬべき」理由、「現実と理想の衝突」は、ただひとり、自分がどうにかするしかない問題なのだということが腑に落ちた時、Kは自ら所決する。

 これが③の「たった一人で淋しくって仕方がなくなった結果、急に所決した。」なのだ。


 先に述べたように、Kの自殺の動機を再考することは、「こころ」という小説をどのようなものと理解すべきかという構え、つまり「こころ」の主題をどのようなものだと捉えるか、という問題に直結する。

 以上の考察から浮かび上がってくるのは、登場人物それぞれが互いに断絶した自意識の中に自閉する近代人の「こころ」の様相を描いた小説としての「こころ」だ。

 Kは「私」の卑怯な裏切りによって自殺に追い込まれたわけでは決してない。

 「私」はただKにとって、意思疎通を欠いた「他者」であることによって、Kの問題をK自身の裡に閉じこめたのだった。

 そのことを「エゴイズム」と呼ぶならば、あらためて、確かに「こころ」は「エゴイズム」の物語だと言ってもいい。

 だがそれは「私」が考えている(そして多くの読者が考えている)「エゴイズム=利己主義」とはなんと違ったものであることか。


こころ 53 -「淋しさ」という「死因」

 Kはなぜ死んだか?

 上に確認した諸点を総合して、Kの心理をたどってみよう。


 「襖」「血潮」の描写が示している象徴性が意味するところは明らかだ。

 「襖」は「二人の心の壁(距離・隔たり…)」の象徴だ。つまり襖を開けるとは相手に心を開くことを意味している。

 また「血潮を顔に浴びせる」という隠喩は、平たく言ってしまえば「真情を伝える」ことを意味する。Kの死に際して、作者は明らかにこの暗喩と相似形の構図を意図的に作っている。

 これらの象徴的な意味に従って読めば、Kは死に際してもなお「私」と心を通わせようとしていたということになる。

 これは読み間違えようもないほど明白に、作者から読者へ示されている。

 Kは「私」に心を開こうとしている。それゆえにこそKは「たった一人で淋しくって仕方がなくなった」のだと考えなければならない。


 「私」がKの「死因」として思い至った「淋しさ」がどのようなものなのかは、それについて書かれた五十三章を参照する必要がある。先の引用部分、「私」がKの「死因」について再考する部分の直前は次のように書かれている(PDF掲載)。

私は妻からなんのために勉強するのかという質問をたびたび受けました。私はただ苦笑していました。しかし腹の底では、世の中で自分が最も信愛しているたった一人の人間すら、自分を理解していないのかと思うと、悲しかったのです。理解させる手段があるのに、理解させる勇気が出せないのだと思うとますます悲しかったのです。私は寂寞でした。どこからも切り離されて世の中にたった一人住んでいるような気のした事もよくありました。

 これを受けて「Kが私のようにたった一人で淋しくって仕方がなくなった結果、急に所決したのではなかろうか」と「私」は考える。

 ここで述べられているのは、平たくいえば意思疎通の不全だ。「私」は愛する奥さん(かつての「お嬢さん」)に心を打ち明けられないまま結婚生活を送っている。

 この「たった一人」という認識を、Kもまた持ったのではないかと「私」は思い至る。問題はこの「たった一人で淋しい」だ。

 この「淋しさ」を「お嬢さんを失った」+「友人に裏切られた」ことに拠るものだと捉えてしまうのは、作者の仕掛けた「私」の誤解によるミスリードによって誘導された誤読だ。「たった一人で淋しい」をそのように解釈したのでは、①「失恋」とかわらない。

 そうした誤謬に陥らなかったとして、では、といって思いつくのは次のような説明だ。

 Kは奥さんから婚約の件を聞いた時、自分が友人からそれを聞かされていなかったことに衝撃を受け、友人がそのことを自分に話してくれなかったことに絶望したのだ。

 いやむしろ、自らが友人の気持ちに気づかなかったことに絶望したのだ。


 だがこうした説明はKの死因を③「たった一人で淋しい」に負わせすぎている。

 「お嬢さんを失った」+「友人に裏切られた」から絶望して死んだのだ(①)という論理を今度は「友人が話してくれなかった」+「自分が友人の気持ちに気づかなかった」から淋しくて死んだのだ(③)と変更するのはいささか単純に過ぎる。

 Kの自決の動機は②「現実と理想の衝突」であることを忘れてはならない。

 そう考えるからこそ「もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろうという意味の文句」が理解できる。「現実と…」=「薄志弱行で行く先の望みがない」こそ「死ぬべき」理由だからだ。


 この文句について、「もっと早く」とはいつのことか、という議論がある。

 お嬢さんの結婚を知るより前に?

 これは死因を①「失恋」と考えることと整合しているから、明らかな誤読だ。

 では、友人が自分に話してくれなかったという孤独を自覚することになるより前に?

 これも、奥さんからその事を知らされるより前である必要性についての説明が変わっているが、木曜日より前に、と考える点では同じだ。だが、「もっと早く」とはたかだか二日前の木曜以前を指しているわけではない。

 では、12日前、遺書を書いた時に?

 あるいはいっそ、お嬢さんを好きになるより前に?

 そもそも下宿に来るより前に?

 だがKの問題は下宿に来ることによって生じたのではない。Kは下宿に来る前から「私」の言葉によれば「神経衰弱」だったではないか。前に書いたとおり、Kの「現実と理想の衝突」はKの理想が不可避的に突き当たらざるを得ない袋小路なのだ。「現実」とは、単にお嬢さんを好きになったというようなことではない。これでは結局「私」フィルターによる錯覚から逃れられていない。


 いつのことか、と考えることは、何があった時より前か、と考えるということだ。

 だがKにとって、いつだって「死ぬべき」だったのだ。

 だから「もっと早く」とはいつのことか? と考えてはならない。

 問題はこの疑問がKの裡に生じた理由と、その疑問に対する解答だ。

 それには、「急に」と表現される自殺の決行までに実は経過してた「二日余り」について考えなければならない。

 この「二日余り」の果てにKが「淋しくなった」のだとすると、この間、Kは「私」が正直にこれまでのことを話してくれるのを待っていたのだ、という解釈をする者は多い。

 だがこの解釈には違和感がある。

 たとえば、言ってくれるのを待っていた、というような受動性が、「果断に富んだ」Kに似つかわしくない、とも言える。

 言ってくれるのを待っていたが言ってくれないので淋しくて死んだ?

 こんなふうに考えるのはKの人物像にふさわしいとは思えない。


 それよりも根本的な違和感は、それでは察しが良すぎる、という感じがすることだ。

 「私」が言うのを待っていたと考えるなら、なぜ「私」が言わなかったのかがKにはわかっていたということになる。本当にその理由が見当もつかなければ、Kは素直に質問するはずだ。

 ならば「私」が言うはずがないこともわかるはずだ。そこまで話していない「私」が、木曜日以降に話す気になる必然性はない。そのことはKにもわかる。したがって、この二日間、「急に」話してくれることをKが期待したりはすまい。

 確かに意識下ではそれを期待していたといってもいい。「私」が話していたら、おそらく悲劇は(当面)回避されたはずだ(もちろんKにとって根本的な問題は解決していないが)。

 だがKがそのことを意識して待っていたと考えるのは「孤独」を死因として重く考え過ぎている。Kが奥さんの話を聞いて事態の真相を了解し、「私」が言わないことによって孤独になったのだという説明は、①「失恋」が③「孤独」に変わっただけで、結局「私」主観のミスリードから逃れていない。


 問題の「二日余り」に何があったか。

 Kは何を考え、どのような思いにとらわれていったのか?


2023年12月8日金曜日

こころ 52 -「もっと早く死ぬべきだのに」

 もう一つ、考慮すべきなのは、Kの遺書の最後にあった「もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろうという意味の文句」だ。

 ここからKの心理を読み取るべきだと考えるのは自然だ。他の部分がよそよそしい「用件」であるのに対して、ここだけは何やら本音らしき感触がある。

 これ以外の部分は、自殺実行の12日前の月曜の晩に書かれたものだという解釈を共有してある。遺書にある「薄志弱行で到底行く先の望みがないから、自殺する」は、その日の昼間Kが「私」に言った「自分が弱い人間だのが実際恥ずかしい」「僕はばかだ」を整理して反復したものであり、自ら口にした「覚悟」の確認として書かれているということになる。

 このことはKの自殺の基本的な動機が前節の②「現実と理想の衝突」によるものであり、その意味ではお嬢さんと「私」の婚約に関係ないことを示している。遺書が書かれたのは「私」と奥さんの「談判」の一週間前のことなのだから。

 もちろん、Kにとってはお嬢さんの婚約が問題なのではなく、お嬢さんを好きになったこと自体が問題なのだから、Kの自殺の動機にお嬢さんが無関係だとは言い切れない、と言うことはまだ可能ではある(それもまた「私」視点のバイアスから逃れていないが)。

 だが遺書の本文が前の週に書かれていたという解釈は、少なくとも、Kは「私」とお嬢さんの婚約を知ったから自殺したのだ、というミスリードから読者を解放する。

 それとともに、この解釈は、遺書を書いた後に襖を開けたKと、そこに「もっと早く…」と書き加えた後に同じように襖を開け、その後で自殺を決行したKの姿を重ねることを要求する。

 この「文句」からは、Kの死の動機を考えるどのようなヒントを読み取ればいいのだろうか?

 従来この「文句」については、たとえば「もっと早く」とはいつのことか、といった問題が考察の対象となってきた。

 前述の前提に拠れば、その一つの解釈としてこの遺書の本文を書いた12日前を指しているのだと言うことも可能だ。遺書まで書いておきながら「なぜ」「もっと早く」実行しなかったのか、と言っているのだ。


 この解釈は、ではなぜこの晩は実行に移したのかという疑問とともに、逆に「もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろう」というK自らの疑問に対する答えを要求する。

 なぜ遺書まで書いたのに実行はしなかったのか?

 この疑問については一つの答えがある。それは「私」が目を覚ましたから、というようなことではない。あるいは、何かがKを思い止まらせたということでもない。単に「覚悟」はあくまで「覚悟」であって、すぐにそれを実行に移すという「計画」や「決意」ではないからだ。

 Kは「弱い自分をどうするつもりか」という問いに「そんな自分を所決する覚悟はある」と答えているのであって、それを書面に書き付けることがこの晩のKには必要だったのだ。

 「けれども彼の声は普段よりもかえって落ち付いていたくらいでした。」という描写はそのことを意味している。だからなぜ実行しなかったかといえば、それを実行に移す充分な動機がその時点でのKにはなかったというに過ぎない。

 これは心理的な問題だと同時に物語的な必然だ。Kが自殺するには、やはりその後の展開が必要だったのだ。

 そしてこの「覚悟」を言明させたKの自殺の動機は、もちろんその日初めてKの裡に宿ったわけでもない。下宿に来る前の「神経衰弱」から既にKの裡にはその思いが宿っている。とすればその動機にお嬢さんが関係ないことは明らかだ。

 お嬢さんの存在が動機に関わっているとしても、たとえば房州旅行の際の次の一節がKの「覚悟」の先触れであることは明らかだ。

ある時私は突然彼の襟首を後ろからぐいとつかみました。こうして海の中へ突き落としたらどうすると言ってKに聞きました。Kは動きませんでした。後ろ向きのまま、ちょうどいい、やってくれと答えました。私はすぐ首筋をおさえた手を放しました。(「下/二十八」)

 これは「K」が実際に自殺することになるなどとは読者が知らぬ時点で語られたエピソードだから、読者はさしたる緊張感を持たずに読み流すかもしれない。遺書の筆者だ「私」は無論この先に「K」の自殺があったことを知っているにもかかわらず、ここではこのエピソードの重要さを意図的に伏せて――言わば「とぼけて」――何も知らない読者と同じ視点でしか語っていない。

 だが、振り返って見直すと、この時の「K」の「ちょうどいい」は、後の「覚悟」を先取りしていると考えるべきなのであり、「もっと早く」というのならこの時点を指してもいいし、先述の通り下宿する前をすら指していると考えていい。


 冒頭に提示したKの「死因」のうち、②「現実と理想の衝突」こそ「もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろう」という自問の中の「死ぬべき」根拠だ。

 そして、ではなぜ問題の晩は実行に移したのかという疑問に対する答えが③の「たった一人で淋しくって仕方がなくなった」から、ということになる。これこそ「遺書を書いたのになぜ実行しなかったのか」という疑問の答えでもある。遺書を書いた時点では③ではなかったからだ。

 この「淋しさ」とは何か?

