2026年4月21日火曜日

思考の誕生 5 希薄な「他人」

 なぜ現代社会では「他人性」は「希薄」になったか?

 直前の言い換えを使えば、上の問いは、なぜ「『他人』たちが、充分に『他人』として意識されがたい風土が蔓延し」ているのか? ということだ。

 また文末の「あなたの知性は、その希薄さと残酷さへの感性をはぐくむために費やされなければなりません」を使うならば、なぜ「希薄さ」への感性は鈍くなったのか? ということだ。

 本文ではこれがなぜかは説明されていない。昨年度以来の考察から「他人性」の「希薄」さという「風土」が成立したわけを説明しよう。

 なぜ現代社会では「他人性」は「希薄」になったか?


 前の考察を使うならば、思考とは自分一人で考えることだという、個人を完結して完成されたものと見做す近代的「個人」観から説明できそうではある。「個人」はカプセルの中に閉じこもって「他人」と隔絶されている、だから「他人性」は希薄なのだ…。

 例えば「『つながり』と『ぬくもり』」などでは語られていたのは、近代における個人の誕生は、やがて個人の孤立へといたるという認識だ。

 だが「『他人性』が『希薄』」は、「互いに自己の内面のイメージを投影しあうことが他人を理解することだと思われてしまう」と並列的な言い換えになっている。これと「個人の孤立」という説明はなじむだろうか?

 なぜ我々は「他人」をそうしたものとみるようになっているのか?


 近代史的な視野からこれを考えてみよう。

 宇野重規「〈私〉時代のデモクラシー」に次のような一節がある。

現代において個人主義は〈私〉の個人主義ですし、平等は〈私〉の平等です。価値の唯一の源泉であり、あらゆる社会関係の唯一の起点である〈私〉抜きに、社会を論じることはできなくなっています。そのような〈私〉は、一人一人が強い自意識を持ち、自分の固有性にこだわります。しかしながら、そのような一人一人の自意識は、社会全体として見ると、どことなく似通っており、誰一人特別な存在はいません。このようなパラドックスこそが〈私〉時代を特徴づけるのです。

 この一節もまた、「近代」における、ある「パラドックス」を語っている。

 同じような構造は「思考の誕生」にも示されている。

そもそも、「自分で考えること」の重要さを指摘する人のほとんどは、「個性重視」や「独創性」を主張する人びとの場合がそうであるように、「自分ひとりで考え」たことの帰結としてそう宣言しているわけではありません。多くの場合、まったく「自分で考えること」などせず、あたりに流通する言葉を機械的に反復してみたにすぎないのです。

 「自分の意見」は実は「みんなの意見」なのだ。


 例えば「『誰か』の欲望を模倣する」でも、自分の「主体的」な欲望だと思っているものが、実は他人の欲望を模倣したものなのだと語られていた。「個性的」な欲望は実は「社会的」なのだ。

 あるいは「多層性と多様性」でも、人間社会は「普遍性と多様性(一つであり、かつ多様)」をもつと言っていた。「普遍性」とは、すべての人間の共通点に注目することだ。

 こうした「『他人性』を希薄にすること」はなぜ生じたか?

 「近代」が人間に普遍性をみるようになった要因は何か?

 これはこれらの本文に詳述されているわけではない。が、考えればわかる。3点ほど指摘しよう。

 

 近代といえば産業革命による工業化に端を発する。生活の中に大量の工業製品が出回るようになると、誰も似たような生活様式の中に置かれることになる。昨年割愛した「暇と退屈の倫理学」では、そこに資本主義の発達により、人々の生活が平準化してきた点を指摘していた。

 また科学の発達により交通手段も発達した。人々の移動が活発になれば、閉鎖された地域のガラパゴス化が解除されてくる。

 さらに、活版印刷の発明を緒とするマスメディアの発達。書籍の流通から新聞、ラジオ、テレビと進歩するにつれ、大量の言説が多くの人に届くことになる。さらに現代はインターネットの発達によるSNSの影響もそれに輪を掛ける。昨年ふれた「エコーチェンバー」現象はそうして皆の意見が平準化していくことを指している。

