2024年2月15日木曜日

「である」ことと「する」こと 10 -抽象度を揃える

 「『である』ことと『する』こと」は、前半では日本の「非近代的」な「面」について述べ、後半では「過近代的」な「面」について述べている、と把握される。

 「日本の急激な『近代化』」の章は前半と後半のいわば橋渡しだと考えればいい。最後の「価値倒錯を再転倒するために」は全体のまとめだ。


 ここまでの考察はかなり論理的に進めているが、それよりもまずは漠然と「前半は『する』推しだったのに、何だか後半は『である』推しになってるなあ。」くらいの捉え方はしておきたい。

 つまり「する」推しなのにそうなってないから「非近代的」だということで、「である」推しなのに「する」が蔓延してくるから「過近代的」だということだ。

 これがぴんとくるためには、この文章の「近代」が「である」→「する」という移行・転換だと捉えられていることが必須だ。


 前項では前半・後半の「面」「領域」「ところ」を「政治/文化」と称しておいた。「政治的な事柄から文化の問題に移行すると」からの抽出だ。「文化の立場からする政治への発言と行動」でも同じ対比が使われている。

 だが本文中に登場する諸要素(抽象語・具体例・形容・比喩…)を全体としてレイアウトしようとするには、「政治/文化」というラベルはいくらか粗い(抽象度が高いとは必ずしも言えないが)。例えば最初の制度や民主主義の話題を「政治」でまとめるとすると、その後に出てくる会社の例の収まりがわるい。

 そこで「政治/文化」を、それぞれ二語ずつに置き換える。抽象度の揃った二字熟語だ。文中にある。何か?


 文中にある次の対比。

政治・経済/学問・芸術

 全体を把握しようと意識したとき、確かに前半では「政治・経済」という言葉で括れる領域については「する」を大切にすべきだと言い、後半では「学問・芸術」とまとめられる領域について「である」を大切にすべきだと言っているのだ、と考えると、この文章の主旨が腑に落ちるはずだ(休日と宿屋の例が若干収まりが悪いが)。

 「『である』ことと『する』こと」という文章(元は講演録だが)の読解の核心はここだ。

 全体を「非近代/過近代」という二つのまとまりで捉えること。

 そしてそれぞれが対象としている領域・「面」を「政治・経済」/「学問・芸術」という、抽象度の揃った概念語で捉えること。

 この二つができれば、読解のおおよそは完了したと言っていい。


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