 この遺書への追加の述懐に込められた心理とはどのようなものか?

 どのような契機がKを自殺の実行へと駆り立てたのか?


 以上、いくつかの論点が整合的に組み合わされるように「Kはなぜ死んだか?」を論ずる。

 小さなポイントを二つ加える。

 上に、「もっと早く…と書き加えた後に襖を開け、その後で自殺を決行した」と書いた。確かにエピソード②では遺書を書いてから襖を開けて声をかけたに違いない。だが、自殺の晩は逆の可能性を考えなくていいのだろうか?

 つまり襖を開けた後に「もっと早く」と書き加えたのだとは。


 もう一点、A組Y君の指摘。「床も敷いてあるのです」のはなぜか?

 この点に関する解釈を授業者は見たことがない。

 漠然と考えていたのは、なるべく布団に血を吸わせて、片付けが容易なようにKが気を遣ったのだろうということだ(後の章に容易だったことを示す記述がある)。

 もう一つの可能性は、Kが普段通りに一度寝ようとしたのだという想像だ。

 この想像はなかなかにリアルで怖い。


 上記二点、Kの心理を想像する上では結構大事な論点かもしれない。今回初めて認知したのだが。


こころ 51 -象徴としての「襖」と「血潮」

 次に考慮すべき点として、二点指摘しておく。Kの死に際して描かれるさりげない描写に作者が潜ませている象徴の意味だ。


 「私」がKの自殺を発見する直前の次の一節は注目に値する。

いつも東枕で寝る私が、その晩に限って、偶然西枕に床を敷いたのも、何かの因縁かも知れません。(138頁)

 この枕の向きについての言及には何の意味があるか?


 不可解なことに言及することで「私」の胸騒ぎを読者にも共有させるのだとか、床の向きを変えた「私」の心理や、襖を開けたときにKが見たであろう光景を想像させる、などという考察も世の中にはあるのだが、この「西枕」の言及にはそれだけでない明確な意図がある。

 本文の記述から、下宿の部屋の間取りについては推測できる(教科書後ろにも想定図が載っている。すかさずここを開いて確認した人は勘が良い)。








 南側の庭に面した縁側に対して、Kの部屋と「私」の部屋は並んでいる。Kの部屋が西、「私」の部屋が東だ。つまり西枕にしたということは、「私」はKの部屋の方に頭を向けて寝ていたということになる。

 間取りを正確に認識していなくとも、続く一文「私は枕元から吹き込む寒い風でふと眼を覚ましたのです。」と合わせて考えたとき、そのことはわかる。

 では「私」がKの部屋に頭を向けて寝ていたことの「意味」とは何か?


 この設定はこの章の終わりの次の記述と結びつけたときに意味を生ずる。

そうして振り返って、襖にほとばしっている血潮をはじめて見たのです(139頁)。

 死んだKをいたましく思いつつ、自らの罪の重さに震える「私」の目に映る光景として映像的に鮮烈な印象を与える一節だ。

 だが、この映像にうかうかと衝撃を受けていてはいけない。ここには見落としてはならない意味がある。

 「振り返って」というのだが、「私」がその時、実際の体勢としてどこを向いているかはわからない。それでも「振り返って」を解釈しようとすれば、これは自分の部屋の方向を見たということなのだとしか解釈できない。

 とするとこの襖は「いつも立て切ってあるKと私の室との仕切りの襖」だということになる。Kは夜分にこの襖を開けて、そうして開けたままにして頸を切った。そしてその血が、「私」の寝ている部屋の方向に向かって「ほとばしっている」のだ。そしてこの襖が「この間の晩と同じくらい開いてい」るのだ。なおかつ「私」の枕はKの部屋に近い側に向けられていた。

 これらの条件からどのような想像が可能か?

 すなわち、Kの首からほとばしった血潮は「私」の部屋まで飛び散ったかもしれない。そして、寝ている「私」の顔にかかったかもしれない。

 この、充分な可能性のある想像は、しかし言及されてはいない。だが、アニメではそれを拡大解釈して、実景として描写していた。そうした想像が可能なような構図を、漱石は意図的に作っている。

 なぜ?

 この想像された構図は、次の一節を連想させずにはおかない。

あなたは私の過去を絵巻物のように、あなたの前に展開してくれと逼(せま)った。私はその時心のうちで、始めてあなたを尊敬した。あなたが無遠慮に私の腹の中から、或る生きたものを捕まえようという決心を見せたからです。私の心臓を立ち割って、温かく流れる血潮を啜ろうとしたからです。(略)私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴びせかけようとしているのです。私の鼓動が停った時、あなたの胸に新しい命が宿る事ができるなら満足です。(「下/三」)

 ここで「あなた」と呼びかけられているのは、「上」「下」の語り手である「私」だ。つまり「先生」の遺書の読者である青年に向かって、「先生」は「自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴びせかけようとしている」というのだ。

 次の一節にも同種の隠喩が使われている。

私にいわせると、彼の心臓の周囲は黒い漆で重く塗り固められたのも同然でした。私の注ぎかけようとする血潮は、一滴もその心臓の中へは入らないで、悉く弾き返されてしまうのです。(「下/二十九」)

 この場面も、お嬢さんへの恋心をKに話そうと思うのだが、Kは恋愛の話題などに興味を示さない高踏的な態度をとっているので話せない、といった状況を、「血潮」を「注ぎかけようとする」が「弾き返されてしまう」といった暗喩で語っている(テストでこの部分を読ませた)。

 Kの死に際して、「私」の枕の向きに言及し、Kの血潮の跡を描写する漱石が、それに先んずるこれらの一節を念頭に置いていないはずはない。

 「先生」が青年の顔に「その血を」「浴びせかけようとしている」ことと、Kの「血潮」が「私」の顔に降りそそごうかという構図は、明らかに意図的な相似形を成している。

 普段と違う枕の向きがわざわざ言及されている理由が他に思いつかないとすれば、漱石は周到に用意して「血を浴びせる」という隠喩をここに再現しているという解釈は信ずるに値する。


 もう一つ、象徴として描かれているのは、既に言及した「襖」だ。

 「私」はKの自殺を発見したとき、「夜のエピソード」の光景を思い出している。

見ると、いつも立て切ってあるKと私の室との仕切の襖が、この間の晩と同じくらい開いています。けれどもこの間のように、Kの黒い姿はそこには立っていません。








 襖の隙間から見える中の様子に目がいってしまって忘れられてしまいがちだが、「開いています」と書かれている襖はKが開けたものだ。したがって、Kの自殺の動機を考える上で、Kがなぜ襖を開け、なぜ開けたままにして自殺したのかを考えないわけにはいかない。

 象徴としての「襖」の意味については既に考察した。

 それが意味するものは明確だ。これをどのように自殺にいたるKの心理に論理づけるか?


 「襖」も「血潮」も、それが象徴として描かれていることは明白だ。

 といってそれはKから「私」への具体的なメッセージを意味するものだとは確定できない。

 Kが実行したのは襖を開け、そのままにしておいたところまでだ。それすら明確な意図があったことを示すわけではないかもしれない。まして血潮が飛び散ったのは意図せざる偶然だ。

 「私」が西枕に寝たこともまた、特別に「私」の意図したものではない(「偶然」をどう考えるか?)。

 だがこのような「襖」と「血潮」の描写が、その意味を読者に対して知らせようという作者の意図を表わしていることは間違いない。

 このことを組み込んでKの自殺の動機を考えなくてはならない。


こころ 50 -空白の「二日余り」

 Kの自殺の動機について、読者がどのようにミスリードされているかをあらためて確認しておく。


 Kはお嬢さんが友人と結婚することを知って自殺したのだ、と考えるのは、読者として自然なことだ。それは語り手である「私」がそのように考えているからだ。「私」はそのような認識によって行動し、そのような理解に基づいた記述をする。その語りから小説内世界を把握するしかない読者がその認識を共有するのは当然だ。

 だが「こころ」という小説の場合、語り手は作者という創造神の代弁者ではなく、一人の登場人物だ。そこで語られる事柄は、あくまで「私」がそのように認識している、ということだ。だから「こころ」という小説においては、語り手の認識は括弧に入れて留保しなければならない。

 たとえば次のような一節を、読者はうかうかと読んではならない。

奥さんの言うところを総合して考えてみると、Kはこの最後の打撃を、最も落ちついた驚きをもって迎えたらしいのです。(137頁)

 婚約の件をKに話してしまったと奥さんに告げられた後の、Kの様子を語る一節だ。そしてこの記述の後にKは死んでしまう。

 ここに使われた「最後の打撃」という表現は、婚約という事実がKを死に追いやった原因であることを示している。このような表現によって、読者はそのような因果関係を自然に受け取ってしまう。

 だがこれは「私」が、婚約の件をKに知られることを怖れていたことと、この後すぐにKが死んでしまったことから逆算された因果によって導かれた表現だ。

 そしてこうした認識に基づいて、Kの様子は「最も落ち着いた驚き」「彼の超然とした態度はたとい外観だけにもせよ、敬服に値すべきだと私は考えました。」などと表現される。

 だが表現されていることを括弧に入れ、「私」が認識していることを疑ってみるならば、Kが奥さんの話をどのような思いで聞いたのかは、全体の整合性の中で考えなければならない。


 その時浮上するのは、奥さんの話を聞いてからの「二日余り」のKの沈黙だ。

 この「二日余り」について考えることは、Kの自殺の心理を考える上ではきわめて重要だ。だがそのことは読者の目から巧妙に隠されている。

 このミスリードのトリックについては「曜日の確定」の考察段階で確認した。

 エピソード⑤「奥さんがKに談判の件を話す」と⑥「奥さんが私に⑤の件を話す」は入れ子構造になっていて、読者にはそれらが同時に提示される。だから読者は、「私」とお嬢さんの婚約を奥さんから聞かされてすぐにKが自殺したと理解してしまう。

 だが実際には、Kが婚約を知ってから自殺を決行するまでには、⑤の木曜日と⑥の土曜日の間で「二日余り」の時間が経過している。「すぐ」ではない。にもかかわらず読者の印象としてはあたかも婚約と自殺決行は「すぐ」というほど近接しているように感じられる。

 婚約の事実がKにとっての「最後の打撃」と表現されているのも、そうした時間感覚の混乱とそれゆえの因果関係をさりげなく補強するものだ。読者も「私」とともに作者のミスリードの術中にはまっているから、「最後の打撃」という表現に違和感を覚えることなどできはしない。

