2026年4月17日金曜日

思考の誕生 3 残酷さ

  1. 「歴史的な役割」とは何か?
  2. 「別の主張」とはどのような「主張」か?
  3. 「残酷」とはどのような意味か?

 三つの問いを関係づけて通観する。

 とりあえずは文脈の整理。

 三つを結びつけるのは「自分で考えることが大事」という主張だ。それぞれをこの主張に関係づけよう。


 まず1。

 「自分で考えることが大事」という主張の「歴史的な役割」が終わったということは、かつて「歴史的な役割」があったということだ。

 それが何かを考えるためには、昨年から何度も使い回した言葉を想起したい。

 何か?


 もちろん語註にもある「ロマン主義」に結びつけて考えるべきではあるが、勘の良い人はこれが「近代」の問題だと気づくはずだ。

 ああ、またしても。

 この言葉が使えれば「歴史的な役割」について説明するのが随分楽になるはずだ。

 この歴史的な推移を前回の対比にあてはめてみる。

他人から教わる/自分で考える/他人とともに考える

 これはいわば

前近代/近代/現代=ポストモダン

ということになる。

 近代以前、人は属する集団や宗教によって規定される存在だった。「他人から」というのは、そうした共同体の中に生きることを指す。

 近代はそうしたさまざまな「くびき」から解放された「個人」が生まれた…といった表現は去年読んだ文章群で繰り返し使い回された。

 現代はそうした近代への反省が求められている。

 最初に読んだ「自立」シリーズでは、他人に依存しない「個人」を良しとする近代的「個人」観から、互いに緩やかに依存し合う社会のイメージが語られていた。

 この図式から「歴史的な役割」を捉える。


 2「別の主張」とは「自分で考えることが大事」という主張に対立する主張なのだと考えたくなる。

 そうなるとそれはこうした主張を否定する蓮實の主張と同じ側にいることになる。

 そうではない。蓮實は「自分で考えることが大事」もろとも「別の主張」も否定している。「別の主張」とは「自分で考えることは大事」という、表に表れた主張の裏に隠れた、いわばその人の本音とも言うべき「主張」だ。

 そしてその本音とは、「自分で考えること」の称揚の「歴史的な役割」が終わってしまったことを認めたくない、という欲求でもある。

 なぜ認めたくない?


 3。

 「思考の誕生」は「他人と考える」ことによって起こると言っているのだから、それは「自分で考えること」(つまり上の「役割」「主張」)を否定している。

 それが「残酷」だと言っているのだから、上の「主張」は、その「残酷」さを避けたい、すなわち「歴史的な役割」が終わってしまったことを認めたくないという欲求に基づいている。

 それはどんな「残酷」さか?


 それぞれを10字前後で表現してみよう。意見を交換するためには、表現が共有されていることが望ましい。もちろん一度で適切な表現ができるわけではないから、意見の交換の中で表現を修正し、精錬させていく。

 どう表現したらいいか?


 1「歴史的な役割」は?

 「近代」は1年時の様々な読解で何度も使った概念だ。今回もこれを使って表現する。もう何度も目にした表現だ。

 「近代における『個人』の確立(成立・誕生…)」とでも言っておこう。


 3「残酷」は?

 「思考の誕生」は「自分で考えることなどたかが知れている」ことを認めるところに成立するのだから、それは確かに「残酷」だ。

 これをどう言い表すか?

 今年はC組O君の班の表現が秀逸だった。いわく「自分がオンリーワンじゃなくなる」。なるほど、これはいい。

 「自分で考えること」の擁護とは、その「残酷」さに直面したくないという動機に基づいている。

 「別の主張」とはそうした情動・動機に基づいている。


 2「別の主張」は?

 「自分で考えることが大事」と言いたい人は、実は「別の主張」をしたいことに無自覚だと蓮實は言っている。

 おそらく最も微妙な工夫が必要になるのはこの「別の主張」をどう表現するかだ。この問題の山場は、ここに腑に落ちる表現を見つけることだ。

 各クラスでの発表の多くは、「別の主張」=蓮實重彦の主張になってしまってるか、「自分で考えることは大事」に似過ぎていて、それじゃあもう言葉が見つかっているじゃん、意識できているじゃん、になってしまっているかだった。

 もしくは「主張」と言うに値するような命題の形になっていないか。

 3年前のとある生徒の表現が秀逸だったので紹介したい。つまりここに隠れた本音は「俺ってすげえ」なのだ。

 これで関係づけられる。

 ただこれでは「主張」っぽくないので、もうちょっと一般論ふうに言い直そう。

 どういえばいいか?


