2026年6月24日水曜日

夢十夜 第六夜4 運慶とは何者か

 もうひとつ考えておきたいことがある。「運慶」とはそもそも何者か?


 「運慶が生きている理由」とは「自分」が「わかった」という「理由」だ。我々がそれを「わかる」べきだというのではない。なぜ運慶が生きているのか、と問われたら、そんなの夢なんだから別に意味はない、と答えてもいい。

 では「なぜ漱石は運慶を登場させたのか?」ではどうか?

 これも、夢なんだからどんな突飛なことだって起こりうるよ、と答えて済ますこともできる。実際に漱石がそうした夢を見たのか、小説のアイデアとして着想したのかも不明だし、考えてどこかに辿り着くという確証はない。

 だが少なくとも、実際に書かれた小説のテクストの中から、運慶がどのように書かれているかを読み取ることはできる。そこには何らかの作者の意図が読み取れる可能性がある。それを問いとして立てる。

③この小説における「運慶」とはどういう存在か?

 もう一つ、こういう問題を問いとして立てるためにはお決まりの言い方がある。

③「運慶」は何を象徴するか?

 「象徴」という言葉がただちに想起された人は考えるためのスキルが身についている。「どういう」という問いはどこをめざして考察すればいいのかがはっきりしない。それに対して「何の象徴」は、最終的に名詞か名詞句で表現するというゴールが明確だ。一方でそれは、飛躍を必要とする難しさもある。適切な名詞が想起されるかどうかはあらかじめ確約されているわけではない。

 両方を適宜行き来して考えよう。


 ①②は素直に「わからない」と感じるはずの謎を問いとして立てた。一方③のような問いの立て方は、小説の読み方として自覚的でないと思い浮かばない。

 運慶が何者であるかは、この小説に書かれていることから読み取らねばならない。

 「運慶は見物人の評判には委細頓着なく」「眼中に我々なし」といった描写から、見物人は運慶を見ているが、逆に運慶からはこちらが見えていないのではないか、と言った生徒がかつていた。単に集中力が高いという以上の意味を読み取ろうとすれば、これは「明治時代に鎌倉時代の運慶が現れた」ということではなく、運慶のいる時空と見物人のいる時空とが、本質的には違った位相にあって、それが一時重なっているように見えるだけだということかもしれない。

 面白い発想だが、これがどこに辿り着くのか、今のところわからない。それよりも注目したいのは次のような点だ。

 運慶が仁王の鼻のあたりを鮮やかに彫り出す動きを描写した後、その手際について見物の若い男が「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あのとおりの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。」と語る。この表現が、先の、仁王が出てこないのは「木のせい」か「自分のせい」かという問いを生んでいる。

 このように表現される行為は何を意味するか。


 考えるために、これもまた選択肢のある問いにしてみよう。

③ここに登場する「運慶」は、「芸術家」か「職人」か?

 この問いはいささか突飛なものと感じられるかもしれない。問①②を変形して選択肢を作るには、単に日本語としての多義性を利用して、その意味合いを明確にしようとしたのだった。だが問③の選択肢はそのように、言葉に元々含まれる可能性から発想されたのではない。

 迷いなく仁王を彫れるのは運慶が芸術家だからなのか、職人だからなのか?

 仁王が彫れないのは、「自分」が芸術家ではないということなのか、職人ではないということなのか?

 むろん「自分」はどちらでもない。だがここでは、どちらでないことが重要なのか?


 こういう時はやはり、語るにふさわしい言葉を思い浮かべることができると語り易い。

「芸術家」「職人」それぞれが備えていて「自分」に備わっていないものは何か?

 これを対比的な言葉で捉えると論じやすくなる。


夢十夜 第六夜3 問いを分解する

 「主題」を考えるために、より具体的な小説中の謎(①②)を考える。抽象度の高い問いをいきなり考えようとしても手がかりがないかもしれないからだ。

 同様に、①②を考える上で、さらに問いを分解・変形して考える糸口をつかむ。


②「明治の木には到底仁王は埋まっていない」とはどういうことか?

 「どういうことか」という問いは、包括的であることに意義がある一方で、目標が定まらないから思考や論議が散漫になるきらいがある。

 ②は、「仁王が彫れない」であるはずなのに、なぜ「仁王は埋まっていない」と表現されるのか? という疑問でもある。

 そこでこれを次のように変形する。

②仁王が彫れないのは、「木のせい」か、「自分のせい」か?