 そうした社会的な変化とともに生まれた個人が、再帰的な繰り返しの果てに消滅していく…。


 近代の「個性を持った個人の称揚」は、実は「個人の平準化」とパラドキシカル(逆説的)に同居している。こういう考察は昨年度に小論文として考察した。→

 自分の中にも他人の内面が投影されている。同様に「他人の内面」にも自分の心が投影されている。

 我々は、互いの固有性(他人性)を尊重しようとして、実は相手を自分の想像の範囲でしか見ていない。互いに「自己の内面のイメージを投影しあう」のである。


思考の誕生 4 危険な兆候

 「他人とともに考える」ことの重要さはわかったとして、蓮實の問題意識はそれだけなのか?

 「自分で考えることは大事」という言説をそこまで悪し様に罵る真意は?

 そこまでとらえないと蓮實のメッセージは十分には伝わってはいない。

 

 冒頭段落は次のように結ばれる。

この「自分で考えること」という概念ははなはだ疑わしい。疑わしいというより、そんなことばかりが推奨されているのは、いかにも危険な兆候だといわねばなりません。

 この「危険な兆候」とはどのような「危険」であり、なぜそのように言えるのか?

 この表現は2段落の終わりにも出てくるが、そこまで読んでも何のことかわからない。もっと先まで読み進めなくては考えようがない。


 もう一つ。

 分掌末尾で「思考の誕生」を「残酷」であるとともに「希薄」な体験でもあると蓮實は言う。

 この「希薄」とは何のことか?

 直前の一節で「思考の誕生」は「あなたの在学中に、かろうじて一度立ち会いうるかどうかという希薄な体験なのです」と言っている。とすればこれは「頻度が少ない」という意味だろう。

 確かに「希薄」はもともと「稀薄」と表記し、「稀」は「まれ」と訓読みできるから、頻度の少ない、めったにないこと、でもある。

 だが「希薄」という言葉は日常的には「稀薄な空気」などの気体の密度について言うか、「存在・意識・関係…」のような「空気」が比喩的に使えるような対象に使う。「まれ」より「うすい」のニュアンスの方で使われているのだ。だから「思考の誕生は希薄な体験だ」は妙な使い方だと感ずる。それを言うなら「希有(稀有=けう)な」体験だ、とでもいったところだろう。

 ところでもうちょっと前に次の一節もある。

「他人」の「他人性」を希薄にすることが、「他人」を理解することだと考えられてしまうのです。

 「『他人』の『他人性』」とは「他人」という「存在」に対する「意識・関係」のことだろうから、我々が普段使っている「希薄」の使い方として違和感はない。

 この「希薄」が文末に影響しているとみるのは穿ち過ぎだろうか?

 蓮實が知性を費やすべきだと言う「希薄さ」はおそらく単に頻度が低い(=希有)という意味ではない。この部分の「希薄さ」のことだ。


 この「危険な兆候」と「希薄」を結びつけて解釈する。


 これらを関連付けて、例えばこんなふうに言ってみる。

「自分で考えることは大事」という主張は他人との関係を希薄にするから危険だ。

 これがまったく見当外れな説明だと感じられるだろうか。

 蓮實が言っているのは全然そんな話ではない。


 「危険な兆候」とは誰にとっての「危険」なのか?

 「自分で考えることは大事」だと言う人? 教育を受ける子供?


 この「危険」を次のように言ってみる。

  1. 「自分で考える」ことは危険だ。
  2. 「自分で考えることは大事だ」と思うことは危険だ。
  3. 「自分で考える」ことの重要さが無闇に推奨されるのは危険だ。

 これらの違いが明確に意識されていないと議論が混乱する。 

 蓮實は1を「愚かだ」と言いはしても「危険」とは言うまい。

 2は確かに「危険」だろうが、それより本文通りに正確に言えば3のはず。

 つまり問題はどこにあるのか?


