2026年2月1日日曜日

視点を変える17 メディアがつくる身体6 予期・義体

 さて、メディアが「つくる」のは「社会的身体」だった。この概念については、気になる表現が二つある。

 まずは、先に予告した次の一節。

社会的身体は(…)予期の織物のような存在である。

 「社会的身体」は、文中で何度も言い換えられているが、その中でもこの比喩はとりわけ含蓄があって「わかる人にはわかる」感じの表現になっている。これを説明してみよう。

 合わせて、具体例を挙げることも要求した(が、これがまた厄介だった)。

 まず、「織物」は比喩だ。これは何かが幾重にも組み合わされている様子を表しているのだろう。

 問題は「予期」だ。どこから出てきた?


 読解は、文中の情報を相互に結びつけることから始まる(そしてそれを構造化する=ゲシュタルト化する)。

 文中の他の表現と「予期」を結びつける。

 どんどん挙げて、と言って、何カ所も挙がるのは好ましいことだ。一人で何カ所も見つかるのは読解力が高い証拠だし、クラスで何カ所も挙がるのはそれだけ授業に対してクラス全体が活発であることを示している。

 例えば次のような一節。

  • あるコミュニケーション環境に適応するためには、さまざまな作法や慣習を身につけたり…
  • メディアを通じた特定の振る舞い方が学習されていく
  • そうした振る舞い一般化する
  • 「拡張された能力」が存在することを前提とする
  • 社会的に埋め込まれた「約束」になる

 これら「作法・慣習」「学習」「一般化」「前提」「約束」、あるいは「特定の」「文化的」などと「予期」は響き合っている。


 「予期」は「予期する」と動詞化できる。この場合、誰が何を「予期する」ことを言っているのか?


 がしかし、そもそも「予期」はもう一カ所、文中に登場するのだった。

(メディアは)自分が可能な振る舞いを変容させ、他人の振る舞いに対する予期を変容させ(る)

 もちろん「他人の振る舞い」だけでなく自分の振る舞いも「予期」される。それは「学習」され「一般化」した「約束」として「前提」されている「作法・慣習」だからだ。

 「社会的身体」とは、そのように「予期」された振る舞いをする存在なのだ。

 そうした振る舞いの例で挙げることにまた難渋した。ちっとも「振る舞い」でもなく「身体」でもない例を思い浮かべている者が多くて。

 「身体的」な「振る舞い」であり、「学習」された「文化的」「作法・慣習」の例を挙げることがそんなに難しいか?

 例えば、すれ違うときに会釈を交わし合うこと。相手に会釈をされたら、こちらもしないでいるのは居心地悪いと感じること。

 例えば日本家屋に上がるときには玄関で靴を脱ぐこと。外国人にはこの「予期」がはずれるかもしれない。

 これでは「メディア」っぽくないので、メディア的な例を挙げよう。みんながすぐに思い浮かべたのは、LINEの通知に既読スルーにならないよう、スタンプなりのリアクションを送ることだった。ただちにリアクションを返すという「振る舞い」が「予期」されているのだ。これはその前のEメールとか、さらに前の郵便による手紙では「予期」されない。

 あるいは画面の死角を見たいと思ったら思わず指でスクロールしてしまうこと。古いカーナビや多くのテレビ画面ではこれができないのがもどかしい。


 この段落の最初に生物学的身体は「もの」で、社会的身体は「言葉」だとある。「言葉」はわかりにくいが、実体を持たない概念として「観念」「イメージ」と並列していいのだろう。

 図らずも「言葉」と「予期の織物」が並ぶと、最近のホットな話題として連想されるものがある。LLM(大規模言語モデル)だ。

 これは生成AIが自然言語を操る仕組みのことだ。AIは、ある言葉の次に来る言葉(続く確率が高い言葉)を「予期」して、次々と言葉をつないでいく。たったそれだけで、自然な文章を書く。予期に反したら「不自然」になる。