 本文は「明治の木にはとうてい仁王は埋まっていない」といっているのだから、言葉通りには「木のせい」ということになるが、どうもすんなりと納得はしがたい。なんとなく無責任に過ぎるような気もして、ではどういう意味で「自分のせい」だと言えるかと考えると、ことはそれほど簡単ではない。

 さしあたってこう考える。本当は「自分のせい」なのに、それを「木のせい」と勘違いの悟りを得たということなのか、本当にこの小説の中では「木のせい」だということを意味しているのか?


 同様に①についても分解・変形を試みる。

①「運慶が今日まで生きている理由」とは何か?

 「生きている」のニュアンスを「生きているべき」と強調してみると、「べし」の意味「すいかとめてよ」のどのニュアンスが含意されているかを考えることができる。

 「今日まで生きている理由」とは「生きていなければならない理由」なのか、「今日まで生きていられた理由」なのか?

 複数の選択肢に分けて考えることは、思考を活性化させるために有効だ。人間の思考は、物事の対比において、差異線をなぞるようにしか成立しない。どちらが正解かを決定しようとしているわけではない。だがどちらが適切だろうか、と考えることで、文中から根拠となるべき情報を読み取ろうとすればいい。


 また「運慶が今日まで生きている理由」とは、誰にとっての「理由」なのか?

 運慶自身にとっての「理由」なのか、我々(語り手)にとっての「理由」なのか? つまり「運慶にとって自分が今日まで生きている理由」なのか、「我々にとって運慶が生きている理由」なのか?

 「生きていられる」は「べし」を可能の意味で解釈している。「生きていなければ」のニュアンスの場合、運慶自身にとってならば「べし」は意志だろうし、我々にとってならば「べし」は当然か適当だ(「命令」)?。

 これらは単に日本語の解釈の可能性を押し広げて創作した問いだ。二つの選択肢の組み合わせで4つの解釈ができる。

  1. 運慶が考える、自身が生きていられる理由
  2. 運慶が考える、自身が生きていなければならない理由
  3. 運慶が生きていられると『自分』が考える理由
  4. 運慶は生きていなければならない、と『自分』が考える理由


 上記の二択すべて、とりあえず現状の考えを聞いてみると、皆の立場は分かれる。

 自分は最初からあるニュアンスでその表現を受け取ってしまって、その上でその先を考えていたはずだ。違うニュアンスで読み取る可能性を検討した上で、それを否定したわけではない。公平にどちらか、と考えてみる。

 といってこれらの選択肢は、どれかを排他的に正解とすることを目指すのではない。どちらであるかを考えることが、思考を推し進めていくことに資すれば良い。

 このようにニュアンスを細分化することで、ここで明らかにしなければならない論理の筋道を互いに共有するのだ。


2026年6月9日火曜日

夢十夜 第六夜2 問いを立てる

 読解にあたって最初に立てるべき問いは決まっている。

「第六夜」の主題は何か?

 「第六夜」はつまり何を言っている小説なのか?

 常にテキスト読解にとって必要最小限にして最大の問いだ。とはいえいきなりこの問いに答えるのは難しい。随時この問いを思い出して、現在の位置付けや全体の意味づけを確かめる。


 次に、もっと具体的に、本文から導かれる問いを立てる。「羅生門」でいえば「下人はなぜ引剥をしたか?」だった。「羅生門」がとりあえず「わかった」と思えるために最低限解かねばならぬ謎だ。

 「第六夜」でこれにあたる問いは自明だ。

①「運慶が今日まで生きている理由」とは何か?

