2026年6月29日月曜日

夢十夜 第六夜7 運慶が生きている意味

 「第六夜」の主題は「西洋文明の流入によって、日本古来の文化が失われつつある『明治』という時代に対する冷ややかな眼差し」とでもいったようなものだ。「皮肉」と言ってもいいし「嘆き」と言ってもいいし、ストレートに「批判」と言ってもいい。

 これは「現代日本の開化」の主旨であり、それをそのまま「第六夜」の主題であるとみなしているだけだ。だがそれでいいようにも思える。

 こうした主題を語る上で「芸術」はどんな論理的整合性をもつのか。

 それよりも、次の発想ができれば論が展開できる(あるいは先の見通しがあればこのような発想ができる)。

芸術家=革新/職人=伝統

 この運慶は時代を超越するような形で出現する独創的な天才芸術家ではなく、熟練した職人として描かれている。運慶の仕事ぶりが芸術家としての創作だとしたら、②の問いの「明治の木には」という限定に何の意味があるのかがわからない。運慶の技を伝統的な職人技の発現としてのルーチン・ワークだと考えることによって「明治の」という条件が理解できる。

 職人の技術とは、単に繰り返した修練によって彼個人が体得した技術、というだけではない。それはその技を磨き上げてきた数知れない先人の営みの分厚い積み上げの上に成り立つものだ。運慶が体現しているのは、そうした職人集団の伝統なのだ。

 そして明治の文明開化によって脅かされているものは、天才の芸術ではなく、職人一個人が体得した技術でもなく、日本人の伝統であるはずだ。


 では「開化」という名の文化的な断絶を経験する時代状況において「運慶が今日まで生きている理由」とは何か? 「自分」は「なぜ生きていられるか」「なぜ生きていなければならないか」どちらの理由に納得したのか?

 上記の読解に従って言えば、そのような技を受け継いでいるからこそ運慶は今も「生きていられる」のだと言ってもいいし、運慶が体現する伝統の技は、この明治にこそ「生きていなければならない」と言ってもいい。後者のように言うなら、それは運慶がそう考えているのではなく、やはり我々が運慶に託した期待である。我々が運慶に生きていてほしいと思っているのだ。

 そのとき運慶は、時代を越えて継承されるべき伝統文化の象徴だ。

 だが実はもはや問①「運慶が今日まで生きている理由」とは何か、の答えは大した問題ではない。むしろ「運慶が生きている理由」という語り手の悟りは、その内容が読者に自明でないことによって夢の感触を表現しているとも言える。だから「自分」が「ほぼわかった」というときに、読者が「よくわからない」と感じていることこそが「夢十夜」の正しい受け止め方だとも言える。

 「第六夜」の解釈において重要なのは「生きている理由」よりも「仁王が埋まっていない」ことだ。


 こんなふうに「第六夜」の主題を捉えた時、次の一節も意味あるものとして物語の文脈に位置づけられる。

裏へ出てみると、先だっての暴風(あらし)で倒れた樫を、薪にするつもりで、木挽きに挽かせた手ごろなやつが、たくさん積んであった。

 ここには「ダルメシアン犬」がいる。そのことは、スキーマがなければ見えてこない。

 仁王の埋まっていない「明治の木」は「先だっての暴風で倒れた樫」なのだ。

 この「先だっての暴風」とは何のことか?


