文化人類学者・石井美保の「鳥の眼と虫の眼」は、評論というよりは随筆(エッセイ)というべき平易な筆致で書かれている。こういうのは難しい評論とは違った意味で手強いことがある。筑波大の国語の問題も、大問一の論理的文章より大問二の文学的文章(随筆を含む)の方がはるかに難しい。
この文章も、当たりは柔らかいがその実、なまなかなことでは読み下せない懐の深さがある。味わい深く、感動的でもあるのだが、論理を追うのは難しく、すっきりと読み下せない。
「わかる」ためにはスキーマがはたらかせるのが有効だ。ここでも、これまでの流れに従って「視点を変えると物事は違って見える」というスキーマにあてはめてみよう。
前の二つの文章にしたがって、二つの視点の対比を文中から挙げる。
ところがこの段階で既に一筋縄ではいかないことがわかってくる。
みんなが挙げるいくつもの対比は、どうやら一つの軸上に並んでいるわけではないのだ。
そのことは、自分たちでいくつもの対比を挙げながら気づいていったろうか?
一つの対比軸は、いうまでもなく「鳥の眼/虫の眼」だ。これが「森を見る/木を見る」と重なるのではないかと予想していたのだった。
確かに「近年の人類学」に言及しているくだりではその対比が浮上してくる。だがこの部分、この対比によって何を言っているのか捉え難い。
さらに、この文章で対比されている視点はこれだけではない。
文中から見つけ易い対比として
主人公/異端者
英雄/普通の人
がどのクラスでも挙がったが、これらは同一軸上には並べられない。
「主人公」と「英雄」は同じ側に置かれそうにも感じられるが、「異端者」と「普通の人々」はどのような意味で同じなのか?
例えば次の一節を参照してみよう。
その主人公はでも、いつも英雄だったわけではない。それはつつましい普通の人でもあった。
「主人公」がある時は「英雄」であり、ある時は「普通の人」であるとすれば、軸の左右は時によって入れ替わってしまうということだ。固定的に並べられない。
大人/子ども
も同様だ。そもそも「大人/子ども」とは文中の何を指しているのか?
「ローラの父親/ローラ」という対比か?
「大人になってからの松村さん/子どもの頃の松村さん」?
このエピソードは、「大人」になった松村さんが、「ローラ(子ども)」の視点から物語を見直したときの「別様に見えてくる」思いを語っている。つまり上の具体例の対比は、左右が捻れているのだ。どちらの例に対応しているかによって「大人/子ども」は逆転する。このような軸に、他のどのような対比を並べられるのか?
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