小論文はうまく言いたいことが書けたろうか。600字はみじかすぎる。収めるのに苦しんだかもしれない。
字数を気にせずに以下に授業者の読解を示す。
この文章で最も重要な対比が「鳥の眼/虫の眼」であることは明白だ。
そしてこの文章の最重要プレーヤーはサン・テグジュペリとアリスであることもまた明白であり、この二人が「鳥の眼/虫の眼」という対比に対応していることがまず指摘されなければならない。すなわちサン・テグジュペリが「鳥の眼」を持つ者、アリスが「虫の眼」を持つ者である。
そしてこの対比は、どちらかが中心だったり、どちらかが肯定的/否定的であったりはしない。アリスもサン・テグジュペリも、どうみても肯定的な存在として描かれている。
だから「鳥の眼も虫の眼もどちらも大事」ということになるのだが、それだけで終わってはならない。「木を見る、森を見る」なら結論はそれでもいい。だがこの文章ではどのような論理で、どちらも大事、と言っているのかが論じられなければならない。
問題は、もう一つの交換不可能な対比「西洋/非西洋」と「鳥/虫」の対比、二つの対比の関係をどう考えるかだ。
この二つの対比は「鳥の眼」が「支配者」に通じるところから、同一軸上に並びそうにも思える。だがそうではない。
「鳥/虫」は肯定否定の対比ではなく、対立的でもない。だが「西洋/非西洋」は対立的な対比だ。二つの対比は同じ軸上にはない。
そもそもサン・テグジュペリもアリスもどちらも西洋人だから、「鳥/虫」の二人とも「西洋/非西洋」という対比の左側にきてしまうのだ。そういう意味でも二つの対比は同じ軸上にはない。
「征服者/訪問者」は文中で対比的に言及されているが、よく考えるとこの対比は捻れている。
「征服者」の対立項目は「被征服者」だ。
「訪問者」の対比項目は「被訪問者」だろう。
征服者/被征服者
被訪問者/訪問者
「訪問者」はアリスを指している。白人(アメリカ人)のアリスが南の島を訪れる。そこにいるのは「非西洋」の人々だ。
西洋/非西洋
アリス/南の島の人々
征服者/被征服者
西洋/非西洋
だがアリスにとってそれは「訪問者/被訪問者」の関係だ。
西洋/非西洋
アリス/南の島の人々
×征服者/被征服者
訪問者/被訪問者
つまり「虫の眼」とは、「西洋/非西洋」を「征服者/被征服者」としてではなく「訪問者/被訪問者」の関係として捉えることで、その対立を乗り越える一つの視点を示しているのである。
一方「征服/被征服」における「被征服者」に近い対比要素にあたるのは、文中の語では「不帰順族」だ。「帰順」とは征服を受け容れるという意味だから、本当は「征服者/被征服者=帰順族」が対になるのだが、「帰順」するにせよしないにせよ、どちらも「征服者」に対立する立場としては同じだから、「不帰順族」もまた「征服者」に対置される。
そして「鳥の眼」は「支配者=征服者」の視点に通じるように見える。
西洋/非西洋征服者/被征服者
支配者/不帰順族
鳥/虫
だが文章の流れが、そうではないと言っていると読めることは明らかだ。
「鳥の眼」をもつサン・テグジュペリの在り方は、「西洋/非西洋」の対立を超える、アリスとは違うもう一つの可能性を示している。
白人であるサン・テグジュペリは、非西洋人である遊牧民に「人間」の顔を見る。西洋人/非西洋人という対立を超えて、どちらも「人間」として対峙することを可能にしているものこそ「鳥の眼」だ。
上空から見るとすべての人々が「ともしびの一つ一つ」に見える。彼らと「心を通じあう」ことをサン・テグジュペリは希求する。そのとき、サン・テグジュペリにとって「西洋/非西洋」という対立は存在せず、同じ「人間」がいるだけだ。彼が救援する者と待つ者の「奇妙な役割の転倒」を確信するのは、自分を救援してくれる者が「人間」であるように、自分も同じ「人間」でありたいと彼が思っていることを示している。
西洋/非西洋
サン/遊牧民
人間/人間
現実に存在する「西洋/非西洋」という対立構造を超える可能性を「鳥の眼と虫の眼」という二つの視点から語るのがこの文章のメッセージである。
「鳥の眼」によって、全てを人々を同じ「人間」として見ることで。
「虫の眼」によって、全ての人々に同じ「人間」として接することで。
以上、600字をはるかに超えるのでちょっとズルい。
600字程度にまとめてみる。
「西洋/非西洋」という対比は歴史上「征服/被征服」という対立の関係にある。サン・テグジュペリとアリスによって示される「鳥の眼/虫の眼」という対比は、現実に存在する「西洋/非西洋」という対立構造を超える可能性を、二つの視点から語る。
アリスと南の島の人々は「西洋/非西洋」の関係である。だがアリスは両者の関係を「征服/被征服」の関係ではなく「訪問者/被訪問者」の関係として捉える。それは「西洋/非西洋」という対立を超えた、同じ人間として両者を見る視点を示している。これを可能にしているのがアリスが体現している「虫の眼」である。
一方「鳥の眼」を体現するサン・テグジュペリも、自分に水を与える遊牧民に「人間」の顔を見る。フランス人であるサンと遊牧民は「西洋/非西洋」の関係である。だが両者を「征服/被征服」という関係ではなく、同じ「人間」として見る視点を可能にしているのが、空からの視点である。はるか上空から見下ろすとき、地上の人々は全て小さな「ともしび」なのである。
そしてこれら二つの視点を共にもつことが「人類」学者である石井氏の願いである。
絶対的な対比に対し、英雄と普通の人、主人公と異端者などのような相対的な対比も存在する。これらの対比は、視点を変えれば違った風に捉えることができる対比だ。例えば、物語の隅に登場する異端者も、その人物に焦点を当てれば主人公に変わる。
視点を変えるために必要なこと、それは鳥の眼と虫の眼、その両方を持つことだ。飛行家という職業柄、鳥の眼で物事を見ることが多いサン・テグジュペリを筆者が征服者と表現しなかったのは、彼に小さなともしびと通じ合おうとする虫の眼の視点があったからであろう。また現地の人と親しみ、虫の眼で土地を歩いたアリスは村に花の種をまくが、そこには風に乗って運ばれ、遠い場所で花を咲かせたルピナスを見たという背景がある。もし鳥の眼で遠くに目を向けなければ、村に花が咲き誇ることはなかったであろう。
筆者が調査地から遠ざかる瞬間、それは虫の眼が鳥の眼にかわる瞬間だ。虫の眼で人々と心を通わせたからこその相手に対する理解、鳥の眼への変換があるからこそ感じる懐かしさ、二つの視点があることによって、はじめて調査地の人々に対する愛が生まれる。二つの視点を持つことで愛をおくりたい、そんな筆者の想いが伝わる。
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