22行目の「まつすぐにすすんでいく」という比喩は何を意味しているか?
これを「今まで通りの道を逸れずに」とか「目的に向かって一直線に」などと言い換えても、まるで具体的ではない。「道」「目的」とは何を意味しているかがあらためて問題になるだけだ。
「人として正しい道を進んでいく」でも、ほとんど同語反復だ。
この詩の文脈に沿って、これがどのような事態を喩えたものであると考えると、妹が安心することとの因果関係が成立するのか?
さて、この問題と合わせて考察してみたいのは、39行目「(Ora Orade Shitori egumo)」についてだ。
この行については誰しも、なぜローマ字表記なのか? と考えたくなる。
だがこれを問う気にはならない。この疑問について何かすっきりと腑に落ちる解釈を授業者はもっていないからだ。
もちろんこの問題への主流の解釈は知っている。だがそれを聞いても、別段なるほどとは思えない。
それは専ら、この部分の解釈が「なぜ賢治はローマ字で書いたのか?」という形で問われることに因る。つまり解釈の発想が「作者の意図」に向かっているのだ。
だがそれはどこまでいっても推測に過ぎない。だから後で紹介する一般的な「解釈」を聞いても、何だか怪しげだと思ってしまう。
それよりもこの詩句については時間があれば問うべきなのは次の問題なはずだ。
「(Ora Orade Shitori egumo)」は誰の言葉か?
「Ora」とは誰を指しているか?
註には「私は私でひとりいきます」という意味だと書いてあるだけで「私」が誰を指しているかは書いていない。
これを問いとして想定する授業案を見たことはない。
だが問うてみれば、必ずどのクラスでも兄と妹に意見は分かれる。
意見が分かれるということは考察の余地があるということだ。
「Ora=私」とは誰なのか? そして「ひとりでいく」とはどういう意味か?
このことが問われない理由ははっきりしている。結論は既にわかっているものとして看過されているのだ。
だが詩の言葉自体からはそれが確定できず、どちらの解釈も可能だ。それなのにこうした問題が授業で問われないことには二つの要因があると思う。
一つは、つまり解釈の結果を生徒に提示するのが授業の役割だと考えられていること。
もう一つは、「作者の言いたいこと」を考えるのが読解だと考えられていること。
一つ目の認識が誤っていることははっきりしている。授業は生徒の学習のためにあるのであり、現代文の学習とは生徒の国語力を伸ばす練習だ。解釈という行為自体が学習なのであり、その結果の提示はほとんど学習にはならないばかりか、タイミングによっては学習の機会自体を奪うことになる。
もう一つは、評論文については間違っているわけではない。読解はそのテキストが示す「意味」を探る行為であり、それはほとんど「作者の言いたいこと」でもある。
だが文学作品というテキストは、単に「意味」を指し示す散文と違って、読者との間に新たな「意味」を算出する開かれた芸術作品だ。
だから問題は「降る/沈む」の考察同様、まずは読者がどのように感ずるか、だ。そしてそれが作者の意図によるものかどうかを推測し、そこに明確な答えを見つけられなくとも仕方ないと受け止めるべきなのだ。
あらためて「Ora=私」とは誰なのか?
兄説、妹説、双方を検討してみよう。
妹説の根拠は、丸括弧で括られている他のふたつ「あめゆじゆ…」「うまれて…」が明らかに妹の言葉だから、というものだ。
もちろんこの推測は一定の説得力をもっている。
だが「丸括弧は妹の言葉だ」という判断は、根拠ではない。それ自体がある解釈の結果だ。
ではそもそもこの詩における丸括弧はどのような意味を持っているか?
丸括弧内の言葉とそれ以外の言葉にはどのような違いがあるか?
この問いに「丸括弧は妹の言葉だ」と答えることが論理的に間違っていることは、誰もが自覚しなければならない。
この問いに答えることは先の「ふる/沈む」の語義を答えるのと同様の、わかるはずのことを正しく言い当てることの難しさがある。だから誰かがそれを言い当てた時に「ああそうか」という納得の反応が皆から上がる。
丸括弧に括られている言葉は、三つとも方言であり、それ以外の地の文は標準語だ。それ以外の違いはない。
そこから括弧内の言葉を、口に出された言葉であるという解釈がなされ、文脈によってそれが妹が口にした言葉であると解釈される。
だから「括弧内は妹の言葉」は解釈の結果なのだ。
だがその語り手が統一されている保証はない。むしろ、これだけがローマ字で、三文字下げになっていない、といった差異によって、(Ora…)は他の二カ所と区別されているとも言える。
ではこれが兄の言葉だと考えるとは、どのような解釈なのか?
心中語なのだ。他の詩行とは違う形式でそれを挿入することによって語りを重層化しているのだ。
この解釈を否定する論理はないはずだ。括弧を使って語りを重層化する手法は、賢治の他の詩にも見ることができる。
だがなぜか、この言葉は妹のものであることは世の解釈においては前提されていて、どちらであるかが検討された跡は見られない。世の授業者自身は、一読者としてこれを疑問には思わなかったのだろうか?
丸括弧が付されていることを根拠にこれを妹の言葉として読んだという、自らの読みを根拠に、これが妹の言葉だと主張するのは、単なる同語反復だ。これは「語り手のいる場所」の考察における、「外にいたら『おもてはへんに…』とは言わない」という主張と同じだ。反対側の解釈の可能性を検討して選択したわけではない自らの唯一の解釈を盲信している。
内容的にはどう考えるべきか?
この一行を挟む「けふおまへはわかれてしまふ」「ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ」の間にこの言葉を置く。
妹だとすると、残していく兄を案じて、妹が別れを告げた言葉だいうことになる。あえて、一見冷たくも見える別れの言葉に、これからも生きていかねばならない兄への気遣いが見てとれる。
一方兄だとすると、妹との別れを受け入れ、生き続けていこうとする決意の言葉だと受け取れる。それを心の中で呟いてさえ受け入れ難いその認識をもう一度「ほんたうに」と繰り返すのだ。
そして36行目の「わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ」の「いつしよ」が「Shitori(ひとり)」になってしまうことへの悲痛な思いは、それがどちらの言葉であっても読者にそれと感じられるはずだ。
やはりどちらにも解釈できる。どちらの解釈が適切であるというような有意な差はない。
さて、この問題をこのタイミングで提示するのは、もちろんミスリードを意図している。「まつすぐにすすんでいく」とこの「私は私で一人、行きます」を結びつけさせようとしているのだ。
どうなるか?
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