 「危険な兆候」を考えるために参照すべき箇所を探していくと、中盤に次のような文章がある。

問題なのは、そうした「他人」たちが、充分に「他人」として意識されがたい風土蔓延しがちなところにあります。たがいに自己の内面のイメージを投影しあうこと、「他人」の「他人性」を希薄にすることが、「他人」を理解することだと考えられてしまうのです。

 この部分の「問題なのは」とか「蔓延しがち」といった表現は「危険な兆候」という表現と結びつけてよさそうだ。「蔓延」するものは? といえば伝染病とかウイルスとかだ。

 つまり「危険」なのは「風土」、すなわち「社会」だ。社会にとって「危険な兆候」なのだ。

 さてこれで「危険な兆候」と「希薄さ」を結びつけて考える必然性がわかってきた。

 ではなぜ現在の我々にとって「他人性」は「希薄」なのか?

 

2026年4月17日金曜日

思考の誕生 3 残酷さ

  1. 「歴史的な役割」とは何か?
  2. 「別の主張」とはどのような「主張」か?
  3. 「残酷」とはどのような意味か?

 三つの問いを関係づけて通観する。

 とりあえずは文脈の整理。

 三つを結びつけるのは「自分で考えることが大事」という主張だ。それぞれをこの主張に関係づけよう。


 まず1。

 「自分で考えることが大事」という主張の「歴史的な役割」が終わったということは、かつて「歴史的な役割」があったということだ。

 それが何かを考えるためには、昨年から何度も使い回した言葉を想起したい。

 何か?


 もちろん語註にもある「ロマン主義」に結びつけて考えるべきではあるが、勘の良い人はこれが「近代」の問題だと気づくはずだ。

 ああ、またしても。

 この言葉が使えれば「歴史的な役割」について説明するのが随分楽になるはずだ。

 この歴史的な推移を前回の対比にあてはめてみる。

他人から教わる/自分で考える/他人とともに考える

 これはいわば

前近代/近代/現代=ポストモダン

ということになる。

 近代以前、人は属する集団や宗教によって規定される存在だった。「他人から」というのは、そうした共同体の中に生きることを指す。

 近代はそうしたさまざまな「くびき」から解放された「個人」が生まれた…といった表現は去年読んだ文章群で繰り返し使い回された。

 現代はそうした近代への反省が求められている。

 最初に読んだ「自立」シリーズでは、他人に依存しない「個人」を良しとする近代的「個人」観から、互いに緩やかに依存し合う社会のイメージが語られていた。

 この図式から「歴史的な役割」を捉える。


 2「別の主張」とは「自分で考えることが大事」という主張に対立する主張なのだと考えたくなる。

 そうなるとそれはこうした主張を否定する蓮實の主張と同じ側にいることになる。

 そうではない。蓮實は「自分で考えることが大事」もろとも「別の主張」も否定している。「別の主張」とは「自分で考えることは大事」という、表に表れた主張の裏に隠れた、いわばその人の本音とも言うべき「主張」だ。

 そしてその本音とは、「自分で考えること」の称揚の「歴史的な役割」が終わってしまったことを認めたくない、という欲求でもある。

 なぜ認めたくない?


 3。

 「思考の誕生」は「他人と考える」ことによって起こると言っているのだから、それは「自分で考えること」(つまり上の「役割」「主張」)を否定している。

 それが「残酷」だと言っているのだから、上の「主張」は、その「残酷」さを避けたい、すなわち「歴史的な役割」が終わってしまったことを認めたくないという欲求に基づいている。

 それはどんな「残酷」さか?


 それぞれを10字前後で表現してみよう。意見を交換するためには、表現が共有されていることが望ましい。もちろん一度で適切な表現ができるわけではないから、意見の交換の中で表現を修正し、精錬させていく。

 どう表現したらいいか?


