2026年9月17日木曜日

思考の誕生 18 他者の声 実在の声2

 さて、「他我問題・外界問題」は清算されたが(哲学界隈では)、あらたに「他者性の問題・実在性の問題」が現れてきたという(哲学界隈では)。

 この移行に関わっている人を我々は知っている。授業に何度も登場した。誰?


 ソシュールの名が思い浮かんでほしい(他にもいろんな哲学者がこうした問題に影響してはいるのだろうが、哲学の授業ではないので割愛)。

 ではソシュールの思想が、この変遷にどう影響しているか?

 これも簡潔に表現してみよう。


 昨年度来のソシュールの思想については、それぞれの理解に応じていろいろな言い方ができるだろう。だがあれこれ言い過ぎると論理が複雑になって適切なのか不適切なのかが判別しにくい。だからどこをどう切り取ると、論理展開にはめ込めるかを考える。

 例えば、話し合っている声の断片に「恣意性」「切り分ける」「物が先ではなく言葉が先」などのフレーズが聞こえてくると、それは確かにソシュールの思想だが、ここで使うのには避けた方がいいなあと思われる。

 先に「外界問題」をすっきりと言ってみた。「どうしたら外界を確かめられるのか?」だ。

 では「実在性の問題」は?


  • 言語の「外」は実在するのか?
  • それはどうしたら確かめられるのか?

 などという言い方ができると見当をつけておく。

 ならばソシュールの思想をどのように表現すればその変化の間が埋まるか?


 ソシュールが出てきたのは「視点を変える」シリーズだから、おなじみのスキーマとゲシュタルトだ。

 スキーマとゲシュタルトという言葉を使う文は二通り作れる。

  • スキーマが変わるとゲシュタルトが変わる。
  • スキーマによってゲシュタルトができる。

 どちらが使えるか?


 この言い方をソシュールの問題に変換するなら「言語によって世界が認識できる」ということになる。これで論理がつながる。

外界はどのようにして認識されるのか?

という問いが

言語によって外界は認識される。

というソシュールの思想によって

では言語の外はどのようにして認識できるのか?

と形を変える。

 これは表現を調整しながら、論理をすっきりとつなげる国語力が問われる課題だ。

 最終的な形を見ると呆気ないように思えるかもしれないが、これを自力で成し遂げるのは相当に難しかったようだった。

 諦めずに取り組むべし。

 ブレスト的にぐちゃぐちゃと喋ることも有益だが、なるべく簡潔な形に収めることにも、各グループで努力してほしい。


 さて、「他者性の問題・実在性の問題」に、では野矢茂樹はどう答えているのか?

 鍵となるのは先に確認したとおり「言葉」だ。

 簡単に言ってしまえば、言葉が、言葉によるフィルターバブルの内と外を行き来させる、と言っているのだ。

 あれっ?

 これは「物と身体」を前のあれこれと読み比べたときにも出てきた話だ。身体はフィルターバブルを作るが、身体によってフィルターバブルの外側に出ることができる。身体は両義性を持っている。

 同様に両義性を持ったものが言葉だ。

 最近、ソシュールを思い出して確認したとおり、言葉が認識を可能にしている。だから言葉が認識を制限しているのではないか、というのだが、同時にそれを運用することによってその外側の「実在」が感じ取れる。


 時間がなくて1クラスだけしか読めなかったが、「論理国語」に収録されている熊野純彦「ことばへの問い」という文章でも同じことが述べられている。

 ことばこそが、ことばで語れるもの、ことばにならないものの両方を「発見」させるのだ、と。

 この文章は、こういう流れで読まないと、言い回しが韜晦に満ちてわかりにくいが、もうすんなり読めるようになっているはずだ。


 さて、言葉がフィルターバブルの外へ出る手がかりになるというのだが、となると、その糸口となる、例の「断絶/抵抗・障害/わかりあえなさ/他者/他人(性)」にあたる言葉はあるか?

 そのまま「意味の他者性」という表現もある。「語り得ぬもの」という言い方も「物語るという欲望」の「反-物語」「空白」っぽい。

 「わかりあえなさ」にストレートに通ずるのは「(他人との)ズレ」という言葉だ。

 やはりここでも同じ論理が反復されている。

 

 野矢の文章の最後

今は理解できない。今は語り出せない。しかし、それらを理解し、語り出すために、私は私自身の手持ちの言葉を変え、私自身を変えていくだろう。そうすれば、きっとそれらと出会うことができる。

は、もうほとんど「未来をつくる言葉」だ。野矢が哲学について語ることと、ドミニク・チェンが社会に対するメッセージとして語ることがよく似ているのは、ともにそれぞれの洞窟の外に出ようとする宿命(内田樹)を引き受けているからだろう。


 これで前期「思考の誕生」シリーズを一段落する。

 みんなの裡にはどんな「思考」が「誕生」しただろうか?