 我々の振る舞いもほとんどは予期されたものであり、それに反すると不自然(挙動不審)と感じられる。

 生成AIが、我々の社会的身体と同じ「予期の織物」であるというのは奇妙でいて腑に落ちる認識だ。


 さて予告したのはもう一カ所。これもまた「社会的身体」について表現した一節だ。

今や、全ての身体は、象徴的な義体なのである。

 「義体」という言葉をこの世代の人が使うときは、間違いなく「攻殻機動隊」がイメージされている(3:40のカットがとりわけ有名)。

 上の劇場映画版第一作の監督をした押井守がインタビューで答えている。

 ここで1:14:00あたりから押井が喋っているのは、まるで上記の荻上の言葉そのものだ(2分くらい聞いてみて)。

 我々の身体はもはや単に血と肉と骨でできた生物的身体ではなく、ネットにつながって「電脳」を駆使し、半ばはネットの中でも生きている。それがメタバースであれ、「ポケモンGO」で一般化したAR(拡張現実)であれ、現実そのものであれ、我々はそこで生物的身体としてだけではなく、メディアを通じて世界と通じ合う「社会的身体」をもつ。

 「象徴的な」の解釈が若干揺れる。とりあえず二つ考えてみる。

 一つは、軽い、「比喩的な意味で」くらいのニュアンス。現実に身体に機械を埋め込んだ文字通りの「義体」ではなく、「義体」みたいなもの(=比喩的)、という意味での「義体」だ、と言っている。

 もう一つは、そうした身体の在り方が社会の在り方を「象徴している」ことを表す。「象徴」と言えば「具体物が抽象概念を表す」だから、ここでは「社会」とか「時代」とかを表していると言えればいい。

 どちらもそれほど違いはないが。たぶん荻上はそれほど厳密な意味を考えてはいない。


 「木を見る」ことに2時間かけた。それぞれに興味深い考察が必要な箇所ではあったが、一方で時間がかかりすぎるとも言える。

 これは荻上の文章の問題でもあるが、みんなの国語力の問題でもある。それは単に「読解力」とか「理解力」という問題だけではなく、どちらかというと「説明力」というか「問題の整理力」とでもいった問題だとも思う。

 上で解説したような解釈を、ほとんどすぐに「わかっていた」人も多いと思う。だがそれをそのように班員で共有することができたかといえばそうではないはずだ。いわば「議論力」が問われている。

 このあたりは今後の課題だな、と年度の終わりに心に留めておく。


視点を変える16 メディアがつくる身体5 「想起/記憶」

 「ソクラテスの文字批判」に続く一節はますます謎をはらんでいる。

文字によって私たちは…長文を「記憶」する必要もなく、いつでも膨大な情報へとアクセスでき、メディアを経由して「想起」することができる(もちろんこの「想起」は単なるインプットではなく、外部化された「記憶」の検索作業でもあるのだが。)

 考察対象としたのは括弧内。たぶんスッと意味が入ってくる言い回しではないはずだ。括弧内の内容というだけでなく、なぜそれを言う必要があるかが納得されなければならない。すなわち括弧の前の部分に対して、括弧内のことを付け加える必要あると感じたのだ。「もちろん」というくらいには、読者が「わかる」ことが期待されてもいる。だが言っておく必要もあると判断されてもいる。

 さてこの部分が「わからない」と感じるのはなぜか?

 わからないと感じるのはなぜか? と考えるのは「I was born」の読解の時にも試みた。説明とは誰か「わからない」と感じている人に対してするものだ。その「わからなさ」がどのようなものであるかがわからなければ、適切な説明はできない。

 この括弧内の記述の「わからなさ」は次の3点による、というのが授業者の分析。

  1. ここにある「ではなく」型の対比では、何と何が対比されているのか?
  2. 〈「想起」は単なるインプットではなく〉と言っているが、これはまず「想起はインプットである」ことを前提に「単に」それだけではない、と言っている。だが「想起」は「思い出す」のだから「インプット」ではなく「アウトプット」ではないか?
  3. 「想起」と「記憶」になぜ括弧がついているのか?

 これらの疑問が解消するように説明をする。


 まず1、対比されているのは何と何か?