 読んでいて、これを疑問に思わぬ者はいまい。

 末尾の一文で、「自分」はこの「理由」が「ほぼわかった」という。だが読者にはそれが自明なわけではない。なのにそれが何かを語ることなく小説は終わる。語り手が「わかった」というものを読者がわからないままに済ますわけにはいかない。いかんともしがたく「解釈」の欲求を誘う記述だ。

 これは「なぜ運慶が今まで生きているのか?」という問いではない。読者がその「理由」に納得したわけではないし、すべきかどうかも定かではない。夢なのだからそんなことに答えなくともよいのだ、ともいえる。

 ただ「自分」は何事かを得心したのだ。それがどのようなものであるのかを問うている。

 そうだとしてもやはり「答えは、ない」と答えることもできる。夢で我々は何かに奇妙な納得をしていて、だが起きてから考えても、なぜ夢の中ではそんな納得ができたのかが不思議であるような不思議な思考をしている。その不条理をとりあえず引き受けたところに「夢」の感触がある。とすれば「自分」は何事かを納得しているが、そこに読者が共感できるような中身はないかもしれない。

 だがそう即断せずに、漱石は何らかの「理由」を想定していて、それにあわせて物語の展開や描写をしている可能性も考えてみる。だとすればこの「理由」は、この小説が何を言っている小説なのか、という全体の理解の中に位置づけられるべきである。物語の締めくくりに置かれたこの「自分」の悟りが小説全体の「意味」を支えていると思われるからだ。

 ではその「理由」とは何なのか?


 さらに補助的な問いを立てておく。これもまた全ての読者に共感されるはずだ。

②「明治の木には到底仁王は埋まっていない」とはどういうことか?

 ①を明らかにするためには、まず②を解決する必要がある。②の認識によって、「それで」①が「わかった」と「自分」は言っているからだ。

 さて、「仁王は埋まっていない」とはどういうことか? という問いにどうアプローチしたらいいか?

 「仁王は埋まっていない」とは「仁王が掘り出せない=仁王像を彫れない」の隠喩だ。この隠喩で表される認識は「彫れない」という事実と同じだろうか? なぜ「仁王が彫れない」ではなく「仁王は埋まっていない」なのか? なぜそれが「到底」なのか?

 論理の順としては「主題」→②→①のはずだが、これは互いを根拠として成立する論理なので、順番通りである必要はない。補い合って一筋の論理となるよう考えを進める。

夢十夜 第六夜1 授業の目標

  「文豪」という名称に真にふさわしい小説家は、日本では夏目漱石と森鷗外が双璧だ。芥川龍之介も太宰治も、ノーベル文学賞を受賞した川端康成も大江健三郎も、受賞を期待されていた三島由紀夫も村上春樹も、漱石鷗外ほどには「文豪」の名称には似つかわしくない。

 別格二人の作品がどのようなものかは、今年度後期に漱石「こころ」、来年度に鷗外「舞姫」を読む時にたっぷりと味わってほしい。

 「こころ」に比べると小品だが、前期は漱石の「夢十夜」を読んでおこう。


 「夢十夜」は、夢(ということになっている)お話を、原稿用紙4~5枚の長さでまとめた連作短編であり、114年前の新聞に十日間にわたって連載された。

 テキストは「青空文庫」にもある。100年以上前の作品だ。著作権も切れている。

→青空文庫「夢十夜」

 テキストを見易い画面で見せてくれるサイトもある。

→えあ草紙

 YouTubeには朗読動画もいっぱいある。



 多くの1年生用「言語文化」教科書に「第一夜」と「第六夜」が収録されている。我々が使っている教科書には収録されていなかったが、まあ全国の高校生と教養を共用するということで、今回の授業でもこの二編を読む。

 授業は、『夢十夜』の二編を読み、それを読解しながら、「小説を読む」という行為自体を客観視することを目論む。

 これは昨年の「羅生門」でもそうだった。「羅生門」の理解など授業の目標ではない。だがみんなは「羅生門」を「理解」しようと努めなければならない。それを通した考察や議論が国語科の学習になるはずだからだ。併せて、「小説を読む」という行為がどのようなものかを体験するケーススタディになることを期待する。


 最初の通読は「第一夜」「第六夜」の順でいいが、読解は「第六夜」から行う。これは、「第六夜」の方が一般的なイメージとしての「読解」に適しているからだ。「第一夜」は、ただ読んで味わえば良い、といったたぐいの小説であるように思える。それ比べて「第六夜」は「解釈」ができそうなのである。

 ともかく、読んだだけでは何かわりきれない感触が残る小説には、何らかの「解釈」が欲求される。それは読者としての人情というだけでなく、国語科学習の好機だ。「解釈」は小説読解にとって必須の行為ではなく、国語科学習にとっての好機なのである。それは決して教師によって提示されるべきものではなく、生徒自身が取り組むべき課題だ。


