2023年12月8日金曜日

こころ 49 -Kの死因

 Kの自殺の動機について考える上で、教科書に収録されている四十八章より後の五十三章(五十六章が最終章だから、終わり近く)の次の一節はきわめて示唆に富んでいる。

同時に私はKの死因をくり返しくり返し考えたのです。その当座は頭がただ恋の一字で支配されていたせいでもありましょうが私の観察はむしろ簡単でしかも直線的でした。Kはまさしく失恋のために死んだものとすぐきめてしまったのです。しかしだんだんおちついた気分で、同じ現象に向かってみると、そうたやすくは解決がつかないように思われてきました。現実と理想の衝突、――それでもまだ不十分でした。私はしまいにKが私のようにたった一人で淋しくってしかたがなくなった結果、急に所決したのではなかろうかと疑いだしました。(「下/五十三」)

 「こころ」では、語られている情報が「私」の主観を通しているため、それが真実であるかどうかを保留しなければならない、というのが基本的な読解の作法ではある。だがこれは物語の終盤近く、遺書を書いている「私」が全てを振り返って考察し、辿り着いた結論だ。この語り手の言うことは信じてもいい。これを疑うと、もはや読者は小説中の何物をも信じられなくなる。ここに至ってようやく漱石も物語の真相を「私」に語らせているのだ。

 ここで「私」が考えたKの「死因」は、次の三つ。

①失恋

②現実と理想の衝突

③淋しさ

 ②は前項の「動機」の三つのうちの3「自分への絶望」に対応している。「覚悟」の考察では、①ではなく②、つまり「動機」の3こそKの自殺の基本的な動機だということを読み取ってきた。「夜のエピソード」の考察からも、その日のうちにKは「薄志弱行で行く先の望みがない」と、その「死因」を遺書として書き留めたのだと結論した。


 ただここにも注意が必要だ。

 この表現は上野公園の散歩中の「Kが理想と現実の間に彷徨してふらふらしている」(124頁)という表現に対応している。

 この「現実と理想」とは何なのか?


 上野公園での会話中で「私」が「理想と現実」と言うとき、それは

  • 「理想」=「信仰・精進・禁欲・道」
  • 「現実」=「お嬢さんに恋している」

という意味だ。

 だが既にここにも「私」の目を通したミスリードによる誤解が潜んでいる。

 例えば次のような記述は、Kの苦悩が、お嬢さんを知るより以前からKを支配していたことを示す。

彼は段々感傷的になって来たのです。時によると、自分だけが世の中の不幸を一人で背負って立っているような事をいいます。そうしてそれを打ち消せばすぐ激するのです。それから自分の未来に横たわる光明が、次第に彼の眼を遠退いて行くようにも思って、いらいらするのです。学問をやり始めた時には、誰しも偉大な抱負をもって、新しい旅に上るのが常ですが、一年と経ち二年と過ぎ、もう卒業も間近になると、急に自分の足の運びの鈍いのに気が付いて、過半はそこで失望するのが当り前になっていますから、Kの場合も同じなのですが、彼の焦慮(あせ)り方はまた普通に比べると遥かに甚しかったのです。私はついに彼の気分を落ち付けるのが専一だと考えました。

  意志の力を養って強い人になるのが自分の考えだというのです。それにはなるべく窮屈な境遇にいなくてはならないと結論するのです。普通の人から見れば、まるで酔興です。その上窮屈な境遇にいる彼の意志は、ちっとも強くなっていないのです。彼はむしろ神経衰弱に罹っているくらいなのです。(下/二十二)

 ここに示される「自分の未来に横たわる光明が、次第に彼の眼を遠退いて行く」「自分の足の運びの鈍いのに気が付いて、過半はそこで失望する」「彼の意志は、ちっとも強くなっていない」「むしろ神経衰弱に罹っている」といった状況こそKの「現実」ではないか。この一節はKが下宿に入る前、まだお嬢さんのことなど知らない時の状況を述べたものだ。とすればKの「現実」とは、お嬢さんを好きになって初めて道から外れたような現状を指しているのではなく、Kの「理想」が最初から不可避的に向かわざるを得なかった断崖なのだ。

 お嬢さんへの恋心がKの「理想」を妨げる「現実」なのだという捉え方自体が、「私」の心をKに投影した推測によるバイアスがかかっている。Kのお嬢さんへの恋心は、Kの「理想」と衝突する「現実」の一部ではあっても、その重みは「私」が考えるほどには大きくはない。

 この「現実と理想の衝突」に対する修正は重要だ。そうでないと、常にKの心理を推測する上で、お嬢さんとの関係を考慮する方向へバイアスがかかってしまう。


 さて、修正した上で、やはり②がKの自殺の主たる動機だと考えていい。

 だがそう考えたのでは「こころ」がどのような小説なのか、すなわち主題がわからない。

 行きすぎた理想主義者の挫折を描いた小説?

 だが主人公は「私」だ。Kではない。「私」がそこにどのように関わっているのかがこの小説の焦点のはずだ。

 だから考えるべきなのは、どうしたって③「淋しさ」なのだ。それこそが「私」の関わりによって生じた要因であるのだから。


 だが世間ではしばしばこの「淋しさ」を①「失恋」と混同してしまう。「淋しい」とは、信頼していた友人に裏切られ、大好きなお嬢さんを失って「孤独」になったという意味だと理解されてしまう。

 だが上記の引用部分で「私」は①を「すぐにきめてしまった」という形で否定している。にもかかわらず、世間では相変わらずそれを無視して「エゴイズム」を呪文のように繰り返している。

 「エゴイズム」を主題とする一般的な理解はあまりに強固に根を張り、読者を呪縛している。あくまでKの死は「私」の「エゴイズム」のせいなのであり、その延長線上で「淋しさ」を捉えようとする。

 だがこの「淋しさ」は、①と区別されなければならない。この一節で漱石は明確にそう要求している。

 この「淋しさ」とは何なのか、なぜこの時「急に」Kを襲ったのか?


 以下に、「Kはなぜ死んだか?」を考える上でおさえておくべきポイントを確認していく。


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