 「インプット/検索作業」に見える。だとするとこの文は次の二文の合成であるということになる。

a「想起」はインプットである。

b「想起」は検索作業でもある。

 単にa「ではなく」bでもある、と言っているのだとすると、少なくともaでもあるのだ。

 そうして前の2の疑問に突き当たってしまう。


 これは文構造の把握が間違っている。対比されているのはそれではない。

 何か?


 対比されているのは「インプット/外部化された」だ。

 これが並列されて「記憶」に係っている。文脈を読むにはこの「係り受け」を正しく把握することが重要だ。

 この文の係り受けが把握しにくいのは荻上チキの文章が不親切だからであって、ここは「インプット(された)記憶」と「外部化された『記憶』」が並列なのだと、(された)を補って考える必要がある。

 それが把握できれば、この文は次の二つの文の合成であることがわかる。

A.想起とはインプットされた記憶の検索作業である。

B.「想起」とは外部化された「記憶」の検索作業でもある。

 つまり、脳内に覚えている記憶を検索して思い出す(A)のが普通の「想起」だが、それに加えて、文字で記録した情報(=「記憶」)を検索する(B)ことも「想起」だと言っているのだ。

 こうして文構造を把握してしまえば、言っていることは別に難解なことではない。暗記してあることでもメモしておいたことでも、必要な情報が取り出せれば事足りる。それを「想起」と言おうというのだ。

 解釈が済んでしまえば、きわめて日常的に経験する事例であって、何か特に、抽象度の高い、深遠な、複雑な話をしているわけではない。

 「わからない」のは、その内容が複雑だったり深遠だったりするからではなく、単に文構造の把握が未整理だからなのだ(それを把握させにくくしている荻上のせいでもある。が、これくらい読み取ってくれよ、と言いたいのだろう)。


 このことをなぜ言い添える必要があるかといえば、括弧の直前の「想起」がそういう意味なので、念のため一応ことわっておこう、という身振りを演じつつ、そのようなメディアを通じた「想起」概念の拡張に読者の注意を促したいからでもある。

 このあたりのニュアンスも読み取りたい。

視点を変える15 メディアがつくる身体4 ソクラテス・感情的メンテナンス

 さて、ここまでは一文要約、つまり「森を見る」から入ったが、「メディアが作る身体」では、「木を見る」の方にも考えるネタが豊富にある。

 荻上チキの文章は、「わかる人にはわかるだろ」といったレトリックに満ちている。クールで切れ味がいいが、嫌味だと感じる人がいるかもしれない。

 そういう箇所をいくつか取り上げて考えてみる。


 次の一節は?

ソクラテスはタモスの言葉を借りて、文字を「記憶の秘訣ではなく、想起の秘訣」であると批判したが…

 これはなぜ「批判」なのか?


 もう一つ、次の一節を考える。

「昔に返れ。」といった説教が、感情的メンテナンスの役には立っても、システム構築の代案としては常に無効だったように…。

 それぞれの一節を説明するのも、それぞれに難しい。

 ところでなぜこの二カ所を同時に問うか?

 関連付けられるのだ。

 両者はそれぞれどのような趣旨のことを言っていて、どのような関係があるか?


 後者は、具体例を出して説明せよ、という条件をつけた。

 評論文の一節がなんだか「わからない」と思っている時には、具体と抽象の対応が不明確であることが原因であることがある。抽象的な記述は、どのような具体例を想起すればいいかわからないと「わからない」と感ずるし、具体例が挙がっていても、それが示す抽象的な意味がわからなければ「わからない」。

 実はこの、具体例の一つがソクラテスなのだ。

 どういうことか?

 そして条件の「具体例」はソクラテス以外に、最近の社会状況からも出す、という条件。


 さてソクラテスの批判は、一体どういう趣旨の「批判」なのか?

 この言い方のわかりにくさの原因の一端は「秘訣」だ。「想起の秘訣」? 「記憶の秘訣」?


 「秘訣」などと言わず、「文字は記憶に役立つ」「文字は想起に役立つ」と言ってみる。そして前者なら良いのに、実際は後者なのが好ましくない、と言っている。 

 これはつまり、文字で記録すると、思い出すときには役立つから、むしろ覚えることの妨げになると言っているのだ。書いておけば良いと思うと、人は覚えておかなくなる。

 そして(ここから先は本文からは読み取れないはずなので調べてしまうと)、ソクラテスの文字批判は、そうして文字によって伝わる情報は、本物ではない、という趣旨につながる。曰く、真実は対話によってはじめて伝わるのであって、文字を読んでわかったような気になるのは人間を愚かにする、のだそうだ。

 さて、これがなぜもう一方の一節に適用されるか?