思考の誕生 17 他者の声 実在の声1

 「思考の誕生」から始まった今年度前期の比較読解の流れは、野矢茂樹の「他者の声 実在の声」で一段落とする。

 野矢茂樹は昨年度のテストで出題したので、みんな読んだことはある。ただ「論理国語」「文学国語」の教科書には文章が収録されていない。「ちくま評論入門」「ちくま評論選」には入っている。あれらは教科書をつくる際に集められた文章群の補遺だろうし、もちろん他の出版社の教科書では常連だ。ということはつまり大学入試にもよく出題される論者だということだ。


 一読して「物と身体」と同じ問題を扱っていることに気づく。そしてそれに対して違ったアプローチをしていることにも。

 それがどのような「問題」であるかを捉えることと、それがどのように違ったアプローチによるかを捉えることは相補的だから、おそらく同時に「わかる」。

 この「問題」を簡潔に表現し、それぞれの「アプローチ」を示すキーワードを一語ずつ挙げよう。


 もう一つ、文脈を大きく捉えよう。この文章は前後で二つの大きな塊に分けられると感ずるはずだ。前後を簡潔に表現してみよう。

 前半は「他我問題・外界問題」について、後半は「他者性の問題・実在性の問題」についてだとまとめるのが簡潔。

 この前後を、対比的な単語で表現しよう。単語で、というのも簡潔にする手段だ。


 簡潔に表現するというのは大事なことだ。情報はコンパクトにまとめると扱いやすい。いろんな要素が入った方がより正確さを保証するということもあるが、焦点がぼやけて捉えにくくもなる。何より記録性や再現性に劣る。コンパクトな情報は扱いが楽で便利。


 「他我問題・外界問題」を簡潔に表現してみよう。文中から引用できる部分はない。自分でそれがどういう「問題」かを捉え、表現し直すしかない。

 簡潔に、ということで10字程度。「問題」なのだから、文末は「~か?」で終わるよう。


 問いが簡潔に表現できたとして、それは答えが二択になる(Yes/No)問いか。

 もしそうならば、そこから当然導かれるべき問いをさらに表現する。

 答えを二択にしないためには、疑問詞を使う。


 「他我問題・外界問題」は、ひとまず次のように言い換えられる。

他我/外界はあるのか?

 これは、ある/ないで答えられる問いになっている。

 この問いはさらなる問いを必然的に生む。

 疑問詞として「何(どのような)」「どこ」を使う発言も出た。本文には確かに「外界はどこにあるのか?」という問いの形が提示されているが、本文全体をすくい上げてはいない。

 次のように言い換えるのが適切。

他我/外界があることはどうしたら(どのように)確かめられるのか?

 この「外界問題」は「物と身体」が問題にしていることでもある。「物と身体」では「物があることをどうしたら確かめられるのか?」だが、同じことだ。「物と身体」は机の上の消しゴムを例に語りはじめ、「他者の声 実在の声」では机の上のコーヒーカップから語り始める。

 さて共通した問いに対して、それぞれの文章がとるアプローチを対比的な言葉で表そう。

身体/言語

 それぞれ、身体/言葉によって確かめられるのだ、と言っている。


 「他者の声 実在の声」の前半と後半を対比的な言葉で表そう。

意識/言語

 「他我問題・外界問題」は意識の内と外をめぐる問題。

 「他者性の問題・実在性の問題」は言葉の内と外をめぐる問題。

 これで文章の構成が捉えられた。


 「他者の声 実在の声」の前半、「他我問題・外界問題」は出ることのできない洞窟のような問題だと結論づけられる(この「洞窟」は「他者の言葉」で紹介されるプラトンの「洞窟」とは対応していない。同じ言葉が出てきたからと跳びついてはいけない)。

 ここで「何人もの哲学者たちがそうして倒れていった。」と言われている哲学者の一人を、みんなは知っているはずだ。授業で出てきたから。

 「物と身体」で言及されるデカルトがそうだと気づかねばならない。

 上記のように二つの文章は同じ問題を扱っていて、前田はデカルトのアプローチを、否定するために援用している。とすれば野矢がその問題に「倒れていった」と評する哲学者の一人にデカルトを数えてもいいだろう。出口はないというのだから。

 もちろんデカルト本人は出たと言い張るだろうけれど。


 この「他我問題・外界問題」は、哲学者ならずとも共感する人が多い問題のはず。

 古くから、周りの人間は全てロボットで、自分だけが人間なのだという妄想を描いたSF作品は珍しくない。あるいはインベーダーでもいい。自分の家族がある日、外見はそのまま異形の物に入れ替わってしまっているのだという妄想には、古来多くの人が共感するのだ。

 これを扱った哲学問題が「哲学的ゾンビ」という思考実験だ。人間と同じように振る舞い、完全に見分けがつかないが意識を持たないゾンビを、ゾンビである/ないと確かめる方法はあるか、という問題。

 そのことを確かめることはできない、というのが結論。つまりこれは他我問題だ。

 野矢の結論は「他我問題」に出口はない、だから哲学はこれを解決ではなく「清算」したのだというのだが、これは最近また関心を集める問題として浮上してきた。

 何のせい?


 ここ5年の生成AIの進歩だ。あれほど巧みに自然言語を操る人工知能が現実化するとは誰も想像していなかった。それが現実に表れたとき、彼らにもやがて「意識」が生ずるのではないか、それをどうしたら否定できるのか、といった問題はいやおうなく人々の関心を喚起する。

 相手に「他我」があるかどうかは、言葉のやりとりによって確かめられるのではないか? そのようにして相手がロボットかどうかを確かめる「チューリングテスト」には、最近のAIはパスできるという。

 とすればAIに「意識」がないとどうして言えるのか?


