2024年2月15日木曜日

「である」ことと「する」こと 7 -精神的貴族主義

 さて、最後の章は「わからない」部分がいくつもある。表現の問題でもあるが、文脈の問題でもある。


 比較的易しい疑問から取り上げる。

もし私の申しました趣旨が政治的な事柄から文化の問題に移行すると、にわかに「保守的」になったのを怪しむ方があるならば

 この一節の「保守的」とはどういうことか?

 括弧をつけることで示したいニュアンスは何か?

 なぜ「怪しむ方がある」ことを想定しているか?


 考える(説明する)糸口に対比を使うのは習慣化しておく。

 「保守」の対義語は?

 「革新」「進歩」だ。

 「保守的」「進歩的」、ここではそれぞれ何のこと?

 「保守的」=「である」推し、「進歩的」=「する」推しのことだ。

 後半に入って「である」推し=「保守的」になったのを、なぜ誰かが「怪しむ」のか?

 前半は「する」推しだったのに、後半になって「である」推しになっている、結局どっちやねん! と思う人がいることを懸念しているのだ…といった説明がいくつかのクラスでなされた。

 悪くない、がもう一歩。

 「保守的」というのは、進歩に反する、時代の流れに逆行する姿勢だともいえる。よく趣旨がわからない人はそうした反動的な主張を「怪しむ」かもしれないと心配しているのだ。

 もちろん「である」推しであることは反動的なわけではない。それがわかっているうえで、「いわゆる」というニュアンスを出すために括弧をつけている。


 さて最終章で最も「わからない」という嘆きが集まるのは、次の一節だろう。

現代日本の知的世界に切実に不足し、最も要求されるのは、ラディカル(根底的)な精神的貴族主義がラディカルな民主主義と内面的に結びつくことではないか

 ここにはいくつもの「ノイズ」が混じっていて、ストンと腑に落ちることが妨げられる。「最も要求される」などという言い方もそうだ。「私は日本に~が必要だと思う」という主張を一般論として語る体にするために「日本に~要求される」と表現する。この「れる」は受身ではなく自発だ。不足しているのだから当然必要だよね、というニュアンス。

 さらに、この一節に四つも「~的」という形容が混入している。「知的世界」はまあいい。一般大衆をバカにした言い方にも聞こえるが、たぶん丸山真男の講演を聴きに来た人へのリップサービスなのだろう。

 残り三つがうっとうしい。「ラディカル(根底的)」「内面的」「精神的」どれも、そこでつまずく人が出てくる障害となっている。

 思考を整理するためには対比を意識する。

 何か?

 いくつかの候補がそれぞれのクラスで出たが、ひとまず次のような対比を共有しておこう。

  • 根底的/表層的
  • 内面的/外面的
  • 精神的/実体的

 「精神」の対義語は「肉体」であることが多いが「肉体的貴族」は何のことかわからない。ここでは現実の身分としての「貴族」ではなく、比喩的に「貴族のような心持ち」くらいの意味で「精神的貴族」といっているのだ。

 どれも似たような対比だ。つまり外側だけでなく、形だけではなく、見た目だけでなく、といった意味合いをこめているわけだ。


 結局、この部分の問題の核心は「貴族主義」をどう理解するか、だけだ。それ以外の「ノイズ」に惑わされていると、いつまでたっても考えるべきことが考えられない。

 「貴族」は上に見た通り「精神的」だと言っているのだから、つまり比喩だ。「貴族(のような)主義」なのだ。

 比喩は「花/果実」の考察でもやったように、それが持っている性質の何をとりあげているのかを指摘できれば良い。

 さて「貴族」のような、とはどんな性質、状態、論理、あり方なのか?


 もちろん方針としては、「である」側に分類されている対比項目のどれかを使うことと、「する」側に分類されている項目を「~ではなく」で使うことを考えよう。こういう既習事項を活かさずに「貴族」という言葉を眺めて唸っていても埒が開かない。

 それぞれにどの項目を使えば良いか?