 こうしたミスリードによってKの死因を「失恋」と思い込まされる読者は、新たに示された「淋しさ」という死因についても、否定したはずの「失恋」の延長上で捉えてしまう。

 「淋しくってしかたがなくなった結果、急に所決した」という時の「急に」も、奥さんから「私」とお嬢さんの婚約の話を聞いて「急に」なのだと解釈されるから、①「失恋」と③「淋しさ」の混同は意識されない。


 このような思い込みにしたがって、「私」はKの残した手紙の内容をあらためずにはおれなくなる。「私」にとってKが死んだのは自分の卑怯な行いのせいであり、その告発をお嬢さんや奥さんに知られてはならないと「私」は思い込んでいる。そんな切迫感に取り憑かれた「私」の行動は、「私」の「エゴイズム」を浮き彫りにしこそすれ、こうした思い込み自体が間違っている可能性から、読者の目を逸らしてしまう。

 手紙の中に「お嬢さんの名前だけはどこにも見え」ないのは、たんにKの自殺の動機にお嬢さんが関係ないからなのに、「Kがわざと回避したのだ」と「私」が考えてしまうから、逆に読者はお嬢さんこそ自殺の要因なのだと受け取ってしまう。

 また、Kの自殺を奥さんに告げに行った際にも思わず「済みません。私が悪かったのです。」と手をついて謝ったり、葬式の際に友人からKの自殺の動機を聞かれた時も「早くお前が殺したと白状してしまえという声を聞いた」りする。

 こうした「私」の罪悪感を根拠として、Kが死んだのはお嬢さんと「私」の婚約を知ったからだ、という前提は疑いようもない事実として認定されてしまう。


 だがKが婚約の事実を知ってから死ぬまでには、物語の中で語られることなく跳び越えてしまった、いわば空白の「二日余り」がある。

 これは「夜のエピソード」の際の考察でも触れた、物語に描かれていない時間・場面について想像する必要があるかどうかという問題でもある。「夜のエピソード」では、それについて想像することで「遺書が書かれていた」というエピソードとしての「意味」が立ち上がってきたのだった。

 授業における精読によってKの自殺をK自身の問題(②「現実と理想の衝突」)だと考え、Kの自殺の「覚悟」は、お嬢さんの婚約のはるか以前からKの心の裡にあったのだと考えるなら、自身の問題として自らを所決する「覚悟」をしていたKが、なぜそれを口にしてから(ましてや遺書をしたためてから)十日あまりも実行しなかったのか、そして婚約成立の話をきいてからなぜ自殺を決行したかという問題を再考しなければならない。

 それには友人とお嬢さんの婚約を知ってから自殺を決行するまでの空白の「二日余り」にKの心の裡に起こったドラマを追うことは避けて通れない。

 「たった一人で淋しくってしかたがなくなった結果、急に所決した」の「急に」もまた、空白の「二日余り」を考えることでその本当の意味を捉えることができる。


こころ 49 -Kの死因

 Kの自殺の動機について考える上で、教科書に収録されている四十八章より後の五十三章(五十六章が最終章だから、終わり近く)の次の一節はきわめて示唆に富んでいる。

同時に私はKの死因をくり返しくり返し考えたのです。その当座は頭がただ恋の一字で支配されていたせいでもありましょうが私の観察はむしろ簡単でしかも直線的でした。Kはまさしく失恋のために死んだものとすぐきめてしまったのです。しかしだんだんおちついた気分で、同じ現象に向かってみると、そうたやすくは解決がつかないように思われてきました。現実と理想の衝突、――それでもまだ不十分でした。私はしまいにKが私のようにたった一人で淋しくってしかたがなくなった結果、急に所決したのではなかろうかと疑いだしました。(「下/五十三」)

 「こころ」では、語られている情報が「私」の主観を通しているため、それが真実であるかどうかを保留しなければならない、というのが基本的な読解の作法ではある。だがこれは物語の終盤近く、遺書を書いている「私」が全てを振り返って考察し、辿り着いた結論だ。この語り手の言うことは信じてもいい。これを疑うと、もはや読者は小説中の何物をも信じられなくなる。ここに至ってようやく漱石も物語の真相を「私」に語らせているのだ。

 ここで「私」が考えたKの「死因」は、次の三つ。

①失恋

②現実と理想の衝突

③淋しさ

 ②は前項の「動機」の三つのうちの3「自分への絶望」に対応している。「覚悟」の考察では、①ではなく②、つまり「動機」の3こそKの自殺の基本的な動機だということを読み取ってきた。「夜のエピソード」の考察からも、その日のうちにKは「薄志弱行で行く先の望みがない」と、その「死因」を遺書として書き留めたのだと結論した。


 ただここにも注意が必要だ。

 この表現は上野公園の散歩中の「Kが理想と現実の間に彷徨してふらふらしている」(124頁)という表現に対応している。

 この「現実と理想」とは何なのか?


 上野公園での会話中で「私」が「理想と現実」と言うとき、それは

  • 「理想」=「信仰・精進・禁欲・道」
  • 「現実」=「お嬢さんに恋している」

という意味だ。

 だが既にここにも「私」の目を通したミスリードによる誤解が潜んでいる。

 例えば次のような記述は、Kの苦悩が、お嬢さんを知るより以前からKを支配していたことを示す。

彼は段々感傷的になって来たのです。時によると、自分だけが世の中の不幸を一人で背負って立っているような事をいいます。そうしてそれを打ち消せばすぐ激するのです。それから自分の未来に横たわる光明が、次第に彼の眼を遠退いて行くようにも思って、いらいらするのです。学問をやり始めた時には、誰しも偉大な抱負をもって、新しい旅に上るのが常ですが、一年と経ち二年と過ぎ、もう卒業も間近になると、急に自分の足の運びの鈍いのに気が付いて、過半はそこで失望するのが当り前になっていますから、Kの場合も同じなのですが、彼の焦慮(あせ)り方はまた普通に比べると遥かに甚しかったのです。私はついに彼の気分を落ち付けるのが専一だと考えました。

  意志の力を養って強い人になるのが自分の考えだというのです。それにはなるべく窮屈な境遇にいなくてはならないと結論するのです。普通の人から見れば、まるで酔興です。その上窮屈な境遇にいる彼の意志は、ちっとも強くなっていないのです。彼はむしろ神経衰弱に罹っているくらいなのです。(下/二十二)

 ここに示される「自分の未来に横たわる光明が、次第に彼の眼を遠退いて行く」「自分の足の運びの鈍いのに気が付いて、過半はそこで失望する」「彼の意志は、ちっとも強くなっていない」「むしろ神経衰弱に罹っている」といった状況こそKの「現実」ではないか。この一節はKが下宿に入る前、まだお嬢さんのことなど知らない時の状況を述べたものだ。とすればKの「現実」とは、お嬢さんを好きになって初めて道から外れたような現状を指しているのではなく、Kの「理想」が最初から不可避的に向かわざるを得なかった断崖なのだ。

 お嬢さんへの恋心がKの「理想」を妨げる「現実」なのだという捉え方自体が、「私」の心をKに投影した推測によるバイアスがかかっている。Kのお嬢さんへの恋心は、Kの「理想」と衝突する「現実」の一部ではあっても、その重みは「私」が考えるほどには大きくはない。

 この「現実と理想の衝突」に対する修正は重要だ。そうでないと、常にKの心理を推測する上で、お嬢さんとの関係を考慮する方向へバイアスがかかってしまう。


 さて、修正した上で、やはり②がKの自殺の主たる動機だと考えていい。

 だがそう考えたのでは「こころ」がどのような小説なのか、すなわち主題がわからない。

 行きすぎた理想主義者の挫折を描いた小説?

 だが主人公は「私」だ。Kではない。「私」がそこにどのように関わっているのかがこの小説の焦点のはずだ。

 だから考えるべきなのは、どうしたって③「淋しさ」なのだ。それこそが「私」の関わりによって生じた要因であるのだから。


 だが世間ではしばしばこの「淋しさ」を①「失恋」と混同してしまう。「淋しい」とは、信頼していた友人に裏切られ、大好きなお嬢さんを失って「孤独」になったという意味だと理解されてしまう。

 だが上記の引用部分で「私」は①を「すぐにきめてしまった」という形で否定している。にもかかわらず、世間では相変わらずそれを無視して「エゴイズム」を呪文のように繰り返している。

 「エゴイズム」を主題とする一般的な理解はあまりに強固に根を張り、読者を呪縛している。あくまでKの死は「私」の「エゴイズム」のせいなのであり、その延長線上で「淋しさ」を捉えようとする。

 だがこの「淋しさ」は、①と区別されなければならない。この一節で漱石は明確にそう要求している。

 この「淋しさ」とは何なのか、なぜこの時「急に」Kを襲ったのか?


 以下に、「Kはなぜ死んだか?」を考える上でおさえておくべきポイントを確認していく。


こころ 48 -Kはなぜ死んだか?

 ここまで、テクストの詳細な読解によって、語り手である「私」とKの認識の食い違い、意思疎通のすれ違いを明らかにしてきた。

 こうした考察に基づいて、あらためて考える。

 Kはなぜ死んだか?


 これは最初にも考えたとおり、「こころ」という小説がどのような物語であるかを考え直すということだ。


 ところでKの自殺の動機については一度考えてある。今回の授業過程の比較的早い段階で、小説の主題と自殺の動機の関係がどうなっているのかを考えた。

 その時、Kの自殺の動機は読者誰もが了解する要素として次の三つを挙げたのだった。

  1. 失恋
  2. 友の裏切り
  3. 自分への絶望

 「こころ」を、エゴイズムを主題とする小説だと捉えるということは、動機を1と2だと見做すことだ。

 だが授業の最初の段階から、3であると捉えている者がみんなのうちの多数だった。

 なおかつそれは、「覚悟」や「遺書」の考察を通して、既に充分納得できているはずだ。

 とすればこれ以上どんな「動機」を考えればいいのか?


 「Kはなぜ死んだか?」という問いは、「羅生門」における「下人はなぜ引剥ぎをしたか?」と同じ意味合いがある、と授業中に言った。それがどういうことなのかを考えさせたのだが、これはなかなかに難題だった。

 いずれも、それこそが物語の核心に迫る問いであり、それに対する納得が、その小説をどう捉えるかという把握(いわゆる「主題」)に必須の問いでもあるという点において、「Kはなぜ死んだか?」と「下人はなぜ引剥ぎをしたか?」はまずは類比的だ。

 そしてそれぞれ、これらの問いに対するある答えが、まるでその問いの趣旨に合致していないのに、間違ってはいないという事態が生ずる点においても類比的だ。

 わかりにくい。

 「羅生門」における「なぜ引剝ぎを?」に対して「生きるため」と答えることは、間違っていないがまるで意味をもたない。問いの趣旨から外れている。

 同様に、「Kはなぜ死んだか?」に上記の考察から「自分への絶望」と答えることは全く正しいのだが、それはこの問いの趣旨とは違う。

 どういうことか?