2026年9月15日火曜日

思考の誕生 16 物と身体2

 さてでは本命の「思考の誕生」以下の文章だが、これは難易度が高い。抽象度を上げないと、つまり構造を抽出しないと重なってこない。

 一方で、印象の類似性を糸口にするという手もある。論理は後から組み立てる。言語論をスキーマとゲシュタルトの議論に載せるときに、ダルメシアン犬と星座の印象の類似がまず指摘できたように。

 ここでも、D組の授業での発言を糸口にして、それ以降のクラスでも同じ展開を使った。

 まずD組H君が、「物と身体」の「夢」が、ここまで何度も言及された「フィルターバブル」に似ているという印象を語った。

 なるほど。とするとそれが登場する「未来をつくる言葉」と対応させられるのだろうか。

 「未来をつくる言葉」では「身体という原初のフィルターバブル」というフレーズについて考察した。「身体」? これも重なっているのだろうか。

 フィルターバブルは「他者の言葉」で語られるプラトンの「洞窟」の比喩にも似ているという認識も共有されている。

 さて、これと似た印象を「思考の誕生」から指摘すると?


 どこのクラスでも「自分ひとりで考える」が挙がるから、やはりこうした印象は共有可能なのだろう。

夢/フィルターバブル/洞窟/自分ひとりで考える

 この印象の共通性を論理づけよう。

 正面からこれらの比喩・概念・フレーズが共通していることを説明によって示すこともできる。

 だが、まずは文の共通性で示す。

 それぞれの文章のメッセージをシンプルな文にする。

  • 「他者の言葉」は「洞窟を出よう」
  • 「未来をつくる言葉」は「フィルターバブルを出よう」
  • 「思考の誕生」は「ひとりの考えから出よう」

 とすると「物と身体」は「夢から覚めよう」だ。

 筆者はデカルトを対比的に援用して、デカルトの方法では夢から覚めることはできない、と言っている。それに対し、生活者の素朴な実感は、既に夢から覚めていることを示す。

 先ほどの対応は、同じ文型で示せる。つまり同じ論理があるのだ。


 何と何を対応させるかによっては、別の何かはズレてしまうかもしれない。例えば上で言及したように、「物と身体」と「未来をつくる言葉」では「身体」は共通しているのに、「夢」と「フィルターバブル」を対応させると、それぞれの「身体」は一致しない。

 なぜか?

 「未来をつくる言葉」では「身体という原初のフィルターバブル」なのだから、つまり身体によってフィルターバブルが作られている。

 だが「物と身体」では身体は夢から覚める手がかりとなる。

 方向が反対だ。

 だがそもそも身体はそのような両義性を持ったものだと言ってもいい。

 そのような存在がこの議論の中にもう一つある。

 「言葉」だ。

 「他者の言葉」では言葉が洞窟を作っている。

 だが「未来をつくる言葉」ではその「言葉」がフィルターバブルを乗り越えて他者とつながり合う手段として捉えられている。

 そういえば「身体という原初のフィルターバブル」の考察では「身体」が何と対比されているかを考えた。「文化」だ。フィルターバブルは身体が作るばかりではない。我々は生まれつき「身体というフィルターバブル」の中にいるのだが、もちろんその後、成長していく中でさまざまな「文化」的フィルターバブルの中にとりこまれていく。

 例えば宗教、生活習慣、価値観、あるいは「大きな物語」。

 そして「文化」の最大の例として「言葉」を確認したではないか。

 つまり身体も言葉もフィルターバブルを作る。

 だが同時に、そこから抜け出すための手段となるのが言葉であり身体なのだ。


 さて「夢/フィルターバブル/洞窟/自分ひとりで考える」という対応は有望そうな手応えがある。

 もう一つ、それと対にして論理を形成する要素を対応させよう。

 例えば「自分ひとりで考える」ことから抜け出すために必要なのは「他人と考える」ことだ。 「他人(性)」は「思考の誕生」の中できわめて重要な要素だった。

 「他者の言葉」にはそのまま「他者」が登場するし、「場所と経験」にも出てきた。

 「物語るという欲望」では、これに対応するものとして「断絶・亀裂」を確認した。ただしこの文章はメッセージが薄いうえに「夢/フィルターバブル…」にあたるものがない。

 「未来をつくる言葉」でこれにあたるのが「わかりあえなさ」であることは夏休み前に確認した。

 さてでは「物と身体」では?


