さて、第二章で考えたいのは、章の終わりの次の一節。
私たちはこういう二つの図式を想定することによって、そこから具体的な国の政治・経済その他さまざまの社会的領域での「民主化」の実質的な進展の程度とか、制度と思考習慣とのギャップとかいった事柄を測定する一つの基準を得ることができます。そればかりでなく、例えばある面では甚だしく非近代的でありながら、他の面ではまたおそろしく過近代的でもある現代日本の問題を、反省する手がかりにもなる
この一節の後半は、難物という以上に、そもそもここまで読んだだけではこれが何のことかはわかるはずがない。とりわけ難しいのは「過近代/非近代」という見慣れない言葉ではなく「ある面・他の面」が何を指しているかだが、これは後で考える(だが皆はこの文章を最後まで読んでいる。だからわかってもいい)。
したがってここではこの部分の解釈を行うことはしない。
まずはこの部分の前半を考える。
ここで「測定」されるという「制度と思考習慣とのギャップ」とは何か?
これもまた、ここだけで考えないであちこちを参照すると、次の章の最後に次の一節がある。
領域による落差、また、同じ領域での組織の論理と、その組織を現実に動かしている人々のモラルのくいちがい
この「領域による落差」というのは、上で保留した「面」ごとの「非近代/過近代」の「落差」のことなので、これもやはり保留する。
だがその後の「組織の論理と、その組織を現実に動かしている人々のモラルのくいちがい」は「制度と思考習慣とのギャップ」ときれいに対応している。
「ギャップ=くいちがい」とは何か?
さらに条件を付け加える。文中の具体例でこの「ギャップ=くいちがい」を説明する。
あれこれ説明の言葉は考えればいい。とりあえずお互いに喋る中で消化していけばいい。
ただし、必ず使わなければならない言葉があり、それを使えば明瞭に説明できる。そのことは意識されていなければならない。
何か?
この文の始まりは「私たちはこういう二つの図式を想定することによって」だ。「二つの図式」? わかりきったことだ。「である/する」だ。
つまり「である/する」を使えば「ギャップ」が「測定」できるのだ。
具体例としては会社員の例を使う。
ということで次のように言えばいい。
「制度=組織の論理」が「する」化しているのに、その組織を現実に動かしている人々の「思考習慣=モラル」がまだ「である」論理であるという「ギャップ=くいちがい」
会社という組織は「する」論理で動くべきなのに、そこで働く人が「である」思考習慣で動いてしまうという「ギャップ」があるのだ。
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