 1「歴史的な役割」は?

 「近代」は1年時の様々な読解で何度も使った概念だ。今回もこれを使って表現する。もう何度も目にした表現だ。

 「近代における『個人』の確立(成立・誕生…)」とでも言っておこう。


 3「残酷」は?

 「思考の誕生」は「自分で考えることなどたかが知れている」ことを認めるところに成立するのだから、それは確かに「残酷」だ。

 これをどう言い表すか?

 今年はC組O君の班の表現が秀逸だった。いわく「自分がオンリーワンじゃなくなる」。なるほど、これはいい。

 「自分で考えること」の擁護とは、その「残酷」さに直面したくないという動機に基づいている。

 「別の主張」とはそうした情動・動機に基づいている。


 2「別の主張」は?

 「自分で考えることが大事」と言いたい人は、実は「別の主張」をしたいことに無自覚だと蓮實は言っている。

 おそらく最も微妙な工夫が必要になるのはこの「別の主張」をどう表現するかだ。この問題の山場は、ここに腑に落ちる表現を見つけることだ。

 各クラスでの発表の多くは、「別の主張」=蓮實重彦の主張になってしまってるか、「自分で考えることは大事」に似過ぎていて、それじゃあもう言葉が見つかっているじゃん、意識できているじゃん、になってしまっているかだった。

 もしくは「主張」と言うに値するような命題の形になっていないか。

 3年前のとある生徒の表現が秀逸だったので紹介したい。つまりここに隠れた本音は「俺ってすげえ」なのだ。

 これで関係づけられる。

 ただこれでは「主張」っぽくないので、もうちょっと一般論ふうに言い直そう。

 どういえばいいか?


 今年の授業ではB組W君の表現がうまかった。

人は皆それぞれ唯一性をもった存在だ。

 授業者が用意していたのは次のような表現。

人にはそれぞれ独自の価値がある。

 これは「個人の確立」から導き出される命題であり、それが「自分で考えることは大事だ」という形で語られる。

 この「人」という一般名詞の陰に実は「私」が隠れている。

 つまり「自分で考えることは大事」という主張は実は「私には独自の価値がある」と信じたい欲求の表れだと蓮實は言っているのだ。

 とすれば「思考の誕生」は確かに「残酷」だ。「俺ってすげえ」と思いたいのに、お前の考えなんか大したことはないと言われて、「オンリーワンの俺」などというものが幻想でしかないことを認めなければならないのだから。

 「思考の誕生」はその「残酷」さを引き受けることとひき換えに手にできる体験なのだ。


 それでも、その「残酷」さに向けてあなたの知性を費やしなさいと説く蓮實にならって、本授業者も同じように言いたい。

 「思考の誕生」のためには「他人」と出会わなければならない。

 だがそれには「感性」を研ぎ澄まさなければならない。

 授業で話し合う時も、互いの話に曖昧にうなずいているだけでは「思考の誕生」の瞬間は訪れない。「そうか…なるほど」はまあ話の潤滑油として必要でもあるが、それだけで終わらず、「えっ、どういうこと?」「そうかなあ…」と勇気を出して言ってみることによって、「他人」であるような互いの存在が濃密(「希薄」の対義語)になる瞬間が生まれるのだ。


2026年4月12日日曜日

思考の誕生 2 問い三つ

 蓮實が「自分で考えることを重要視する」ことを否定する論理はどのようなものなのか。そうした核心に迫る前に、細部を取り上げて少々読解する。


 「自分で考えることは大事」という主張を否定する蓮實は、しかしその論拠を明確には語らない。

 例えば次の一節。

「自分ひとりで考え」たことなど「たかが知れている」というのは、まぎれもない事実です。人間が社会的かつ歴史的な存在である以上、それは当然でしょう。

 「まぎれもない事実」とか「当然」というばかりで、なぜそうなのかを言わない。

 「社会的かつ歴史的な存在である以上」が論拠なのだが、これはどういうことか?