 重要なキーワードは文中に複数回使われるものだ。「物と身体」では「抵抗」と「障害」がこれにあたる。

夢/フィルターバブル/洞窟/自分ひとりで考える

 の順に並べるなら

抵抗・障害/わかりあえなさ/他者/他人(性)

 それぞれの要素の結びつき方は完全に同じではない。

 「わかりあえなさ」は「フィルターバブル」そのものであるように思えるのに、「自分ひとりで考える」と「他人」は対極にある。論理を重ねるために文の形を揃えるのは簡単ではない。

 「わかりあえなさ」が「未来をつくる言葉」の文中に登場するのは1回。次の一節だ。

いずれの関係性においても、固有の「わかりあえなさ」のパターンが生起するが、それは埋められるべき隙間ではなく、新しい意味が生じる余白である。このような空白を前にする時、わたしたちは言葉を失う。そして、すでに存在するカテゴリに当てはめて理解しようとする誘惑に駆られる。しかし、じっと耳を傾け、眼差しを向けていれば、そこから互いをつなげる未知の言葉が溢れてくる。

 「新しい意味が生じる余白」という言い方は「物語るという欲望」の「断絶・亀裂・空白」から物語が生まれる、に通ずることは明らかだから、これを「思考の誕生」の「他人(性)」と重ねることもまた可能だ。

 「他者の言葉」の、言葉が作る洞窟も、つまりは自分の言葉が洞窟を作っているのだから、他人の言葉を聴くことが、そこから出る手がかりになる。


「他人性」をもった相手との間に「思考」が誕生する。

意味の「断絶」に橋を架けようとするときに「物語」が生まれる。

「わかりあえなさ」をつなごうとするときに我々の間に「言葉」が生まれる。

 物の実在についても同じことが言える。

「障害」を乗り越えようとするときに、我々の前に「物」が現れる。

 身体に対する「抵抗」が物の実在を我々に証すのだ。

 表現した命題を確かめるためには、逆にするか対偶をとるのがいい。

 「他人(性)・他者/断絶/わかりあえなさ/抵抗・障害」がないところには「思考」も「物語」も「言葉」も「物」も生まれない。

 「わかりあえなさ」がないということはフィルターバブルの中にいるということだ。そこから出ようとする者にとってのみ「わかりあえなさ」はある。「抵抗」がない状態は、何にも触れていない、何にも関係していないということだ。それはの中にいるということだ。「抵抗」が「物の実在」を証す。


 ちなみに「広告の形而上学」をここにつなげるとどう言えるか?

 キーワードである「差異」が想起されていればOK。


思考の誕生 15 物と身体1

 夏休みを挟んで9月の授業はわずか3時間程度。ここで2本の文章を読む。まずは前田英樹「物と身体」を読む。「ちくま評論入門」の兄貴分のアンソロジー「ちくま評論選」に収録されている文章だが、新課程になってからは購入していない。前田英樹の文章は「論理国語」教科書に「絵画の二十世紀」が収録されている。これは機会があれば。

 前田はフランス思想が専門で、ここでは哲学的な認識論を展開して、かつ「哲学」をおちょくってもいるのだが、専門が「思想」というのは、つまりは哲学者ということではないのか(自分では「哲学」をやらず、ただ哲学を勉強してます、ということなのか?)。

 この文章は今までのどの文章のどういう議論と通ずるか?


 一読してまず日高敏隆「生物の作る環境」と、昨年度の松田雄馬「人工知能はなぜ椅子に座れないか」が連想されるはず。

 それぞれの文章と「物と身体」の論旨の共通点を簡潔な一文にする。そしてそれらの論旨の関連を考える。


 論理的に先に置かれるのは「人工知能は…」との共通論旨。

人は(生物は)身体を通して「もの」を認識する。

くらいにまとめられる。身体は世界認識の為のメディアなのだ。

 この論旨がそれぞれの文章でどう展開されていて、何と何が対応しているか?

 「物と身体」では「人間/ナメクジ」という対比で語られ、「人工知能は」では「人間/人工知能」という対比で語られる。つまりナメクジとAIが対応していて、例として消しゴムと椅子が対応している。

 人間のように消しゴムを使わないナメクジは消しゴムを認識することはできず、人間のように椅子に座らないAIは椅子を認識することはできない(人間のようには)。


 この論旨が「生物が作る環境」との共通論旨に結びつく。

それぞれの生物にとっての「世界」はそれぞれ違っている。

 これがユクスキュルの「環世界」論だ。ユクスキュルはダニ・蠅・犬などの例で、前田はナメクジで、人間とは違う「環世界」を描写してみせる。

 二つの論旨は因果関係をなしている。

 生物は身体によって世界を認識するから、身体が違えば認識する世界も当然違ってくる。

 世界(物の実在)は、それぞれの生物の「身体」によって確かめられる。客観的な物の実在を疑わないとしても、そうした実在がすべての生物にとって同じ意味合いで現れるわけではない。違った「身体」には、物は違った姿で現れる。

 この、それぞれの物の実在はそれぞれの生物によって違う、というのはまさしく「環世界」論だ。

 異種の生物間の違いほどではないとはいえ、他人同士はやはりそれぞれに違った身体を持つ。大人と子供では、背の高い人と低い人とでは、暑さに弱い人と強い人とでは、世界の捉え方は違う。それぞれの身体によって認識される環世界はそれぞれ違う。ドミニク・チェンが環世界という言葉を使うときは、こうした身体による一人一人の認識の差異だけでなく、文化による認識の違いも問題にしている。


