2023年12月8日金曜日

こころ 51 -象徴としての「襖」と「血潮」

 次に考慮すべき点として、二点指摘しておく。Kの死に際して描かれるさりげない描写に作者が潜ませている象徴の意味だ。


 「私」がKの自殺を発見する直前の次の一節は注目に値する。

いつも東枕で寝る私が、その晩に限って、偶然西枕に床を敷いたのも、何かの因縁かも知れません。(138頁)

 この枕の向きについての言及には何の意味があるか?


 不可解なことに言及することで「私」の胸騒ぎを読者にも共有させるのだとか、床の向きを変えた「私」の心理や、襖を開けたときにKが見たであろう光景を想像させる、などという考察も世の中にはあるのだが、この「西枕」の言及にはそれだけでない明確な意図がある。

 本文の記述から、下宿の部屋の間取りについては推測できる(教科書後ろにも想定図が載っている。すかさずここを開いて確認した人は勘が良い)。








 南側の庭に面した縁側に対して、Kの部屋と「私」の部屋は並んでいる。Kの部屋が西、「私」の部屋が東だ。つまり西枕にしたということは、「私」はKの部屋の方に頭を向けて寝ていたということになる。

 間取りを正確に認識していなくとも、続く一文「私は枕元から吹き込む寒い風でふと眼を覚ましたのです。」と合わせて考えたとき、そのことはわかる。

 では「私」がKの部屋に頭を向けて寝ていたことの「意味」とは何か?


 この設定はこの章の終わりの次の記述と結びつけたときに意味を生ずる。

そうして振り返って、襖にほとばしっている血潮をはじめて見たのです(139頁)。

 死んだKをいたましく思いつつ、自らの罪の重さに震える「私」の目に映る光景として映像的に鮮烈な印象を与える一節だ。

 だが、この映像にうかうかと衝撃を受けていてはいけない。ここには見落としてはならない意味がある。

 「振り返って」というのだが、「私」がその時、実際の体勢としてどこを向いているかはわからない。それでも「振り返って」を解釈しようとすれば、これは自分の部屋の方向を見たということなのだとしか解釈できない。

 とするとこの襖は「いつも立て切ってあるKと私の室との仕切りの襖」だということになる。Kは夜分にこの襖を開けて、そうして開けたままにして頸を切った。そしてその血が、「私」の寝ている部屋の方向に向かって「ほとばしっている」のだ。そしてこの襖が「この間の晩と同じくらい開いてい」るのだ。なおかつ「私」の枕はKの部屋に近い側に向けられていた。

 これらの条件からどのような想像が可能か?

 すなわち、Kの首からほとばしった血潮は「私」の部屋まで飛び散ったかもしれない。そして、寝ている「私」の顔にかかったかもしれない。

 この、充分な可能性のある想像は、しかし言及されてはいない。だが、アニメではそれを拡大解釈して、実景として描写していた。そうした想像が可能なような構図を、漱石は意図的に作っている。

 なぜ?

 この想像された構図は、次の一節を連想させずにはおかない。

あなたは私の過去を絵巻物のように、あなたの前に展開してくれと逼(せま)った。私はその時心のうちで、始めてあなたを尊敬した。あなたが無遠慮に私の腹の中から、或る生きたものを捕まえようという決心を見せたからです。私の心臓を立ち割って、温かく流れる血潮を啜ろうとしたからです。(略)私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴びせかけようとしているのです。私の鼓動が停った時、あなたの胸に新しい命が宿る事ができるなら満足です。(「下/三」)

 ここで「あなた」と呼びかけられているのは、「上」「下」の語り手である「私」だ。つまり「先生」の遺書の読者である青年に向かって、「先生」は「自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴びせかけようとしている」というのだ。

 次の一節にも同種の隠喩が使われている。

私にいわせると、彼の心臓の周囲は黒い漆で重く塗り固められたのも同然でした。私の注ぎかけようとする血潮は、一滴もその心臓の中へは入らないで、悉く弾き返されてしまうのです。(「下/二十九」)

 この場面も、お嬢さんへの恋心をKに話そうと思うのだが、Kは恋愛の話題などに興味を示さない高踏的な態度をとっているので話せない、といった状況を、「血潮」を「注ぎかけようとする」が「弾き返されてしまう」といった暗喩で語っている(テストでこの部分を読ませた)。

 Kの死に際して、「私」の枕の向きに言及し、Kの血潮の跡を描写する漱石が、それに先んずるこれらの一節を念頭に置いていないはずはない。

 「先生」が青年の顔に「その血を」「浴びせかけようとしている」ことと、Kの「血潮」が「私」の顔に降りそそごうかという構図は、明らかに意図的な相似形を成している。

 普段と違う枕の向きがわざわざ言及されている理由が他に思いつかないとすれば、漱石は周到に用意して「血を浴びせる」という隠喩をここに再現しているという解釈は信ずるに値する。


 もう一つ、象徴として描かれているのは、既に言及した「襖」だ。

 「私」はKの自殺を発見したとき、「夜のエピソード」の光景を思い出している。

見ると、いつも立て切ってあるKと私の室との仕切の襖が、この間の晩と同じくらい開いています。けれどもこの間のように、Kの黒い姿はそこには立っていません。








 襖の隙間から見える中の様子に目がいってしまって忘れられてしまいがちだが、「開いています」と書かれている襖はKが開けたものだ。したがって、Kの自殺の動機を考える上で、Kがなぜ襖を開け、なぜ開けたままにして自殺したのかを考えないわけにはいかない。

 象徴としての「襖」の意味については既に考察した。

 それが意味するものは明確だ。これをどのように自殺にいたるKの心理に論理づけるか?


 「襖」も「血潮」も、それが象徴として描かれていることは明白だ。

 といってそれはKから「私」への具体的なメッセージを意味するものだとは確定できない。

 Kが実行したのは襖を開け、そのままにしておいたところまでだ。それすら明確な意図があったことを示すわけではないかもしれない。まして血潮が飛び散ったのは意図せざる偶然だ。

 「私」が西枕に寝たこともまた、特別に「私」の意図したものではない(「偶然」をどう考えるか?)。

 だがこのような「襖」と「血潮」の描写が、その意味を読者に対して知らせようという作者の意図を表わしていることは間違いない。

 このことを組み込んでKの自殺の動機を考えなくてはならない。


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