 今年の授業ではB組W君の表現がうまかった。

人は皆それぞれ唯一性をもった存在だ。

 授業者が用意していたのは次のような表現。

人にはそれぞれ独自の価値がある。

 これは「個人の確立」から導き出される命題であり、それが「自分で考えることは大事だ」という形で語られる。

 この「人」という一般名詞の陰に実は「私」が隠れている。

 つまり「自分で考えることは大事」という主張は実は「私には独自の価値がある」と信じたい欲求の表れだと蓮實は言っているのだ。

 とすれば「思考の誕生」は確かに「残酷」だ。「俺ってすげえ」と思いたいのに、お前の考えなんか大したことはないと言われて、「オンリーワンの俺」などというものが幻想でしかないことを認めなければならないのだから。

 「思考の誕生」はその「残酷」さを引き受けることとひき換えに手にできる体験なのだ。


2026年4月12日日曜日

思考の誕生 2 問い三つ

 蓮實が「自分で考えることを重要視する」ことを否定する論理はどのようなものなのか。そうした核心に迫る前に、細部を取り上げて少々読解する。


 「自分で考えることは大事」という主張を否定する蓮實は、しかしその論拠を明確には語らない。

 例えば次の一節。

「自分ひとりで考え」たことなど「たかが知れている」というのは、まぎれもない事実です。人間が社会的かつ歴史的な存在である以上、それは当然でしょう。

 「まぎれもない事実」とか「当然」というばかりで、なぜそうなのかを言わない。

 「社会的かつ歴史的な存在である以上」が論拠なのだが、これはどういうことか?


 「歴史的」は「自分で考えることは大事」を否定する論拠となっていて、「社会的」は「他人とともに考える」を肯定する根拠になっている。

 人間は一人で生きているわけではない。生きられはしない。「社会的」というのはそうした現実のことだ。

 同時に、今生きている我々は過去の人たちが作ってきた歴史の上に生きているし、その歴史の上に次の世代も生きる。

 いわば共時的な広がりと通時的な広がりの中に我々は存在している。

 「社会的かつ歴史的な存在である以上」はそうした「事実」の指摘だ。

 にもかかわらず、と蓮實は問いかける。

にもかかわらず、なお「自分で考えること」の重要さが改めて指摘されたりするのは、どうしてなのでしょうか。

 どうしてだと蓮實は考えているのか?

 細部から考えていく。


あたかも、この宇宙に自分一人しか存在していないかのような孤独な思考を「自分で考えること」として擁護する姿勢は、いかにもロマン主義的なものだというほかはありません。そんな姿勢の歴史的な役割は、遥か以前に終わっているはずなのです。

 この一節の「歴史的な役割」とは何か?


 この問いかけを解決することなくさらに次の問い。

 続く一節。

それは、そう主張する者の歴史的な無知をあからさまに示しています。あるいは、その指摘で何か別の主張をしたいと思いながら、それにふさわしい言葉が見当たらないのか、それとも別の主張をしたがっている「自分」自身に無意識なだけなのかもしれません。

 この一節の「別の主張」とは何か?

 「別の」なんだから、「自分で考えることが大事」以外なら何でもありか?

 そうではない。蓮實はここに入る「主張」がどのようなものかを想定しているはずだ。

 それはどんな「主張」?

 この問いはたぶんかなり難しい。


 さらにもう一つ、文末近くの次の一節についても問う。

思考の誕生に立ち会うことは、貴重で、残酷な体験ともなるでしょう。あなたの知性は、その希薄さと残酷さへの感性をはぐくむために費やされねばなりません。

 この一節で「思考の誕生に立ち会うこと」はなぜ「残酷」と形容されているのか? あるいはどのような意味で「残酷」なのか?


 以上三つの問いは、相互に関係づけて考えることでそれぞれが明確になる。

 どういうふうに関連しているのか?