 ここまではすぐに考えつく。

 だがこれを「思考の誕生」「物語るという欲望」「未来をつくる言葉」と重ねようというのだ。

 これは抽象度を上げないと重なってこない。

 どう考えるか。


 その前に授業ではまず、どの文章を連想したかを聞いたのだが、ここで柄谷行人「場所と経験」が出てきたのは想定外だった。

 確かに「物と身体」にも「場所」という言葉が途中に一カ所出てくる。だからといって論旨が重なるのか? と思ったが、意外といける。

 「場所と経験」の論旨を簡単に言うのは難しい。ここまで読んだ文章の中でも印象がまとまりにくいはずだ。

 それでも簡単に言うなら、「経験」は「場所」と結びついている、とでもいおうか。裏返してみる。「場所」と結びつかない「経験」は「経験」にはならない、ということになる。

 柄谷は、このことを言うために場所の捉え方として二つの捉え方が対比する。本当は三つなのだが、さしあたり問題は二つだ。「歩く/地図を見る」だ(この対比を抽出するのがなかなかに難しかった)。

 この「地図を見る」ことによる場所の捉え方が「物と身体」のデカルト的捉え方に対応している。抽象的・観念的な捉え方だ。

 それと対比されているのが「歩いて場所を感じる」捉え方で、これはまさに足=「身体」で場所を捉えるということだ。

 前田が「生活者/デカルト」という対比で世界の捉え方を問題にしているのがちょうど柄谷の「歩く/地図を見る」という対比に重なる。


 もう一つ、C組ではH君から「広告の形而上学」が挙がった。これも想定外だったが、なるほど、面白い。

 これはどう重なるか?

 ヒントはメディア(媒介)という概念。

 これは「生物が作る環境」「人工知能は」のように、共通する論旨を表現することはできない。ただ、論理の共通性を言うためには、同じ文型でそれぞれの文章の論旨を言えば良い。

 どう言うか?

  • 商品の価値は広告を通して捉えられる。
  • 物の実在は身体を通して捉えられる。

 つまり「広告/身体」がメディアとして並置できるのだ。もちろん裏返してもいい。

  • 広告がなければ商品の価値はわからない。
  • 身体がなければ物の実在はわからない。


 こういう想定外があるのが授業の醍醐味。



2026年7月25日土曜日

思考の誕生 14 未来をつくる言葉4 論旨を重ねる

  さてここまで、今年度に入ってから7編の文章を読んできた。

  1. 「思考の誕生」
  2. 「場所と経験」
  3. 「物語るという欲望」
  4. 「他者の言葉」
  5. 「物語としての自己」
  6. 「未来をつくる言葉」
  7. 「生物の作る環境」


 ここに共通する論旨を抽出しよう。


 「未来をつくる言葉」の問題意識を、ここまで読んできた文章群と重ねてみよう。

 既にフィルターバブル環世界を重ねて考えたから、「他者の言葉」と「生物の作る環境」につながることはわかる。我々はそれぞれの「フィルターバブル」=「環世界」の中にいる。それは「洞窟」の中にいるということだ。

 そしてフィルターバブルの膜を越境するために必要なのが「言葉」であり、さらにそれを生み出すために重要なものは「異質な他者と自分を架橋するための心理的な土台を築くこと」だとドミニク・チェンは言う。その困難については「近代」の問題として「〈私〉時代のデモクラシー」などにもつなげて考えた。


 さらに、「未来をつくる言葉」の主旨を他の文章と重ねよう。

 それぞれの文章の主旨を、なるべくシンプルな一文で捉えることはその都度やってきたし、それぞれの論がどのように関連し合っているのかも確認してきた。

 論理の比較のためには、そうした一文の文型を揃えて、それぞれの文中から引用した言葉が対応していると感じられる必要がある。

 「一文で表す」というのは「命題」の形にするということだ。名詞で終わってはいけない。主語述語が揃った形だ。

 主旨を一文にするには、なるべく題名を利用するのが簡便だ。とはいえ上記のどれもこれも体言で終わっているので、それらの名詞が主語なのか述語なのか目的語なのか形容句になるのかは、内容を把握していないと判断できない。

 「思考の誕生」なら「思考の誕生は~。」とまとめて主語に置く文も「思考は~誕生する。」と主述に分ける文も作れる。

 「物語るという欲望」なら、「人には物語るという欲望がある。」か「物語は断絶から生まれる。」あたりだが、この二つなら後者の方が主旨が盛り込まれている。

 ならば「思考の誕生」は「思考は他人性から誕生する」とすれば文型が合う。

  • 物語断絶から生まれる。
  • 思考他人性から誕生する。

 「物語」と「思考」、「断絶」と「他人性」がそれぞれ対応している。

 ここに「未来をつくる言葉」の主旨を重ねる。

 「未来をつくる言葉」の主旨を一文に表すのは容易だ。自動的にできる。

言葉は未来をつくる。

 だがこれは上の二つの文章と文型が合わない。主述を入れ替えよう。

  • 未来は言葉から生まれる

 「思考」「物語」が「未来」と対応しそうだという見通しは悪くない。

 だが実は本文に「未来」という言葉は登場しない。ただ文末が次のように終わる。

わたしたちは目的の定まらない旅路を共に歩むための言語を紡いでいける。 

 この「目的の定まらない旅路」が「未来」の隠喩になっていることに気づけば、「言葉」が、そうした旅路を「共に歩む」よすがになるのだと言っていることはわかる。

 「主旨」というより「主張・メッセージ」くらいに拡張して言うなら?