 もはや明らかだ。「暴風」とは1853年の黒船来航に続く幕末の動乱とそれに続く文明開化のことに他ならない。西洋文明の流入は、「あらし」のように日本人の精神を、日本文化を薙ぎ倒したのだ。

 この付合が偶然であるとは到底思えない。「明治の木」の来歴としてさりげなく書き込まれたこのような形容を、漱石が意識せずに書き付けているはずはない。つまりこれは心霊写真ではなく、ダルメシアン犬の写真だ。

 全体を貫く論理が見えてきた時にのみ、その意味がわかるように、漱石はさりげなく、だが明らかに意図的に、こうした形容を付すのだ。


 「第六夜」はこんなふうに「運慶」や「仁王が埋まっていない」を象徴と見なす、物語内の具体レベルから一段抽象度の高い「主題」を想定することで、「意味」がわかったと感じられる小説だ。それは、そのような「主題」を必要としない「第一夜」を受容することとはかなり違った読解体験だ。


夢十夜 第六夜6 運慶が意味するもの

 「第六夜」が何を言っている小説なのかという「答え」はわかった。ここからは、言わば答え合わせのできている状態で、験算のために途中式を確認する。

 ②は前項の通りだから、問題は①と③の論理的整合だ。

 具体的には問③で運慶が表す概念語を③「今日まで生きている理由」に代入して、それを説明するために有用かを検討する。

 そのために、「運慶は芸術家か職人か」という選択肢に変形したことを糸口にする。まず芸術家と職人が意味するものを対比的な言葉に置き換えよう。

 どのクラスでも10組以上の対比表現が挙がった。

 多くのクラスで挙がったのは「芸術家=才能/職人=技術」だ。

 ミケランジェロもレオナルドも運慶も、間違いなく天才なのだろう。

 だが運慶が迷いなく仁王を掘り出せるのは、何万回と重ねてきた技術の研鑽の結果ではないか? それが見る者に神秘的な技と見えるほどに高められた熟練の技術の賜物なのではないか?

 だがむろん「自分」は芸術家でも職人でもない。天才を有しているわけでもないし、熟練の技術を持っているわけもない。

 「自分」個人についてもそれは明らかであるというだけでなく、そもそも「自分」は一個人ではなく「明治人」として物語に登場している。そして「明治人」が特定の「才能」や「技術」を有しているべき必然性はない。

 したがって「芸術家」とは才能を持った者、「職人」は技術を身につけた者と捉えることには、それほど発展的な考察は期待できない。「自分」にそれらが欠けているのは自明なことである上に、「明治の木には」という限定が意味をなさないからだ。


 では「芸術家=独創」はどうか? 芸術家にはオリジナリティが必要だ。

 「独創」の対義語は「模倣」だ。

 結論としての主題の在処が見えているから、それに合わせて筋道をつけることはできる。明治の文化は外国の文化を「模倣」することに汲々として、独自性を失っている。そういう時代にこそ運慶のように「独創」的な芸術を生み出すことのできる存在が生きていてほしいというような言い方は可能だ。

 自分は若い男の言葉を「模倣」する。その若い男の言葉は後述のとおりミケランジェロの「模倣」だ。そこへ仁王を掘り出せないという結末を用意することで、運慶のような「内発的」に生まれた「独創」的な芸術は明治にはもう生まれないのだ、と言っていることになる。

 これは世に流布している大方の「第六夜」の説明に沿っている。

 だが明治に失われた文化を「芸術」の語で代表させることも、それを運慶によって象徴させていると考えることも、授業者にとって納得感が薄い。そもそも授業者がこの問いを思いついたのは、世の「第六夜」論に「芸術」の語が頻出することに常々違和感を抱いていることによる。なぜ「第六夜」の解釈を語る上で「芸術」という語が必要なのか。

 そもそも「芸術」という言葉が「第六夜」を語る上で使われるのはなぜか?


