結論に向けて最初に決着をつけるのは、②「明治の木にはとうてい仁王は埋まっていない」とはどういうことか? という問いだ。
「仁王は埋まっていない」は「彫れない」の隠喩的表現であることは明らかだ。だが「若い男」の言葉を受けた「埋まっていない」という表現から、読者は何らかの「意味」を読み取るべきだと促される。
そこで考える手がかりとして「埋まっていない」が文字通りに意味する「木」の問題なのか、彫れないのは「自分」の問題なのに、それを「木」の問題だと認識している(したがっている)のか、という二択にしてみた。
「木のせい」ということになれば「明治の木から仁王を掘り出すことは、運慶にもできない」あるいは「鎌倉の木なら自分にも掘り出すことができる」ということになる。だがこの仮定推論には違和感がある。運慶にそれができないとは思えないし、自分にできるとも思えない。
つまり問題の立て方が間違っている。
ここには運慶には彫れて自分には彫れないという対比がある。だがそれは運慶という傑出した個人と、平凡な個人という対比ではない。歴史に名を残す鎌倉人と、一明治人との対比だ。「自分」個人の問題ではなく「明治」という時代の問題なのだと考えなければ「明治の木には」という形容に意味を見出すことができない。
仁王を堀り出せないのは、それが「明治の」木であったからだ。そして「明治の木」とは明治人であるところの「自分」が彫っている木を意味する。明治人の「自分」が彫ろうとすれば、木には仁王が「埋まっていない」のであり、それは明治人の「自分」には「彫れない」ことを意味する。
したがって「埋まっていない」(木のせい)と「彫れない」(自分のせい)は同じことを意味している。
つまり問題は「明治の」という条件付けだ。「自分」個人の問題ではなく、「明治」という時代なのだ。
この想定を確認するため、漱石の講演録「現代日本の開化」を読む。幸い「論理国語」に収録されている。
これは「夢十夜」連載の3年後に行われた講演だ。
そこで漱石は、明治の日本の開化がどうだと言っているか?
外国の圧力によって起こった開化を、漱石は「外発的」で「皮相上滑り」だという。「軽薄・虚偽」とまで言っている。
これはもはや種明かしのようなものだ。あるいは答え合わせだ。
つまり「第六夜」はそういう話だ。
このことは、最初の「第六夜」の読解だけで見当がついていたという人もいる。それは素晴らしい。
だが重要なのは結論ではない。こうした「主題」は、ネットに溢れる「第六夜」論でもいくつも見ることができる。それを知ることが国語の学習なのではない。
問題は語り方だ。論の組み立て方、表現の選び方だ。