さてこの文章にもソシュールが登場する。となれば言語と類比されているということだし、となれば「広告の形而上学」とも類比できるということになる。
地図・言語・広告・貨幣。
これらの共通点は何か?
ここで先ほどの対比が登場する。
意味/記号
これはすなわち、次の対比のことだ。
意味/言語
商品/広告・貨幣
ということは次の対比もそれと類比的だということになる。
世界/地図
これらはどのような意味で共通しているか?
言語と広告と貨幣の類比は忘れてはいまい。そこではどのような論旨が語られていたか?
とりあえず「恣意」「先後」について言おう。その際、普通はこう思われるだろうが、実は~という語り方をする。文章が書かれるのは、常識に反することを言うためだ。
「恣意」については「言語の恣意性について」で述べられていた「第一の恣意性」と「第二の恣意性」について、分けて言えればなお良い。
「第一の恣意性」は上記の対比の左右の結びつきが恣意的だという時の恣意性だ。若林の文中にある、犬に対して「イヌ」とも「Dog」とも言える、というのがその例にあたる。
「もの」の名前は必然的なものではなく恣意的なものだ。
「第二の恣意性」は切り分け・分節化の恣意性のこと。
虹は七色と言ってもいいが三色と言ってもいい。言語ごとに違う。虹の色の分節は何ら必然的ではない。
これを広告や貨幣について言い、そのまま地図にも適用する。(広告・貨幣については→)
すなわち、ある地域を表すのに、どんな地図でも描けるということだ。
ここは例を挙げたい。どんなのを思い浮かべる?
国土地理院が出しているような「ザ・地図」のようなものも、駅前の観光マップのようなものも、誰かに道案内するためにメモしたようなものでも「地図」だ。
「ザ・地図」も、そこにどんな情報を盛り込むかは千差万別で、道路の接続を重視するか、土地の利用状況を記すか、土地の高低を表現する等高線を描くか、目的に応じて選ばれる。
どの範囲をどの縮尺で切り取るかも自由だ。あるいは、太平洋中心の世界地図か大西洋中心の世界地図か。大抵の国では自国を中心にした世界地図を使う。南北が逆さであってもいい。
では「先後」問題とは?
普通は「もの」(意味)が先にあって、そこに後から名前(言葉)がつけられると思われるのだが、ソシュールは言葉が我々にその「もの」を認識させるのだと言う。
商品に見合った価値の値段がつくのではなく、値段を見てその商品の価値がわかる。
もちろん対象となる土地は物理的には既に存在する。
だが我々は地図を通して、その土地を把握する。
そういう意味で世界が先で地図が後なのではなく、地図が先で世界(の認識)が後なのだ。
さて、これもまた「視点を変える」シリーズだということは、つまりスキーマとゲシュタルトの問題だ。
まずはスキーマとゲシュタルトという概念の関係を確認する。これはつまり、一文をつくれ、ということだ。2種類以上。
復習だ。迷ってはいけない。
- スキーマが変わるとゲシュタルトが変わる。
- スキーマにあてはめてゲシュタルトを構成する。
- スキーマがないとゲシュタルトもできない。
ここに地図を代入する。地図はスキーマか? ゲシュタルトか?
勘の良い人はすぐわかるとおり、どちらでもある。
どちらにもあてはめて、それぞれどのようなことを言っているのかが説明できれば良い。
前の「メディアがつくる身体」に基づくと「メディア」=「スキーマ」=「地図」ということになる。文型を揃えてみよう。
- メディアが身体観をつくる。
- 地図が世界観をつくる。
地図を通して人は「世界」や「社会」を捉える。
これは、地図がスキーマであることを意味している。
ここまでを総合していくと、言語・貨幣・広告・地図はいずれもメディアであり、記号であり、スキーマだということになる。
そして、あるスキーマによってできたゲシュタルトが「社会的身体」であり地図だ。それらは実体ではなく概念・観念・イメージだとどちらの文中でも表現されていた。
我々はそのようにして世界を、自分の身体を認識する。