 「感情的メンテナンス」はまず、どういう人のどういう「感情」?


 この人は「説教する/される人」のどちら寄りに立つ人?

 しばらく話し合った後でみんなにこう問うと意見が二分したのは、こちらの狙い通りで、しめしめと思いつつも困ったものでもある。これはどちらかに一致すべき問いだ。 


 「昔に返れ」という言い方から「初心に返れ」という「お説教」を連想している人が各クラスにいるが、この言い換えは見当外れ。


 「感情的メンテナンス」を必要としている人とはどのような人か?

 これを的確に言えることが適切な理解の条件。

 「時代に乗り遅れている人」は悪くないが、この文脈に必要なくらいに、もうちょっと解像度高く。

 「新しいメディアを使いこなせないことに不安や劣等感を抱いている人」と言えればOK。


 つまりソクラテスは「『昔に返れ。』といった説教」をしているのだ。

 「秘訣」という言葉は、ソクラテスの時代には、文字がまだ広く一般人に普及してはいない「新しいメディア」であったという時代背景を表している。文字という新しいメディアを批判し、文字のない「昔に返れ」と言っているのだ。文字などを頼っていると、人は馬鹿になる、と。

 「昔に返れ」という説教が「説教」であるためには、それなりの一理がなければならない。だから、新しいメディアの登場によって起こるマイナスの面を挙げなければ「説教」として成立しない。

 だからソクラテスの文字批判にも一理ある。文字を使うと人は覚えなくなるし、真実が伝わらないことに無頓着になる。

 ソクラテスは文字を操る一部のエリートに脅威を感ずる人々の不安な「感情」を「メンテナンス」する。だが世界はその後、否応なく、文字を使った「記録・伝達システム」を構築していく。いったん手にしたメディアを人々は手放しはしない。


 さて最近の例では?

 最も想起しやすいスマホでもAIでもいい。そんなものを使っていると馬鹿になるという主張=「説教」は世の中にある。それは、そうした新しい技術を使えないで不安を感じている人を安心させる(=メンテナンス)。

 だがそんな主張は、新しいメディアを組み込んだ新しいシステムの構築には役に立たない。

 時代は否応なく新しいメディアを組み込んだシステムによって動いていく。


2026年1月27日火曜日

視点を変える14 メディアがつくる身体3 メディアとは?

 一文要約をすると全体はそれなりにつかめる。だがもちろん隅々までクリアに、というわけにはいくまい。

 例えば「メディア」とは何か?


 題名にもあるこの言葉は、それが何を指しているのかを明示しないまま2ページあまり論が展開していくから、それが指しているものが具体的にイメージされない人には、何を言っているかがわかりにくいはずだ。

 後半に入って、たとえばそれはPCだったりスマホ(ケータイ)を指しているらしいことがわかってくる。だから問題はスマホが普及したネット社会のことを言っているんだろうと見当はつく。

 だが文中で最初に「メディア」の例として挙がっているのは「そろばん・電卓・コンピューター」であり、「紙や電子媒体」であり、「文字や数字」だ。

 これらはどういう意味で「メディア」なのか?


 「メディア」という言葉を我々が日常で目にするのはこんな用例だ。

・ そのニュースは、あらゆるメディアで一斉に報じられた。

・広報として、各メディアにプレスリリースを送った。

・ 彼女は有名人として、頻繁にメディアに露出している。

・メディアの報道内容が、必ずしも真実であるとは限らない。

 この「メディア」に「そろばん」を代入することはできない。「そろばんに露出する」って何だ?