 「歴史的」は「自分で考えることは大事」を否定する論拠となっていて、「社会的」は「他人とともに考える」を肯定する根拠になっている。

 人間は一人で生きているわけではない。生きられはしない。「社会的」というのはそうした現実のことだ。

 同時に、今生きている我々は過去の人たちが作ってきた歴史の上に生きているし、その歴史の上に次の世代も生きる。

 いわば共時的な広がりと通時的な広がりの中に我々は存在している。

 「社会的かつ歴史的な存在である以上」はそうした「事実」の指摘だ。

 にもかかわらず、と蓮實は問いかける。

にもかかわらず、なお「自分で考えること」の重要さが改めて指摘されたりするのは、どうしてなのでしょうか。

 どうしてだと蓮實は考えているのか?

 細部から考えていく。


あたかも、この宇宙に自分一人しか存在していないかのような孤独な思考を「自分で考えること」として擁護する姿勢は、いかにもロマン主義的なものだというほかはありません。そんな姿勢の歴史的な役割は、遥か以前に終わっているはずなのです。

 この一節の「歴史的な役割」とは何か?


 この問いかけを解決することなくさらに次の問い。

 続く一節。

それは、そう主張する者の歴史的な無知をあからさまに示しています。あるいは、その指摘で何か別の主張をしたいと思いながら、それにふさわしい言葉が見当たらないのか、それとも別の主張をしたがっている「自分」自身に無意識なだけなのかもしれません。

 この一節の「別の主張」とは何か?

 「別の」なんだから、「自分で考えることが大事」以外なら何でもありか?

 そうではない。蓮實はここに入る「主張」がどのようなものかを想定しているはずだ。

 それはどんな「主張」?

 この問いはたぶんかなり難しい。


 さらにもう一つ、文末近くの次の一節についても問う。

思考の誕生に立ち会うことは、貴重で、残酷な体験ともなるでしょう。あなたの知性は、その希薄さと残酷さへの感性をはぐくむために費やされねばなりません。

 この一節で「思考の誕生に立ち会うこと」はなぜ「残酷」と形容されているのか? あるいはどのような意味で「残酷」なのか?


 以上三つの問いは、相互に関係づけて考えることでそれぞれが明確になる。

 どういうふうに関連しているのか?



2026年4月8日水曜日

思考の誕生 1 具体的な体験

 今年度最初に読むのは蓮實重彦「思考の誕生」。

 こんな、教科書の後ろの方にある文章を最初に読ませたいと思うのにはそれなりにわけがある。

 教科書の最初の文章は、年度当初にふさわしいメッセージ性をもったものが意図的に置かれている。昨年の教科書冒頭の「木を見る、森を見る」は、いろいろな視点から世界を見てみようという、高校1年生に向けたメッセージだった。読んだのは年度のすっかり後半になってからだったが。

 ところがこの教科書冒頭の「アイオワの玉葱」に、これからこの教科を学ぶ高校生へのメッセージがあるのかどうか、よくわからない。後でこの授業でも読むつもりではあるのだが、論旨は言語論だから「視点を変える」シリーズではある。メッセージ? まあメッセージは受け手の問題でもあるから、全ての文章にメッセージを見出すことは可能ではあるのだが。

 というわけで「思考の誕生」を最初に読むのは、そういうメッセージのある文章だからでもある。

 どんなメッセージ?


 蓮實は「自分で考えることが大事」という言説が世の中に蔓延っているが、そんなのは歴史的な無知の表れで、危険な兆候だ、という。

 これはいったいどんなメッセージなのか?


 この文章が書かれたのは蓮實重彦が東大総長だったときで、これは東大新入生へ向けたものだ。文中の「教育の場」とか「在学中」とかいう言葉は東大生が送る東大ライフを想定している。

 そこで総長は「自分で考えること」などたかがしれている、と言う。

 東大生にこれを言うことの意味は、よくよく噛みしめるべきだ。東大生よ、お前たちが自分の頭で考えたことなどたかがしれていると自覚しなさい、というのだ。手厳しい。

 ではどうしろと?