2026年4月8日水曜日

思考の誕生 1 具体的な体験

 今年度最初に読むのは蓮實重彦「思考の誕生」。

 こんな、教科書の後ろの方にある文章を最初に読ませたいと思うのにはそれなりにわけがある。

 教科書の最初の文章は、年度当初にふさわしいメッセージ性をもったものが意図的に置かれている。昨年の教科書冒頭の「木を見る、森を見る」は、いろいろな視点から世界を見てみようという、高校1年生に向けたメッセージだった。読んだのは年度のすっかり後半になってからだったが。

 ところがこの教科書冒頭の「アイオワの玉葱」に、これからこの教科を学ぶ高校生へのメッセージがあるのかどうか、よくわからない。後でこの授業でも読むつもりではあるのだが、論旨は言語論だから「視点を変える」シリーズではある。メッセージ? まあメッセージは受け手の問題でもあるから、全ての文章にメッセージを見出すことは可能ではあるのだが。

 というわけで「思考の誕生」を最初に読むのは、そういうメッセージのある文章だからでもある。

 どんなメッセージ?


 蓮實は「自分で考えることが大事」という言説が世の中に蔓延っているが、そんなのは歴史的な無知の表れで、危険な兆候だ、という。

 これはいったいどんなメッセージなのか?


 この文章が書かれたのは蓮實重彦が東大総長だったときで、これは東大新入生へ向けたものだ。文中の「教育の場」とか「在学中」とかいう言葉は東大生が送る東大ライフを想定している。

 そこで総長は「自分で考えること」などたかがしれている、と言う。

 東大生にこれを言うことの意味は、よくよく噛みしめるべきだ。東大生よ、お前たちが自分の頭で考えたことなどたかがしれていると自覚しなさい、というのだ。手厳しい。

 ではどうしろと?


 「自分で考える」ことは何と対比されているか? 「自分で考える」がダメなら何が良いのか?

 肯定/否定 の対比で表すと?

自分で考える/他人から教わる

 これはつまり「謙虚のススメ」なのか?

 だが単にそんなことを若者に言っても耳にタコができているような聞き飽きたお説教にしか感じられまい。

 蓮實の言っているのはそれとはちょっと違う。

「他人の考え」を「自分の考え」としてうけいれることではありません。

とはっきり文中で言っている。

 蓮實の言っているのは次のように表現されるべき対比だ。

自分ひとりで考える/他人とともに考える


 蓮實の言っているのは「他人とともに考える」ことのススメであり、それは「具体的な体験」なのだと言う。

 こうしたメッセージは、当然授業者もまた東大生ならぬ君たちにも送りたい。1年生ならぬ2年生にも、また。

 授業は、教師の言うことを聞いて、それを覚えたり理解したりする場ではない。

 といって自分一人で考える場でもない。

 受け身でなく能動的に「考える」ことを日頃から奨めてはいるが、それは蓮實の言う抽象的なお題目ではなく、隣の席の級友と一緒に作り上げる具体的「体験」だ、と言っているのである。

 例えば授業とはそれが期待される「場」だ。


 メッセージとして、これまで読んだ文章で最も似ているのはどれか?

 共通する論旨をふくんでいるものとして連想されるのはどれか?


 そう思っていた人もいたと思うが、授業者は、この文章の趣旨はまるで「共鳴し引き出される力」だなあと思っていた。

 似ていることを示すには、両者の論旨を同じ構文で示せば良い。

 なるべくシンプルで互換性の見やすい文。

 すぐに次のような文が想起できれば上出来。

  • 人の能力は他人との共鳴によって引き出される。
  • 思考は他人との共同作業によって誕生する。


 そのために必要な姿勢とは何か?

 ここがこの文章のミソなのだが、それが何かわかるだろうか?


2026年4月6日月曜日

新年度 総合現代文

 2026年の授業を始める。

 科目名は「総合現代文」。文科省の学習指導要領にはない科目で、学校が独自に設定した科目だ。

 教科書は筑摩書房の「論理国語」と「文学国語」。これが文科省の定める科目名なのだが、両方を履修させるのは「標準単位数」に反するのでできない。といってどちらかだけを履修させるのは惜しい。そこで、本校では両方の教科書を使った独自科目にしたわけだ。

 昨年度は「現代の国語」という科目を「現国」、「言語文化」を「言文=ゲンブン」という略称で呼んでいたはず。だが、授業者にとって「ゲンブン」とは2022年からの新教育課程になるまで長らく「現代文」を指していた。昨年は「ゲンブン」といえば「言文」、つまりは「古典」のことだったのに、今年はまた「ゲンブン」が「総合現代文」のことを指し、「古典」はそのまま「コテン」と呼ばれることになるのだ。