 「夢十夜」は「夢」という体裁をとった小説だから、物語の筋立てにせよ、情景の描写にせよ、いちいち明瞭な、見慣れた、自明の「意味」をもたない記述に満ちている。「夢」だという建前を信ずるならば、それらを既存の「意味」に落とし込むようないたずらな「解釈」は必要ないかもしれない。単に不思議な話として受け取れば良いのかもしれない。

 だが、これが少なくとも「小説」という器に注がれて我々の前にある以上は、それに対して作者と読者である我々の間にコミュニケーションの成立する可能性はあるはずだ。夢そのものでさえ、語られる以上は精神分析という「解釈」の対象となりうる。小説という「作」品にそれができないと断ずる必要はない。

 まして授業という場では、その「意味」をめぐる考察は国語学習の好機となるべく期待をしても良いかもしれない。そして「第六夜」はそうした考察の対象となりそうな感触があるのだ。やってみよう。

 なおかつ、そうした「解釈」をすることは、後に続く「第一夜」の読解の特殊さを意識するための伏線にもなる。


2026年5月27日水曜日

思考の誕生 9 小論文「思考の誕生」と「他者の言葉」

 さて、例によってAIにも以上の考察をさせてみる。せっかくなので「スキーマ・ゲシュタルト・フィルターバブル」という言葉を使うことを条件づけた。


Copilot

 両者に共通する論旨は、思考や認識が個人の内面から自律的に生まれるのではなく、すでに社会に流通している言葉や他者との関係によって形づくられるという点にある。内田は、外国語を用いるとき、話者はその言語に内在する価値観や世界把握の枠組みを無意識に引き受けてしまうと述べ、言語が思考のスキーマとして機能することを明らかにする。

 その結果、私たちは特定の見方を自然なものとして受け入れ、世界を一つのゲシュタルトとして把握してしまう。蓮實もまた、「自分で考えること」が独立した思考であるという通念を否定し、思考は他人が考えたこととの遭遇と葛藤を通じてのみ生まれると論じる。ここでも思考は、既存の言説から切り離された純粋な内面活動ではない。

 両者は、言葉や他者から自由であろうとする態度そのものが幻想であることを示している。むしろ、人は特定の言語的・社会的環境というフィルターバブルの内部で思考しており、その制約を自覚することからしか、思考の更新は始まらない。内田と蓮實はいずれも、その困難で痛みを伴う自覚こそが人間の思考の条件であると考えている。


ChatGPT

 内田と蓮實は、ともに人間の思考は孤立した個人の内部から生まれるのではなく、他者や言語との関係の中で形成されると論じている。内田は、言語にはその社会の価値観や世界認識が埋め込まれており、他者の言葉を使うことは他者の精神を内面化することだと述べる。人は自分で自由に考えているつもりでも、実際には既存のスキーマに沿って世界を理解しているのである。

 また蓮實は、「自分で考えること」を重視する風潮を批判し、思考は他者との遭遇や葛藤の中で生まれると述べる。人は経験や知識をもとに世界をまとまりとして把握するゲシュタルトに依存するため、自分の見方を絶対視しやすい。しかし異質な他者との接触は、その固定化した認識を揺さぶり、新たな思考を生み出す契機となる。

 さらに両者は、人間が自分の属する閉じた認識世界から容易には抜け出せないことも指摘する。内田のいう「洞窟」は、現代でいえば似た価値観ばかりが反復されるフィルターバブルにも通じる。他者との出会いによって自分の限界を知り、変化を引き受けるところに、本当の思考の成立があると両者は考えている。

 AIは総じて頭括型のまとめ方をする。アメリカ型の論文の書き方だ。

 冒頭に「共通する論旨」がまとめられている。

・思考や認識は個人の内面から自律的に生まれるのではなく、すでに社会に流通している言葉や他者との関係によって形づくられる

・人間の思考は孤立した個人の内部から生まれるのではなく、他者や言語との関係の中で形成される

 これらは昨年の「共に生きる」シリーズの考え方としておなじみだ。


 もう一つの代表的AIにも書かせてみる。

Gemini

 私たちは常に、すでに存在する言葉や他者の思考というスキーマに拘束されて生きている。内田は、言語が中性的な道具ではなく他者の精神そのものであり、私たちはその言語的環境から抜け出せないという洞窟の比喩を用いた。蓮實も、純粋に自分ひとりで考えることの不可能性を説き、自律的と思える思考も既成の枠組みの反復に過ぎないと指摘する。