 ここではメディアという言葉がそもそもどのような概念であるかを確認しておく。

 メディアは「媒体」と訳されている。「媒介するもの」という意味だ。媒介されるものの多くは情報だ。マスメディアは情報源と大衆を媒介して情報を伝えるものだ。

 日常使用される「メディア」の大半がこのマスメディアのことなので、我々はつい「メディア」と聞くとテレビや本やインターネットを思い浮かべてしまう。

 だがそれでは「文字はメディアだ」というのが何のことなのかわからない。

 だがこの文中ではマスメディアも含む原義の・広義の「媒体」という意味で「メディア」という言葉を使っているのだと了解したうえで考えよう。


 「そろばん・電卓・コンピューター」がメディアというのはわかりにくい。これらは道具・ツールとでも呼ぶべきものではある。でもまあ計算しようとする人の意志、頭の働き、手の働きを計算結果に「媒介する」ものであるともいえる。


 「紙や電子媒体」は? そもそもそのまま「媒体」と言っている。

 こういう時は例を想起できるかどうが問われる。しかも、概念の層を揃えるのが肝心。

 「紙」は、そこに文字や図、絵などを書いて(描いて)情報を伝える(媒介する)ことができる。

 それに対応する「電子媒体」は?

 PCとかタブレットとかいうのは概念の層が揃っていない。

 メディアとしての紙には文字や図が書ける。電子媒体には電子情報が載せられる。となると…。

 古くはカセット・テープ、ビデオ・テープなどのテープ類。その後継としてのCDやDVDなどのディスク類。さらにはHDや、メモリスティックやSDカードなどのフラッシュメモリ類などが想起できればいい。


 では文字はどのような意味でメディアなのか?

 文字は人と人、過去と未来を媒介して、情報を伝えるものだから、確かに媒体だ。

 文中では文字と「数字」が並列されているが、これは的確な記述ではない。数字は文字の一種だから、「文字と数字」は「動物と犬」のような包含関係になっている。並列ではない。

 では、文字と並列されるのは、例えば何か?


 概念の「層」を揃えよう。「文字と数字」は層を混同している(大した問題ではないから荻上は看過しているが)。「数字」は、「数字以外の文字(漢字や平仮名、アルファベット)」と、同じ層に並ぶ。

 では、文字と並列されるのは、例えば何か?

 例えば話し合いの中であちこちで挙がっている「記号」も「文字」とは並列しない。文字は「記号」の一種だから、これも包含関係になってしまう。

記号>文字>数字

 「文字はメディアである」と言う場合、文字によって伝えられる情報とは言葉だ。人から人へ言葉を伝える手段として、文字と並んで日常的な場面で多用されるのは何か?


 そう考えれば自ずと想起されるのはだ。

 書いて伝えるか話して伝えるか。

 上の問いに、まず音声を想起できるできるかどうかは、「文字はメディアである」という命題を正しく把握できているかどうかの試金石となる。



視点を変える13 メディアがつくる身体2 スキーマとゲシュタルト

 ところで「メディアがつくる身体」は、「視点を変える」シリーズの流れで取り上げている。

 そうであることを納得するには、文型を揃えればいい。

 どんな文で表されるんだっけ?

視点が変わると世界観が変わる。

メディアが変わると身体観が変わる。

 どんなメディアを手にしているかで、世界の見え方は変わる。スマホが存在するのとしないとでは社会に対する振る舞い方は変わる。それは我々の世界観が変わることを意味する。


 さらに「視点を変える」シリーズということは、スキーマとゲシュタルトだ。何がスキーマ? ゲシュタルト?


 これも文型を揃えればいい。

スキーマがゲシュタルトをつくる。

メディアが社会的身体をつくる。

 題名がそのままそれを表している。

 つまりメディアによってつくられる「身体」がゲシュタルトだ。

 それはメディアのあり方に応じてそのあり方を変える。

スキーマが変わればゲシュタルトが変わる。

メディアが進歩すると身体イメージが変わる。

 次のような対応であることは以上のような文型の比較によって明らかだ。

視点=スキーマ=メディア

世界観=ゲシュタルト=社会的身体


 一方、「共に生きる」であるともいえる。

 どういうふうに言えばそうだと思えるか?