 そして1年生との間では「ゲンブン」が指す科目は違ったものになってしまう。

 まぎらわしい。


 ブログ名はそのままに、これから2年間は「現代文」について書き綴っていく。


 去年の授業について少々。

 3月の生徒総会で「熟議をこらす」ことと「円滑な議事進行」の相克について話した。

 この二つは「時間がかかる/かからない」という反対の方向性をもっている。だがどちらかだけが大事なわけではない。どちらも大事だ。

 本当の対立は「熟議をこらす/拙速に結論を出す・議会が形骸化している」であり、「円滑な議事進行/停滞・混乱した議事進行」だ。

 だから「熟議をこらす」と「円滑な議事進行」は反対の方向性なのにどちらも大事なのだ。

 授業でも似たようなジレンマを感じていた。

 次々と文章を読んで、さまざまな問題を考えたい。

 だがじっくりと考えたい。

 時間のかかり方という点では相反する方向性をもった二つの希望だ。

 もちろん両方大事なのだから、どちらかといわずバランスをとるしかないのだが、せめてみんなには次のことを期待したい。

 授業中に対峙するいくつもの問題点について、常に「じっくり考え」てはきたものの、時間がいつも足りなかった。

 そういうとき、常にその時点での、自分なりの結論が表現できるところまでまとめきることにこだわってほしい。毎度毎度、最後のところで誰かが(授業者が)結論を言って終わってしまうことに流されないでほしい。

 ひとつひとつの考察を、次の考察に使う武器(スキーマ)として、確実に装備していってほしい。


2026年3月4日水曜日

視点を変える23 人工知能3 言語が見せる世界

 さて「物語」と言えば、もう一つの文章、野矢茂樹「言語が見せる世界」と接続する。

 この文章の「問い」は何か?


 「相貌とは何か?」「概念とは何か?」などの問いも文中には明示されているし、これらはもちろん重要な問いではある。「プロトタイプ」も気になる。

 だがそれらの問いがどこから生じたかと言えばこれだ。

我々は世界をどのように見ているか?

 この答えは?


通常は「物語」において見ている。

というのが端的な答えだ。

 とすると、これは松田の論と共通していることが明らかだ。人間が椅子に座れるのは「椅子に座る」という行為を「物語」として生きているからだ、というのが松田の主張だった。

 そしてその「物語」は身体によって成立する、というのだが、野矢茂樹は「物語」を論ずるのに身体を持ち出さない。言葉がすでに「物語」を携えているのだ。

 当然だ。言葉は単体で宙に浮いているわけではなく、前後の文脈の中で使われ、理解される。それはすなわち「物語」の中にあるということだ。

 となればますます現在のAIは「物語」において「椅子に座る」ことを捉えるに違いない。

 やはり人工知能は椅子に座れるのである。


 さて、ここまでの「視点を変える」の流れに、この二つの文章も位置付けよう。

 「言語が見せる世界」という題名は、もうそのままおなじみのソシュール言語学だ。我々は言葉によって世界を認識する。

 ここでは、言葉はスキーマでありメディアだった。

 一方「人工知能はなぜ椅子に座れないのか」には次のような文章がある。

例えば、…初めてこの世界と対峙することになる赤ちゃんは、この世界を知るために、…彼ら(彼女ら)は、手足をばたつかせながら、「周囲の環境に何があるか」を発見するでしょう。それと同時に、「自分自身の身体がどのようなものであるか」を発見するでしょう。/無限定な空間において、私たちは、周囲の環境という「場」と、自分自身の身体を基準とする「自己」とを、順次、理解していくのです。

 これはつまり、身体はメディアであると言っているのだ。つまり身体も言語同様スキーマでありフィルター(フィルターバブルにおける)だ。

 そういえば「言語が見せる世界」と「メディアがつくる身体」は文構造が同じだ。つまりそっくりパラフレーズできる。言語が(メディアが)見せる(つくる)のは、世界「観」のことであり、身体「観」のことだ。

 身体「観」ということはゲシュタルトでもある。

 スキーマでもありゲシュタルトでもあるというのは、思い出してほしい、「地図」もそうだった。もちろん地図もメディアだった。


 我々は言語を通して、身体を通して、地図を通して、メディアを通して世界を認識する。それぞれの「世界」は、それぞれのスキーマによって様々だ。そのゲシュタルトがそれぞれの身体「観」であり、世界「観」であり、それを表現した地図なのだ。 

