Kはなぜ死んだか?
上に確認した諸点を総合して、Kの心理をたどってみよう。
「襖」と「血潮」の描写が示している象徴性が意味するところは明らかだ。
「襖」は「二人の心の壁(距離・隔たり…)」の象徴だ。つまり襖を開けるとは相手に心を開くことを意味している。
また「血潮を顔に浴びせる」という隠喩は、平たく言ってしまえば「真情を伝える」ことを意味する。Kの死に際して、作者は明らかにこの暗喩と相似形の構図を意図的に作っている。
これらの象徴的な意味に従って読めば、Kは死に際してもなお「私」と心を通わせようとしていたということになる。
これは読み間違えようもないほど明白に、作者から読者へ示されている。
Kは「私」に心を開こうとしている。それゆえにこそKは「たった一人で淋しくって仕方がなくなった」のだと考えなければならない。
「私」がKの「死因」として思い至った「淋しさ」がどのようなものなのかは、それについて書かれた五十三章を参照する必要がある。先の引用部分、「私」がKの「死因」について再考する部分の直前は次のように書かれている(PDF掲載)。
私は妻からなんのために勉強するのかという質問をたびたび受けました。私はただ苦笑していました。しかし腹の底では、世の中で自分が最も信愛しているたった一人の人間すら、自分を理解していないのかと思うと、悲しかったのです。理解させる手段があるのに、理解させる勇気が出せないのだと思うとますます悲しかったのです。私は寂寞でした。どこからも切り離されて世の中にたった一人住んでいるような気のした事もよくありました。
これを受けて「Kが私のようにたった一人で淋しくって仕方がなくなった結果、急に所決したのではなかろうか」と「私」は考える。
ここで述べられているのは、平たくいえば意思疎通の不全だ。「私」は愛する奥さん(かつての「お嬢さん」)に心を打ち明けられないまま結婚生活を送っている。
この「たった一人」という認識を、Kもまた持ったのではないかと「私」は思い至る。問題はこの「たった一人で淋しい」だ。
この「淋しさ」を「お嬢さんを失った」+「友人に裏切られた」ことに拠るものだと捉えてしまうのは、作者の仕掛けた「私」の誤解によるミスリードによって誘導された誤読だ。「たった一人で淋しい」をそのように解釈したのでは、①「失恋」とかわらない。
そうした誤謬に陥らなかったとして、では、といって思いつくのは次のような説明だ。
Kは奥さんから婚約の件を聞いた時、自分が友人からそれを聞かされていなかったことに衝撃を受け、友人がそのことを自分に話してくれなかったことに絶望したのだ。
いやむしろ、自らが友人の気持ちに気づかなかったことに絶望したのだ。
だがこうした説明はKの死因を③「たった一人で淋しい」に負わせすぎている。
「お嬢さんを失った」+「友人に裏切られた」から絶望して死んだのだ(①)という論理を今度は「友人が話してくれなかった」+「自分が友人の気持ちに気づかなかった」から淋しくて死んだのだ(③)と変更するのはいささか単純に過ぎる。
Kの自決の動機は②「現実と理想の衝突」であることを忘れてはならない。
そう考えるからこそ「もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろうという意味の文句」が理解できる。「現実と…」=「薄志弱行で行く先の望みがない」こそ「死ぬべき」理由だからだ。
この文句について、「もっと早く」とはいつのことか、という議論がある。
お嬢さんの結婚を知るより前に?
これは死因を①「失恋」と考えることと整合しているから、明らかな誤読だ。
では、友人が自分に話してくれなかったという孤独を自覚することになるより前に?
これも、奥さんからその事を知らされるより前である必要性についての説明が変わっているが、木曜日より前に、と考える点では同じだ。だが、「もっと早く」とはたかだか二日前の木曜以前を指しているわけではない。
では、12日前、遺書を書いた時に?
あるいはいっそ、お嬢さんを好きになるより前に?
そもそも下宿に来るより前に?
だがKの問題は下宿に来ることによって生じたのではない。Kは下宿に来る前から「私」の言葉によれば「神経衰弱」だったではないか。前に書いたとおり、Kの「現実と理想の衝突」はKの理想が不可避的に突き当たらざるを得ない袋小路なのだ。「現実」とは、単にお嬢さんを好きになったというようなことではない。これでは結局「私」フィルターによる錯覚から逃れられていない。
いつのことか、と考えることは、何があった時より前か、と考えるということだ。
だがKにとって、いつだって「死ぬべき」だったのだ。
だから「もっと早く」とはいつのことか? と考えてはならない。
問題はこの疑問がKの裡に生じた理由と、その疑問に対する解答だ。
それには、「急に」と表現される自殺の決行までに実は経過してた「二日余り」について考えなければならない。
この「二日余り」の果てにKが「淋しくなった」のだとすると、この間、Kは「私」が正直にこれまでのことを話してくれるのを待っていたのだ、という解釈をする者は多い。
だがこの解釈には違和感がある。
たとえば、言ってくれるのを待っていた、というような受動性が、「果断に富んだ」Kに似つかわしくない、とも言える。
言ってくれるのを待っていたが言ってくれないので淋しくて死んだ?
こんなふうに考えるのはKの人物像にふさわしいとは思えない。
それよりも根本的な違和感は、それでは察しが良すぎる、という感じがすることだ。
「私」が言うのを待っていたと考えるなら、なぜ「私」が言わなかったのかがKにはわかっていたということになる。本当にその理由が見当もつかなければ、Kは素直に質問するはずだ。
ならば「私」が言うはずがないこともわかるはずだ。そこまで話していない「私」が、木曜日以降に話す気になる必然性はない。そのことはKにもわかる。したがって、この二日間、「急に」話してくれることをKが期待したりはすまい。
確かに意識下ではそれを期待していたといってもいい。「私」が話していたら、おそらく悲劇は(当面)回避されたはずだ(もちろんKにとって根本的な問題は解決していないが)。
だがKがそのことを意識して待っていたと考えるのは「孤独」を死因として重く考え過ぎている。Kが奥さんの話を聞いて事態の真相を了解し、「私」が言わないことによって孤独になったのだという説明は、①「失恋」が③「孤独」に変わっただけで、結局「私」主観のミスリードから逃れていない。
問題の「二日余り」に何があったか。
Kは何を考え、どのような思いにとらわれていったのか?
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