 例えば「共鳴し引き出される力」を思い出そう。

 能力というのは私一人が持っているものというより、周囲の人々との共鳴によって引き出されるものだった。

 同じように、この文章では、私の持っている能力は、メディアを使うことで、すなわち他人とのコミュニケーションによって形成されている。「社会的身体」とはそのような「能力」を持ったものだ。

 あるいは「ほんとうの〈わたし〉とは?」もいい。

 〈わたし〉とは完結した存在ではなく、他者とのつながりの中でさまざまな側面を持ったものとして存在している。そうした〈私〉を平野啓一郎は「分人」という概念で説明する。

 同様に、〈私〉は、メディアを介して世界・社会・他者とつながった存在だ。

 つまり「分人=社会的身体」なのだ。


視点を変える12 メディアがつくる身体1 一文要約

 「メディアがつくる身体」を読む。

 「鳥の眼と虫の眼」は「一文要約」や「問いを立てる」といったメソッドがまるで使えない文章だった。それでもう一つの常套手段「対比」をとっかかりとして文章を探ったのだが、それはそれで、だから簡単に読めるようになったとも言い難い。あれほど多様な対比が複雑に入り組んだ文章は珍しい。

 さて「メディアがつくる身体」はどうか。

 「鳥の眼と虫の眼」では歯が立たなかった「一文要約」は、こちらでは有効だ。

 一文で要約するというのは、その文章の主題材と結論を端的に、簡潔に組み合わせることを意味する。

 となると考えられる主語は何か?


 なんのことはない、候補となるのはまず「メディア」か「身体」だ。この安易な発想は有効だろうか?

 それぞれを主語とする一文を作ってみよう。

メディアは、その進歩にともなって人々の身体イメージを変える。

身体は人々が手にするメディアによって、そのあり方(機能・イメージ)を変える。

 ほとんど題名を文にしただけだが、確かにそういうことを言っている文章だ。

 試みにAIに依頼してみる。「メディア」「身体」以外の主語も考えるようにと条件を付けて、10個ずつ。


ChatGPT

1. メディアは、人々の欲望を拡張しながら社会的身体の在り方を組み替えていく存在である。

2. 社会的身体とは、メディアを通じて形成される学習された能力と期待の集合である。

3. 新しいメディアの登場は、生物的身体ではなく社会的に構築された身体像を変容させる契機となる。

4. 人々は、メディアによって外部化・拡張された能力を前提とする社会に適応して生きている。

5. 社会は、特定のメディアを使いこなす身体能力を人々に当然のものとして要求する。

6. メディアの利用は、一度社会に埋め込まれると後戻りできない約束として固定化される。

7. 身体の拡張とは、生物的進化ではなく振る舞いや期待や制度の変化として生じる現象である。

8. 現代の身体は、メディアによって機能を付加された象徴的な義体として存在している。

9. メディアをめぐる不安は、身体や精神が変えられるという想像を繰り返し呼び起こしてきた。

10. メディアが更新するものは、人々の行為だけでなく身体や世界に関するイメージそのものである。


Gemini

1. メディアは、人々の「社会的身体」を絶えず解体し構築する。

2. 社会的身体は、メディアを通じて獲得される文化的な身体イメージを指す。

3. 現代社会は、メディアによって拡張された身体能力を人々の前提とする。

4. 人間は、新しいメディアを使いこなすことで自らの身体機能を外部化していく。

5. 新しいメディアの登場は、社会が個人に期待する振る舞いや作法を変容させる。

6. 一度社会に埋め込まれたメディアの機能は、もはや容易に手放せない。

7. 私たちの身体は、メディアを伴うことで象徴的な「義体」へと進化する。

8. 社会制度の更新は、メディアによる身体能力の拡張を前提に進行する。

9. メディアの定着は、単なる欲望の充足にとどまらず新たな欲望を創出する。

10. 技術環境への適応は、私たちの世界観や社会観をその都度アップデートする。

 いやはや時間をかければこれくらいやれるだろうが、これを一瞬で出力してくるから敵わない。

 それぞれ、原文の微妙に違った断面を切り取って見せている。いちいち、うん、そういうこと言ってるよなあ、と思う。


 授業では「二文要約」を課したが、上記のAI要約のどれか二つを、なるべく内容の重複を避けて取りあげればよさそうだ。


 さて「対比」はどうか。

 主要な対比が「生物的身体/社会的身体」であることはすぐわかる。しかも「ではなく」型の対比だ。ということは「社会的身体」がどういうものかを把握することが求められているわけだ。

