「他人とともに考える」ことを称揚する主張は「共鳴し引き出される力」などと共通する論旨だからわかりやすい。
だが「自分で考えることは大事」だと誰もが言う風潮は「危険な兆候」だという蓮實重彦の問題意識が同じようにわかりやすいとは言い難い。特に「蔓延」などという物騒な言葉を使う問題意識は何を衝いているか?
だがこれ以上「思考の誕生」の中で理屈をこねていても、中で循環して実感にはつながりにくい。こういう時は別の文章と読み比べる。
相手は柄谷行人「場所と経験」。
柄谷は蓮實とともに80年代には批評界・思想界のラスボスの東西横綱のように遇されていた批評家だ。
彼らが80年代以降の思想界に大きな影響を与えていることは間違いないのだが、二人の多くの文章はともかく難しすぎて、あるいは語註の必要のある記述が多すぎて、教科書に載りにくい。大学入試にも出題されない(蓮實重彦の文章を問題にして「正解」など作るのは、どこの大学教師にとってもどれほど恐ろしいことか)。
だが「思考の誕生」は大学新入生向けということで完結しているし、「場所と経験」も、比較的軽いエッセイとして雑誌に載ったものだから、かろうじて教科書に載りうる。「場所と経験」は、かつて「現代文」の複数の教科書に載っていた。
「場所と経験」という文章の問題意識は、文章の印象がそれほど堅くないのと裏腹に、「思考の誕生」と同じようにわかりにくい。それがどのようなものかを捉えるために両者を読み比べることは、実は両者の問題意識に通ずる(それがどのようなものかは今はわかるまいが)。
読み比べるには、まず共通点の把握だ。
キーワードを対応させる。それぞれの文章に共通している語があればいいが、そのままでなくとも、対応していると見なせれば良い。
「抽象的」はストレートに共通しているのですぐに挙がるとして、それ以外には?
重要そうでいて、それに対応する語が他方にもある語…。
「場所と経験」
擬似的 感性的 他者 経験 知識 均質 意味づけ
「思考の誕生」
抽象的 具体的 他人 体験 思考 希薄 投影
多くのクラスでこのあたりが挙がった。
これらを対応させようとする思考が、既に論旨の構造化、すなわち読解だ。「他者/他人」とか「経験/体験」あたりは字面の共通性もあるから見つけやすいが、「意味づけ/投影」をE組でH君が挙げたのは慧眼。
「対応している」と思えるというのは、明示的かどうかはともかく、ある同じ構造の中に位置付けられるという感触を得ているということだ。
「同じ構造」であることを示すためにどうするか。
文を作る。
同じ文型に対応する言葉が入って、それぞれの文章の内容を表していると思えれば、それらが同じ論理を語っているということになる。
まずこれらの言葉を使った短文を作る。全部を一続きで一文にしなくともよい。2~3語を含むように短文を作っていく。
そして、なるべく文の形を保ったままもう一方の文章の対応する語に入れ替えて、文の形を整える。
最初の短文はどちらの文章から切り出しても良い。当然そちらの文章の内容を表しているわけだが、それをもう一方の言葉に入れ替えて、もう一方の文章の内容を表しているかを確かめながら細部を調整する。
試みにひとつ。
「場所と経験」のキーセンテンスはどれか?
キーセンテンスというのはキーワードなどと同じく、重要な一文、という意味だ。
多くの人は末尾近くの次の文がそうだと感じられるはず。
視たものだけを視たということのほかに、どうしてわれわれは真に「知識」をもつことができようか。
まずこれを反語でない文(反語文に対して平叙文とでもいおうか)にする。
視たものだけを視たということからしか、われわれは真に「知識」をもつことができない。
これが最も簡便な言い換えだろう。この「できない」は打ち消しではない。限定だ。これをさらに「~できる。」という平叙文に言い換える。
視たものだけを視たということからのみ真に「知識」をもつことができる。
これで「知識」を使った文が切り取れた。
もう一つ、前の段落の次の文がこの言い換えであることに気づくだろうか。
生きた他者を見ずして、私は「人間」について何を知ることができるだろうか。
これも同じ言い換えをしてみる。
- 生きた他者を見なければ「人間」について何を知ることもできない。
- 生きた他者を見ることからのみ「人間」について何かを知ることができる。
- 「人間」について知るには、生きた他者を見るしかない。
これで「他者」が切り取れた。
この二つの文を混ぜる。
生きた他者を見ることからのみ真に「人間」についての「知識」をもつことができる。
これを「思考の誕生」からピックアップした言葉に言い換える。
生きた他人とともに考えることによってのみ真に思考を始めることができる。
こんなふうにそれぞれのキーワードについて文を作っていく。
「意味づけ/投影」はどちらも動詞にできるので、実は対応させやすい。
「抽象的」は共通しているにもかかわらず本文中での使い方がけっこう違っているので、文の形を合わせるのが難しい。だがどちらも主要な対比の中で否定側を形容するという意味ではやはり対応している。
「均質/希薄」はどちらも形容動詞なので品詞としては揃っているが、やはり原文の前後が一致しない。「均質な空間/他人性が希薄」が対応しているのだ。これを同じ文型にするのはいくらか難しい。
ある程度は生成AIのように、いきあたりばったりに言葉をつなげていって、同時に内容が原文と離れていないかを意識しつつ、文を作ることもできたほうがいい。だがこれはなかなかに難しい。
基本的には本文中から切り取る。本文中での使い方を無闇に変えてはいけない。とはいえ簡潔な形で完結する文の形にする。
「意味づけ」は「テレビの中で見聞きしたできごとに」「意味づけする」だし、「投影」は「他人に自己の内面的イメージを」「投影する」だ。これが対応するように作文する。
例を一つ。
- テレビの中のように均質な空間の中で起こっている出来事に意味づけしてもっともらしさを確保しても、それらは抽象的な出来事にすぎず、真の「知識」にはならない。
- 「他人性」が希薄な他人に自己の内面的イメージを投影して対峙しても、そこに生まれるのは抽象的な思考にとどまり、本当の「思考」とはいえない。
これはいささか欲張りすぎだ。地道にやろう。
ここに表れている問題意識は捉えられてきただろうか?
次の文章を読む前に、問いをもう一つ。
「自分で考える・個性・独創性の推奨」は「抽象的」「危険な兆候」として否定的に言及されている。
また「『他人性』を希薄にする・他人に自己を投影する」も「問題」「蔓延」などと同様に否定的に表現されている。
前者は後者の「風土」の上に生まれる、と言っている。この論理的つながりは何か?
これは表現することが容易ではない。
論理的つながりという前に、両者は正反対の方向性をもっている。何か?
何かと聞いてB組のYさんが即答する。さすが。
「自分で考える」は自分と他人が違うことを、「他人性を希薄にする」は同じであることを志向している。正反対の方向性だ。
これが同じ根っこから生まれることをどう説明するか?
「みんな同じ」と「みんな違う」が同居している状態については、前項でも昨年度の考察を確認した。
これらを例えば因果関係のように表現することもできる。みんな同じになってきたので、その反省から個性化を志向しているのだ、などと。
仮に「自分で考える」ことの推奨の心理がそのようにして生まれるとしても、蓮實はどちらも同じように否定している。蓮實は何を問題にしているのだろうか?
両者に共通する要素・要因をどう言葉にすればいいか。
例えばC組Y君は、それを「自己完結的」という言葉で表現した。
こういうキーワードを見つけることができれば、その共通性をいくらかなりとたどることができる。
だがこの問題は後で振り返る。
