2024年2月26日月曜日

「である」ことと「する」こと 13 -「市民」=「する」論理

 「『市民』のイメージ」は、アメリカの陪審員制度を通して、「市民」という概念について考察している。

 ここでは「『市民』ってまさしく『する』価値・論理を体現している概念だなあ」と思えることが必要だ。

 その感触をもとに、その当否を具体的に跡付ける。「『である』ことと『する』こと」には「市民」は言及されていないのに、なぜ「『市民』のイメージ」が「する」推しだと感じられるのか?


 論証のためにはどう考えればいいのか。

 「『市民』のイメージ」における「市民」という概念と、「『である』ことと『する』こと」における「する」論理を表わす一節をそれぞれ引用し、比較して同じであることを示せばいい。

 例えば「市民」の好例たる陪審員とはどのような存在か?

 「市民たちから無作為に呼び出される」陪審員には「男性、女性、老人、青年、白人、黒人、ネイティブ・アメリカン、アジア系の人たちもいる」。つまり性別や年齢や人種といった「先天的」な要素=「である」論理から切り離されたところに「市民」は存在する。

 そこで「市民」は何を「する」か?


 例えば次の一節を比べてみる。

・「市民」のイメージ

政府権力や大企業の管理・宣伝のままに付和雷同するのではなく、自分の意見をもって自分たちの生活を作り守る、あるいは狭い血縁地縁の利害と興味を超えて広い社会に関心をもつ――というようなイメージを「市民」という言葉は孕んでいる

・「『である』ことと『する』こと」

民主主義というものは、人民が本来制度の自己目的化――物神化――を不断に警戒し、制度の現実の働き方を絶えず監視し批判する姿勢によって、初めて生きたものとなりうる

政治・経済・文化などいろいろな領域で「先天的」に通用していた権威に対して、現実的な機能と効用を「問う」

 「政府権力や大企業の管理・宣伝のままに付和雷同する」ことは「政治・経済・文化などいろいろな領域で『先天的』に通用していた権威」に素直に従うことを意味している。つまり「である」論理に「安住する」こと、すなわち「制度の物神化」だ。

 それに対して「自分の意見をもって自分たちの生活を作り守る」は「制度の現実の働き方を絶えず監視し批判する」こと、つまり「現実的な機能と効用を不断に『問う』」=「する」ことだ。

 「市民」は「する」ものなのだ。


 またC組M君の提起した問題も面白かった。

「市民」という言い方、特に自称の場合は、きわめて理念的な言葉だ。

 ここがどうして「する」なの? と聞き返したのだが、なるほど、「自称の場合」は「なる」要素が強調される。つまり「先天的」ではなくなるわけだ。

 「他称の場合」と比較すればはっきりする。

 「柏市民」とか「流山市民」とかいう場合はもちろん「先天的」だから「である」だし、行政などから一「市民」として他称される場合は、その「市民」的「属性」を指し示されているだけだから、やはり「である」だ。

 それに比べて「市民」を自称する場合は、上記のような「する」論理・価値を「不断に検証」せざるをえないのだ(もちろんそれでも、それが「自己目的化=である化」する危険はあるが)。


 もう一点、重要な接点を捉えたい。例えば次の一節。

具体的証拠と冷静な論理つまり〝筋が通ること〟によって成り立ち支えられる「市民社会」という、より上位のレベルの現実がある。閉じた地縁血縁共同体の情念の濃密さに比べれば、一見抽象的、虚構的にさえ感じられるかもしれないが、それはより普遍的に開かれた現実であり、人類にとって新しい経験である。

 ここから連想される「『である』ことと『する』こと」の論点は何か?


 「人類にとって新しい経験」からは「近代」という概念を連想したい。

 ただし「『である』ことと『する』こと」に「市民」という言葉が扱われていないように、「『市民』のイメージ」には「近代」が登場しない。

 だが「『である』ことと『する』こと」における「近代」とは、煎じ詰めて言えば〈「である」から「する」への移行〉だ。

 上の一節は完全にそれに対応している。

 「人類にとって新しい経験」=「近代」にいたって人類は、「閉じた地縁血縁共同体の情念の濃密さ」=「である」論理から放たれ、「具体的証拠と冷静な論理」=「する」論理によって作る「市民社会」という「上位のレベルの現実」を手にしたのだ。

 「近代」と言えば?

 昨年から繰り返されてきたのは「個人」の確立だ。古い宗教や集団の論理=「である」論理から切り離されて「近代的個人」が誕生した。

 「市民」とは「近代的個人」の確立によって生まれた存在なのだ。


 まずは「同じようなことを言っている」という感触を掴みたい。

 その上で、それがなぜ、どのように「同じ」なのかを言うために、必要な、しかし意味合いを変えることのない言い換えが必要だ。対応関係をみて、文型を揃え、相互に表現を混ぜながら語り下ろしてみると、二つの論が「同じ」であることが実感されてくる。対比構造を意識して使うのも手だ。


 さて次は「市民社会化する家族」だ。こちらはもうちょっと難易度が高い。


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