 それを説明するために、文中から関連する言葉をあれこれと挙げた。

 イメージ・観念・機能・能力・振る舞い…(「予期の織物」「象徴的な義体」も挙がるが、この二つは集中的に考えたい表現なので後述する。)

 これらをすべて使って説明する。

 「生物的身体」が血や肉や骨でできた物理的(生物的と言いながら)であるのに対し、「社会的身体」は「観念」的に「イメージ」されたものだ。それは、どういうはたらきをするか(機能)、何ができるか(能力)、どのように振る舞うかによって把握(イメージ)される。

 そしてそれはメディアによって社会に接続し、コミュニケーションによって形成される。


2026年1月17日土曜日

視点を変える10 鳥の眼と虫の眼2 対比

 評論を読むためのメソッドとして今まで意識して実践したのは、例えば「一文要約」「問いを立てる」だった。

 一文要約は、その文章の最も重要なエッセンスを単文で表現しようとすることで、論理を把握することに頭を使うテクニックだ。一文にしておくと取り回しが楽なので、それを「使う」にも便利だ。

 単文とは主語述語の組み合わせが一つであるような文のこと(重文や複文は二つ以上ある)。

 その単文における「主語」とはその文章の主題・モチーフであり、「述語」は結論だ。その文章は「何が―どうだ」と言っているのかを簡潔に表現する。そうしようとすることで頭を整理する。

 「問いを立てる」は、その結論が、どのような問題意識から導かれたものかを明らかにしようというものだ。「どうだ」という結論だけを言われても、だから何? という印象にしかならない場合もある。その時、「問い」が何であるかを考えることで、筆者の思考をたどることができる。


 さてこれらのメソッドを使ってみよう、と考えると、それが「鳥の眼と虫の眼」にはまるで使えないことがわかる。

 何を主語として取り立てるべきかも、述語が何かも、まるで見当がつかない。

 終わりの一文「つつましい便りを送ることができたらと願う」が何のことを言っているのか、まるでわからないのだ。これが結論かどうかもわからない。その前あたりの終盤も、どこかを結論として認定できそうな感触がない。

 同様に主語にすべき何事もわからない。「主語にすべき」とは、文中で明示されているか、結論から遡って設定されるかだが、それらしきものが明示もされていないし、結論もわからないから、取り上げようもない。

 そして結論がわからないから「問いを立てる」こともできない。


 ではどうするか。ここはもう一つ、ここまで最も頻繁に実践してきたメソッドを想起しなくてはならない。

 そう「対比」だ。


 ところが考え始めるとすぐに一筋縄ではいかないことがわかってくる。

 例えば題名から「鳥の眼/虫の眼」という対比がありそうだと見当はつくが、これが文中で登場するのは半ば過ぎだ。

 まずはサン・テクジュペリ「人間の土地」から次の対比が挙がる。

主人公/不帰順族・モール人

 その次は「大草原の~」から次の対比。

白人/黒人・先住民

 「オリエンタリズム」からは「西洋/東洋」の対比が挙げられる。「東洋」とは西洋から見た「東」という意味だから、アジアだけでなく中近東を含む地域・文化圏を指している。

西洋/東洋

 このうち

白人/黒人・先住民

西洋/東洋

は同じ軸上にあると言っていい。だがこれは最初の「主人公/」と同じではない。

 3ページ目に次の対比がある。

主人公/異端者

 「主人公/不帰順族」の対比は、これと同じともいえるが、「西洋/東洋」の対比と同じともいえる。だが、「主人公/異端者」と「西洋/東洋」の対比はまるで違った対比だ。

 なぜ?


