ここまで、テクストの詳細な読解によって、語り手である「私」とKの認識の食い違い、意思疎通のすれ違いを明らかにしてきた。
こうした考察に基づいて、あらためて考える。
Kはなぜ死んだか?
これは最初にも考えたとおり、「こころ」という小説がどのような物語であるかを考え直すということだ。
ところでKの自殺の動機については一度考えてある。今回の授業過程の比較的早い段階で、小説の主題と自殺の動機の関係がどうなっているのかを考えた。
その時、Kの自殺の動機は読者誰もが了解する要素として次の三つを挙げたのだった。
- 失恋
- 友の裏切り
- 自分への絶望
「こころ」を、エゴイズムを主題とする小説だと捉えるということは、動機を1と2だと見做すことだ。
だが授業の最初の段階から、3であると捉えている者がみんなのうちの多数だった。
なおかつそれは、「覚悟」や「遺書」の考察を通して、既に充分納得できているはずだ。
とすればこれ以上どんな「動機」を考えればいいのか?
「Kはなぜ死んだか?」という問いは、「羅生門」における「下人はなぜ引剥ぎをしたか?」と同じ意味合いがある、と授業中に言った。それがどういうことなのかを考えさせたのだが、これはなかなかに難題だった。
いずれも、それこそが物語の核心に迫る問いであり、それに対する納得が、その小説をどう捉えるかという把握(いわゆる「主題」)に必須の問いでもあるという点において、「Kはなぜ死んだか?」と「下人はなぜ引剥ぎをしたか?」はまずは類比的だ。
そしてそれぞれ、これらの問いに対するある答えが、まるでその問いの趣旨に合致していないのに、間違ってはいないという事態が生ずる点においても類比的だ。
わかりにくい。
「羅生門」における「なぜ引剝ぎを?」に対して「生きるため」と答えることは、間違っていないがまるで意味をもたない。問いの趣旨から外れている。
同様に、「Kはなぜ死んだか?」に上記の考察から「自分への絶望」と答えることは全く正しいのだが、それはこの問いの趣旨とは違う。
どういうことか?
「羅生門」における「下人はなぜ引剥ぎをしたか?」という問いの趣旨は、「何のために引剥ぎをしたか?」ではない。「生きるため」という答えは「何のため」に答えている。
だがそれは物語の最初から条件として設定されていて、なぜか下人にはそれが実行できなかったのだ。
だから「羅生門」における謎は、最初からわかっている「悪」の実行がなぜ物語の最初には実行できず、最後には実行できたのか、だ。
同じように「こころ」における「Kはなぜ死んだか?」を「動機」と考えるならそれは上に見たように「自分への絶望」だ。
だがKにとってその認識ははるか以前から自身のうちに秘められていたのだし、自死の実行される12日前に、「私」とのやりとりを通じてそれを再認識させられてしまったのだし、あまつさえ遺書さえ書いているのだ。
だが実行はされなかった。
それから12日後にそれが実行されたのはなぜか?
この問いの趣旨はこれだ。
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