2022年4月28日木曜日

共に生きる 4 ほんとうの「わたし」とは?

 「自立」をめぐる三つの文章は、最初から読み比べることを意図して並べられている。そこに、読み比べることが適切かどうかが保証されていない文章をぶつけてみる。

 「ちくま評論入門」の「ほんとうの『わたし』とは?」(松村圭一郎)は春休みの課題で読んである。だがあらためて「読み比べ」という意識で読み直してみると、前とは違ったように読めてくるはずだ。文章を読むという行為は、こちらの姿勢次第でかわる主体的なものなのだ。


 ここで論じられている問題は、自立をめぐる三つの文章とどう「読み比べ」られるだろうか?


 「読み比べ」によって何か考えるためには、まずは共通点が入口となる。どうやって共通点を見つけたらいいか。

 論理構造を比較して、それが同じであることを指摘する、などという高度なワザもそのうち実践してもらいたいが、とりあえずは二つの文章に同じく登場する言葉を手がかりにするという手はある。あるいはほとんど同じ、言い換えと見なしていい言葉を対応させることができるかもしれない。


 例えば「ほんとうの~」の文中に「引き出される」という言葉が傍点付きで登場する。当然「共鳴し引き出される力」が連想される。

 この連想は有効か?


 直ちに同じことを言っていると断言することはできない。違っている。だがその先に、それらの趣旨を繋げて考えることもできる、と言った。どういうことか?


 まず、何が「引き出される」かが違う。

 「共鳴し~」では、そのまま「力」だ。能力が「引き出される」のだ。

 「ほんとうの~」では「わたし」が「引き出される」。

 引き出される対象は同一ではない。だがそれらを重ねていくことはできる。


 それぞれの文章のテーマ(モチーフ)を一単語で言うと?

 「真の自立とは」は、そのまま「自立」がテーマだ。

 同様に「ほんとうの「わたし」とは?」では「わたし」がテーマなのだと言える。「ほんとうの『わたし』とは?」と「真の自立とは」という題名は同じ構文ではないか!

 「自立と市場」を「市場」がテーマだということはできない。「市場とは?」という問いを掲げているわけではないのだ。授業では保留しておいたが、言うならば、「市場」が「自立」に果たす役割とは? といったところだろうか。

 さらに「共鳴し引き出される力」は「能力」がテーマだ。「能力とは?」が問われている。

 「自立」と「能力」と「わたし」が、どのような意味で同一視できるのか?


 気づいた者が多かったのは「他者とのつながり」という表現だ。

 教科書の三つの文章を読んだ後の頭で「ほんとうの~」を読めば「他者とのつながり」(=ネットワーク)という表現がアンテナに引っかかるはずなのだ。

 「他者とのつながり」を使えば「自立」「能力」「わたし」がそれぞれ説明できる。


 「真の自立とは」では「真の自立とは相互依存ができることだ」というのが、その主旨の最もシンプルな表現だった。「相互依存ができる」とは「他者とのつながりがある」ことそのものだ。

 また「能力」と「わたし」は共に「他者とのつながり」によって「引き出される」。

 また「市場」とは、多くの他者と緩いつながりができる場だ。

 「他者とのつながり」が四つの文章に共通するモチーフだ。


 「自立」「能力」「わたし」が主語となる文に、共通する述語を置くことができることはわかったが、では「自立」「能力」「わたし」の三つは、そもそもどういう関係にあるか?


 ここでは、共通する述語の部分を反転させて対比をとる。「他者とのつながりがある」の反対は「ない」だ。つまり「個人は独立している」というテーゼだ。完結した個人、というイメージ。

 すなわち、「能力」は完結した個人に属するのであり、そうした「能力」を持つ者こそ「自立」できる。「わたし」のアイデンティティは完結した個人としてイメージされるが、それは例えばある「能力」を持った者、という形で把握される。私は料理ができる、サッカーが上手い…。

 こうしたイメージを反転したのがこれら4つの文章だ。

 個人として優れたサッカープレーヤーでなくとも、自分のいるチームがチームとして強ければ(別に強くなくても楽しければ)、その一員としての「わたし」のアイデンティティは成立する。伊藤亜紗が提示しているのはそうした「能力」であり、松村圭一郎はそうした「わたし」を「分人」というイメージで語っているのである。

