上野公園の散歩の場面で「私」とKの間に交わされた会話を詳細に分析することで、二人の認識のくい違いについて考えてきた。この食い違いが「こころ」の基本的なドラマツルギーを成立させている。
次に検討するのは、この晩のエピソードだ。
私はほどなく穏やかな眠りに落ちました。しかし突然私の名を呼ぶ声で眼を覚ましました。見ると、間の襖が二尺ばかり開いて、そこにKの黒い影が立っています。(128頁)
このエピソードはどうみても「意味」ありげであり、それは何かしら、「こころ」という小説を読む上で看過することのできない重要な「意味」であるように感ずる。読者はある種の納得を必要とする。
考えてみよう。
このエピソードの「意味」は何か?
エピソードの「意味」?
問いの趣旨がわかりにくい。
「エピソード」とは、物語中の展開の一部分、ある出来事や場面の「塊」のことだ。「こころ」授業の最初期にそれらのエピソードの「曜日の特定」をしたが、これはこの「エピソード」を単位として考察を進めた。
①上野公園を散歩する
②夜中にKが声を掛ける
③朝、Kを追及する
④奥さんと談判する
この②(と③)が今回考える「エピソード」だ。
それ以外のエピソード、例えば①「上野公園の散歩」は、中で細かいところは必ずしも「わかった」とは言い切れないが、何のエピソードなのかがわからないということはない。「上野公園を散歩しながら重要な話が交わされたエピソード」なのだ。④「奥さんとの談判」や⑦「Kの自殺」も、つまりそういうエピソードだ。
ところが②③はどういうエピソードだと受け止めれば良いのかがにわかにはわからない(だから最初の「プロットを立てる」の段階で②③は挙がりにくい)。
なぜか?
なぜこのエピソードが「わからない」と感じるのか、という問いは、逆にどうならば「わかる」と思えるのか、という問いでもある。
自分の思考がどのように働いているか、というのは考察するに値する問題だ。ここまでも「進む/退く」や「居直り強盗」の考察で、なぜそう読めるのか、と考えてきた。それは、そう考えることの根拠と推論の妥当性について再検討するということだ。
ここでは、「わからない」という感じが万人に共通していることを説明してみよう。
このエピソードが「わからない」と感じる最大の要因は何か?
自分の思考をたどってみれば、それがKの行為に起因することはわかるはずだ。
Kは何のために「私」に声をかけたのか?
この点について、K自身は何と説明しているか?
K自身は「ただもう寝たか、まだ起きているかと思って、便所へ行ったついでに聞いてみただけだ」と語っている。
だが読者はその言葉を額面通りに受け取らずに、そこに何かしら隠された意図があるはずだと深読みしてしまう。
「私」も同様にKの言葉を素直に受け取らないから、翌朝わざわざ「なぜそんなことをしたのかと尋ねる」。そうした「私」の疑問を、読者は不審に思わない。読者もまた語り手である「私」の認識に誘導されて、Kの言葉を真に受けないことが当然だように感じてしまう。
Kの言葉をなぜ信じられないか?
夜中に、眠っている隣室の友人をわざわざ起こして「何でもない」ことはなかろう、というのが素朴な感覚ではある。
だが、これがKの言葉を疑う決定的な根拠ではない。これでは「そういうことがありえないとは言えない」という反論に答えることはできない。
ではなぜか?
それは「ただ~だけ」と限定される理由が、十分な意味づけの重みを持っているとは感じられないということだ。
「十分な意味づけ」とは、夜中に隣室の者をわざわざ起こすという特別な行動についての特別な理由、という「意味」でもあるが、それよりもやはりこの行動を含むエピソードがわざわざ語られる小説としての必要性という意味での「意味」だ。
つまり、Kの心理・意図はこのエピソードの「意味」という文脈の中で理解する必要があり、「聞いてみただけ」ではその「意味」を支えきれないと感じるのだ。
作品の解釈は原則的に、作品内のテキストのすべての情報に基づいて成立する。
小説という虚構は人間が創作したものだから、すべての要素は、わざわざ書かなければ存在しない。
だから「完全な」解釈にとって、そこに整合的に組み込めない情報はない。原理的にはすべての記述、表現、展開が相応の「意味」をもって把握されなければならない。「特別な意味がない」という「意味」ですら、とにかく確定されなければならない。
それなのにこのエピソードは何のために挿入されているかがにわかにはわからない。だから読者はこのエピソードの「意味」について考察すべきだと感じる。
この小説にとって、なぜこのエピソードが語られる必要があるのか?
読者はこのエピソードからどんな情報を読み取るべきなのか?
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