 運慶の迷いのない彫刻作業を、若い男が「あのとおりの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまで」と表現する。

 こういった表現は、ある種の「芸術」創造についての語り口として見覚えがある。

 実はこの表現はミケランジェロの以下のような言葉から発想されていると考えられる。

  • まだ彫られていない大理石は、偉大な芸術家が考えうるすべての形状を持っている。
  • どんな石の塊も内部に彫像を秘めている。それを発見するのが彫刻家の仕事だ。
  • 余分の大理石がそぎ落とされるにつれて、彫像は成長する。

 おそらく「若い男」の言っているのはこれらの受け売りだ。

 このように表現される創作活動とは「天啓」として降りてくるインスピレーションを形にする行為であり、その時、芸術家は神の声を聴く預言者だ。作品は彼自身が作ったものではなく彼の手を通じて神が地上にもたらしたのだ。

 あるいは「個人」の確立とともに芸術家と職人が区別されるようになった近代では、芸術とは芸術家個人の内面の発露であるとみなされるようになった。石や木の中から姿を現す彫像は、芸術家の精神そのものだ。

 では運慶が「生きている理由」とは、そのような芸術家的何か=神の代弁者か近代的個人が生きている(べき)理由ということなのか。


 だがこうした言い方は、授業者には芸術創造についての神話、神秘思想とでもいったもののように思える。芸術家を、凡人とは違った特別な存在として神秘化しているのだ。

 そもそも上記のようなことを言ったミケランジェロは芸術家か職人か?


 答えは「どちらでもある」だ。

 もちろんミケランジェロの作品を芸術であると言うことを否定する人はいまい。

 だが彼は明らかに職人である。工房に入って親方の元で修行して技術を身につけ、独立してからも自らの工房を開いて弟子をもった。教会や貴族の依頼によって作品を制作した。そのような在り方を普通「職人」と呼ぶ。

 これは例えばレオナルド・ダ・ヴィンチも同じだ。「モナリザ」や「最後の晩餐」は偉大な芸術作品だと見なされているが、それらは注文に応じて制作されたものだ。彼自身、工房で親方について修行し、後に自らの工房をもって弟子とともに作品を制作した。

 運慶もそうだ。仏師とは寺社や貴族の注文に応じて仏像を彫るのが仕事だ。運慶は親方について修行し、後に多くの弟子を率いる棟梁となった。これは我々がイメージする「職人」そのものだ。

 これは何を意味するか?


 芸術家と職人を区別するのは近代以降の発想なのだ。近代以前には芸術作品と工芸品に区別はなかったのだ。職人を意味するフランス語の「アルチザン」は「アーティスト」と語源が同じだ。

 近代以降「個人」の成立とともに、作品は「個人」の内面を表現するものと見なされるようになる。

 一方でそうした作品を、産業革命によって誕生した経済市場に乗せられる「商品」と区別する意識が生まれる。芸術作品は、本来売り買いされることを目的とした商品ではなく、芸術家個人の創作意欲の発露だというのである。一方で職人が作るものは「商品」だ。そうして「アーティスト」と「アルチザン」も対立的な概念として分岐していく。

 そうした前提によって運慶が芸術家か職人かを考えることには意味がない。

 では芸術家と職人をどのような違いとして捉えることが有効か?


夢十夜 第六夜5 主題

 結論に向けて最初に決着をつけるのは、②「明治の木にはとうてい仁王は埋まっていない」とはどういうことか?  という問いだ。

 「仁王は埋まっていない」は「彫れない」の隠喩的表現であることは明らかだ。だが「若い男」の言葉を受けた「埋まっていない」という表現から、読者は何らかの「意味」を読み取るべきだと促される。

 そこで考える手がかりとして「埋まっていない」が文字通りに意味する「木」の問題なのか、彫れないのは「自分」の問題なのに、それを「木」の問題だと認識している(したがっている)のか、という二択にしてみた。

 「木のせい」ということになれば「明治の木から仁王を掘り出すことは、運慶にもできない」あるいは「鎌倉の木なら自分にも掘り出すことができる」ということになる。だがこの仮定推論には違和感がある。運慶にそれができないとは思えないし、自分にできるとも思えない。

 つまり問題の立て方が間違っている。

 ここには運慶には彫れて自分には彫れないという対比がある。だがそれは運慶という傑出した個人と、平凡な個人という対比ではない。歴史に名を残す鎌倉人と、一明治人との対比だ。「自分」個人の問題ではなく「明治」という時代の問題なのだと考えなければ「明治の木には」という形容に意味を見出すことができない。