 「能力」は「わたし」を構成する一要素であり、それは「わたし」の中に完結するものではなく、他者とのつながりの中で形成されるものなのだ。

2022年4月26日火曜日

共に生きる 3 共鳴し引き出される力

  「共鳴し引き出される力」(伊藤亜紗)には「自立」という言葉は出てこない。だがその主張は上の二つの文章と濃厚に重なっているように思える。

 この文章の主張をまとめ、それと「自立」というテーマの関わりを示そう。


 この文章にも「できる/できない」「ネットワーク」がキーワードとして登場する。そこにもう一つ、この文章独自の論点を表わすキーワードを加えて、それらを使ってこの文章の論旨を語ってみよう。

 どこのクラスでも共通して挙げられたのは「能力」という言葉だ。これは題名の「引き出される」のことだろうという見当はつくし、「できる/できない」との関わりも明らかだ。

 これらのキーワードを使って本文の趣旨を語り下ろす。


 「能力」は普通は個人に属するものだと考えられている。だが、他人との「共鳴」の中で引き出される力を、あらためてその人の「能力」と言ってしまってもいいのではないか。

 つまり独りで「できない」のなら他人との「ネットワーク」の中でできるようになってしまえばいいのだ。

 そのような新たな「能力」観を提示しているのがこの文章だ。


 ところで「キーワードは?」と訊いたとき、複数クラスで「予防/予備」が挙がった。確かに文中にそのまま「キーワードは」と書かれている。

 キーワードと言った場合、普通は文中で複数回使われている言葉がその資格を持っていることが多い。それだけ論理にがっつり関わっているということだ。

 だが「予防/予備」は一度しか出てこない。実はこの言葉は、この文章の主旨を捉える上での重要度は比較的低いのだ。

 だが面白い問題ではあるのでとりあげよう。


 では「予防/予備」という対比を使って語られているのは?

 まず本文で「予防ではなく予備だ」と言っていることに注目しよう。「~ではなく」は前に述べたとおり、対比を示す典型的な目印だ。この形で並べるときには、下を肯定的に取り上げるために、上が対比的に否定される。

 「予防」はどうして否定され、「予備」はなぜ肯定されるか?


 本文では「失敗を未然に防ぐよりも失敗が起きたときにそれをネットワークの中で解決できるように備えておくこと。」の後に「予防ではなく予備」と言っている。単なる言い換えだということはわかる。

 なぜか? と訊くならその直前「そうした忖度(=予防)が結局、当事者の自由やチャレンジする機会を奪い、ますます無力にしていく」に「から」をつけるだけでいい。

 だがそこで終わりにせずに、さらに「なぜか」と問う。

 それに答えるにはやはり対比の中で捉えるのが有効。

 「能力」を「個人に属するもの」と考えるのが「予防」思想なのだ。その人が「できない」なら、困らないよう守らなきゃ、と考える。障害を「防ぐ」思想になる。

 だが「能力」を「ネットワークに属するもの」と考えるのなら、そのネットワークを「備える」ことが重要なのだ。

 したがって、この対比は、能力観をめぐる「個人/ネットワーク」という対比に対応しているということになる。


共に生きる 2 自立と市場

  次の「自立と市場」(松井彰彦)は少々難しい。「自立」と「市場」に何の関係があるのか、にわかにはわからない。

 ここでは、市場の性質を2点挙げよ、と問うた。その性質が「自立」とどう関わるのか?


 文章の中ではこの「2点」は文脈に埋もれてしまって目立ちにくい。ちょっと引いて、遠目に見ることで、二つの要素を分離する。

 ここで述べられている市場の性質とは次の2点。

選択肢が多いこと

つながりが緩いこと(文中では「しがらみがない」)

 これらの性質は「自立」というテーマとどう関わるか?


 これも、逆を考えてみる。

 選択肢が少ないとそこへの依存が強くなる。依存先が多いことが、共通テーマである「相互依存による自立」を可能にする。

 つながりが強い・きついのも過度の「依存」に陥る。「依存」先を自由に移れるのも多くの関係者による相互依存を可能にする。

 つまり「市場」は、ある時には「自立」の助けになるのである。


 さてでは「市場」と対比されるのは何か?