 このように、個人は言葉や知識のフィルターバブルに閉じ込められており、そこから自力で脱することは極めて困難である。私たちは言葉を通じて世界を都合よく統合し、自らのゲシュタルトを形成してしまうため、その内側に安住しがちになる。

 したがって、真の思考とは、この閉ざされた空間に安住することではない。内田の言う言語の制約という難問に直面し、蓮實の言う異質な他者との残酷な葛藤に身を晒すことで、自己を変化させていくプロセスにこそ共通する論旨がある。


 これもまた、「共通する論旨は」とは言わないものの、冒頭の一文が「共通した論旨」だ。

  • 私たちは常に、すでに存在する言葉や他者の思考というスキーマに拘束されて生きている

 これは前回確認した「視点を変える」の考え方だ。これもまたみんなおなじみのはず。

 二つの「共通する論旨」を結びつけるとこうなる。すなわち、他人の思考との関係で自分の(と思っている)思考が生まれるのだが、それはつまり、無自覚に他人の思考に拘束されているということでもある。

 ここから「洞窟から出る苦痛=思考の誕生の残酷さ」を引き受ける、という両者の主張=決着点へ論を進める。

 ちなみに、今回授業者の書いたものは上記のAIのものとはけっこう違っていて、どれがそうかクイズは出してもしょうがない感じだった。

 以下。

 内田は、我々の思考や感情(精神・観念・価値観…)が言語によって作られると述べる。すなわち我々は言語の作るフィルターバブルの中にいるのである。このことを内田はプラトンの「洞窟の比喩」で説明する。「私たちそれぞれの言語は私たちそれぞれの洞窟であ」り、洞窟の奥の壁に映る影絵芝居は、言語というスキーマによって立ち上がるゲシュタルト、すなわち我々の認識する世界の姿である。

 洞窟の外に出るには「他者の言葉」と出会わねばならない。そこに蓮實のいう「思考の誕生」の契機がある。

 だがそれは簡単なことではない。蓮實の言う「一人で考える」ことは自分の洞窟の中から出ないで考え(たつもりにな)ることだ。それは、実は洞窟の外から射す光=世間で流布する言説が壁に映す影絵を見ているに過ぎない。

 これは内田が語る、ストックフレーズ=決まり文句による借り物の思想に対応している。それは「他者の言葉」に由来するが、もはや内面化されて「自分の言葉」になっている。あるいは自己を投影した「他者」は、言葉通り自分の「影」だ。自分の影と対話しても洞窟という夢から覚めることはできない。

 だから本当に「他者」と出会うことは難しい。蓮實はそれを「希薄で残酷な体験」と言う。心の弱い人間は、もとの洞窟に戻してくれと泣訴する。だが「人間」の名に値する者は、その残酷さ・苦痛を引き受けなければならないのだと二人は若者に呼びかける。



 

2026年5月21日木曜日

思考の誕生 8 他者の言葉

 内田樹の文章は「現代の国語」の教科書にも「ちくま評論入門」にも載っているが、昨年度はどちらも読まなかった。そのかわりに「ことばとは何か」を読んだが、これは今年度の「現代の国語」に、若干収録部分は短くなって、載っている。

 さてここでもう一本、内田の文章を読む。「ちくま評論入門」の「他者の言葉」。

 これはここまでの議論にどう関わってくるか?


 急いで論旨をたどるため、ここでも一文要約をする。

 ただしこの文章は途中から論旨の方向が変わっているように思えるので、前後で一文ずつ。

  1. 他者の言葉は他者の精神を表している。
  2. 我々は皆洞窟の中にいる。

 この二文はどういう論理展開になっているのか?


 これが昨年度の「視点を変える」シリーズにも重なることに気づかねばならない。どこが?


