「二日余り」の出発点、問題の木曜日のKの心理について考えよう。
奥さんから結婚話を聞いたKの様子は、「変な顔」「最もおちついた驚き」と記述されている。このKの反応をどう解釈するか?
Kは全てを見通していたのだ、という解釈もある。
だがそれではその後、自殺に至るKの心理や、上野公園での会話における二人のすれ違いの分析と整合しない。
咄嗟の強がりか。強い自制心の表れか。
衝撃の余り、かえって反応がなくなってしまったということか。
それとも本当にKの人間としての度量の広さを表しているのか。
Kが悲しみや怒りや強い驚きを示さないことについて、そこに理由を考えようとするのは、逆にそうした反応があるはずだという前提があるからだ。
だが「私」とお嬢さんとの婚約がKに「打撃」をあたえるであろうという想定は「私」の思考が投影されたものでしかない。Kは「私」にとって、恋の自白以来、恋敵として想定されている。だから、婚約を知ったKは、「失恋」という「打撃」を受けつつ、ただちに「私」の裏切りに気付いてそれを非難するに違いないと「私」は思う。
だからこそそれをせずに「私に対して少しも以前と異なった様子を見せな」いKが「立派」と感じられてしまう。自分がKの立場だったらという想定のもとに、その態度の意味を斟酌してしまう。
だがそうした「私」の思い込みを排してKの思考を想像してみるならば、この「最もおちついた驚き」と形容される反応が表しているのは、単に友人の裏切りによる衝撃を受けとめてみせたKの自制心の強さではなく、言うならば「不審」「怪訝」「とまどい」といったものではないか?
Kには事態がよく飲み込めなかったのだ。
Kはそれまで、自分の心を惑わすお嬢さんを、友人もまた同じように恋慕しているなどとは考えもしていない。
Kはそれよりも自分の問題で頭を充満させているのであり、上野公園での会話でもKはそのことしか問題にしていない。そしてKはそれがため既に死を「覚悟」し、あまつさえ遺書を書き上げてもいる。
もちろんそれは「薄志弱行で行く先の望みがない」自分のことであり、「私」が考えるような意味では、お嬢さんのことではない。
つまり、唐突にもたらされた友人とお嬢さんとの婚約という展開は、Kにはまるで想定外であるばかりか、ほとんど関心外なのだ。
Kはただ事態を把握できないとまどいの中で、友人の婚約をひとまず、素直に喜ぶべきことだと捉える。「微笑を洩らしながら、『おめでとうございます』と言った」のは、何らの演技でもない。
そうしたKの態度は「私」にはKの度量の広さ、人間としての立派さと映る。
だがこうしたKの「超然とした」態度は「私」の「こころ」の投影に過ぎない。
友人の行為を「卑怯」と責めるつもりはKにはない。Kはただ、思いがけない事態の展開に置いてきぼりをくらって、ひとりそれまでの展開を振り返っている。
例えば上野公園でのやりとりを。あるいは日常のあれこれを。
そのうちにゆっくりと腑におちてくる。そうか、と納得がやってくる。
自分が、その苦悩を打ち明けて「公平な批評を求めるよりほかにしかたがない」と考えた友人は、その間、自分の恋愛の進展にのみ汲々として、あろうことか友人であるはずの自分を出し抜いてまで自らの恋愛の成就に腐心していたのであった。
Kはお嬢さんに「進む」つもりなどまるでなかったし、お嬢さん自身もまた「私」を結婚相手として望んでいたのに。
しかも、そうしたすれ違いに、自分だけでなく相手もまた全く気づいていないらしいのだ。一つ所で会話をしながらも、お互いが自分の問題にのみ関心を払って、まるで相手の言うことを理解していなかったことが、ようやくわかったのだった。
このばかげたすれ違いに、Kはこの「二日余り」の間に、どこまで明確にかはともかく、徐々に思い至ったのではあるまいか。
「襖」と「血潮」の象徴性が示すように、Kは「私」に対して基本的に心を開こうとしている。だからこそこのすれ違いの事実は、Kの「たった一人」という認識を否応なく際立たせる。
Kは自殺を決行するまでの「二日余り」で、「たった一人で」あることの認識に覚めながら、死に向かって傾斜していったのだ。
こう考えてくると、Kの自殺の動機があくまでK自身の自己処断であることは認めながら、それではなぜその決行が婚約成立の後であったかという理由がようやく納得されてくる。
Kにはもともと自己処断の「覚悟」があった。その動機は下宿に来る前からあったのだし、夏の「ちょうどいい、やってくれ」はほとんど「覚悟」といっていいほどの明確さでKに自覚されている。そしてまた十日余り前には遺書さえ書いている。
Kはそのことを再三「私」に話していたのだった。図書館で、下宿で、旅先で。
友人に安易な救いを求めていたとは言わない。有益なアドバイスがもらえると期待したわけでもなかろう。
だが他人に話しているうちは、少なくとも事実としてKはその「覚悟」を実行に移すことはなかったのだ。
だが、確かに話をしていたと思っていた相手とは、まるですれ違っていたことに、今気づいた。
ならばそれは単に自分自身の問題でしかないのだ。
Kの遺書にある「もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろうという意味の文句」が示しているのも、こうしたKの思考だ。
自分が「死ぬべき」理由、「現実と理想の衝突」は、ただひとり、自分がどうにかするしかない問題なのだということが腑に落ちた時、Kは自ら所決する。
これが③の「たった一人で淋しくって仕方がなくなった結果、急に所決した。」なのだ。
先に述べたように、Kの自殺の動機を再考することは、「こころ」という小説をどのようなものと理解すべきかという構え、つまり「こころ」の主題をどのようなものだと捉えるか、という問題に直結する。
以上の考察から浮かび上がってくるのは、登場人物それぞれが互いに断絶した自意識の中に自閉する近代人の「こころ」の様相を描いた小説としての「こころ」だ。
Kは「私」の卑怯な裏切りによって自殺に追い込まれたわけでは決してない。
「私」はただKにとって、意思疎通を欠いた「他者」であることによって、Kの問題をK自身の裡に閉じこめたのだった。
そのことを「エゴイズム」と呼ぶならば、あらためて、確かに「こころ」は「エゴイズム」の物語だと言ってもいい。
だがそれは「私」が考えている(そして多くの読者が考えている)「エゴイズム=利己主義」とはなんと違ったものであることか。
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