 「羅生門」における「下人はなぜ引剥ぎをしたか?」という問いの趣旨は、「何のために引剥ぎをしたか?」ではない。「生きるため」という答えは「何のため」に答えている。

 だがそれは物語の最初から条件として設定されていて、なぜか下人にはそれが実行できなかったのだ。

 だから「羅生門」における謎は、最初からわかっている「悪」の実行がなぜ物語の最初には実行できず、最後には実行できたのか、だ。

 同じように「こころ」における「Kはなぜ死んだか?」を「動機」と考えるならそれは上に見たように「自分への絶望」だ。

 だがKにとってその認識ははるか以前から自身のうちに秘められていたのだし、自死の実行される12日前に、「私」とのやりとりを通じてそれを再認識させられてしまったのだし、あまつさえ遺書さえ書いているのだ。

 だが実行はされなかった。

 それから12日後にそれが実行されたのはなぜか?

 この問いの趣旨はこれだ。


こころ 47 ー履物についての言及

  テストで、「こころ」の教科書の収録部分以外の部分について出題した。その最後に一問、記述問題を置いた。全体の問題数が多すぎてそこまで時間がとれず、心残りの人も多かったに違いない。申し訳ない。

やがて夏も過ぎて九月の中頃から我々はまた学校の課業に出席しなければならない事になりました。Kと私とは各自の時間の都合で出入りの刻限にまた遅速ができてきました。私がKより後れて帰る時は一週に三度ほどありましたが、いつ帰ってもお嬢さんの影をKの室に認める事はないようになりました。たしか十月の中頃と思います。私は寝坊をした結果、日本服のまま急いで学校へ出た事があります。履物も編上などを結んでいる時間が惜しいので、草履を突っかけたなり飛び出したのです。その日は時間割からいうと、Kよりも私の方が先へ帰るはずになっていました。私は戻って来ると、そのつもりで玄関の格子をがらりと開けたのです。するといないと思っていたKの声がひょいと聞こえました。同時にお嬢さんの笑い声が私の耳に響きました。私はいつものように手数のかかる靴を穿いていないから、すぐ玄関に上がって仕切の襖を開けました。私は例の通り机の前に坐っているKを見ました。しかしお嬢さんはもうそこにはいなかったのです。私はあたかもKの室から逃れ出るように去るその後姿をちらりと認めただけでした。私はKにどうして早く帰ったのかと問いました。Kは心持が悪いから休んだのだと答えました。私が自分の室にはいってそのまま坐っていると、間もなくお嬢さんが茶を持って来てくれました。その時お嬢さんは始めてお帰りといって私に挨拶をしました。私は笑いながらさっきはなぜ逃げたんですと聞けるような捌けた男ではありません。それでいて腹の中では何だかその事が気にかかるような人間だったのです。

 下線部、履物についての言及がなぜあるのか、という問いだ。

 学年全クラス中、唯一5点満点の評価をしたのはA組のMMさん。あの時間の中で問題を的確に捉え、十分な記述ができたのは本当にすばらしい。

 以下にいくつかの回答についてコメントする。


 「私が急いでいた(焦っていた)ことを表わす」はそのとおりで間違ってはいないが、それがどのような意味をもっているというのか?

 「急いでいたので、Kが休んでいることを確認していないことを示す」は、後の「Kよりも私の方が先へ帰るはず」「いないと思っていたKの声が」などと関連づけてある分、「意味」があると感じられるが、そもそも「私」は「Kが休んでいることを確認していない」のだろうか?

 家を出る時刻はそれぞればらばらだったとあるから、「私」はKがいることを知っていて、単に自分よりも後から家を出るのだと思っていただけのはずだ。「休んでいることを確認」することは、後から、帰ってからしかわかりようがなく、急いでいるかどうかに関係なく不可能なのだ。


 履物についての言及が、朝の時点での「私」の何らかの心理を表わすと解釈することももちろんできるが、ここではそれよりも後の展開の必然性を高めるために記述されていると考える方がより大きな「意味」を持つ。

 まず、草履だったことは、玄関から上がる時間が短かったことに理由を与える。

 早く玄関からから上がると何なのか?


 玄関から上がると、自分の部屋に向かうために、まずKの部屋を通らねばならない。そこでは「私はあたかもKの室から逃れ出るように去る(お嬢さんの)その後姿をちらりと認めただけ」という展開が待ち受けている。

 「玄関から部屋に上がるまでに時間がかからなかったから、お嬢さんの姿を見ることができた」ことだけでも指摘できていれば部分点。

 だがそれ以上に、ここで「私」の裡に起こる心理を分析する。

 どう考えたらいいか?


 お嬢さんがKの部屋を出たのは、単にお茶の用意をしに台所に行っただけかもしれない。

 おそらく実際そうなのだ。

 だが「私」はそれを「逃げた」と捉えてしまう。

 それはお嬢さんを見たタイミングが微妙だったからだ。

 玄関で時間がかかって、なおかつお嬢さんがそのままKの部屋にいたとすれば、いたことを隠そうという意図がないのだと感じられる。

 だがお嬢さんは部屋を出た。そしてそれは「私」と入れ替わるような微妙なタイミングだった。

 ということは、もしも履物を脱ぐのに時間がかかっていたならば、お嬢さんは完全にKの部屋を出てしまっていただろう。そうだったら「私」はお嬢さんがKの部屋にいたこと自体を知らずにいたことになる。

 この可能性がかえって、お嬢さんはKの部屋にいたことを「私」に隠そうとしたのではないか、という疑惑を「私」に芽生えさせてしまう。隠そうとするということは、すなわち…と。

 だからこそ「私」は疑心暗鬼にとらわれ、お嬢さんが部屋を出ることを「逃げる」と捉えてしまう。


 履物への言及は、上記のように考えた時により大きな「意味」をもつ。

 「草履」に何か象徴的な意味を読み取ろうとする回答もあったが、総じて、そう考えたときに「思い当たる」感覚がなく、無理矢理考えた感じがする。

 それに比べて、上記の分析は「思い当たる」感じがするはずだ。読者は既にそのことを自然に感じ取っている。

 ただその「感じ」を分析的に語るのは難しい。


 朝、履いたのが草履だったのは偶然であり、その偶然は明らかに作者の意図的な仕掛けだ。

 このような解釈をするためには、「登場人物の心理」だけでなく、「作者の意図」といった視点が必要だ。

 一連の「こころ」読解においては、しばしばこうした視点を用いて、テキストの示す「意味」を捉えてきた。

 その応用問題である。

 唯一満点だったMMさんの答案

素早く脱ぐことができる草履をはいていることで、帰宅してお嬢さんとKの声が聞こえたときにすぐに履物を脱いでそちらへ向かうことができ、お嬢さんの後ろ姿に疑念を深めるため。

 用意しておいた模範解答。

帰った時に、玄関から部屋へ上がるまでの時間がかからなかったために、部屋を出ようとしたお嬢さんを微妙なタイミングで見ることになり、かえって、お嬢さんは自分に見つからないようにKの部屋を出ようとしたのではないかという疑念を「私」に抱かせる必然性を生むため。

 こうして見比べても、MMさんの答案が驚くほどよく書けていることがわかる。

 

2023年12月6日水曜日

こころ 46 -その時、Kは何をしていたか

 エピソード②について、Kの遺書が上野公園の散歩の夜に書かれていたことを示す、という解釈を示した。

 この場合、問②「Kの意図」はどうなるか?


 仮説4に伴う②の解釈「何か話したかった(私に対して心のつながりを求めている)」は否定できないのでそのまま認める。そのうえで、何か意図があるかといえばおそらく、ない。従って仮説3に伴う解釈「何でもない」でもいい。Kにはどうしようという意図もないのだ。

 同時に、意図ということでないなら、仮説1,2に拠る「眠っているか/眠りの深さを確かめた」でもいい。自殺を決行するための確認だと考えないならば。

 「謎の記述」の②「近頃は熟睡できるのか」というKの問いは、K自身があまりよく眠れていないことを示していると考えられる。必ずしも自殺の準備のための問いだと考える必要はない。自分は安らかな眠りから遠ざかっている。一方、お前は? と問うているのだ。


 ところで、一般的な解釈1「Kがこの晩に自殺しようとしていたことを示す」及び2「自殺の準備」説は、「遺書が書かれていた」と矛盾しない。このことについてどう考えるか?


 前述の通り、1の方が戦慄を伴う納得があって、エピソードとしての立ち上がりが鮮やかだが、2の方が整合的で無理がない。

 授業者はもともと、どちらの説にも賛成できないと考えていた。Kの死には、やはりどうしてもエピソード④⑤⑥の展開が物語の力学的に必要だと考えていたからだ。

 だが、仮説5を基本として、あらためて仮説1,2について考えてみて、今年度はいくらか考えを変えた。

 まず仮説2「自殺の準備」を単独で採ることはできない。エピソードとしての立ち上がりに欠けて、十分な「意味」があるという手応えが得られないからだ。無理はないことは、必要であることを保証しない。

 そして仮説1は、「自殺しようとした」と、Kの意図を前提とすると受け入れがたいが、仮説5を前提とする限り、あってもいい展開であると思えてきた。つまりKが自殺を決行しようとして、隣人が眠っているかどうかを確かめたのだとは思えないが、それでも、遺書を書き終えたKが隣室との仕切りの襖を開けて声をかけ、その時、隣人が目を覚まさなかったら、その実行を止めるものはなかったかもしれないのだ。


 未解決の問題、③「強い調子で否定する」は?

 これについての納得できる解釈は今のところ次の二つ。

 一つ目。

 前日に上野公園でKが口にした「覚悟」という言葉は、「私」にとっては「お嬢さんを諦める覚悟」のことだ。そうKに言わしめた「私」は「勝利」「得意」を感じている。

 だがKにとって、昼間口にした「覚悟」は「薄志弱行で到底行く先の望みはない」自分への決着のつけ方としての自己所決の「覚悟」だ。Kにとって「覚悟」とは、その言葉にふさわしい重みをもっているのだ。

 この言葉の重みが「私」の疑いに対するKの否定の強さに表れているのではないか。

 つまりこの否定の強さによって、追い詰められたKの心理と、この言葉の重みがわかっていない「私」のすれ違いを読者に伝えようとしているということになる。


 二つ目。

 「そうではない」は「私」の「あの事件について何か話すつもりではなかったのか」という問いかけに対する返答だ。この間接話法が曲者だ。

 「私」はこの問いかけを具体的にどのような表現でKに投げかけたのだろうか?

 もしもそれが「お前は昨夜、まだお嬢さんのことを話すつもりだったんじゃないのか」というように問われたとすれば、Kは明確に「そうではない」と言うはずだ。

 確かにKが前日に話したかったのは「そう(お嬢さんのこと)ではない」。「あの事件」とは「私」にとってはお嬢さんの話なのだと認識されている。だがKが話したかったのは自らの信仰の迷い、己の弱さのことだ。

 そしてこの食い違いがKの強い否定となって表れているのだ。


 さて、重要な会話の交わされた上野公園の散歩の夜のエピソードについて、Kの自殺につながる重要な解釈をしてきた。

 この解釈は、小説中に直接的には描かれていない時間について読者が想像することの妥当性を試す。

 果たして「私」が目を覚ますまでKは何をしていたのか。

 そしてそれを考える妥当性とともに、その必要性についても注意を喚起する。

 例えば、自殺の直前にKが「私」の部屋との間を隔てる襖を開けて、「私」の顔を見下ろしていたであろう時間。

 例えば、奥さんから「私」とお嬢さんとの婚約の話を聞いてからの「二日余り」の時間。

 これらの時間のKについて想像することの妥当性と必要性に納得できたとき、読者は、小説の中で直接的には描かれていない時間の存在を想像することが許される。

 小説の描く物語は、そこに描かれていない時間をも含んで成立している。


こころ 45 -数々のサイン

 きわめて「意味ありげ」に見える「最後に墨の余りで書き添えたらしく見える、もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろうという意味の文句」という表現は、むろん、そこに込められたKの心情を考えさせるための手がかりでもあるが、同時に、それ以外の部分が別の日に書かれたものだという設定を示しているのだという解釈をもとに、仮説5をたてた。

 だがまだそれは、可能な解釈の一つに過ぎない。面白い解釈だとしても、唯一の真相として認められるわけではない。

 解釈の妥当性は、矛盾がないことに拠るだけでなく、そのことを積極的に示そうとする作者の意図が、何らかのサインによって示されることで保証される(既習事項)。

 Kがこの時、遺書を書いてはいたのだという「真相」を漱石が想定していたことを受け入れるとしたら、他にはどんなサインが文中から見つかるだろうか?