 さらに対比を考える。「貴族主義」は「民主主義」と対比されていて、それが「である/する」に対応することは文脈から読み取れる。

 「貴族主義」と「民主主義」が結びつくというのは「である」と「する」が望ましい形で結びつくということだ。つまり「貴族」という比喩は「である」の肯定的な面を表している。


 さて問題の「貴族」だ。

 この比喩が難しいと感ずるのは、実はこれの対比が文中に既に出ているのに、それに気づかないからだ。だから突飛なものと感じられる。だが丸山は、唐突に「貴族」と言っているわけではない。

 「貴族」の対比は何か?


 あれこれの候補を口々に言うことができるのは、クラスの雰囲気が良いことの表れだ。いくつもの候補が挙がるのは、いきなり「正解」が提示されるよりよほど好ましい。比較の上でその適切さを考えることができるのだから。

 その中で誰かがそれを言い当てる。その人は誇って良い。

 だがむろん、それを訊かれる前にその対比に気づくことができたらなお素晴らしい。授業者がそれに気づいたのも、いくつかの学年で授業をやってからだ。


 さて目指すその言葉はここまで既に2回、文中で使われている。

  1. 学芸のあり方をみれば、そこにはすでにとうとうとして大衆的な効果卑近な「実用」の規準が押しよせてきている
  2. 文化での価値規準を大衆の嗜好や多数決で決められない

 これら「大衆」と対比されて「貴族」の比喩がある。このことに気づかずに「貴族」を解釈するのは難しい。

 ここで「大衆」が否定的に使われていることは、先の文脈で「貴族」が肯定的に使われていることと整合する。「大衆/貴族」が「する/である」の対比なのだから、「大衆」は「する」価値・論理の否定的な面を表しているわけだ。

 1から反照されるのは、「役に立たない」ものに価値を見出そうとする「貴族」のイメージだ。

 「卑近」の対義語を確認しておこう。「高尚」が想起されればOK。

 「貴族」は「実用」性に乏しくとも「高尚」なものに価値を見出すのだ。例えば?


 2から反照されるものは「多数決」の対比で考えよう。

 既に「貴族主義」が「民主主義」と対比されているのだから、「多数決」が「民主主義」だとすれば「貴族主義」は「封建」とか、もっといえば「独裁」とかいった概念を連想させるかもしれない。

 だが「独裁」を肯定するわけがない。

 では「多数決」の否定的な面とは何か?


 上の言葉を使うならば「多数決」では「卑近な実用の基準」によって決定されてしまうおそれがあるということになる。目先の人気投票で物事が決まる。

 それと対比される「貴族」とは、単に人気のある物を良しとするのとは違った価値観を示している。

 大衆の多数決は「流行」を生むが、貴族は「不易」を醸成する。

 貴族的「不易」を表す言葉を文中から探すと?


 既に挙げられている「かけがえのない個体性」であり「それ自体」の価値であり、「蓄積」だ。

 「蓄積」の対比として「大衆」にふさわしい語を文中から挙げよう。二字熟語で、サ変動詞にできる語。

 「消費」が挙がればOK。「大衆は消費する」が「貴族は蓄積する」のだ。

 一時の流行を消費しているばかりでは文化は衰退してしまう。役に立つかどうかで判断していては文化などすぐに捨て去られて蓄積されない。

 そこには「古典」も生まれない。

 「貴族」はそうした一時の流行に左右されない価値(=不易)を重んじ、それを後世に伝える財力も権力もある。

 文化を創り上げてきたのは大衆かもしれないが、それを庇護し、後世に伝えてきたのはそうした「貴族」だ。「パトロン」という言葉があるが、これは芸術家を支援する貴族のことだ。いわゆる「古典」となる芸術作品・文化財は、貴族の財産として受け継がれたことによって人類が手にできている例も多い(古い名家の蔵から発見されました、とか)。


 さてここまで読めば、この章のもう一つの難所である「文化の立場からする政治への発言と行動」を考えることができる。上に確認した通り、これは「貴族主義」の立場から政治に対して発言したり行動したりするということだ(ちなみに「する政治」ではない。「立場からする」だ)。

 具体的にはどんな「発言・行動」を想起すれば良いか?