 市場が自立の助けになる、と言うときには市場はそうでない何と比較されているか?

 この問いには多くの者が苦戦した。

 どこのクラスでも「命綱」を挙げる者が多かった。本文に「太いが切れたら終わる一本の命綱に頼っていた生活から、緩いつながりで形成された支援の市場の網の目に支えられる生活となる」という一節があるからだ。確かにここでは「命綱」と「市場」が構文上、対比されている。

 だが「命綱」は比喩だ。「市場」という言葉と、概念の階層が揃っていない。

 例えば「命綱よりも市場の方が自立の助けになることがある」という文は、何を言っているか、よくわからない。これは「命綱」が「市場」と対立的な概念として揃っていないことを表わす。


 こう考えよう。「市場」と対比される側に、二つの例が挙げられている。何か?


 文中で語られる例は、前半の「親子」と、中盤の「小十郎と商人」だ。これらを引っ括って一般的に言える言い方を考えよう。


 対比をとるには、概念レベルを揃えることが大切だ。

 「市場/親子」「市場/小十郎と商人」は対比的だが、それらをまとめて、「市場」と釣り合う言葉で表そう。


 ということでそれぞれのクラスで誰かが思いつく。

 「個人的な関係」あたりがいいだろうか。「個人的な関係」という表現は、抽象度を一段上げた概念を表わしていて、「親子」も「小十郎と商人」もその具体例だ。

 個人的な関係は選択肢が少ないし、つながりも強くなる。それだけ依存が強くなって自立は難しい。「市場」はそういった個人的な関係に対する対比的な選択肢なのだ。


2022年4月22日金曜日

共に生きる 1 真の自立とは

  第2回からは教科書の文章を読む。

 我々が使用する東京書籍「現代の国語」教科書の読解編4「共に生きる」という単元には三つの文章が並べられている。

 「単元」?

 授業の流れのあるまとまりを「単元」と言う。教科書は三つくらいの文章をひとまとめにして一つの単元として編集されている。

 この単元は「共に生きる」というテーマの共通性によって括られているのだが、実はこの単元はそれ以外に明らかな企図がある。

 文章の読み比べだ。


 授業で評論を読むときには、ほとんどの場合、複数の文章を読み比べる。

 最初の「授業を始めるにあたって」で、教材の文章を理解することは授業の最終的な目的ではないと述べた。とはいえ、理解しようと思って読むべきではある。だが「理解しようと思って読む」というのが、何をすれば良いのかは、実はわかったようでわからない。

 そこで何かしらの課題を投げる。問いをかける。

 それに答えようとすると、その前提として理解せざるをえないように課題を設定するのだ。「理解する」を最終目標に置かずに、途中経過に置く。

 その課題の一つとして、文章の読み比べを設定する。

 比べることは人間の頭の働きの基本的な形式だ。

 それそれであることは、それ以外のものとそれを比べることによって明晰に認識することができる(意識的にであれ無意識的にであれ)。

 単に一つの文章を「理解する」のではなく、複数の文章を読み比べると、読み比べることによってその文章を明晰に読むことができる。

 

 読み比べる時には、まず共通点を探す。

 違う文章は違うことを言っているに決まっているので、まずは比べるために共通の土俵を用意する。共通点がなければ比べることはできない。

 この単元の三つの文章は読み比べるために設定されているので、共通点が比較的容易に意識できる。それは何かと聞きたいところだが、教科書で既に解説されている。

 しかし敢えて訊く。簡潔な一文で言え。


 これもまあ教科書に書いてはある。三つの文章に共通した論旨は例えば次のように表現できる。

自立とは相互に依存できることだ。

 教科書は丁寧に、これがどのような通説に反しているかも解説している。通常「自立」とは「依存しないこと」という意味だが、それを敢えて逆転させて「依存できること」と言っているのである。

 このように、本文の主張がどのような見解に対する反論なのかを意識することは、上の「比べる」ことの重要性そのものである。


 さて、共通点が既に指摘されてしまっているので、あとはそれぞれの文章独自の論旨・論理展開を概観しよう。



 三つの文章は共通して「自立とは相互に依存できることだ」という論旨を語っている。

 ではそれぞれの文章は、どのようなモチーフ、どのようなキーワード、どのような論点から、そうした主旨を語っているか?