 仮説5によってこそすっきりと説明できるのが、解決すべき三つの謎の記述の①「彼の声は普段よりもかえって落ち着いていたくらいでした」だ。

 この落ち着きは自殺の「覚悟」ができているからだ、というのが仮説1,2の解釈だ。「落ち着いていた」は、昼間「私」に「どう思う」と尋ねたり、「ふらふらしてい」たり、「悲痛」だったりするKの様子とは大きく変化している。

 それが「覚悟」を口にしたから「落ち着い」たのだとすると、夕方よりも後である宵のうちから、Kの態度には相応の変化が見え始めていてもいい。だが宵のKの態度は「迷惑そう」だ。その変化の兆候を読者に示さないまま、夜中には「落ち着いていた」という変化の結果をいきなり提示するのは唐突だ。

 むしろこの変化は、その間に何かあったと考えるべきであることを示している。

 Kが宵のうち「私」を「迷惑そう」に疎んじていたのは、「私」が感じている「勝利」や「得意」とは対照的に、「敗北」や「失意」のうちに置かれているからではない。一人で考えたいことがあったからだ。むろん昼間の「私」との会話の内容についてだ。はからずも自らが口にしてしまった「覚悟」についてだ。

 それは自分の恋心に決着をつけるなどという軽薄なものではない。自らを所決する悲愴な「覚悟」だ。それを心に秘めたKは「私」の世間話に気楽につきあうことなどできない。

 そうしたKが夜中にはなぜか「落ち着い」た声で、なぜか自分から「私」に話しかける。

 こうした変化は、Kが「覚悟」の証としての遺書を書き終えたことを示していると考えるといっそう腑に落ちる。


 また遺書について「手紙の内容は簡単でした」「ごくあっさりした文句」と描写されている。これらの形容から想像される遺書本文の印象はきわめて淡泊なものだ。

 それはこの時のKの「落ち着い」た声と符合しているようにも思える。Kは激情に流されることなく「必要なことはみんなひと口ずつ書いてある」手紙を書き終えたのだ。

 自殺する「覚悟」を決めたことによってKの声が「落ち着いていた」のだという納得に比べて、遺書を書き終えたことによって「落ち着いていた」のだと考えるのは、相対的に強い納得が得られるとは思う。

 こうした「納得」は、繰り返すが「なぜKの声は落ち着いていたのか?」という疑問に対する「納得」というより、正確に言えば「作者はなぜKの声が落ち着いていたと書くのか?」という疑問に対する「納得」だ。


 また遺書の記述「自分は薄志弱行で到底行く先の望みがないから、自殺する」が、上野公園でKが口にした「自分の弱い人間であるのが実際恥ずかしい」「ぼくはばかだ」と符合していることは明らかだ。

 だからこそKの自殺の動機はこのとき既にKの裡に準備されているのだと考えられるのだが、こうした類似性のさりげない提示もまた、この晩のうちにこの遺書が書かれたことを示すサインの一つだと考えるとさらに納得がいく。


 また遺書に「お嬢さんの名前だけはどこにも見え」ないことについて、「私」は「Kがわざと回避したのだということに気がつきました」という。

 これも巧妙なミスリードだ。こう書かれてしまうと、お嬢さんのことは遺書に書かれるはずだということが前提になり、その上でなぜKは書かなかったのか、と考えたくなってしまう。

 だがここでも、お嬢さんの名前が遺書に書いていなかったということだけが事実で、「Kがわざと回避した」は例によって「私」の根拠のない憶測に過ぎない。

 お嬢さんのことが遺書に書かれていないのは当然だ。Kの苦悩はお嬢さんへの恋によるものではなく自らの弱さによるものなのだから。

 だがこのことがわざわざ書かれているのは、それについての「私」の誤った判断(Kがわざと回避したのだ=自殺の原因はお嬢さんの婚約だ)によって読者をミスリードすることを意図していると同時に、逆に「真相」に至る手がかりを提供しているのだともいえる。

 あえて読者を誤解に導きながら、それが誤解であることにも後で気付くよう、注意喚起のためのフラグを立てるのだ。

 ここでは次の三つのテーゼが、相互に因果関係を持つ、整合的な解釈を構成している。

  • Kの自殺の動機は、「私」とお嬢さんの婚約とは無関係だ。
  • 上野公園でKが口にした「覚悟」は、「自殺の覚悟」のことだ。
  • 遺書が書かれたのは、その晩だ。

 遺書にお嬢さんの名前が書かれていないのはなぜか、と考えさせることは、この解釈に気付くための端緒になる。


 考えるほどに、こうした様々なサインが、遺書がこの晩に書かれていたという「真相」を読者に知らせようとしているように思えてくる。

 だがそれでも読者がそれと気付くための符牒としては不充分だ。

 このわかりにくさ、気付きにくさが、仮説5を突飛なものと感じさせてしまう。

 実際にどれほどの読者がこうした解釈の可能性に気づいているのだろうか。少なくともこうした解釈について書かれたものは、授業者の知る限り、ない。

 だがこの「わかりにくさ」には理由がある。

 仮説5が示す「真相」はなぜこんなに読者にわかりにくいのか?


 同じ趣旨の疑問を、上野公園の散歩の会話の分析においても投げかけた。二人の会話がアンジャッシュのコントのようにすれ違っているなどという「真相」は、普通の読者がすぐに気付けるものではない。

 こうした「真相」になぜ読者が気付きにくいかというと、「こころ」の物語が一人称の「私」の視点から語られており、かつ「私」がそうした「真相」に気付いていないからだ。

 そして、そうした「真相」に「私」が気付いてしまったら「こころ」のドラマは成立しない。認識の食い違い、意思疎通のすれ違いこそが「こころ」のドラマだ(エゴイズムの葛藤などではなく)。

 つまり漱石は物語の真相を、語り手の「私」には気付かれないように、しかも「私」自身の口を通して読者には伝えなければならないという難題に挑んでいるのだ。この二律背反の課題を、漱石は奇跡的な離れ業で乗り切っている。

 むろん、大学生当時の「私」には気付かなかったが、遺書を書いている「私」はその「真相」に気付いたことにすることもできる。

 だが「こころ/下」の語りは、実はほとんど物語渦中にある大学生の「私」の視点からしか語られていない。そのことによって「私」の不明を読者も共有することができているのだ。それなのに十年後の「私」が「真相」をすっかり説明してしまったら、作品の論理は理に落ちてしまって、この精妙な離れ業は台無しになるだろう。

 「真相」は、わかりにくい必要があるのだ。


こころ 44 -「墨の余りで書き添えたらしく見える」

 仮説5の解釈を授業で聞いたとき、授業者が言下に否定するために挙げた根拠は、Kの遺書の「最後に墨の余りで書き添えたらしく見える、もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろうという意味の文句」(139頁)だった。

 この「文句」は内容的に、どうみても自殺の直前に書かれたものに見える。こんなことを書いてから、10日あまり経ってようやく自殺したなどという「真相」を受け入れることはできない。そしてそれは「最後に墨の余りで書き添えた」ものなのだ。したがってこの遺書は、やはり自殺の直前に書かれたとしか考えられない。

 とすればこの手紙はやはり自殺の直前、土曜の晩に書かれたものに違いあるまい。


 だが考えているうちにそうではないことに気づいた。仮説5を否定するための根拠として挙げたこの記述こそが、そもそも当該生徒に仮説5を発想させた手がかりであり、またその妥当性を証明する最大の根拠なのだ。

 発想の転換のためには、こう考える必要がある。

 「墨の余りで書き添えたらしく見える」とは、「私」に「らしく見える」に過ぎない。「墨の余りで書かれた」というのは、小説内において何ら確定された事実ではない。

 「こころ」に書かれていることは、実は常に「私」の目を通して判断されたものに過ぎず、客観的なものだとは限らないというのが「こころ」読解の基本ルールであった。そのことは上野公園の散歩の会話の分析でもいやというほど思い知らされたはずだ。


 ここからわかる「事実」は、その文句とその前までの遺書の文面との間に、何らかの差異が認められるということだけだ。つまり、それが前の部分に続けてすぐに書かれたものだということは、この記述からは何ら保証されていないのだ。

 だとすればそこだけは自殺を決行した土曜の晩に書き加えられたものであって、それ以外の部分はもっと以前に書かれたものであっても構わない。

 「墨の余りで書き添えたらしく見える」という形容こそ、この部分とそこまでの部分の時間的連続性を表面的には示しながら、同時に、時間的断絶をこそ示すサインなのだとも考えられるのだ。

 つまり反証と考えられたものが、そのまま根拠にもなりうるのだ。


 「墨の余りで書き添えたらしく見える」とは具体的にはどういうことか?

 「事実」の具体的な様相を想像してみよう。

  1. それ以前の文章に比べて墨が薄い。かすれている。
  2. 字の大きさが前の部分と違う(大きい・小さい)。乱れている。
  3. この部分だけ余白が不自然に狭いなどレイアウト上アンバランス。
  4. 他の部分が「礼」や「依頼」といった、「私」へ向けたことが明白な文章であるのに対し、この部分だけが独り言のような内容だ。
  5. そこまでが堅い文語調なのに、ここだけが口語調になっている。

 「墨の余りで」から想像される具体的状態として、まず1が思い浮かぶ。

 だがそれ以外に2~5のような特徴がなければ、「私」がそれを「書き添えた」ものだと判断する理由がない。

 23も視覚的イメージとして想像されてもいい。

 4はある程度の分析的思考が必要だ。前の部分が「必要なこと」であるのに対して、この部分は意図が不明確な独り言のような文言だ。

 5については解説が必要だ。

 先生の遺書(「下」本文)が「西洋紙」に「印気(インキ)」で「縦横に引いた罫の中へ行儀よく書いた」、「原稿様のものであった」のに対して、Kの手紙は「巻紙」に「墨」で書かれたものだという対照はおそらく、先生の遺書が口語体(言文一致体)であるのに対し、この手紙が文語体の「候文(そうろうぶん)」であったことを示している。

 「候文」とは、文末に「候」が補助動詞として付けられる手紙独特の文体のことだ。漱石の「吾輩は猫である」から引用する。

 主人が書斎に入って机の上を見ると、いつの間にか迷亭先生の手紙が来ている。

新年の御慶目出度申納候(ぎょけいめでたくもうしおさめそうろう)。……

 いつになく出が真面目だと主人が思う。迷亭先生の手紙に真面目なのはほとんどない。それに較べるとこの年始状は例外にも世間的だ。

一寸参堂仕り度候えども(ちょっとさんどうつかまつりたくそうらえども)、大兄の消極主義に反して、出来得る限り積極的方針を以て、此千古未曾有(このせんこみぞう)の新年を迎うる計画故、毎日毎日目の廻る程の多忙、御推察願上候(ごすいさつねがいあげそうろう)……

