仮説4は仮説3とともに、否定しようもなくそのような「意味」を持っている。このエピソードは物語を展開させる機能をはたしているし、「襖」の象徴性は明らかに意図的だから、そこに注意が向けられるのもこのエピソードに因ってだ。
だがこれは仮説1、2と併存する「エピソードの機能」であり、やはり仮説1,2についての何らかの決着は必要だ。
だがそれとは別に、さらにもう一つの「意味」について考える。
このエピソードは、「私」の目からはKの言動が謎めいて見えるばかりで、だからこそ「意味」をはかりかねるのだが、これをKの視点に立って読むと、あらたな「意味」が立ち上がってくる。
まずはこう考えてみよう。
「私」に声をかけるまでKは何をしていたか?
まずは本文を見る。「便所へ行った」というのがKの言明だ。だがこれが本当かどうかは疑わしいし、本当だとしても、これは声をかける直前に過ぎない。宵の口から声をかけるまでの間、ではない。
さらに想像を促すためにこう考えてみる。
「私」に声をかけるまでKは起きていたか?
寝ていたとは想像しにくい。
なぜか? そう考えられる根拠は何か?
2点指摘できる。
- 見ると、間の襖が二尺ばかり開いて、そこにKの黒い影が立っています。そうして彼の部屋には宵のとおりまだ灯りがついているのです。
- Kはいつでも遅くまで起きている男でした。
これらの記述によって、読者は自然に、そこまでの時間、一人で起きていたKの姿を思い浮かべる。
Kはこの時、眠りから覚めたのではなく、それまでランプの下で何事かしていたのだ。Kは何をしてそれまで起きていたのか?
さて、こうした作為的な誘導をすれば、想像の可能性は限定されている。
Kは遺書を書いていたのだ。
可能性と言うだけなら平生の通り学問をしていても、ただ考え事をしていてもかまわない。だがこの場面で「Kは何をしていたか」という問いに対する答えとして、答えるに値すると感じられる答えは「遺書を書いていた」しかない。
この「遺書」とは何のことか?
まさしくあの「手紙」のことだ。物語の背後で人知れず反故にされ破り捨てられた下書きなどのことではなく、教科書の最後で読者の前に提示される遺書のことだ(138頁)。
そうでなければこのような想像をする「意味」はない。
にわかに、驚くべき「エピソードの意味」が立ち上がってきた。
だが問①を「Kが遺書を書いていたことを示す」と言いたいのではない。「自殺のあと残されていた遺書が、既に上野公園の散歩の夜に書かれていたことを示す」ことが、謎めいたこのエピソードが置かれていることの「意味」だと言っているのだ。
だがこの思いつきは、誘導に従って発せられたものであり、否定したいというよりむしろ、なんでそんなことを考えなければならないのかわからない、という感じであるはずだ。まずはそうした反応が健全だ。
こんな解釈をしている人は、文学研究者や国語教師の中には、ほとんどいないはずだ(少なくとも授業者はそういう解釈を述べた文章を読んだことがないし、発言としても聞いたことがない)。
実はそもそもこの解釈は授業者が思いついたものですらない。
この解釈を提示したのは、ある年の授業を受けていた2人の生徒だ(別々のクラスで2人が相次いで発言した)。
そして彼らに対して授業者は、Kはこの晩に自殺しようとしていたわけじゃないよ、と言いつつ、だからこそ、この晩に遺書を書いたなんて解釈はバカげているよ、と言っていたのだった。
こうした解釈は、まずもって仮説1,2に付随して発想されたものであり、それについては、実は授業者は否定的だったのだ。
なぜか。Kの自殺は、エピソード④⑤⑥を経るという物語的必然性によってこそ成立するのであって、エピソード①の「覚悟」だけでは、まだその必然性は十分ではない、と考えていたからだ。
一方、この晩にでもKは自殺を実行に移す可能性があったと考える世の論者は、明らかにそのような言及をしていないというだけで、当然この晩のうちに遺書も書かれていると考えているのだろうか。そしてそれは次の週の土曜日の晩に発見されることになるその遺書そのもののことなのだろうか。それはわざわざ言明するまでもなく自明のことなのだろうか。それとも、この晩には遺書を書かずに自殺しようとしたのであり、遺書はやはり自殺を決行した土曜の晩に書かれたものだと考えているのだろうか。
一体どう考えたら良いか?
0 件のコメント:
コメントを投稿