 こういうときにみんなが想起する例は、適切なものから見当違いなものまで、グラデーション状に散在する。そういうさまざまな例がいくつも挙がり、その適切さについてみんなで考えるというのが有益な学習だ。正解だけが示されても、その適切さを認識することは難しい。不適切さとの比較で適切さが明確になる。だからみんながそれぞれに思いついた例を挙げる。

 いくつかのクラスで挙がったのは、学者や芸術家などの専門家が「文化の立場」から意見を述べる、という例だった。

 これは悪くはない。「文化」がこの文中では「学問・芸術」をまとめた言葉だとちゃんと理解している。政治家に対して学者が意見することは必要だ。

 だがさらに具体的にはどういった「発言・行動」なのか?


 考えるための重要な手がかりは、それが「する」論理・価値に対抗するような「である」価値・論理にくみするような発言・行動であるべきだということだ。

 例えば「コロナの感染症対策に専門の医者が意見を言う」などという例が挙がったクラスが多いが、これはどういう意味で「する」論理に「である」論理が対抗していることになるのか不明確。


 さらに、「行動」には誰の「行動」が含意されているか?


 これが一般人向けの講演であることを考えれば、ここには専門家だけでなく、我々国民一人一人の「行動」を念頭に置いて話しているはずだと考えるべきだ。直前の「政治化」とは、政治が国民に開かれたものになることを表している。

 国民が「政治」に対して起こすべき行動とは?


 我々市民の行いうる活動といえば、署名集めでもデモ(示威行動)でもいい。あるいは投票も「行動」として当然想定されているはずだ。

 それらが「文化の立場からする」と言いうる例を想起すればいいのだ。


 さて、適切な例として安易に思う浮かぶのは、そのまんま文化保護や文化支援を支持する「発言・行動」だ。かつ、それが政治・経済=「する」論理に対抗しているような場合を想起すれば良い。

 例えば貴重な文化遺産を壊してしまうような開発に対して反対すること。道路を通すことは経済性の原理(「する」原理)からすれば好ましいことであるが、そのために古い町並みや遺跡を壊して良いのか? 儲かるとか役に立つとかいうことにとらわれない価値を提示するのが「である」価値だ。

 専門家なのか一般市民なのかは問題ではない。「である」価値に与する「発言・行動」なのかどうかだ。

 例えば、実体としての「貴族」なき現代における「精神的貴族主義」的な「行動」として、政府や自治体や企業によるメセナ(文化支援)活動などを挙げてもいい。

 あるいはいくつかのクラスで挙がった「環境保護」もいい。環境保護はなぜここでの「発言・行動」として適切なのか?

 「効率・機能・実用」だけで政策が決定されてしまうと、「自然」などというものは損なわれるおそれのある。自然環境とは長い時間を掛けて「蓄積」された「かけがえのない個体性」を持った生態系だ。それを「大衆」の「実用性」によって「多数決」で損なってしまうと、二度と取り返しがつかないかもしれない。そうした価値を守ろうとするのが精神的貴族主義だ。

 あるいは最近の例でいえば、「大学改革」として、成果を上げていない学部の予算を縮小しようなどという動きがある。しかし基礎研究は目先の成果では計れない、蓄積の上に生じる価値だ。

 あるいは文系学部縮小論もそうだ。大学の文系の学問は、経済性・実用性という観点から見れば「役に立たない」ものに見えかねない。だが人文学は効率性・実用性よりも、人間にとっての「価値」を考える学問だ。そうした価値の蓄積の上に人類の文化があるのだ。

 こうした「である」価値を守ろうという「発言・行動」として、今自分が想起した例が適切であるかどうか考えよう。



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