 なるほどあの男の事だから正月は遊び廻るのに忙がしいに違いないと、主人は腹の中で迷亭君に同意する。

 同じく漱石の「三四郎」の中には「母に言文一致の手紙を書いた」という記述がある。つまり手紙が言文一致で書かれることは特に記述すべき事柄なのであり、裏返せば原則的には手紙は「候文」で書くものなのだ。

 もちろん相手と手紙の性格によるのであって、残っている漱石の書簡には、候文のものと口語文のものとがある。友人や年下の相手には口語文で、あらたまった手紙は候文だ。

 したがって、Kの性格から考えても、この遺書は候文で書かれたと考えられる。

 そしておそらく「もっと早く…」の部分だけは口語体で書かれている。4のように「独り言」じみた内容を候文で書くのは不自然だ。


 だがこうした123「外見」や4「内容」や5「文体」による差異によって、この文句が特別な位置にあることが読者に意識されるわけではない。

 この文句はそれよりむしろ「私の最も痛切に感じたのは」という反応に沿って読者に解釈される。つまりそこにKの心情/真情、Kの悲痛な心の叫びを読み取る、といったような情緒的な読みだ。

 だから、この部分について考えるにしても「Kはなぜこの文句を書いたのか」というような問いになる。例によって「この時のKの気持ちを考えてみよう」だ。

 もちろんそれは考えるべきことだ(特にKの自殺の動機を考える上で、この「文句」を書いた心理を考えるのは非常に重要であり、そしてそれはかなり難問でもある。この後でそれを考察する)。

 だが同時に、こうした意味ありげな符牒は、この部分とそれ以前の文面が別な機会に書かれたものだという「真相」を読者に知らせようと作者が置いたサインなのだとも考えられるのだ。

 これもまた先に述べた、登場人物の心理に終止せずに、それが語られる物語上の「意味」を捉える発想だ。


こころ 43 -描かれていない時間

仮説5

問① 遺書が、この晩に書かれていたことを示す。


 この解釈について真面目に検討しよう。

 こう考えることの妥当性についての重要な論点は、物語に直接描かれていない「事実」をどこまで認めるか、という問題だ。

 ここでは、「私」が目を覚ますまで、つまりKが襖を開けて「私」に声をかけるまでの間、Kは何をしていたのか、という想像は必要なのか、という問題だ。

 語り手の「私」から見ればKが襖を開けてこちらに声をかけるまでの時間は存在しない。これは「私」だけでなく読者にとってもそうなのだ。そうした時間のことをどこまで想定する必要があるか。

 一般に、物語にとってのあらゆる展開の可能性の中で、直接描かれていない場面・時間は、とりあえずまだ存在はしていない。エピソードとエピソードの間、場面と場面の間は跳んでいる。そしてそれについて想像しなければならない必要が常にあるわけではない。登場人物は、観客の前に登場する直前にスイッチを入れられて舞台に登場するロボットのようなものに過ぎない、とも言える。

 だが物語によっては、書かれていない時間・場所で起きた出来事について想像することが読者に要請される場合もある。

 ミステリーなどは語られている場面の裏で何が起こっていたかという想像こそが物語享受の作法の核心だ(コナン君が語る黒タイツ人間の行動のように)。

 そうしたジャンル的特性に限らず、書かれていない時間について読者に想像を促す必然性をもった物語は、それだけ豊かなものになりうるはずだ(もっとも、ミステリーでは結局物語内で語られてしまうのだが)。

 このエピソードにおいて、この想像は要請されているのだろうか。Kの「その時間」は物語にとって存在したのだろうか?

 そうした想像の要請を受け入れるためには何が必要か?

 何をもってそれを小説世界にとっての「事実」と見なすか?


 書いていないことを解釈によって作品内の「事実」と見なすためには、その解釈につながる情報を作者が意図的に文中に書き込んで読者に提示していると見なせなければならない。

 そのために敢えて書いたと見なせる符牒=サインが見つかることが、そうした解釈の正統性を根拠づける。

 文中に明示された事実と矛盾しない解釈というだけなら、解釈の幅はかなり広く確保される(「K=宇宙人」説)。

 だが小説は現実ではないのだから、読者が解釈すべき物語世界の限界については、作者が文中に何らかのサインを書き込んでいることによって保証されると考えるべきなのだ。そうでなければ通常は常識の範囲内で、ということになる。

 先に、書いてあることにはすべて整合的な解釈ができるはずだと述べたが、同時に、書くべきことが書いていなければ、それはないものと見なす、とも述べた。これは解釈の妥当性を判断する上での、裏表の条件だ。

 ここでも「遺書は上野公園の散歩の晩に書かれたものだ」という、文中で明示されていない「真相」を読者に伝えるべく漱石が残したサインが見つからないことには、こうした解釈を採らなければならない必然性はない。それはトンデモ解釈にすぎない。

 Kが遺書を書いていたという、小説に書かれていない時間を読者に想像させるべく作者が書き込んだサインは見つかるのか?


こころ 42 -仮説5

 仮説4は仮説3とともに、否定しようもなくそのような「意味」を持っている。このエピソードは物語を展開させる機能をはたしているし、「襖」の象徴性は明らかに意図的だから、そこに注意が向けられるのもこのエピソードに因ってだ。

 だがこれは仮説1、2と併存する「エピソードの機能」であり、やはり仮説1,2についての何らかの決着は必要だ。


 だがそれとは別に、さらにもう一つの「意味」について考える。

 このエピソードは、「私」の目からはKの言動が謎めいて見えるばかりで、だからこそ「意味」をはかりかねるのだが、これをKの視点に立って読むと、あらたな「意味」が立ち上がってくる。

 まずはこう考えてみよう。

 「私」に声をかけるまでKは何をしていたか?


 まずは本文を見る。「便所へ行った」というのがKの言明だ。だがこれが本当かどうかは疑わしいし、本当だとしても、これは声をかける直前に過ぎない。宵の口から声をかけるまでの間、ではない。

 さらに想像を促すためにこう考えてみる。

 「私」に声をかけるまでKは起きていたか?


 寝ていたとは想像しにくい。

 なぜか? そう考えられる根拠は何か?


 2点指摘できる。

  • 見ると、間の襖が二尺ばかり開いて、そこにKの黒い影が立っています。そうして彼の部屋には宵のとおりまだ灯りがついているのです。
  • Kはいつでも遅くまで起きている男でした。

 これらの記述によって、読者は自然に、そこまでの時間、一人で起きていたKの姿を思い浮かべる。

 Kはこの時、眠りから覚めたのではなく、それまでランプの下で何事かしていたのだ。Kは何をしてそれまで起きていたのか?


 さて、こうした作為的な誘導をすれば、想像の可能性は限定されている。

 Kは遺書を書いていたのだ。

 可能性と言うだけなら平生の通り学問をしていても、ただ考え事をしていてもかまわない。だがこの場面で「Kは何をしていたか」という問いに対する答えとして、答えるに値すると感じられる答えは「遺書を書いていた」しかない。

 この「遺書」とは何のことか?

 まさしくあの「手紙」のことだ。物語の背後で人知れず反故にされ破り捨てられた下書きなどのことではなく、教科書の最後で読者の前に提示される遺書のことだ(138頁)。

 そうでなければこのような想像をする「意味」はない。


 にわかに、驚くべき「エピソードの意味」が立ち上がってきた。

 だが問①を「Kが遺書を書いていたことを示す」と言いたいのではない。「自殺のあと残されていた遺書が、既に上野公園の散歩の夜に書かれていたことを示す」ことが、謎めいたこのエピソードが置かれていることの「意味」だと言っているのだ。


 だがこの思いつきは、誘導に従って発せられたものであり、否定したいというよりむしろ、なんでそんなことを考えなければならないのかわからない、という感じであるはずだ。まずはそうした反応が健全だ。

 こんな解釈をしている人は、文学研究者や国語教師の中には、ほとんどいないはずだ(少なくとも授業者はそういう解釈を述べた文章を読んだことがないし、発言としても聞いたことがない)。

 実はそもそもこの解釈は授業者が思いついたものですらない。

 この解釈を提示したのは、ある年の授業を受けていた2人の生徒だ(別々のクラスで2人が相次いで発言した)。

 そして彼らに対して授業者は、Kはこの晩に自殺しようとしていたわけじゃないよ、と言いつつ、だからこそ、この晩に遺書を書いたなんて解釈はバカげているよ、と言っていたのだった。

 こうした解釈は、まずもって仮説1,2に付随して発想されたものであり、それについては、実は授業者は否定的だったのだ。

 なぜか。Kの自殺は、エピソード④⑤⑥を経るという物語的必然性によってこそ成立するのであって、エピソード①の「覚悟」だけでは、まだその必然性は十分ではない、と考えていたからだ。

 一方、この晩にでもKは自殺を実行に移す可能性があったと考える世の論者は、明らかにそのような言及をしていないというだけで、当然この晩のうちに遺書も書かれていると考えているのだろうか。そしてそれは次の週の土曜日の晩に発見されることになるその遺書そのもののことなのだろうか。それはわざわざ言明するまでもなく自明のことなのだろうか。それとも、この晩には遺書を書かずに自殺しようとしたのであり、遺書はやはり自殺を決行した土曜の晩に書かれたものだと考えているのだろうか。

 一体どう考えたら良いか?


こころ 41 -さらに別の「機能」

 この夜のエピソードには、物語を展開させるはたらきがある。このエピソードによって、「私」が次の行動を起こし、物語が動く。

 だが、このはたらきをもってこのエピソードの「意味」が腑に落ちるわけではない。

 なぜか?


 これではこのエピソードの意味がこのエピソードの前後で完結してしまって、Kの自殺と関連させて解釈しなければならない、という視点がすっぽり抜け落ちてしまっている。何のために自殺の晩にこのエピソードを想起させたのかわからない。

 ただ少なくともこのエピソードがそのような「意味」を持っていることは事実であり、否定できない。

 ただ、充分ではない、のだ。


 仮説3では説明できない、自殺とこのエピソードのつながりについて考えよう。自殺の場面でこのエピソードを想起することを読者に要求する漱石の意図について考えるために、まずは両者をつなぐ糸口を考える。

 自殺の場面とこのエピソードの共通点は何か?


 最も重要な共通点は、襖が開いていることだ。












 それが何だというのか?