未来をつくる言葉を共に探そう。

 くらいか。

 となるとさらに、そうした言葉はどのように探せば良いのか(そこにはどんな困難があるのか)、といったあたりが書かれている文章なのだと把握できる。


 だが単にフィルターバブルを越えて互いにつながり合おうとか、そのための「言葉」を探そうといったメッセージだけを、「気分」のように唱えるだけでは問題の核心が見えてはこない。

 問題は「言葉」が「断絶」や「他人性」と対応していると考えるには飛躍があることだ。どう考えたらいいか。

 「言葉」について、終盤に次の一節がある。

じっと耳を傾け、眼差 しを向けていれば、そこから互いをつなげる未知の言葉が溢れてくる。

 この「そこ」が指しているのは(人間同士の)「わかりあえなさ」だ。

 つまりこの一節はそのまま次のように言い換えられる。

  • 言葉は「わかりあえなさ」から生まれる。

 とすれば、三段論法によって次の一文が生成できる。

  • 未来は「わかりあえなさ」から生まれる。

 これは「思考の誕生」「物語るという欲望」が語っていることそのものではないか。

  • 物語断絶から生まれる。
  • 思考他人性から誕生する。

 つまり「わかりあえなさ」が「物語るという欲望」の「断絶」、「思考の誕生」の「他人性」に対応しているのだ。


 こうした主張の裏には何が批判されているか? どんな方向性に対するアンチとしてこうした主張がなされているのか? 仮想敵は誰か?


 断絶の前で「言葉を失う」とき、人は「既に存在するカテゴリに当てはめて理解しようとする誘惑に駆られる」。ドミニク・チェンがそう語る危険こそ、蓮實が「他人性」を希薄にする(=他人を理解する)ために「たがいに自己の内面のイメージを投影しあう」「風土」が「蔓延しがち」だと言っている現在の状況だ。「誘惑に駆られる」といい「風土が蔓延する」といい、そこが仮想敵であることを示すサインだ。

 つまり二人は「安易にわかった気になるな」と言っているのだ。「わかりあえなさ」に「じっと耳を傾け、眼差しを向け」ろ、と言っているのだ。

 すぐに「わかり」たがる安易な姿勢を戒めているという点で、蓮實とドミニク・チェンのメッセージは一致している。


 「未来をつくる言葉」の読解の中で、「生者と死者が交わるインタフェース」「人と微生物をつなぐロボット」は、何のことか、文中ではわからず、考察もせずに通り過ぎた。これは文章の外へ出て調べてみるしかない。

 「生者と死者が交わるインタフェース」は例えばこの記事の「心臓祭器」のこと。たぶん。

http://cocre.jalan.net/cocre/lab/interview_dominick01/


 「人と微生物をつなぐロボット」はたぶんこの記事の「ヌカボット」のこと。

https://diamond.jp/articles/-/310494

 「環世界」もおなじみのキーワードとして使われている。


思考の誕生 13 未来をつくる言葉3 対話と共話

  次は一段落まるごとを考察の対象にする。

差異を強調する「対話」以外にも、自他の境界を融かす「共話」を使うことによって、関係性の結び方を選ぶことができる。近代社会では、長らく対話こそが民主主義的で合理的な議論を牽引すると考えられてきたが、今日の社会はそのための合理性を十分に発揮できないことを露呈してしまっている。この状況に対して、人の合理的認知能力を引き上げようという努力も必要かもしれない。だが、それよりもまずは異質な他者と自分を架橋するための心理的な土台を築くことこそが重要だと思う。

 この部分の「わからなさ」は何だろう?

 「『わからない』ところがわからない」と言いたくなる気持ちはわかるが、それを粘り強く考えて、どこに引っかかっているんだろうと、問題点を明らかにしたり、それを班のメンバーに投げかけることこそ思考の入り口だ(と蓮實は言っているのだ)。


 評論が「わからない」感じられる多くのケースは、具体例が想起できないことから生じている。なんだかよくわからない、ピンとこない、というのは抽象的な表現と、それに対応する具体的なイメージが結びついていない状態だ。

 特にこの段落では「合理性」が「十分に発揮できないことを露呈してしまっている」の部分だろう。「露呈してるよねえ」と言われて、うんそうだよね、と返せる?

 もう一つは「人の合理的な認知能力を引き上げようという努力」も、やはり例が思い浮かばないとピンとこないはず。

 この二つの具体的なイメージを描写してみよう。


 さらに三度登場する「合理性・合理的」がひっかかってもいるらしい。

 ひとまず「今日の社会はそのための合理性を十分に発揮できないことを露呈してしまっている。」にしぼって考えてみる。

 まず、何の「合理性」?