 スキーマがゲシュタルトをつくり、できたゲシュタルトはスキーマとして機能する。スキーマとゲシュタルトは循環する。

 授業を通して文章を理解するとは、つまりゲシュタルトが生成された(ダルメシアン犬が見えた)ということだ。

 それが次に読む文章を理解させるスキーマとして機能する。


視点を変える22 人工知能2 反論

 「人工知能はなぜ椅子に座れないのか」という問いは「座れない」ことが前提されている。だがその前提には素朴な疑問が生ずる。

 ロボットに、椅子に座るようプログラムする。姿勢制御などの工学的な課題がクリアできるならば、ロボットは椅子に座れるだろう。工場のラインなどでロボットアームが複雑な作業をするのはもう数十年前から可能だった。

 これは「座れる」ことにはならないのか?

 この疑問に松田は、それは座れていることにはならない、と答えるだろう。だがどういう理屈で松田はこの実例に反論するか?


 ロボットが自主的・主体的・能動的に座っているわけではないという反論は無効だ。

 この例では、その行為が自主的であるかどうかを問題にはしていない。ロボットにはそもそも座りたいなどという動機はない。人間に対して「座って」と言ってその人が座るとしても、それは「自主的」ではない。

 問いは「なぜ座らないのか?」ではなく「座れないのか?」だ。

 では?


 「コミュニケーション」から話を始め、「意味」について考察する本論の展開では、単なる行為の実行ではなく、「座らせよう」という「意図」がロボットに理解できるかどうかが問われている。

 そうしてみると、やはりロボットは「座れる」ように思える。「コミュニケーション」とは、こちらの送った信号によって相手の振る舞いが変化することを言うのだと本文に書いてある。座るようにプログラムしてロボットが座ったら、それはコミュニケーションが成立していることになるはずだ。振る舞いが変わったのだから、「意図」は伝わっている。

 なのに松田はなぜ「できない」と言うのか?


 それはAI自らが「意図」して座ろうとしているのではないからだ、という反論は有効か?


 だが本人に「意図」があるかどうかが、なぜわかるのだろう?

 「座る」という動作ができてしまえば、それは「意図」があったということなのではないか? 彼は座ったが彼には座る意図はない、などということがなぜ言えるのか?


 だからここは本当にAIに「できない」例を挙げればいいのだ。

 例えば授業で挙がった例では、面接会場でロボットに椅子に座るよう促してロボットは座ったが、面接官の方を正しく向いていなかった、などという例。これはうまい。「適切に座る」ことはできない。自然さの判断ができない。

 では「面接官の方を向いて」と指示の中に記述すればできるのか?

 それはできるかもしれない。だが、椅子が複数ある部屋で「どれでもいいから座って」は難しいかもしれない。

 円筒形のスツールやソファしかない部屋で「椅子に座って」も難しいかもしれない。

 あるいは「適当にどこか座ってて」も。


 こういう例が挙がれば、動作として「座る」ことができるロボットでも、指示や命令によって「座る」ことができない、つまり命令の意味が理解できない場合が示せる。


 さて、さらに反論。今度は松田に対して。

 松田の論の趣旨がわかったとして、それでもやはり現在のAIは椅子に座れるのでは?

 この反論は「物語」とは何か? という問題に関わっている。

 「椅子に座る」ことが理解できるということは「椅子に座る」という「物語」を生きることができるということだ、それには身体が必要だ、というのが松田の論の核心だ。

 「物語」?


 物語と言えば、今年読んだ文章では「大きな物語」を想起したい。

 「大きな」は、多くの人に共有されている、という意味だが、「物語」とは何か? 

 それは言ってみれば、複数の要素がつながっている状態であり、それが、よくあるパターンとして学習されているということだ。典型的な連続性がそこに見られるということだ。次の展開が予想できる状態。

 ここから連想したいのは「メディアがつくる身体」の「予期の織物」だ。

 この考察はここ→にも書いた。

 「予期」とは「振る舞い」に対する「予期」だ。

(メディアは)自分が可能な振る舞いを変容させ、他人の振る舞いに対する予期を変容させ(る)

 こういうときにはこう振る舞うものだ、という「予期」が働くのが「社会的身体」であり、これは昨今の生成AIのLLM(大規模言語モデル)の仕組みと同じだ。

 これはAIが「物語」を理解しているということであり、むしろそれは身体を通してというより言葉(や画像)を通して学習されているのかもしれない。

 松田は、川原の岩に腰を下ろすのは身体があるからだと言う。これはAIにはそれができないという前提で挙げられた例だ。

 本当にそうなのか?