 「襖」の意味はこれだけでは考えようがない。次のようないくつかの記述を読むことで、このことの意味をはじめて考えることができるようになる。

私は書物を読むのも散歩に出るのも厭だったので、ただ漠然と火鉢の縁に肘を載せてじっと顎を支えたなり考えていました。隣の室にいるKも一向音を立てませんでした。双方ともいるのだかいないのだか分らないくらい静かでした。もっともこういう事は、二人の間柄として別に珍しくも何ともなかったのですから、私は別段それを気にも留めませんでした。/十時頃になって、Kは不意に仕切りの襖を開けて私と顔を見合せました。彼は敷居の上に立ったまま、私に何を考えていると聞きました。(三十五章 教科書の直前)

私はKが再び仕切りの襖を開けて向うから突進してきてくれれば好いと思いました。私にいわせれば、先刻はまるで不意撃ちに会ったも同じでした。私にはKに応ずる準備も何もなかったのです。私は午前に失ったものを、今度は取り戻そうという下心を持っていました。それで時々眼を上げて、を眺めました。しかしそのはいつまで経っても開きません。そうしてKは永久に静かなのです。

そのうち私の頭は段々この静かさに掻き乱されるようになって来ました。Kは今の向うで何を考えているだろうと思うと、それが気になって堪らないのです。不断もこんな風にお互いが仕切り一枚を間に置いて黙り合っている場合は始終あったのですが、私はKが静かであればあるほど、彼の存在を忘れるのが普通の状態だったのですから、その時の私はよほど調子が狂っていたものと見なければなりません。それでいて私はこっちから進んで襖を開ける事ができなかったのです。(117頁)

私は遅くなるまで暗いなかで考えていました。私は突然Kが今隣りの室で何をしているだろうと思い出しました。私は半ば無意識においと声を掛けました。すると向うでもおいと返事をしました。Kもまだ起きていたのです。私はまだ寝ないのかと襖越しに聞きました。もう寝るという簡単な挨拶がありました。(略)私はまた半ば無意識な状態で、おいとKに声を掛けました。Kも以前と同じような調子で、おいと答えました。私は今朝彼から聞いた事について、もっと詳しい話をしたいが、彼の都合はどうだと、とうとうこっちから切り出しました。私は無論襖越しにそんな談話を交換する気はなかったのですが、Kの返答だけは即坐に得られる事と考えたのです。(119頁)


 上の記述から、「襖」について何が考えられるか?


 それぞれの文脈を意識的に読み進めていけば、「襖」が「二人の心の壁(距離・隔たり…)」を表していることはすぐにわかる(「エヴァンゲリオン」でいうところのATフィールドだ、といってわかる生徒は年々減ってきた)。

 こういうの何と呼ぶか?


 すぐに「象徴」の二文字が脳裡に浮かんだ人は学習の成果が表れている。

 ここでの「襖」もまた、「羅生門」における下人の頬の面皰(にきび)と同じく、典型的な「象徴」だ。

 「象徴」とは何か?


 復習だ。みんな適切に説明できるだろうか。

 象徴とは、ある具体物がある抽象概念を表していると見なすことだ。

 この場合は「襖(具体物)」が「心の距離(抽象概念)」を「象徴」していると考えられるのだ。

 ここからこの場面についてどのようなことが考えられるか?


 エピソード②ではKは声をかけて「私」に話しかけている。そのためには襖を開けるのは当然のようにも思われるが、話しかけるだけなら襖を開ける必要はない。実際に119頁では「私」は「まだ寝ないのかと襖越しに聞」く。

 とすると、襖を象徴として見ると、襖を開けるという行為はすなわち、Kがこのとき「私」に心のつながりを求めていたことを示す。

 つまり、この深夜の訪問はKから「私」への不器用なアプローチだということになる。

 この場合、問②についてはどのように表現したら良いか?

 敢えて言えば「話をしたかった」が近いか。

 そうなると、何を話したかったのか、またなぜ話すのをやめたのか、なぜ翌日、話があったことを否定するのか、という疑問が浮上してくる。

 だがそれも、明確に何かを話したかったわけではなく、ただ話しかけたかっただけなのだと考えてもいい。「覚悟」という言葉を口にして、昼間の逡巡に一定のけりをつけたKが、すぐその夜に再開したい話などあろうか。

 むしろ明確な用件などなく、それが「私」の目からはKの行動が不可解なものとして映る意思疎通の齟齬が、基本的な「こころ」のテーマを語っている、と考えればいいのではないか。つまりKの「意図」などというものは、このエピソード自体が「意味」ありげなことから要請される、いわば「幻」なのではないか。


 では①「エピソードの意味」はどうなるか?

 自殺の場面を読む読者にこのエピソードを想起させることで、Kが自殺する前になぜ襖を開けたままにしたのかを考えるための注意を喚起し、あわせてその参考となる、という機能をもっているということになる。

仮説4

問① 自殺に関する襖の意味について注意を喚起し、襖を開けたKの心理を推測させる手掛かりを与える。

問② 「私」に対して心のつながりを求めている。


こころ 40 -エピソードの「機能・働き」

 ここで、別の角度から考える。

 いったん問2を措いて、問1の「エピソードの意味」を「このエピソードの機能・働き・役割・必要性」と考えてみる。

 エピソードは、大きく言えば主題を形成するために置かれているのだが、限定的に言えば、まずは物語を展開させるために置かれている。

 それを考えるために、こう問う。

 このエピソードの前後で何が変化したか?


 既習事項だ。「私」はこのエピソードを挟んで、Kの口にした「覚悟」の意味をほとんど反対方向に解釈しなおしたのだ。

 この変化から、このエピソードの「機能」を説明してみよう。


 「私」がKの「覚悟」の意味を考え直した直接的な契機は、翌日Kに問い質した際、Kが「そうではないと強い調子で言い切」ったことだ(これも既習)。

 こうした態度から、Kの「果断に富んだ性格」を思い出した「私」は、上野公園の散歩の際にKが口にした「覚悟」を、当初の「お嬢さんを諦める『覚悟』」とは反対の「お嬢さんに進んでいく『覚悟』」だと思い込んでしまう。

 直接的な契機は確かにこの「強い調子」だが、その背景には、そもそも「覚悟」を口にした時のKの「独り言のよう」「夢の中の言葉のよう」という様子が微かな懸念として「私」の中で引っかかっており、それが宵の「世間話をわざと彼にしむけ」る行動につながり、さらにその疑心がこの晩の謎めいたKの行為によって増幅した、という論理的必然性につながっている。

 そうして「覚悟」の解釈を変更して、焦った「私」は、奥さんに談判を切り出す。

 こうした展開の導因としてこのKの謎めいた行動があるのだから、このエピソードは、Kの心理が「私」にとって謎めいていることによって「私」の疑心暗鬼を誘い、「私」に悲劇的とも言える行動を起こさせる誘因となる、といった、物語を展開させる推進力となる「機能」があるのだ、と説明できる。

 これがこのエピソードの「意味」だ。


 こうした「エピソードの意味」に整合的な「Kの意図」は何か?

 敢えて言うならば、Kの言葉通り「特別な意味はない」だ。

 Kには特別な意図はないのに、「私」が考えすぎてしまっているのだという解釈は、心のすれ違いを描いた「こころ」という作品の基本的な構図にふさわしい。

 この解釈は①「Kの声が落ち着いていた」にも整合的だ。

 「落ち着いていたくらいでした」という描写は、反動として「落ち着いている」ことに対する不審を読者に抱かせる。「落ち着いている」はずはない、おかしい、と思わせるのだ。

 だが「特に意味はない」ならばKの声に特別の響きがなくてもいいのだし、②「近頃は熟睡できるのか」も、「意味がない」のならば考える必要がない。


仮説3

問① 物語を展開させるはたらきをする。

問② 特別な意味はない。


 これでこの問題に結論が出たことになるだろうか?


こころ 39 -仮説2

 仮説1に対する疑義を回避しようとしているうち、もう一つの仮説にたどりつく。

 Kの行動を「いずれ自殺するための準備として、まずは隣人の睡眠状態を確かめた」ものだというのだ。


仮説2

問① Kが自殺の準備をしていたことを示す。

問② 「私」の眠りの深さを確かめようとした。

 仮説1において、とにかくこのエピソードを、自殺に関係したものであると考え、Kの意図を「眠り」に関することであると考えている時点で、実は仮説1と2の、未分化な解釈がなされていたと言うべきだろう。疑問や反論などの検討を通して、徐々に仮説2が明確になってくる。

 2も、この夜の訪問が自殺と関係のあるエピソードでありうるし、自殺の決行がここから12日後になったことの説明もつく。Kは「私」が簡単に目を覚ますことを確認して、しばらくは決行を延期したのだ。翌朝の「近頃は熟睡ができるのか」とかえって向こうから問う意味ありげなやりとりとも符合する。

 ただしこの解釈では、もしも「私」が目を覚まさなかったらKはこの晩のうちにでも自殺を決行していたのだ、という魅力的な想像に戦慄することはできない。


 Kはこの晩に自殺するつもりだったのか、この晩はあくまで「偵察」だったのか?


 両説は、議論の中で必ずしも区別されているとは限らない。だからみんなの意見を聞いても、どちらが最初に発表されるかはクラスによってまちまちだ。

 実は文学研究者や国語教師の間でも、あまり区別されてはいないと思われる。


 だが実はどちらを採ろうともまだ納得はしきれない。

 仮説1、2いずれにせよ、Kが「私」の睡眠の深さを、自殺の完遂のために必要な条件だと考えていたとすると、実際にKが自殺した晩にKが襖を開けたままにしている理由がわからない。

 その晩、Kは襖を開けた後、「私」の名を呼んだのか?

 また、わざわざ熟睡の程度を確認してまで、それが障害になるかもしれないと考えるくらいなら、そもそも「私」の寝ている隣室で自殺などしなければいいのだ。

 名を呼んだこの晩に「私」が目を覚ましたというのに、遂に自殺を決行した土曜日の晩には結局、隣室で、しかも襖を開けて事に及んだのでは、この「偵察」が無意味になってしまう。


 つまり、このエピソードを「自殺」に関連させて解釈するだけでなく、むしろKがなぜ襖を開けたまま自殺したのかという問題を、Kの自殺の晩の解釈と関連させて考えなければならないのだ。

 Kはなぜ襖を開けたのか?

 そして、そうした疑問とともに、エピソード②で襖を開けて「私」の名を呼ぶKの心理を考えなければならない。


こころ 38 -仮説1に対する疑義

 仮説1「Kが自殺しようとしていたことを示す」の問題点を検討しよう。

 素朴な疑問としては、この晩に自殺しようとして実行に至らなかったとして、実際に自殺するまでの12日間をどう考えたらいいのか、という問題がある。

 この晩は「私」が目を覚ました。では翌日以降もKは同じように襖を開けて「私」の眠りを確認したのだろうか?

 これはありえない。

 翌晩以降もKが同じように「私」の眠りを確かめるべく声をかけたのなら、そのうちいずれかの晩には「私」は目を覚ますはずだ。そうしたらそのことが記述されないはずはない。記述がないということは、そのような事実が小説内に存在しないということだ。

 それよりも、そもそも「私」が目を覚まさなかった夜があったとすると、上記の論理からいえばKはその時点で自殺してしまうはずだ。例えば翌日にでも。

 とすると、この論理から言えば、次にKが襖を開けたのは自殺を決行した12日後の晩ということになる。

 この12日間は何を意味するのか? この間、Kは何を考えていたのか?


 あるいは、次のような疑問もある。

 襖を開けて名前を呼ぶのは「私」の眠りの深さを確かめたのだということは、つまり自殺の実行にあたっては「私」が目を覚ますことは不都合だということを意味する。

 ならば、わざわざ襖を開けて、隣室で眠っている者の名を呼ぶのは、むしろ目的に反している。眠っていてほしいのに、なぜ起こすのか?