 「白人/黒人」と「西洋/東洋」が同じ対比軸だと言えるのは、両者を並べたときに、左右は対応していて、それを入れ替えることはできないからだ。

 だが「主人公/異端者」と「西洋/東洋」は左右を入れ替えて対応させることもできる。「主人公」は「西洋」でも「東洋」でも、時によってどちらにも対応しうる。

 「主人公/異端者」と「西洋/東洋」の対比がどう違うかを端的に表現するのは難しい。がこういうときにこそ分析力や表現力を総動員した国語力が問われる。

 たとえばこんなふう。

「主人公/異端者」は視点の違いを示す主観の対比

「西洋/東洋」は対象の対立を示す客観的な対比

 最初の「主人公/不帰順族」の対比は、二つの対比が複合している。


 「大草原の~」からは次の対比も抽出できる。

子ども/大人

 だがこの「子ども/大人」は文中では二つの例を指している。

子どもの頃の松村さん/大人になってからの松村さん

ローラ/父親

 この二つの対比は、同じではない。

 なおかつ、これは上の対比のどれとも同じではない。


 一つの軸上に並んでいるわけではないいくつもの対比が次々と登場する。

 例えば次の二つの対比はどうか。

主人公/異端者

 英雄/普通の人

 これらはまたしても同一軸上には並べられない。

 「主人公」と「英雄」は同じ側に置かれそうにも感じられるが、「異端者」と「普通の人」は対応しそうな気配はない。

 例えば次の一節を参照してみよう。

その主人公はでも、いつも英雄だったわけではない。それはつつましい普通の人でもあった。

 「主人公」がある時は「英雄」であり、ある時は「普通の人」であるとすれば、軸の左右は時によって入れ替わってしまうということだ。


 後半、「近年の人類学」に話題が及ぶとようやく「鳥の眼/虫の眼」が登場する。

 その直前に、「征服者/訪問者」という対比も文中から見つかる。

 これはなかなかに解釈の難しい対比だ。

 英雄/普通の人

征服者/訪問者

 は並べられそうな感触がある。が「普通の人」と「訪問者」は対応しそうだが「英雄」と「征服者」には反対の印象がある。いや、共通性が見出せないこともないのだが。「反対」と見なすには共通の土俵が必要でもある。

 また「白人/黒人」と並べてみると、「黒人奴隷」に対する「白人」は「征服者」だ。では「黒人」は「訪問者」なのか?

 そんなことはありえない。「訪問者」とはアリスのことだ。アメリカ人である白人のアリスと「黒人」をひとくくりにする論理は見出せない。

 これは対比の軸が違っているということだ。


 対比の多くは「対立」であり、しかもその多くは否定/肯定の対比だ。ここまでに挙げたいくつもの対比のうち、これにあてはまるのは「征服者/訪問者」だけだ。「訪問者」であるアリスは肯定的に描かれている。

 では「征服者」とは誰か?

 「鳥/虫」軸を語る人類学のくだりに次の一節がある。

空からの視線は支配者の視線に通じる

 「支配者」は「征服者」の言い換えだろう。どちらも否定的な表現に見える。

 それに比べて「虫」の視点からは「細やかな機微」を捉えることができる。これは肯定的だ。そしてこの視点を持ったものが「訪問者」だろう。

 だがこのくだり、表現の、それこそ「細やかな機微」を感じ取る必要がある。

 「鳥瞰図への批判と虫の眼への接近」は左辺を否定的に捉える対比かと一瞬思えるが、続く一節は「それはきっと、ある意味で正しいのだろう。」という、微妙な保留のニュアンスがある。「ある意味で」という限定にしろ「きっと~だろう」という推量形にしろ。

 そして空から見ている人として登場するサン・テグジュペリはこの文章で「批判」されているようには思えない。「空からの視線は支配者の視線に通じる」に続く文の冒頭は「だが」だ。

だがサン・テグジュペリは、上空から見るともしびについても書いていた。

 ここが逆接になるのは、どのような方向で論を進めたいということの表れなのか?


 明らかにこの文章の最重要プレーヤーはサン・テグジュペリとアリスだ。

 二人は、この文章の論理の中でどういう位置付けにあるのか?

 二人の存在を通して、どのようなメッセージを伝えているのか?


 なんだか「鳥の眼と虫の眼」の本文のように、問題の投げかけばかりしている文章になってしまった。

 あとは各自、小論文執筆、健闘を期待します。


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