 仁王を堀り出せないのは、それが「明治の」木であったからだ。そして「明治の木」とは明治人であるところの「自分」が彫っている木を意味する。明治人の「自分」が彫ろうとすれば、木には仁王が「埋まっていない」のであり、それは明治人の「自分」には「彫れない」ことを意味する。

 したがって「埋まっていない」(木のせい)と「彫れない」(自分のせい)は同じことを意味している。

 つまり問題は「明治の」という条件付けだ。「自分」個人の問題ではなく、「明治」という時代なのだ。


 この想定を確認するため、漱石の講演録「現代日本の開化」を読む。幸い「論理国語」に収録されている。

 これは「夢十夜」連載の3年後に行われた講演だ。

 そこで漱石は、明治の日本の開化がどうだと言っているか?


 外国の圧力によって起こった開化を、漱石は「外発的」で「皮相上滑り」だという。「軽薄・虚偽」とまで言っている。

 これはもはや種明かしのようなものだ。あるいは答え合わせだ。

 つまり「第六夜」はそういう話だ。

 このことは、最初の「第六夜」の読解だけで見当がついていたという人もいる。それは素晴らしい。

 だが重要なのは結論ではない。こうした「主題」は、ネットに溢れる「第六夜」論でもいくつも見ることができる。それを知ることが国語の学習なのではない。

 問題は語り方だ。論の組み立て方、表現の選び方だ。


2026年6月24日水曜日

夢十夜 第六夜4 運慶とは何者か

 もうひとつ考えておきたいことがある。「運慶」とはそもそも何者か?


 「運慶が生きている理由」とは「自分」が「わかった」という「理由」だ。我々がそれを「わかる」べきだというのではない。なぜ運慶が生きているのか、と問われたら、そんなの夢なんだから別に意味はない、と答えてもいい。

 では「なぜ漱石は運慶を登場させたのか?」ではどうか?

 これも、夢なんだからどんな突飛なことだって起こりうるよ、と答えて済ますこともできる。実際に漱石がそうした夢を見たのか、小説のアイデアとして着想したのかも不明だし、考えてどこかに辿り着くという確証はない。

 だが少なくとも、実際に書かれた小説のテクストの中から、運慶がどのように書かれているかを読み取ることはできる。そこには何らかの作者の意図が読み取れる可能性がある。それを問いとして立てる。

③この小説における「運慶」とはどういう存在か?

 もう一つ、こういう問題を問いとして立てるためにはお決まりの言い方がある。

③「運慶」は何を象徴するか?

 「象徴」という言葉がただちに想起された人は考えるためのスキルが身についている。「どういう」という問いはどこをめざして考察すればいいのかがはっきりしない。それに対して「何の象徴」は、最終的に名詞か名詞句で表現するというゴールが明確だ。一方でそれは、飛躍を必要とする難しさもある。適切な名詞が想起されるかどうかはあらかじめ確約されているわけではない。

 両方を適宜行き来して考えよう。


 ①②は素直に「わからない」と感じるはずの謎を問いとして立てた。一方③のような問いの立て方は、小説の読み方として自覚的でないと思い浮かばない。

 運慶が何者であるかは、この小説に書かれていることから読み取らねばならない。

 「運慶は見物人の評判には委細頓着なく」「眼中に我々なし」といった描写から、見物人は運慶を見ているが、逆に運慶からはこちらが見えていないのではないか、と言った生徒がかつていた。単に集中力が高いという以上の意味を読み取ろうとすれば、これは「明治時代に鎌倉時代の運慶が現れた」ということではなく、運慶のいる時空と見物人のいる時空とが、本質的には違った位相にあって、それが一時重なっているように見えるだけだということかもしれない。

 面白い発想だが、これがどこに辿り着くのか、今のところわからない。それよりも注目したいのは次のような点だ。

 運慶が仁王の鼻のあたりを鮮やかに彫り出す動きを描写した後、その手際について見物の若い男が「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あのとおりの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。」と語る。この表現が、先の、仁王が出てこないのは「木のせい」か「自分のせい」かという問いを生んでいる。

 このように表現される行為は何を意味するか。


 考えるために、これもまた選択肢のある問いにしてみよう。

③ここに登場する「運慶」は、「芸術家」か「職人」か?