 「そのための」が指しているのが何なのかがわかりにくい。前の部分を言い直すと「対話は合理的な議論を牽引する」の「合理的」を受けているから、議論が合理的であることを指しているのだと考えられる。

 議論が「合理的」とはどのような状態かがイメージできれば良い。

 例えば参加者の意図が充分に表明され、それらが理性的に応答され、必要なアイデアが提起され、合意に向けて心理的に調整されていく…。

 そのような議論はまた「民主的」でもあるだろう。

 結局、何にとって理に適っていると言っているのか?


 議論が、社会の課題に対する解決に向かって有効に働いている状態を「合理的」と考えるとちょうど文脈にはまる。

 このように説明するためには「社会の課題に対する解決」という表現を思いつく必要がある。文中に無い語を。こういうところに国語力が表れる。


 さらに、例を挙げる前に対比を確認しておく。思考の解像度を上げるにはいつも有効な手だ。

 言うまでもなく「対話/共話」という対比がある。これは単純な「否定/肯定」の対比ではない。「対話」がまるきり否定されているわけではない。どちらも大事だ。

 さてこの対比に対して以下のフレーズが対応している。

人の合理的な認知能力を引き上げる/異質な他者と自分を架橋するための心理的な土台を築く

 「合理的/心理的」という対比が「引き上げる/築く」という対比によって確認できる。

 さらにもう一組。

 「近代/今日」が指摘できれば対比が見えてくる。

 さてこの対比から「合理性を十分に発揮できないことを露呈してしまっている」ことの理由を説明してみよう。

 なぜ「対話」では不十分なのか?


 「近代」と言えばさらに「前近代/近代」という対比が前提されていることも想定する。

 「近代」と言えば条件反射のようにまず「個人の誕生」と言えなければならない。

 だがそれでは「近代」のことが言えるところまでで、そこから「今日」との対比を語る上ではもう一つ思い浮かべるべき概念がある。それは去年から何度か出てきている。あの表現。

 「大きな物語」だ。

 「大きな物語」とは何か?


 ひとまずは「多くの人に共有されている認識・観念・価値観」と言えること。

 例えば?


 「宗教」が挙がりがちだが、それは悪くないものの、この文脈では活かしにくい。宗教は前近代からの「大きな物語」であり、ここでは近代の「大きな物語」が想起されている必要があるからだ。

 前近代から近代への移行における「個人」の確立では、むしろ宗教の拘束からの離脱が必要だった。そして一人一人の「差異」が強調される必要があった。

 その時に力を持っていた「大きな物語」とは例えば「個人」の称揚であり、「民主主義」の理念であり、「国民国家」に対するナショナリズムであり。それらさまざまなイデオロギーだ。

 それらが共有されている時にはむしろ一人一人の「差異を強調する」=「対話」が近代理性では重視された。それが「個人」の称揚だ。

 だが「今日」ではそうした「大きな物語」が解体してきたから、今度は「共話」も必要となる。

 「共話」は「自他の境界を溶かす」というのだが、「対話」が「差異を強調する」なら「共話」はそれをひっくりかえして「共通点を確認する」とでも言った方がわかりやすい。


 前近代/近代/現代 のこのような推移は昨年度の「『私』時代のデモクラシー」でも確認した。「『私』時代」にデモクラシーが難しくなっているから「共話」が必要なのだといえば、すんなりここにつながる。

 「大きな物語」が出てきたのは「空虚な承認ゲーム」だ。

 「近代社会では、長らく対話こそが民主主義的で合理的な議論を牽引すると考えられてきたが、今日の社会はそのための合理性を十分に発揮できないことを露呈してしまっている。」などという一節は背景にこうした認識がないとすんなりとは読み下せない。

 ま、逆に言えばみんなにはそれができる素地ができているはず、でもある。 


 では対話が「合理性を十分に発揮できない」具体的なイメージを描写しよう。

 文中からでも「異なる価値観を持つ人間同士が分断される」「今日のSNS上では、互いに「わかりあえる」集団と「わかりあえない」集団の区分がますます明確に浮き上がってきている」といった一節が指摘できるし、「フィルターバブル」の話を受けていることを捉えれば、例は思い浮かぶ。

 大小さまざまな話し合いの場を想定していい。国際紛争をめぐる停戦協議でも、国会の法案審議でも、自治体の住民投票でも、生徒総会でも、クラスの文化祭の発表を決める会議でも、話し合っても埒が開かない場面は想像できる。それらは対話が「合理性を十分に発揮できない」場面だ。


 といって「合理的な認知能力」も否定されているわけではない。

 だがそれって何?

 ここは「非認知能力」との対比でイメージしておこう。

 「認知能力」とはテストなどによって数値で表せるような「能力」のこと。「論理的思考力」やリテラシー、シンプルに「知識」など。

 それに対して最近流行りの「非認知能力」といえば、「自己肯定感」「やり抜く力」「自己制御力(自制心)」「共感性」「協調性」「好奇心」…。


 したがって「人の合理的な認知能力を引き上げようという努力」に合う例を思い浮かべるならば、例えば人種差別、性差別などに対する教育や啓蒙・啓発などといった活動の必要性が挙げられる。「~人は(女性は)人種として劣っている」などといった偏見は「合理的な認知能力」が欠けている状態だ。