 さてここからは再び教科書を閉じて発表させる。

 論旨の語り方にも、ある条件をつけよう。上の「課題」だ。

 「真の自立とは」(鷲田清一)は対比を使って語る。

 評論における対比の重要性は、上の「読み比べ」の有効性と同じ原理だ。それが何であるかは、それ以外のものとの比較でしか捉えられない。

 最も重要な対比は言うまでもなく「自立/依存」だ。「自立」について語ろうと思ったら「依存」との対比において語るのは必然なのだ。それは既に上の「共通した論旨」で語られている。

 あと二つ、と言えばすぐに見つかる。

できる/できない

リーダー/フォロワー

 これらの対比を使って、上の主旨を語ってみよう。


 「できる/できない」の方は容易だ。

 自立とは通常、独りで「できる」ことだと見なされる。「できない」のなら依存するしかない。

 だが必ずしも独りで「できる」必要などないのだ。独りで「できない」のなら誰かと協力して、相互に依存しながら「できる」ようにすればいい。それが「自立とは相互に依存できること」なのだ。


 「リーダー/フォロワー」の方がやや難しい。

 いくつかのクラスでは「リーダーとフォロワーが互いに依存しあって『できる』ようになればいいのだ」といった言い方で説明する発表が相次いだ。

 まちがってはいない。だがこの言い方では「リーダー/フォロワー」という対比がどうして措定される必要があるのかわからない。誰でも、互いに依存しあうのが良いのだから。

 ここは例えばこんな風に言ってみる。

 リーダーシップが大切だと世間では言われている。だが本当に大切なのはフォロワーシップだ。フォロワーは「依存」する存在ではなく、相互に助け合う役割をもっているのだ。

 このように「普通は~だと考えられているが」とか「~ではなく」といった言い方こそ、繰り返し言っている通り、比べることで意味が明確になる、の実例だ。


 ところでこれは誰の「自立」のことを言っているのか?

 フォロワーシップが大事だというのは、何にとって?

 リーダーの? フォロワーの?


 これは本文から一語、という指定をすると「社会」という言葉が飛び交った。

 ことは個人の自立にとどまらず、「社会」の問題なのだ。

2022年4月19日火曜日

未来の他者と連帯する 3

 「未来の他者と連帯する」の3段落、「双曲割引」の話から筆者が導き出す見解を次のように表現してみよう。

  他者/自分の違いよりも、未来/現在の違いの方が大きい

 これはなぜ「悲観的」なのか?

 むろん「連帯することは難しい」ということになるからだ。

 何と?

 「他者と」ではなく「未来と」なのだ。


 この文章の論理展開はやはり不自然だと思う。わかったようなわからんような理屈で結論を導き出しているように授業者には感ぜられる。

1.未来の他者と連帯することはできるのか?

2.人間は未来の他者のために働くことができる(希望的)

3.未来と連帯することは難しい(悲観的)

4.未来の他者と連帯することはできる(希望的)

 2で既に1の問いに「できる」と答えられるはずなのに、3がなぜ必要なのかもわからないし、3を2とあわせるとなぜ4の結論にいたるのかわからない。

 どういう論理の流れならば筋が通るか?


 2が原文のような趣旨では、すぐに1の問題に対する回答が得られてしまう。論理的に可能な2を創作しよう。

 結論4で述べられているのは以下のような論旨だ。

4.難しいのは「他者と連帯すること」ではなく「未来と連帯すること」だ。未来の「自分」も「他者」なのだから、「自分」のためにがんばることは(難しいにしても)できないわけではないとすれば、「他者」のためにがんばる(連帯する)ことができないわけではない。

 そして3の肝が、「他者との連帯の難しさ」ではなく「未来との連帯の難しさ」を述べる点にあるということは、まさにそこで否定されるべきことがらを、2で述べておけば良いということになる。

 つまり2では原文のような「希望的なこと」を語らずに、2でも「悲観的なこと」を述べればいい。

 授業者の提案はこうだ。

1.未来の他者と連帯することはできるのか?