 いや「川原の岩に腰を下ろして」という文章(言葉)を学習したAIは、岩を座れるものとして認識することができるに違いない。

 現在のAIは、身体にとっての必要性を介することなく「物語」を理解できるはずだ。


 「振る舞いを変容させる」などというフレーズがあると、もっと時間があれば「メディアがつくる身体」と「人工知能はなぜ椅子に座れないのか」を読み比べよ、と投げ出してしまうこともできたのに、と終わりが迫った年度末の授業の余裕の無さが残念ではある。


視点を変える21 人工知能1 読解メソッド

 松田雄馬「人工知能はなぜ椅子に座れないのか」は、いくらかカットしたものが「ちくま評論入門」にも収録されている。これを野矢茂樹「言語が見せる世界」と読み比べる。松田は理系の研究者、野矢は哲学者。人工知能と言語。どうつながるか?

 そしてこれもまた「視点を変える」の流れに位置付けられることも意識して考えていこう。


 まず「人工知能は~」。

 今年度、何度も実行した読解のメソッドは「一文要約」「問いを立てる」「対比をとる」だ。

 このうち「問いを立てる」にしたがっていえば、これはもう題名が問いの形になっている。

 だが読んでみると、この問いは裏にもう一つの問いを隠していて、どちらかというとそちらの方の問いにこそ重点があることがわかる(わかってほしい)。

 その裏の問いを明らかにするには「対比」の考え方が有効だ。

 この文章のメインの対比は何か?


人工知能/人間

 これが最重要の対比であることがわかれば、裏の問いも明らかになる。

人間はなぜ椅子に座れるか?

 これらの問いに、最も端的に答えてみよう。


 授業ではまず「目的」「意図」「意志」「意味」「物語」などの言葉が挙がると面白い。これらの「ない/ある」は確かに「椅子に座れない/座れる」ことの理由ではある。

 だがこれらより根源的な理由があり、すぐにそこにたどりつくのは国語力が高いことを表している。何?

    身体がない/あるから。

 すぐにこう想起できたろうか? (誰かがすぐにこれを挙げてしまうと考察が進みすぎてしまって勿体ない)

 「身体」のあるなしが最も根源的であることがわかるだろうか?


 「意味がわからないから座れない」は正しいが、これは「どうしたら意味がわかるのか?」という問いを導き出す。その答えが「身体があるから」だ。

 「身体がないから意味がない」とは言えるが、「意味がないから身体がない」とは言えない。だから「身体」の方が根源的な原因なのだ(もちろんこれはこれで「なぜ身体がないと意味がわからないか?」という問いにつながり、それにも答えられるように読解する必要はある)。

 これで文章を読むためのスタートとゴールが確認できた。

 とはいえまだこれはスタートとゴールであって、この、問いと答えの間がどのような論理で結ばれているかを辿れてはじめて読解できているといえる。

 ついでに「一文要約」もこれでできている。「人工知能が椅子に座れないのは身体がないからだ。」「人工知能は身体がないので椅子に座れない。」といえば、確かにそういうことではある。

 だがこの文章の場合、これでは何のことやらわかりにくい。論理の飛躍があるように感じる。

 それでもこうしたメソッドは意識してでも使う。使ったときと使わないときの理解度には大きな差がある。使おうとすることが頭の使い方を集中させる。次には「椅子に座れない」と「身体がない」の関係を把握することに頭を使えばいい。

 さて、身体を持っているから椅子に座れる(身体がないから椅子に座れない)とはどのような論旨なのか?