 この問いはいささか突飛なものと感じられるかもしれない。問①②を変形して選択肢を作るには、単に日本語としての多義性を利用して、その意味合いを明確にしようとしたのだった。だが問③の選択肢はそのように、言葉に元々含まれる可能性から発想されたのではない。

 迷いなく仁王を彫れるのは運慶が芸術家だからなのか、職人だからなのか?

 仁王が彫れないのは、「自分」が芸術家ではないということなのか、職人ではないということなのか?

 むろん「自分」はどちらでもない。だがここでは、どちらでないことが重要なのか?


 こういう時はやはり、語るにふさわしい言葉を思い浮かべることができると語り易い。

「芸術家」「職人」それぞれが備えていて「自分」に備わっていないものは何か?

 これを対比的な言葉で捉えると論じやすくなる。


夢十夜 第六夜3 問いを分解する

 「主題」を考えるために、より具体的な小説中の謎(①②)を考える。抽象度の高い問いをいきなり考えようとしても手がかりがないかもしれないからだ。

 同様に、①②を考える上で、さらに問いを分解・変形して考える糸口をつかむ。


②「明治の木には到底仁王は埋まっていない」とはどういうことか?

 「どういうことか」という問いは、包括的であることに意義がある一方で、目標が定まらないから思考や論議が散漫になるきらいがある。

 ②は、「仁王が彫れない」であるはずなのに、なぜ「仁王は埋まっていない」と表現されるのか? という疑問でもある。

 そこでこれを次のように変形する。

②仁王が彫れないのは、「木のせい」か、「自分のせい」か?

 本文は「明治の木にはとうてい仁王は埋まっていない」といっているのだから、言葉通りには「木のせい」ということになるが、どうもすんなりと納得はしがたい。なんとなく無責任に過ぎるような気もして、ではどういう意味で「自分のせい」だと言えるかと考えると、ことはそれほど簡単ではない。

 さしあたってこう考える。本当は「自分のせい」なのに、それを「木のせい」と勘違いの悟りを得たということなのか、本当にこの小説の中では「木のせい」だということを意味しているのか?


 同様に①についても分解・変形を試みる。

①「運慶が今日まで生きている理由」とは何か?

 「生きている」のニュアンスを「生きているべき」と強調してみると、「べし」の意味「すいかとめてよ」のどのニュアンスが含意されているかを考えることができる。

 「今日まで生きている理由」とは「生きていなければならない理由」なのか、「今日まで生きていられた理由」なのか?

 複数の選択肢に分けて考えることは、思考を活性化させるために有効だ。人間の思考は、物事の対比において、差異線をなぞるようにしか成立しない。どちらが正解かを決定しようとしているわけではない。だがどちらが適切だろうか、と考えることで、文中から根拠となるべき情報を読み取ろうとすればいい。


 また「運慶が今日まで生きている理由」とは、誰にとっての「理由」なのか?

 運慶自身にとっての「理由」なのか、我々(語り手)にとっての「理由」なのか? つまり「運慶にとって自分が今日まで生きている理由」なのか、「我々にとって運慶が生きている理由」なのか?