 「自分で考える」ことは何と対比されているか? 「自分で考える」がダメなら何が良いのか?

 肯定/否定 の対比で表すと?

自分で考える/他人から教わる

 これはつまり「謙虚のススメ」なのか?

 だが単にそんなことを若者に言っても耳にタコができているような聞き飽きたお説教にしか感じられまい。

 蓮實の言っているのはそれとはちょっと違う。

「他人の考え」を「自分の考え」としてうけいれることではありません。

とはっきり文中で言っている。

 蓮實の言っているのは次のように表現されるべき対比だ。

自分ひとりで考える/他人とともに考える


 蓮實の言っているのは「他人とともに考える」ことのススメであり、それは「具体的な体験」なのだと言う。

 こうしたメッセージは、当然授業者もまた東大生ならぬ君たちにも送りたい。1年生ならぬ2年生にも、また。

 授業は、教師の言うことを聞いて、それを覚えたり理解したりする場ではない。

 といって自分一人で考える場でもない。

 受け身でなく能動的に「考える」ことを日頃から奨めてはいるが、それは蓮實の言う抽象的なお題目ではなく、隣の席の級友と一緒に作り上げる具体的「体験」だ、と言っているのである。

 例えば授業とはそれが期待される「場」だ。


 メッセージとして、これまで読んだ文章で最も似ているのはどれか?

 共通する論旨をふくんでいるものとして連想されるのはどれか?


 そう思っていた人もいたと思うが、授業者は、この文章の趣旨はまるで「共鳴し引き出される力」だなあと思っていた。

 似ていることを示すには、両者の論旨を同じ構文で示せば良い。

 なるべくシンプルで互換性の見やすい文。

 すぐに次のような文が想起できれば上出来。

  • 人の能力は他人との共鳴によって引き出される。
  • 思考は他人との共同作業によって誕生する。


 そのために必要な姿勢とは何か?

 ここがこの文章のミソなのだが、それが何かわかるだろうか?


2026年4月6日月曜日

新年度 総合現代文

 2026年の授業を始める。

 科目名は「総合現代文」。文科省の学習指導要領にはない科目で、学校が独自に設定した科目だ。

 教科書は筑摩書房の「論理国語」と「文学国語」。これが文科省の定める科目名なのだが、両方を履修させるのは「標準単位数」に反するのでできない。といってどちらかだけを履修させるのは惜しい。そこで、本校では両方の教科書を使った独自科目にしたわけだ。

 昨年度は「現代の国語」という科目を「現国」、「言語文化」を「言文=ゲンブン」という略称で呼んでいたはず。だが、授業者にとって「ゲンブン」とは2022年からの新教育課程になるまで長らく「現代文」を指していた。昨年は「ゲンブン」といえば「言文」、つまりは「古典」のことだったのに、今年はまた「ゲンブン」が「総合現代文」のことを指し、「古典」はそのまま「コテン」と呼ばれることになるのだ。

 そして1年生との間では「ゲンブン」が指す科目は違ったものになってしまう。

 まぎらわしい。


 ブログ名はそのままに、これから2年間は「現代文」について書き綴っていく。


 去年の授業について少々。

 3月の生徒総会で「熟議をこらす」ことと「円滑な議事進行」の相克について話した。

 この二つは「時間がかかる/かからない」という反対の方向性をもっている。だがどちらかだけが大事なわけではない。どちらも大事だ。

 本当の対立は「熟議をこらす/拙速に結論を出す・議会が形骸化している」であり、「円滑な議事進行/停滞・混乱した議事進行」だ。

 だから「熟議をこらす」と「円滑な議事進行」は反対の方向性なのにどちらも大事なのだ。

 授業でも似たようなジレンマを感じていた。

 次々と文章を読んで、さまざまな問題を考えたい。

 だがじっくりと考えたい。

 時間のかかり方という点では相反する方向性をもった二つの希望だ。

 もちろん両方大事なのだから、どちらかといわずバランスをとるしかないのだが、せめてみんなには次のことを期待したい。

 授業中に対峙するいくつもの問題点について、常に「じっくり考え」てはきたものの、時間がいつも足りなかった。

 そういうとき、常にその時点での、自分なりの結論が表現できるところまでまとめきることにこだわってほしい。毎度毎度、最後のところで誰かが(授業者が)結論を言って終わってしまうことに流されないでほしい。