 「視点を変える」といえばスキーマとゲシュタルトだ。

 前半をスキーマとゲシュタルトという言葉を使って言い換えよう。

我々は言語というスキーマによって外界を認識している。
言葉が違えばゲシュタルトも違う。

 後半はフィルターバブルという言葉を使って言い換えよう。

 フィルターバブルは、認識される情報が制限されることを言う比喩だ。これがプラトンの洞窟の比喩に似ていることはすぐわかる。本文では「言葉が洞窟だ」と言っているから、つまり我々は、言語というスキーマが認識を決定する「フィルターバブル=洞窟」の中にいるのだ。

 「他者の言葉」はこれでよし。これを「思考の誕生」に重ねる。

 共通した言葉が接点になるというのがこれまでの常套手段だったから、「他人」と「他者」が結びつけられそうではある。

 さらにここでは印象の類似を想起しよう。ダルメシアン犬が見えることと星座が見えることが似ていると直観したように。

 何か?


 「思考の誕生」で、思考の誕生が「残酷」と表現されていることと、「他者の言葉」で、洞窟の外に引き出されることを「苦痛」だと表現されていることが、まず「似ている」と感じられる。

 これを論理づける。


 前の「物語るという欲望」との読み比べでは、「物語る」が「主張」の明確でない文章だったところに「思考の誕生」との齟齬が生じた。

 だが「他者の言葉」はそれに比べると「主張」がある。わかりにくいが、最後の2文は是非を語っている。

人間は「洞窟の外」へ引き出されるという宿業を負っている。というより、そのような苦痛を引き受けるものだけが「人間」と呼ばれるのである。

 これは「人間」ならば苦痛を引き受けるべきだという「主張」だ。

 この主張が「思考の誕生」と重なってくる。蓮實は残酷さを引き受けるべきだと東大新入生に呼びかけている。

 これを前半の論旨から展開する。

 今回の読解では、それを小論文にまとめる。


思考の誕生 7 物語るという欲望

 「思考の誕生」がすっきりと解釈しきれたとは言わないが次の文章を読む。内田樹の「物語るという欲望」。

 内田樹は去年も読んだ。どれ? 「ことばとは何か」の人だ。

 これと「思考の誕生」とのつながりは、にわかにはわからないはずだ。

 接点は何?


 まず一文要約する。

 前から何度かやったのは題名を使うという方法だ。

物語るという欲望→人には物語るという欲望がある。

 これはまだまだ大事なところを言っていない感じがする。

 一文要約の核心は、主題を示す主述の組み合わせを選ぶことだ。

 みんなに聞いたところ、上のように「人(私たち)」を主語にしていたのは半分くらい。もう半分の人は「物語(物語ること)」を主語にしていた。

「物語」は亀裂を弥縫する解釈から生まれる。

 両者を混ぜると例えばこんな感じ。

人は亀裂・断絶に架橋して「物語」を作りたがる。


 読解のスキルとして「一文要約」以外に「対比をとる」「問いを立てる」などを練習してきた。

 もう一つ、「言い換えの表現をマークする」ことも推奨したい。

 キーワードとなる「物語る」は、文中でどのように変奏されているか?


 次のような言い換えが見つかればOK。

脈絡づける・解釈する・橋を架ける(架橋する)・読み込む(書き込む)

 「読み込む」と「書き込む(書き加える)」が言い換え可能な表現であると見なせるところが面白い。

 同様に、おそらく気になる「何もないところ」の言い換えを探そう。

 ひとまず「亀裂・断絶・飛躍・穴・隙間」を指摘したい。

 これ以外にもう一つ、この文章特有の表現はなかなか出なかった。なぜだろう。

 「反ー物語」がそうだと指摘できれば上出来。これが出てこないのは単に見慣れない表現に警戒しているということか、上の比喩とは違った位相にある表現だ(抽象度が違う)と感じられるからだろうか。