 「生きていられる」は「べし」を可能の意味で解釈している。「生きていなければ」のニュアンスの場合、運慶自身にとってならば「べし」は意志だろうし、我々にとってならば「べし」は当然か適当だ(「命令」)?。

 これらは単に日本語の解釈の可能性を押し広げて創作した問いだ。二つの選択肢の組み合わせで4つの解釈ができる。

  1. 運慶が考える、自身が生きていられる理由
  2. 運慶が考える、自身が生きていなければならない理由
  3. 運慶が生きていられると『自分』が考える理由
  4. 運慶は生きていなければならない、と『自分』が考える理由


 上記の二択すべて、とりあえず現状の考えを聞いてみると、皆の立場は分かれる。

 自分は最初からあるニュアンスでその表現を受け取ってしまって、その上でその先を考えていたはずだ。違うニュアンスで読み取る可能性を検討した上で、それを否定したわけではない。公平にどちらか、と考えてみる。

 といってこれらの選択肢は、どれかを排他的に正解とすることを目指すのではない。どちらであるかを考えることが、思考を推し進めていくことに資すれば良い。

 このようにニュアンスを細分化することで、ここで明らかにしなければならない論理の筋道を互いに共有するのだ。


2026年6月9日火曜日

夢十夜 第六夜2 問いを立てる

 読解にあたって最初に立てるべき問いは決まっている。

「第六夜」の主題は何か?

 「第六夜」はつまり何を言っている小説なのか?

 常にテキスト読解にとって必要最小限にして最大の問いだ。とはいえいきなりこの問いに答えるのは難しい。随時この問いを思い出して、現在の位置付けや全体の意味づけを確かめる。


 次に、もっと具体的に、本文から導かれる問いを立てる。「羅生門」でいえば「下人はなぜ引剥をしたか?」だった。「羅生門」がとりあえず「わかった」と思えるために最低限解かねばならぬ謎だ。

 「第六夜」でこれにあたる問いは自明だ。

①「運慶が今日まで生きている理由」とは何か?

 読んでいて、これを疑問に思わぬ者はいまい。

 末尾の一文で、「自分」はこの「理由」が「ほぼわかった」という。だが読者にはそれが自明なわけではない。なのにそれが何かを語ることなく小説は終わる。語り手が「わかった」というものを読者がわからないままに済ますわけにはいかない。いかんともしがたく「解釈」の欲求を誘う記述だ。

 これは「なぜ運慶が今まで生きているのか?」という問いではない。読者がその「理由」に納得したわけではないし、すべきかどうかも定かではない。夢なのだからそんなことに答えなくともよいのだ、ともいえる。

 ただ「自分」は何事かを得心したのだ。それがどのようなものであるのかを問うている。

 そうだとしてもやはり「答えは、ない」と答えることもできる。夢で我々は何かに奇妙な納得をしていて、だが起きてから考えても、なぜ夢の中ではそんな納得ができたのかが不思議であるような不思議な思考をしている。その不条理をとりあえず引き受けたところに「夢」の感触がある。とすれば「自分」は何事かを納得しているが、そこに読者が共感できるような中身はないかもしれない。

 だがそう即断せずに、漱石は何らかの「理由」を想定していて、それにあわせて物語の展開や描写をしている可能性も考えてみる。だとすればこの「理由」は、この小説が何を言っている小説なのか、という全体の理解の中に位置づけられるべきである。物語の締めくくりに置かれたこの「自分」の悟りが小説全体の「意味」を支えていると思われるからだ。

 ではその「理由」とは何なのか?


 さらに補助的な問いを立てておく。これもまた全ての読者に共感されるはずだ。

②「明治の木には到底仁王は埋まっていない」とはどういうことか?

 ①を明らかにするためには、まず②を解決する必要がある。②の認識によって、「それで」①が「わかった」と「自分」は言っているからだ。

 さて、「仁王は埋まっていない」とはどういうことか? という問いにどうアプローチしたらいいか?