 ひとつひとつの考察を、次の考察に使う武器(スキーマ)として、確実に装備していってほしい。


2026年3月4日水曜日

視点を変える23 人工知能3 言語が見せる世界

 さて「物語」と言えば、もう一つの文章、野矢茂樹「言語が見せる世界」と接続する。

 この文章の「問い」は何か?


 「相貌とは何か?」「概念とは何か?」などの問いも文中には明示されているし、これらはもちろん重要な問いではある。「プロトタイプ」も気になる。

 だがそれらの問いがどこから生じたかと言えばこれだ。

我々は世界をどのように見ているか?

 この答えは?


通常は「物語」において見ている。

というのが端的な答えだ。

 とすると、これは松田の論と共通していることが明らかだ。人間が椅子に座れるのは「椅子に座る」という行為を「物語」として生きているからだ、というのが松田の主張だった。

 そしてその「物語」は身体によって成立する、というのだが、野矢茂樹は「物語」を論ずるのに身体を持ち出さない。言葉がすでに「物語」を携えているのだ。

 当然だ。言葉は単体で宙に浮いているわけではなく、前後の文脈の中で使われ、理解される。それはすなわち「物語」の中にあるということだ。

 となればますます現在のAIは「物語」において「椅子に座る」ことを捉えるに違いない。

 やはり人工知能は椅子に座れるのである。


 さて、ここまでの「視点を変える」の流れに、この二つの文章も位置付けよう。

 「言語が見せる世界」という題名は、もうそのままおなじみのソシュール言語学だ。我々は言葉によって世界を認識する。

 ここでは、言葉はスキーマでありメディアだった。

 一方「人工知能はなぜ椅子に座れないのか」には次のような文章がある。

例えば、…初めてこの世界と対峙することになる赤ちゃんは、この世界を知るために、…彼ら(彼女ら)は、手足をばたつかせながら、「周囲の環境に何があるか」を発見するでしょう。それと同時に、「自分自身の身体がどのようなものであるか」を発見するでしょう。/無限定な空間において、私たちは、周囲の環境という「場」と、自分自身の身体を基準とする「自己」とを、順次、理解していくのです。

 これはつまり、身体はメディアであると言っているのだ。つまり身体も言語同様スキーマでありフィルター(フィルターバブルにおける)だ。

 そういえば「言語が見せる世界」と「メディアがつくる身体」は文構造が同じだ。つまりそっくりパラフレーズできる。言語が(メディアが)見せる(つくる)のは、世界「観」のことであり、身体「観」のことだ。

 身体「観」ということはゲシュタルトでもある。

 スキーマでもありゲシュタルトでもあるというのは、思い出してほしい、「地図」もそうだった。もちろん地図もメディアだった。


 我々は言語を通して、身体を通して、地図を通して、メディアを通して世界を認識する。それぞれの「世界」は、それぞれのスキーマによって様々だ。そのゲシュタルトがそれぞれの身体「観」であり、世界「観」であり、それを表現した地図なのだ。 

 スキーマがゲシュタルトをつくり、できたゲシュタルトはスキーマとして機能する。スキーマとゲシュタルトは循環する。

 授業を通して文章を理解するとは、つまりゲシュタルトが生成された(ダルメシアン犬が見えた)ということだ。

 それが次に読む文章を理解させるスキーマとして機能する。


よく読まれている記事