さて、「他我問題・外界問題」は清算されたが(哲学界隈では)、あらたに「他者性の問題・実在性の問題」が現れてきたという(哲学界隈では)。
この移行に関わっている人を我々は知っている。授業に何度も登場した。誰?
ソシュールの名が思い浮かんでほしい(他にもいろんな哲学者がこうした問題に影響してはいるのだろうが、哲学の授業ではないので割愛)。
ではソシュールの思想が、この変遷にどう影響しているか?
これも簡潔に表現してみよう。
昨年度来のソシュールの思想については、それぞれの理解に応じていろいろな言い方ができるだろう。だがあれこれ言い過ぎると論理が複雑になって適切なのか不適切なのかが判別しにくい。だからどこをどう切り取ると、論理展開にはめ込めるかを考える。
例えば、話し合っている声の断片に「恣意性」「切り分ける」「物が先ではなく言葉が先」などのフレーズが聞こえてくると、それは確かにソシュールの思想だが、ここで使うのには避けた方がいいなあと思われる。
先に「外界問題」をすっきりと言ってみた。「どうしたら外界を確かめられるのか?」だ。
では「実在性の問題」は?
- 言語の「外」は実在するのか?
- それはどうしたら確かめられるのか?
などという言い方ができると見当をつけておく。
ならばソシュールの思想をどのように表現すればその変化の間が埋まるか?
ソシュールが出てきたのは「視点を変える」シリーズだから、おなじみのスキーマとゲシュタルトだ。
スキーマとゲシュタルトという言葉を使う文は二通り作れる。
- スキーマが変わるとゲシュタルトが変わる。
- スキーマによってゲシュタルトができる。
どちらが使えるか?
この言い方をソシュールの問題に変換するなら「言語によって世界が認識できる」ということになる。これで論理がつながる。
外界はどのようにして認識されるのか?
という問いが
言語によって外界は認識される。
というソシュールの思想によって
では言語の外はどのようにして認識できるのか?
と形を変える。
これは表現を調整しながら、論理をすっきりとつなげる国語力が問われる課題だ。
最終的な形を見ると呆気ないように思えるかもしれないが、これを自力で成し遂げるのは相当に難しかったようだった。
諦めずに取り組むべし。
ブレスト的にぐちゃぐちゃと喋ることも有益だが、なるべく簡潔な形に収めることにも、各グループで努力してほしい。
さて、「他者性の問題・実在性の問題」に、では野矢茂樹はどう答えているのか?
鍵となるのは先に確認したとおり「言葉」だ。
簡単に言ってしまえば、言葉が、言葉によるフィルターバブルの内と外を行き来させる、と言っているのだ。
あれっ?
これは「物と身体」を前のあれこれと読み比べたときにも出てきた話だ。身体はフィルターバブルを作るが、身体によってフィルターバブルの外側に出ることができる。身体は両義性を持っている。
同様に両義性を持ったものが言葉だ。
最近、ソシュールを思い出して確認したとおり、言葉が認識を可能にしている。だから言葉が認識を制限しているのではないか、というのだが、同時にそれを運用することによってその外側の「実在」が感じ取れる。
時間がなくて1クラスだけしか読めなかったが、「論理国語」に収録されている熊野純彦「ことばへの問い」という文章でも同じことが述べられている。
ことばこそが、ことばで語れるもの、ことばにならないものの両方を「発見」させるのだ、と。
この文章は、こういう流れで読まないと、言い回しが韜晦に満ちてわかりにくいが、もうすんなり読めるようになっているはずだ。
さて、言葉がフィルターバブルの外へ出る手がかりになるというのだが、となると、その糸口となる、例の「断絶/抵抗・障害/わかりあえなさ/他者/他人(性)」にあたる言葉はあるか?
そのまま「意味の他者性」という表現もある。「語り得ぬもの」という言い方も「物語るという欲望」の「反-物語」「空白」っぽい。
「わかりあえなさ」にストレートに通ずるのは「(他人との)ズレ」という言葉だ。
やはりここでも同じ論理が反復されている。
野矢の文章の最後
今は理解できない。今は語り出せない。しかし、それらを理解し、語り出すために、私は私自身の手持ちの言葉を変え、私自身を変えていくだろう。そうすれば、きっとそれらと出会うことができる。
は、もうほとんど「未来をつくる言葉」だ。野矢が哲学について語ることと、ドミニク・チェンが社会に対するメッセージとして語ることがよく似ているのは、ともにそれぞれの洞窟の外に出ようとする宿命(内田樹)を引き受けているからだろう。
これで前期「思考の誕生」シリーズを一段落する。
みんなの裡にはどんな「思考」が「誕生」しただろうか?