「ギャップ=くいちがい」の考察を利用して次の4章の一節を考える。
日本の近代の「宿命的」な混乱は、一方で「する」価値が猛烈な勢いで浸透しながら、他方では強靱に「である」価値が根を張り、その上、「する」原理をたてまえとする組織が、しばしば「である」社会のモラルによってセメント化されてきたところに発しているわけなのです。
ここで考察に値するのはどこか?
「物神化」同様「セメント化」という見慣れない表現に目を奪われてしまう人も多い(だからここが脚問になっている)のだが、こんなところは大した問題ではない。これは単に「固まっている」という比喩に過ぎない。
これは、具体例が思い浮かべばいいのであって、しかもそれは既に文中で述べられている。
前項の「ギャップ=くいちがい」の考察をそのまま応用すれば、会社は「する」原理をたてまえとする組織のはずなのに、人々のモラルが「である」のまま固まっている=「セメント化」しているということだ。
それよりもこの一節の問題は「一方/他方」という対比にある。
この対比が指し示しているのは、実は先に保留にした「ある面/他の面」とほとんど同じなのだが、そうすると同様に、これも保留することになる。
ここでは先の考察にからめて次の問題を考察する。
「日本の近代の~混乱」は「ギャップ=くいちがい」を生ずるからだが、なぜこの混乱には「宿命的な」という形容が入っているか?
この括弧のニュアンスは「わかるでしょ?」という感じだ。丸山は読者(聴衆)に向けてサインを送っているのだ。この「混乱」は例の、あれだよ、と。
読者はこの混乱が「宿命的」であるわけについてわかっていなければならない(ちなみに、この後の誘導によって全員に気づいてもらう想定で授業を進めるのだが、試しにH組でK君に、ノーヒントで「宿命的って何のことだかわかる?」と聞いたら、K君は「ああ、あの『皮相、上滑りの話ですよね』とこともなげに言ったのだった! 心底驚いた。この言葉ですら、何のことかわからない人が多いはずだ)。
なぜ「混乱」は日本にとって「宿命的」なのか?
勘の良い者は気づいているだろうが、皆で一斉に気づくためにこの章の終わりの次の一節に注目する。
私たち日本人が「である」行動様式と「する」行動様式とのゴッタ返しのなかで多少ともノイローゼ症状を呈していることは、すでに明治末年に漱石がするどく見抜いていたところです。
漱石?
これもまた説明不足だが、わかる人にはわかることだと見なして喋っているのだ(K君のように!)。
そして皆もまた「わかる」べきなのだ。去年読んでいるのだから。
それが、今年度の教科書には、111頁~に載っている! 夏目漱石「現代日本の開化」だ。
これをどこで読んだ?
「夢十夜」の「第六夜」解釈の参考資料としてプリントして配った。
先のK君の「皮相、上滑りの話」というのはこれのことだ。
そして皆が使うなら、「皮相、上滑り」と言い換えられている「外発的」という言葉がちょうどいい。ざっと目を通して、皆がこの言葉に目を留めたのは勘が良かった。
ここで漱石が「現代の開化」と呼んでいるのは、明治の「文明開化」のことであり、それはつまり日本における「近代化」のことだ。
漱石は日本の近代化が「外発的」だったという。
明治の開国とともに西欧の文化の流入にさらされた日本の「開化」は「外発的」であり、その変化は急激だった。
これが「ギャップ=くいちがい」を生ずる。
「内発的」とは、自然の、必然の推移を表わしている。「開化」が「内発的」に起こった西欧は、その変化には相当の時間をかけている。だから「ギャップ」が生まれない(日本に比べれば)。
「外発的」に近代化した日本の混乱は「宿命的」だったのだ。
0 件のコメント:
コメントを投稿