 これらの言い換えは、先の要約の一文で、入れ替え可能なはずだ。言い換え表現だとみなせるというのはそういう意味だ。いくらかは助詞や目的語を調整する必要はあるにせよ。

 こうした言い換えが自由に使いこなせる方が、論旨の共通性を捉えやすい。


 では「思考の誕生」との接点を探ろう。

 共通するキーワードは見当たらない。対応する言葉を探す。

 どのクラスでも「場所と経験」との読み比べで取りあげた「投影」が「解釈」に対応しているのではないかという指摘が相次ぐ。

 それよりやや少数ながら「思考」と「物語」が対応しているという意見も出る。

 やはり少数ながら、もう一つのキーワード「反-物語」が「他人(性)」に対応するのではないかという意見も出る。

投影―解釈・脈絡・架橋…

他人―断絶・亀裂・反-物語…

思考―物語

 言い換えが、同じ文中にあてはまることで確認されるように、対応も同じ(と見なせる)文型にあてはまることで確信できる。

 「他人に自己を投影する」は「断絶を脈絡づけて解釈する」に対応しているように思える。

 「思考が誕生する」は「物語が発動する」に対応するのだろうか。「思考が発動する」と言っても良さそうだし、「物語が生まれる」と言っても良さそうだ。


 だがこれらを一続きにしようとすると問題があることがわかる。一文にしてみると、どちらか一方の文章の主旨に反することになるのだ。例えば上の対応を単純につなげてみる。

  1. 断絶を脈絡づけて解釈することで物語が生まれる。
  2. 他人に自己を投影することで思考が誕生する。

 上が「物語るという欲望」の論旨に適っているとしても、下は「思考の誕生」の論旨にまるで反する。「投影」していては「思考」は生まれない、と蓮實は言っているのだから。

 もちろん逆にしてもだめだ。

他人に自己を投影することでは思考は誕生しない。

話の前後を脈絡づけて解釈しても物語は生まれない。

 内田の論旨にまるで反している。


 どう納得したらいいか?

 上の対応が間違っているのか?

 いやそもそも二人の主張が違っているから反していていいのだ?

 そんな単純に思考を放棄して納得せず、二人の論旨のどこが共通していて、どこで分かれるのかを見定めよう。


 上の3段の対応がそれなりに対応していることを示すために、3段とも使った一文も作れることを示そう。いささか表現に微妙なコントロールが必要だが、できないわけではない。

  1. 脈絡のない断絶に物語が生まれる。
  2. 自己を投影していない他人との間に思考が生まれる。

 これならば内田・蓮實双方の主旨に適う。つまり上の3段は対応しているのだ。

 にもかかわらず最初は上記のような食い違いが生ずると感じた。これはなぜか?


 どちらにも論旨が適うように書いた文型と、論旨が食い違ってしまう文型で表した内容はどういう関係になっているのか?


 共通する文型で表されているのは、つまり共通する認識なのだ。

 だがそれぞれの文章は、その方向性、決着点が違う。最初に表現しようとした文型はそれを表しており、そこに食い違いが生じているのだ。

 このことをうまく説明しよう。


 もう一度、共通する認識を並べてみよう。

  • 他人とともに考えることで思考は生まれる。
  • 断絶のあるところに架橋することで物語は生まれる。

 こう提示すれば、呆気ないと感ずるかも知れない。だがまあそれを切り取ってみせるのがそれほど簡単ではないが。

 これを裏返して、内田の論旨を明確にしてみる。

断絶のないところには物語は生まれない。

 これと対応する論旨を蓮實の用語で表現する。

  • 他人性が希薄だと思考は生まれない。
  • 他人に自己を投影していると思考は生まれない。

 蓮實が「自分で考えることは大事」という言説が喧伝されることを「危険」だというのは、この認識に基づいている。自分だけが宇宙に一人でいるだけでは何の断絶も亀裂もない。断絶・亀裂は異質な他人との間にある。だが他人に自己を投影したのでは、それは「他人」ではない。自分のコピーだ。断絶はない。そこには思考は生まれない。


 とすると、人は断絶を埋めようとして解釈をするが、そうして物語が生まれたとき、そこで思考は死ぬ。

 内田の文章は、そのことの是非を語っておらず、ただ人間はそうしたがるものだという認識を語っている。

 だが蓮實の文章はそれを非だと言っているのだ。 

 思考を始めるためには他人と出会わなければならない。蓮實が「あなたの知性は、その希薄さと残酷さへの感性をはぐくむために費やされねばなりません。」という「希薄さと残酷さ」はそうした自分と他人の間にある断絶を見つめ続けなければならないというメッセージだ。

 内田が「欲望」というのは、断絶から目を逸らして「もっともらしい」認識に安住したがる人間の傾向を言っている。

 だが次の文章では、内田もそのことについての是非を語る。


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