「鳥の眼と虫の眼」の読解・考察は最終的に600字の小論文にまとめる。その前に授業で共有した考察結果を整理する。
前回、対比のグループを三つに整理した。
「近年の人類学」で示される「鳥/虫」軸。
『大草原』『オリエンタリズム』で示される「西洋/非西洋」軸。
「視点を変える」というテーマを表す、視点の相対性を示す対比軸。
これらの関係を考える。
前々回挙げた「主人公/異端者」「英雄/普通の人」「大人/子ども」とともに「征服者/訪問者」という対比も文中から容易に見つかる。この対比はどのような位置付けになるか?
例えば「征服者/訪問者」は「英雄/普通の人」と並べられそうな感触がある。「征服」という行為は「英雄」的に映る。「普通の人」でなければ「訪問者」たりえない。
また「西洋/東洋」にも並べられそうに見える。「黒人奴隷」に対する「白人」は「征服者」だ。
では「黒人」は「訪問者」なのか?
そんなことはありえない。「訪問者」とはアリスのことだ。アリスと「黒人」をひとくくりにする論理は見出せない。
これは対比の軸が違っているということだ。
対比の多くは「対立」であり、しかもその多くは否定/肯定の対比だ。「征服者/訪問者」はそうだ。「訪問者」であるアリスは肯定的に描かれている。
では「征服者」とは誰か?
「鳥/虫」軸を語る人類学のくだりに次の一節がある。
空からの視線は支配者の視線に通じる
「支配者」は「征服者」の言い換えだろう。どちらも否定的な表現に見える。
それに比べて「虫」の視点からは「細やかな機微」を捉えることができる。これは肯定的だ。そしてこの視点を持ったものが「訪問者」だろう。
だがこのくだり、表現の、それこそ「細やかな機微」を感じ取る必要がある。
「鳥瞰図への批判と虫の眼への接近」は左辺を否定的に捉える対比かと一瞬思えるが、続く一節は「それはきっと、ある意味では正しいのだろう。」という、微妙な保留のニュアンスがある。「ある意味では」という限定にしろ「きっと~だろう」という推量形にしろ。
そして空から見ている人として登場するサン・テグジュペリはこの文章で「批判」されているのか? とてもそうは思えない。「空からの視線は支配者の視線に通じる」に続く文の冒頭は「だが」だ。
だがサン・テグジュペリは、上空から見るともしびについても書いていた。
ここが逆接になるのは、どのような方向で論を進めたいということの表れなのか?
「鳥/虫」対比において登場する「支配者」は左辺。
「支配者=征服者」と見なしていいように思える。
では「鳥/虫」と「征服者/訪問者」は同じ軸か?
さらに「征服者=支配者」は「西洋」に対応しているから、これは「鳥/虫」軸と「西洋/非西洋」軸がそのまま接続するということか?
恐らくそうではない。それは論理が混乱している。
そして明らかにこの文章の最重要プレーヤーはサン・テグジュペリとアリスだ。
二人は、この文章の論理の中でどういう位置付けにあるのか?
二人の存在を通して、どのようなメッセージを伝えているのか?
なんだか「鳥の眼と虫の眼」の本文のように、問題の投げかけばかりしている文章になってしまった。
後は各自で考えて。
頑張ります
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