問① このエピソードの「意味」は何か?
問② Kは何のために「私」に声をかけたのか。
問②は物語の内部で考える問題で、問①「エピソードの意味は何か?」はその地平を越えたメタな問いだ。
問①に答えることを目指しつつ、それと整合的に問②に答える。というより、問②は、潜在的にであれ、必ず問①の答えを前提しているはずだ。そうでなくては、その答えが納得されないからだ。
これらの問いの関係は、「作品の主題」と「それに関わる最も大きな問い」の関係と相似だ。「『こころ』の主題」と「Kはなぜ自殺したか」や、「『羅生門』の主題」と「下人はなぜ引剥ぎをしたか」の関係と。
物語中で最も大きな要素についてある理解をすることと、物語全体を抽象レベルで把握することの関係だ。
両者は整合的に関係しているはずだ。
だから以降の考察も、二つの問いに対するアイデアが浮かんだら、もう一方の問いについてもそれに対応する答えを考えてみる。
例えば①に対してB組のH君が「Kと『私』の意思疎通が不全であることを示す」という捉え方を提示した。
つまりこのエピソードが「わからない」ことこそ、このエピソードの「意味」なのだ。
この解釈に「文学」的な傍証を挙げてみよう。
Kの「黒い影」「黒い影法師」という印象的な表現は、Kの心情が基本的に「わからない」ものであることを象徴していると解釈できる。だからK自身の説明の直後で「彼の顔色や眼つきは、全く私にはわかりませんでした。」と言ってしまう。Kの言葉は額面通りに受け取ることを留保されている。
これもまた一連の意思疎通の断絶を象徴的に示した映像だ。
映像を象徴として読む、というのは意識しないとできない「文学」的な読み方だ。
このアイデアに拠れば②はどう考えるのが整合的か。
Kの言葉通り、これは「何でもない」のだ。別に言うほどの「意図」はない。「ただ~だけ」なのだ。それを「私」の方が疑心暗鬼に駆られてあれこれ考えていることから物語が展開していくのだ…。
例えばこんなふうに①と②を考えていく。
ただしこの解釈でこのエピソードの考察は終わりではない。これではまだ「エピソードの意味」としては弱い。「意思疎通の不全」は確かに表されてはいるが、それはこれをエピソードとして立てることとは別に表現の端々に表れているのであって、このエピソードがここに置かれていることの必然性を十分には証し立てない。
さて、これらの問いに対しては、大勢を占める答えが既にある。しばらく話し合いをしてみると、大抵誰かがそれを発想し、多くの者がそれに賛同する。
仮説1
問① Kが自殺しようとしていたことを示す。
問② 「私」が眠っているか確かめようとした。
①と②は、同時に発想されている。②を抽象化したものが①であり、①として抽象化できるから②に確信が持てるのだ。
この仮説を支持する根拠は何か?
このエピソードを自殺と結びつけて考えるべき最大の根拠は、Kが自殺をした晩の描写中にある次のような記述だ。
見ると、いつも立て切ってあるKと私の室との仕切の襖が、この間の晩と同じくらい開いています。けれどもこの間のように、Kの黒い姿はそこには立っていません。(138頁)
ここでいう「この間の晩」はこのエピソード②を指している。したがって、エピソード②の「意味」は、何らかの形でKの自殺と関連させて解釈しなければならない、と作者が言っているのだ。いわば、エピソード②は、後で回収される伏線として置かれているということになる。
だがこのエピソードを読み進めている時点では、この解釈が生ずることはありえない。この解釈が可能となるためには、Kの自殺が決行されるところまでを読まなくてはならない。
これは、その日の昼間、上野公園での会話の中でKが口にした「覚悟」を自己所決=自殺の「覚悟」だと解釈することと同じだ。その時点でそのように解釈することは不可能なのだ。
だからエピソード②が謎めいていることは必然的なのだ。
そして「覚悟」を自殺の覚悟だと解釈することが、上記の仮説1の根拠でもある。エピソード②はエピソード①においてKが自殺する「覚悟ならないこともない」と口にした晩なのだ。
上の仮説1はKの自殺という展開と昼間の「覚悟」の解釈を結んだ線上に発想されている。
それと交差するもう一本の線がある。①と②を結びつける補助線だ。
エピソード②から③へつながる朝の食卓で「私」がKに夜の行為について問うとKは「別にはっきりした返事も」せず、「調子の抜けた頃になって」(これもまた二人の会話がズレていることを示している)、「近頃は熟睡ができるのかとかえって向こうから私に問う」。
この記述もまた謎めいている。エピソード全体が謎めいた中で、なぜそう問い返すのかが「私」には明瞭ではなく、説明もされない。
エピソード⑦からの照り返しと「覚悟」の解釈と「眠り」についての会話、この三つが結びついた時、仮説1の①と②が同時に、整合的に発想される。
そしてそう考える読者は、次のような可能性に思い至って慄然とする。
もしも「私」がKの呼びかけに対して目を覚まさなかったら、この晩のうちにでもKは死んでしまったのではないか?
この想像に伴う戦慄は確かに魅力的だ。
仮説1は専門家・研究者の中でも定説だし、実際に多くの者の支持を集める。
問題はこの解釈で生ずる不都合だ。
この仮説に疑問はないか?
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