国語のテスト問題において「正解」とは何か?
多数の日本語の使い手が妥当だと認めるところのものだ。つまりテストの正解は多数決で決まる。
多数決といっても過半数をようやく超えるくらいの賛成では、正解としての正統性(「正当性」でも「正答性」でもない)が疑問視されるから、テストの正解となれば、大多数の日本語の使い手が妥当と認めるものでなければならない。
他の教科の「正解」も実は同じではある。「客観的事実」などというのものは大多数の者がそれを事実と認めているということでしかないから、単に知識を問うているだけにみえる社会科の問題の正解も、○×が明確だと思われがちな数学の正解も、多数決という意味では本質的には同じだ。ただ、国語科はその正解を支持する人が100%から大きく隔たるというだけの違いでしかない(これを称して「国語に正解はない」などという俗説が跋扈することになるのだが、これついては別稿で)。
だが大多数の日本語の使い手がそれを妥当と認めるような答えが正解となるのなら、国語のテストというのは論理的必然として正答率が高く、つまり易しくなってしまう。
だがそれでは受験者に差をつけることが目的であるようなテストの場合、その機能を適切に果たせない。テストは平均が6割くらいになるのが望ましいということになっている。受験者が、そこを頂点とする正規分布を作るように正答するのが適切なテストだ。
ということは、実は「正解」は、本当に大多数の日本語の使い手がそれを妥当と認めるようなものではなくて、6割程度の日本語の使い手がそれを妥当と認めるようなものになっている可能性もある。それどころか「難しい問題」つまり正答率の低い問題とは、実は単にそれを妥当と認める人が少ない、おかしな問題というだけなのかもしれないのだ。
テストにおける「良い問題」とは、その道の専門家が解けば正答率が高く、同時に素人には正答率が低くなるような問題だ。専門家にも正答率が低ければそれは単に問題が不適切だということだし、素人に正答率が高い問題は易しすぎる。
あるいは、短時間で解いたときには正答率が低く、時間をかけたときには正答率が高くなるような問題が「良い問題」だとも言える。
つまり、専門家が時間をかけて考えると正答率が極めて高くなり、素人が時間をかけずに解くと正答率が確率的ばらつきに近くなるような問題こそ「良い問題」なのだ。
さて、公立高校の入試問題には、毎年いくらかの割合で「良くない問題」が出題される。問題作成者に比べてもその専門性が劣るはずのない国語科教員が揃って不適切だと思う問題が。
その不適切さの度合いや種類は様々で、問題の条件からその「正答」に至ることが多くの偶然に依拠するしかないような「運ゲー」要素が強い問題や、「正解」と同程度に正解とするしかないような別解がある問題など。
今年度の問題にもそうした不適切な問題はあった。
本文についての解説が問題で示され、その解説文の空欄にあてはまる文言を、本文から抜き出してあてはめる、その一節を答えるタイプの問題。字数が示されていることが正解についての条件となっているから、それが別解を排除する一つの制限にはなる。だが、同じ字数で、その空欄にあてはめても全く問題がないと思われる箇所が他にも本文中に存在するのだ。
全ての県立高校は、県の示す「正解」に基づいて採点しなければならない。したがって、「別解」に得点を認めることはできない。だが、設問はその「別解」を不適切であると言うことのできる条件を備えていない。県の示す「正解」でもいいが、別の、この一節を挙げることが国語力の低いことを意味しない。
こうした不適切な問題がなぜできてしまい、なぜそれがチェックの眼を逃れて実施されてしまうか?
国語の問題というのは、先に答えを決めてから問いを作る。ある解答を答えさせようと問題を設定する。確かにその問いに対してそう答えることは適切かもしれない。だが問題が受験者の思考をよほど的確に制限しない限り、その問いから考えられる範囲はその答えよりも広いかもしれないのだ。寿司を答えさせようとして「多くの日本人の好きな食べ物は?」と問う。寿司が不適切だとは言わないがカレーでもラーメンでもいい。
問題作成者だけでなく、チェックをする者が必ずいるはずだ。だが、自分で問題を解いてみれば「カレーかラーメンかオムライスか…」と迷うはずなのに、自分で解く前に答えを見て「寿司」という答えに納得してしまう。問題の問題点は看過されてしまう。
こうしたことは程度問題としては不可避だが、できるだけ避けるべく問題を真摯に検討するのが誠実というものだ。
さて、県に、別解を認める気はないか問い合わせをする。そのまま採点して、後から訂正することになるのは面倒だから、という理由でもあるのだが、それよりもまず、このまま採点することは国語科教員としての良心に反するからだ。
だが県が認めるだろうことを期待してはいない。問題に不備があったことを認めることなど、県はよほどのことがなければしない。そして、こうした、文章の解釈次第ですと言い逃れられるようなタイプの問題では、決して訂正を認めない。認めるのは、こちらの字でも辞書に載っています、といったような「客観的」証拠を示せるような漢字の問題くらいだ。
で、結局認められない。「正解」には正解の理がある。もともとそれを否定しているわけではない。それよりもこちらの提示した別解もまた日本語の使い手として自然に思えると言っているだけだ。だが認めない。
こうした結末は予想どおりだ。だがこうした意見表明には意義があるはずだ。
先述の通り、国語の問題の「正解」は多数決であり、専門家であるところの採点をする国語教師たちが揃って別解も「正解」とすべきであると判断しているのだ。論理的に言ってこれが「正解」でないはずがない。
本当は全ての県立高校がこうした問い合わせをすべきなのだ。そうすればそれが多数意見であることが白日の下に晒されるのに。どうせ認められないよといって問い合わせをしないでいることで、問い合わせをするような学校が「少数意見」であると県に言わしめてしまう。
だがまっとうに考えてそんなはずがあるものか。一つの職場の全員が同意していることに、県下のほとんどの教員が賛成しないわけがない。
だが現実には、ほとんどの教員は、県に何を言っても無駄だと諦めているか、単にその問題について自分では考えていないかだから、結局こうした「問題のある問題」が実施され、受験生はその分、運不運で合否が決定されるのだ。
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