 論理展開を概観するために、さらに一文要約を応用する。

 この文章には1行空きで中段落が示されているから、その区切りで1文にする。ただし、3段落目は長いので2文にする。計4文。

 1,2段落はひどく要約しにくい。そしてさらに、1段落から2段落への論理展開がよくわからない。

 それでもなんとかやってみて、さて、3段落に入ると、最初にこんな文章がある。

「コミュニケーション」とは、シャノンらによると、相手に信号を伝え、「意図」を伝えることで、相手の振る舞いを変化させるということでした。そして「意図」とは、自分自身の目的のようなものだと考えられます。ここからは、「椅子」を通したコミュニケーションについての考察を更に深めることで、振る舞いが変化していく様子について理解し、更に、生命が生きるということがどういうことかについて論じていきたいと思います。

 なんだ。本人がここまでをまとめている。前半は1,2段落の要約になっていて、後半が3段落の予告になっている。

 ここらでこの文章の問題点が見えてくる。

 この文章は、そこここで問いの投げかけやそこまでの「まとめ」が挿入されて、一見すると読者に対する気遣いの行き届いた、読みやすい文章のように見える。

 筆者である松田さん自身はそうしようとしている。だが実は論理展開はきわめてたどりにくい。その自覚は本人にはないだろうが。

 この、論理の辿りにくさが、例えば上の一節に現れている。

 上記の一節、1,2段落の要約を、いくらか形を整えて並べてみる。

  1. 「コミュニケーション」とは、相手に「意図」を伝えることで、相手の振る舞いを変化させるということである。
  2. 「意図」とは、自分自身の目的のようなものである。

 これが筆者自身による1,2段落の要約だ。

 これを続けて読んでも、論理展開は把握できない。それはこの1.2の「意図」の意味が全く違うからだ。

 それぞれ何を指しているか?


 違いを言うためにはむしろ言い方を揃える必要がある。「I was born」の「文法」と「蜉蝣」を対比するためには、「生まれる/生む」と言い方を揃える必要があったように。

 また、それぞれの「意図」がどういうことかを直接表現しようとすると話が抽象的な説明になってしまって、違いがわからない。

 そこでここでは「相手」「自分」「振る舞い」が何のことかを、ここでの例で特定する。何のこと?


 問題設定の「人工知能は椅子に座れるか?」からすれば、1の「意図」は座らせようとしている側の意図のはずだ。人間が人工知能の「振る舞いを変化させ」ようとしているのだから。

 だが2の「目的」「意図」は「椅子に座る」だから、「自分」とは座ろうとしている人、だ。上の問題設定をひきつぐなら、人工知能を指していることになる。

 端的に言うと以下のようになる。

1.AIを「座らせよう」とする人間の「意図」

2.「座ろう」とするAIの「意図」

 これは本当にひどい。重要なキーワードが、展開する中で全く違ったことを指している。これでは、論理がまともにたどれない。

 こういう、言葉の指し示すものが不統一なのに無自覚に論を進めているところが読みにくさなのだが、一方ではところどころで要約してみたり問いを明示したりして書き進めているところは、筆者なりには読者に配慮してもいるのだ。


 続けて後半を2文で要約してみよう。

  • 生物は身体によって世界を(対象を)認識する。
  • 生物は世界を(対象を)「物語」によって捉える。

 この長さにしてしまうと、何のことかちっともわからない。上の2文とつなげても、論理の展開がたどれない。

 試みにAIたちに要約させてみる。


Gemini

情報の真の意味は、受け手が送り手の意図を理解し、自身の行動を変化させて初めて成立する。人間が「椅子」を認識できるのは、身体を持ち、自らの人生という「物語」の中で「座る」という目的を即興的に作り出せるからだ。対して身体のない人工知能は、記号を処理できても行為の意味を理解できない。自らの意志で環境に意味を見出し、人生を生きるという行為は、現状では身体を持つ生命にのみ許された特権である。


ChatGPT

信号は受け手が意図を理解し行為に結びつけて初めて情報となる。椅子を形の特徴だけで定義しても例外が生じ、座るという行為の可能性を捉えられない。人間は身体をもち、疲労や作業といった目的を自ら生み出し、自己の物語の中で岩さえ椅子として意味づける。意味は身体と環境との関係の中で即興的に立ち現れるが、身体と物語をもたない人工知能は自ら意図を形成し意味を創出できない。


 これはかなりもっともらしく書き下ろされてはいる。だがやはり1文目から2文目にかけて、また前半と後半の論理的つながりがわかりにくい。これはつまり原文の問題がそのまま要約にも表れているのだ。

 とはいえ教材の文章は「わかりやすい」ことが第一義ではない。わかりにくいからこそ考察の対象として(つまり教材として)有効に働くということもある。



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