 そういう「努力」も必要だが、それと並行してまずは「心理的な土台を築くこと」が重要だ、というのだ。


 さてこんなふうにして読解の解像度を上げて、イメージを共有したいくつかのケースの中では、あの生徒総会の例が妙に腑に落ちたのだった。

 体育館を二分した議論の場の設定は、意見の対立を空間の対立として視覚化したものだ。そこでやりとりした、それぞれの主張のぶつかり合いは「対話」だ。

 それによって、それぞれの主張の論理が明確化され、それぞれが何を重視しているかが明らかになった。

 だが結論はどちらかにするしかない。だから時には対立したままで多数決による決定をするしかない。

 あのとき印象的だったのは、決着の後、少数派の中にも、妙な満足感があったように見えたことだった。あれは自分たちの主張に対立する決定に、しかし納得もしたということなのではないか。

 それはつまり、「対話」による論点の明確化すなわち「差異の強調」と同時に、それでも両者の共通性の確認、すなわち良い行事をつくりたいと思いは一緒だという「心理的な土台」が築かれていったことによる納得なのではないかと思う。


2026年7月11日土曜日

思考の誕生 12 未来をつくる言葉2 環世界をつなぐ

 「環世界」とは各生物がとらえる千差万別な世界像のことだ。それぞれの生物にとっての「環世界」はそれぞれ違う。

 これは種の違った生物同士の「環世界」がどれほど違うかを示すために提唱された概念だが、ここでドミニク・チェンがあえてこの言葉を使って示すのは、我々人間同士でも、それぞれの「環世界」は実は違っている、という認識だ。

 こちらから見る世界は私の「環世界」だが、あの人の見る世界も同様にその人の「環世界」だ。それらが異なったものであることは、あらためて心に留めておく必要がある。


 これは我々は直接に外界に触れているわけではなく、「フィルター」を通して外界を認識する。そうした「フィルター」に包まれた「バブル(泡)」の中に我々は閉じ込められている。

 当然「フィルター」はそれぞれの人でさまざまに異なっているから、我々は一人一人それぞれのフィルターバブルの中にいることになる。

 それはすなわちそれぞれがそれぞれの環世界に生きているということだ。

 二つの認識は重なっている。


 それだけではない。問題は「身体という原初の」という表現だ。

 「原初の」という形容が差しはさまれているのは、それに続く何かが想定されていることを示す。

 「身体」に対する何が想定されているか?


 「原初の」とはいわば「先天的」という意味であり、となれば「後天的」なものとは何か、と考える。あるいは動物一般の条件が「原初の」であり、人間的な条件は何か、と考える。

 文中からいくつかの候補となる言葉を挙げてもらったが、ここでは「文化」が最も適切。「身体」と対にするには。

 「身体というフィルター」と概念レベルを揃えて、「文化というフィルター」という言葉を挙げられるかどうかが国語力(読解力)だ。「身体というフィルターバブル」はすべての動物が先天的に持つが、「文化というフィルターバブル」は人間が後天的に身につけるものだ。

 そしてこの概念レベルの下に具体例が配置される。具体的には?

 「言語」がフィルターであるという認識は昨年度の言語論で論じられていた問題としておなじみ。すぐに想起したい。

 他には「社会常識」であり「立場」であり「宗教」であり…。


 「身体というフィルターバブル」の例を挙げよう。

 それぞれの身体的な特徴や条件のことなのだが、ここに「性別」「人種」が挙がったのは、なかなかに考えるべき問題を含んでいる。

 確かに「性別」「人種」は「原初」ではある。生物学的な身体条件だ。

 だが同時に「文化」的なフィルターが、そこに分厚く塗り重ねられてもいる。

 この問題については「公共」で、「セックス」ならば「身体」で、「ジェンダー」ならば「文化」の問題だ、というような問題を扱ったかもしれない。

 例えば「女性ならではの視点から見た…」という形容が使われるとき、それは「身体というフィルター」のことを指しているのか? 多くの場合には「文化的」なフィルターなのではないか?

 性別を単に「身体」的な問題として語るとき、それが同時に「文化」的な問題であることが覆い隠され、ある種の偏見が見過ごされる。それが差別の温床になる危険がある。「人種」も同様だ。

 そうした危険については、よくよく注意が必要だ。


 この文脈ではつまり、社会学で用いられる「フィルターバブル」という言葉を「身体という」形容によって生物学の方に拡大解釈して使っており、一方の「環世界」という生物学上の概念を、社会学的な捉え方に拡大解釈して使っていることになる。


 さて以上の話が理解できたとして、じゃあ説明してみる。「わたしたちは自己の身体という原初のフィルターバブルを持って生まれてくる」とはどういうことか?

 それはそれでひとすじなわではいかないことが、発表させてみるとわかる。

 一つには、結局我々はみんなフィルターバブルの中にいるのだ、という認識を語るだけになる。

 もう一つには「持って生まれてくる」に引っ張られて、「生まれつき」を強調しすぎると、やはりニュアンスが変わってくる。何も赤ん坊に限らず、それ以降の成長の過程でも、老人になっても、我々は「身体というフィルターバブルの中」から出られないのだ。

 「わかる」で終わってはならない。「語れる」まで視野に入れて授業に臨むことが大事。


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