 「仁王は埋まっていない」とは「仁王が掘り出せない=仁王像を彫れない」の隠喩だ。この隠喩で表される認識は「彫れない」という事実と同じだろうか? なぜ「仁王が彫れない」ではなく「仁王は埋まっていない」なのか? なぜそれが「到底」なのか?

 論理の順としては「主題」→②→①のはずだが、これは互いを根拠として成立する論理なので、順番通りである必要はない。補い合って一筋の論理となるよう考えを進める。

夢十夜 第六夜1 授業の目標

  「文豪」という名称に真にふさわしい小説家は、日本では夏目漱石と森鷗外が双璧だ。芥川龍之介も太宰治も、ノーベル文学賞を受賞した川端康成も大江健三郎も、受賞を期待されていた三島由紀夫も村上春樹も、漱石鷗外ほどには「文豪」の名称には似つかわしくない。

 別格二人の作品がどのようなものかは、今年度後期に漱石「こころ」、来年度に鷗外「舞姫」を読む時にたっぷりと味わってほしい。

 「こころ」に比べると小品だが、前期は漱石の「夢十夜」を読んでおこう。


 「夢十夜」は、夢(ということになっている)お話を、原稿用紙4~5枚の長さでまとめた連作短編であり、114年前の新聞に十日間にわたって連載された。

 テキストは「青空文庫」にもある。100年以上前の作品だ。著作権も切れている。

→青空文庫「夢十夜」

 テキストを見易い画面で見せてくれるサイトもある。

→えあ草紙

 YouTubeには朗読動画もいっぱいある。



 多くの1年生用「言語文化」教科書に「第一夜」と「第六夜」が収録されている。我々が使っている教科書には収録されていなかったが、まあ全国の高校生と教養を共用するということで、今回の授業でもこの二編を読む。

 授業は、『夢十夜』の二編を読み、それを読解しながら、「小説を読む」という行為自体を客観視することを目論む。

 これは昨年の「羅生門」でもそうだった。「羅生門」の理解など授業の目標ではない。だがみんなは「羅生門」を「理解」しようと努めなければならない。それを通した考察や議論が国語科の学習になるはずだからだ。併せて、「小説を読む」という行為がどのようなものかを体験するケーススタディになることを期待する。


 最初の通読は「第一夜」「第六夜」の順でいいが、読解は「第六夜」から行う。これは、「第六夜」の方が一般的なイメージとしての「読解」に適しているからだ。「第一夜」は、ただ読んで味わえば良い、といったたぐいの小説であるように思える。それ比べて「第六夜」は「解釈」ができそうなのである。

 ともかく、読んだだけでは何かわりきれない感触が残る小説には、何らかの「解釈」が欲求される。それは読者としての人情というだけでなく、国語科学習の好機だ。「解釈」は小説読解にとって必須の行為ではなく、国語科学習にとっての好機なのである。それは決して教師によって提示されるべきものではなく、生徒自身が取り組むべき課題だ。


 「夢十夜」は「夢」という体裁をとった小説だから、物語の筋立てにせよ、情景の描写にせよ、いちいち明瞭な、見慣れた、自明の「意味」をもたない記述に満ちている。「夢」だという建前を信ずるならば、それらを既存の「意味」に落とし込むようないたずらな「解釈」は必要ないかもしれない。単に不思議な話として受け取れば良いのかもしれない。

 だが、これが少なくとも「小説」という器に注がれて我々の前にある以上は、それに対して作者と読者である我々の間にコミュニケーションの成立する可能性はあるはずだ。夢そのものでさえ、語られる以上は精神分析という「解釈」の対象となりうる。小説という「作」品にそれができないと断ずる必要はない。

 まして授業という場では、その「意味」をめぐる考察は国語学習の好機となるべく期待をしても良いかもしれない。そして「第六夜」はそうした考察の対象となりそうな感触があるのだ。やってみよう。

 なおかつ、そうした「解釈」をすることは、後に続く「第一夜」の読解の特殊さを意識するための伏線にもなる。


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