 眠りの深さを確かめるだけなら、襖を閉めたままでも確認はできる。119頁では「私」とKは襖越しに会話を交わしている。


 これらの疑問・反論に対して、さらなるアイデアの追加によって新たな解釈の可能性を示す者がいる(今年でいえばA組のSさん、C組のOさん他)。

 むしろKは「私」が目を覚ますことで決行を延期したかった、つまり「私」に止めてもらいたかったのだ。「眠っているかどうかを確かめる」という、いわば自身に対する建前の奥にある迷いによって、むしろ「私」を起こそうとしたのではないか。

 この解釈は、もしも「私」が目を覚まさなかったら、Kはこの晩に自殺してしまったのではないかという魅力的な解釈を補強する。


 一方でこの解釈は「覚悟」という言葉の強さと不整合にも思える。「覚悟」と「迷い」はなじまない。

 また、この時のKの声が「普段よりもかえって落ち着いていた」という形容との間にも新たな不整合を生ずる。

 先に、小説内の全ての要素は整合的に解釈されるべきだと述べた。このエピソード全体が、それをどう解釈すべきかにわかにわからないが、同時に次の記述は、にわかには位置づけるべき文脈の見当がつかず、宙に浮いているいわば「ノイズ」となって、このエピソードの意味をにわかにはわからないと感じさせている。

①「彼の声は普段よりもかえって落ち着いていたくらいでした」という描写

②「私」に対するKの「近頃は熟睡できるのか」という問い

③翌朝の登校途中の、「私」の問いかけに対するKの「強い調子」の否定

 三点とも、これらの記述から浮かぶKの心理は謎めいている。それらを何事かの文脈・論理に位置づけなければならない。

 ②が仮説1の発想の元になっていることは既に言及した。

 ①についても、自殺の「覚悟」ができているゆえの「落ち着」きなのだと考えれば仮説1となじむ。

 だが新たなアイデアでKの「迷い」を想定してしまうとにわかに①と不整合になってしまう。

 ③については、まだ未検討だ。


2023年12月5日火曜日

こころ 37 -仮説1

問① このエピソードの「意味」は何か?

問② Kは何のために「私」に声をかけたのか。


 問②は物語の内部で考える問題で、問①「エピソードの意味は何か?」はその地平を越えたメタな問いだ。

 問①に答えることを目指しつつ、それと整合的に問②に答える。というより、問②は、潜在的にであれ、必ず問①の答えを前提しているはずだ。そうでなくては、その答えが納得されないからだ。

 これらの問いの関係は、「作品の主題」と「それに関わる最も大きな問い」の関係と相似だ。「『こころ』の主題」と「Kはなぜ自殺したか」や、「『羅生門』の主題」と「下人はなぜ引剥ぎをしたか」の関係と。

 物語中で最も大きな要素についてある理解をすることと、物語全体を抽象レベルで把握することの関係だ。

 両者は整合的に関係しているはずだ。

 だから以降の考察も、二つの問いに対するアイデアが浮かんだら、もう一方の問いについてもそれに対応する答えを考えてみる。


 例えば①に対してB組のH君が「Kと『私』の意思疎通が不全であることを示す」という捉え方を提示した。

 つまりこのエピソードが「わからない」ことこそ、このエピソードの「意味」なのだ。

 この解釈に「文学」的な傍証を挙げてみよう。

 Kの「黒い影」「黒い影法師」という印象的な表現は、Kの心情が基本的に「わからない」ものであることを象徴していると解釈できる。だからK自身の説明の直後で「彼の顔色や眼つきは、全く私にはわかりませんでした。」と言ってしまう。Kの言葉は額面通りに受け取ることを留保されている。

 これもまた一連の意思疎通の断絶を象徴的に示した映像だ。

 映像を象徴として読む、というのは意識しないとできない「文学」的な読み方だ。

 このアイデアに拠れば②はどう考えるのが整合的か。

 Kの言葉通り、これは「何でもない」のだ。別に言うほどの「意図」はない。「ただ~だけ」なのだ。それを「私」の方が疑心暗鬼に駆られてあれこれ考えていることから物語が展開していくのだ…。

 例えばこんなふうに①と②を考えていく。

 ただしこの解釈でこのエピソードの考察は終わりではない。これではまだ「エピソードの意味」としては弱い。「意思疎通の不全」は確かに表されてはいるが、それはこれをエピソードとして立てることとは別に表現の端々に表れているのであって、このエピソードがここに置かれていることの必然性を十分には証し立てない。


 さて、これらの問いに対しては、大勢を占める答えが既にある。しばらく話し合いをしてみると、大抵誰かがそれを発想し、多くの者がそれに賛同する。


仮説1

問① Kが自殺しようとしていたことを示す。

問② 「私」が眠っているか確かめようとした。


 ①と②は、同時に発想されている。②を抽象化したものが①であり、①として抽象化できるから②に確信が持てるのだ。

 この仮説を支持する根拠は何か?


 このエピソードを自殺と結びつけて考えるべき最大の根拠は、Kが自殺をした晩の描写中にある次のような記述だ。

見ると、いつも立て切ってあるKと私の室との仕切の襖が、この間の晩と同じくらい開いています。けれどもこの間のように、Kの黒い姿はそこには立っていません。(138頁)

 ここでいう「この間の晩」はこのエピソード②を指している。したがって、エピソード②の「意味」は、何らかの形でKの自殺と関連させて解釈しなければならない、と作者が言っているのだ。いわば、エピソード②は、後で回収される伏線として置かれているということになる。

 だがこのエピソードを読み進めている時点では、この解釈が生ずることはありえない。この解釈が可能となるためには、Kの自殺が決行されるところまでを読まなくてはならない。

 これは、その日の昼間、上野公園での会話の中でKが口にした「覚悟」を自己所決=自殺の「覚悟」だと解釈することと同じだ。その時点でそのように解釈することは不可能なのだ。

 だからエピソード②が謎めいていることは必然的なのだ。


 そして「覚悟」を自殺の覚悟だと解釈することが、上記の仮説1の根拠でもある。エピソード②はエピソード①においてKが自殺する「覚悟ならないこともない」と口にした晩なのだ。

 上の仮説1はKの自殺という展開と昼間の「覚悟」の解釈を結んだ線上に発想されている。


 それと交差するもう一本の線がある。①と②を結びつける補助線だ。

 エピソード②から③へつながる朝の食卓で「私」がKに夜の行為について問うとKは「別にはっきりした返事も」せず、「調子の抜けた頃になって」(これもまた二人の会話がズレていることを示している)、「近頃は熟睡ができるのかとかえって向こうから私に問う」。

 この記述もまた謎めいている。エピソード全体が謎めいた中で、なぜそう問い返すのかが「私」には明瞭ではなく、説明もされない。

 エピソード⑦からの照り返しと「覚悟」の解釈と「眠り」についての会話、この三つが結びついた時、仮説1の①と②が同時に、整合的に発想される。


 そしてそう考える読者は、次のような可能性に思い至って慄然とする。

 もしも「私」がKの呼びかけに対して目を覚まさなかったら、この晩のうちにでもKは死んでしまったのではないか?

 この想像に伴う戦慄は確かに魅力的だ。


 仮説1は専門家・研究者の中でも定説だし、実際に多くの者の支持を集める。

 問題はこの解釈で生ずる不都合だ。

 この仮説に疑問はないか?


こころ 36 -エピソードの「意味」

 上野公園の散歩の場面で「私」とKの間に交わされた会話を詳細に分析することで、二人の認識のくい違いについて考えてきた。この食い違いが「こころ」の基本的なドラマツルギーを成立させている。

 次に検討するのは、この晩のエピソードだ。

私はほどなく穏やかな眠りに落ちました。しかし突然私の名を呼ぶ声で眼を覚ましました。見ると、間の襖が二尺ばかり開いて、そこにKの黒い影が立っています。(128頁)

 このエピソードはどうみても「意味」ありげであり、それは何かしら、「こころ」という小説を読む上で看過することのできない重要な「意味」であるように感ずる。読者はある種の納得を必要とする。

 考えてみよう。

 このエピソードの「意味」は何か?


 エピソードの「意味」?

 問いの趣旨がわかりにくい。

 「エピソード」とは、物語中の展開の一部分、ある出来事や場面の「塊」のことだ。「こころ」授業の最初期にそれらのエピソードの「曜日の特定」をしたが、これはこの「エピソード」を単位として考察を進めた。

①上野公園を散歩する

②夜中にKが声を掛ける

③朝、Kを追及する

④奥さんと談判する

 この②(と③)が今回考える「エピソード」だ。

 それ以外のエピソード、例えば①「上野公園の散歩」は、中で細かいところは必ずしも「わかった」とは言い切れないが、何のエピソードなのかがわからないということはない。「上野公園を散歩しながら重要な話が交わされたエピソード」なのだ。④「奥さんとの談判」や⑦「Kの自殺」も、つまりそういうエピソードだ。

 ところが②③はどういうエピソードだと受け止めれば良いのかがにわかにはわからない(だから最初の「プロットを立てる」の段階で②③は挙がりにくい)。

 なぜか?


 なぜこのエピソードが「わからない」と感じるのか、という問いは、逆にどうならば「わかる」と思えるのか、という問いでもある。

 自分の思考がどのように働いているか、というのは考察するに値する問題だ。ここまでも「進む/退く」や「居直り強盗」の考察で、なぜそう読めるのか、と考えてきた。それは、そう考えることの根拠と推論の妥当性について再検討するということだ。

 ここでは、「わからない」という感じが万人に共通していることを説明してみよう。

 このエピソードが「わからない」と感じる最大の要因は何か?


 自分の思考をたどってみれば、それがKの行為に起因することはわかるはずだ。

 Kは何のために「私」に声をかけたのか?


 この点について、K自身は何と説明しているか?

 K自身は「ただもう寝たか、まだ起きているかと思って、便所へ行ったついでに聞いてみただけだ」と語っている。

 だが読者はその言葉を額面通りに受け取らずに、そこに何かしら隠された意図があるはずだと深読みしてしまう。

 「私」も同様にKの言葉を素直に受け取らないから、翌朝わざわざ「なぜそんなことをしたのかと尋ねる」。そうした「私」の疑問を、読者は不審に思わない。読者もまた語り手である「私」の認識に誘導されて、Kの言葉を真に受けないことが当然だように感じてしまう。

 Kの言葉をなぜ信じられないか?


 夜中に、眠っている隣室の友人をわざわざ起こして「何でもない」ことはなかろう、というのが素朴な感覚ではある。

 だが、これがKの言葉を疑う決定的な根拠ではない。これでは「そういうことがありえないとは言えない」という反論に答えることはできない。

 ではなぜか?


 それは「ただ~だけ」と限定される理由が、十分な意味づけの重みを持っているとは感じられないということだ。

 「十分な意味づけ」とは、夜中に隣室の者をわざわざ起こすという特別な行動についての特別な理由、という「意味」でもあるが、それよりもやはりこの行動を含むエピソードがわざわざ語られる小説としての必要性という意味での「意味」だ。

 つまり、Kの心理・意図はこのエピソードの「意味」という文脈の中で理解する必要があり、「聞いてみただけ」ではその「意味」を支えきれないと感じるのだ。


 作品の解釈は原則的に、作品内のテキストのすべての情報に基づいて成立する。

 小説という虚構は人間が創作したものだから、すべての要素は、わざわざ書かなければ存在しない。

 だから「完全な」解釈にとって、そこに整合的に組み込めない情報はない。原理的にはすべての記述、表現、展開が相応の「意味」をもって把握されなければならない。「特別な意味がない」という「意味」ですら、とにかく確定されなければならない。

 それなのにこのエピソードは何のために挿入されているかがにわかにはわからない。だから読者はこのエピソードの「意味」について考察すべきだと感じる。

 この小説にとって、なぜこのエピソードが語られる必要があるのか?

 読者はこのエピソードからどんな情報を読み取るべきなのか?


よく読まれている記事