2.我々は他者のためにがんばることは難しい(悲観的)

3.我々は未来の自分のためにがんばることも難しい(悲観的)

4.難しいのは「他者と連帯すること」ではなく「未来と連帯すること」だ。だが未来の「自分」も「他者」なのだから、「自分」のためにがんばることは(難しいにしても)できないわけではないとすれば、「他者」のためにがんばる(連帯する)ことができないわけではない。

 2の「悲観的」前提と3の「悲観的」前提をあわせると、かろうじて「希望的」な結論にいたる…、という論理なら、それなりに納得することができる。

2022年4月18日月曜日

未来の他者と連帯する 2

  授業では「双曲割引」の概念をさらに厳密に説明するために、それがどんなグラフで表わされるかを説明しあった。みんなの手つきから適切なグラフを想起していることはわかった。








 グラフは名前の通り曲線を描く。

 だが前回の「未来の価値は現在感じる価値より低くなる」という説明では単なる右下がりのグラフでもよいことになる。

 グラフが曲線を描くことは、単なる直線的な右下がりと違った、どのような意味をもっているか?


 「わかっている」ことがただちに「適切な言葉で言える」ことになるとは限らない。ここは、グラフが意味している現象を言葉に置き換える国語の学習だ。

 グラフが曲線であることによって示されているのは、その価値の下がり方が、時間が経つほど緩やかになるということだ。近い未来「明日と明後日」では大きな違いだが、それより遠い未来「99日後と100日後」の違いはそれほど大きくない。

 ここから筆者が導き出す見解を次のように表現してみよう。

      の違いよりも      の違いの方が大きい

 空欄には何が入るか?

 それはなぜ「悲観的」か?

 それはどのようにして4「結論」を導くか? 


未来の他者と連帯する 1

  春休みの課題で読むよう指示した「ちくま評論入門」所収の文章の一つ「未来の他者と連帯する」を課題テストに出題し、そのまま初回授業で軽く読解した。

 折しも、この文章の筆者の大澤真幸が、自分の恩師の訃報に接して思いを綴った文章が先週の新聞に載った(Teams「ファイル」に記事の写真を置いてある。興味があったら見てほしい。大澤は現在毎週土曜日の書評ページに連載枠をもっているので、寄稿しやすかったのだろうと思われる)。

 ここで語られる恩師、見田宗介の文章は、現在2,3年生が使っている「現代文」教科書に載っていて、実に手応えのある文章として面白い授業が展開できたものだった。教育課程がかわってしまった今の1年生にはおそらくそれができないだろうと思われるのは残念だが、「ちくま評論入門」にも別の文章が載っていて、これを授業で扱うことができるかどうかはまだわからない。

 ともあれ、授業で読んだばかりの文章の筆者が書いた文章が新聞に載り、そこで語られているのが、授業でも何度も読んだ思い入れのある文章の筆者にまつわるものだったことがなんとも感慨深かったのだった。


 さて「未来の他者と連帯する」は、論理構成を大づかみにすることに絞って読解した。

 評論の多くが、書き出し近くで「問題提起」をし、それに対する何らかの「結論」を述べて終わる。教科書やテストに使われるのは、しばしば元々長い文章であるようなものの一部を切り取っていることが多いのだが、そのような場合でも、「問題」-「結論」を酌み取れるように切り取っている場合が多い。あるいは目の前にあるテキストから、とにかくその範囲で「問題」-「結論」を読み取るようにすることが、こちらの「読解」であるともいえる。

 「未来の他者と連帯する」はこの「問題」-「結論」の対応が明確で、もしかしたら元々これで全文なのかもしれない(長い文章の一部なのではなく)。

 さらに、この文章では論理の流れを読者に伝えようとする意図が明確だ。途中の展開もはっきりと段階的に並べられている。

 そこで授業ではその流れを「枠組」として提示し、それぞれの内容をできるかぎり簡潔に述べよ、という課題を掲げた。

 「枠組」とは次のような論理の流れだ。

1.問題提起

2.第1前提-希望的なこと

3.第2前提-悲観的なこと

4.結論

 4「結論」部では「希望的なこと」と「悲観的なこと」を併せて考えると得られる「もうひとつの希望」が語られる。


 さて、「できる限り簡潔に」とは、具体的には、なるべくシンプルな一文にするということだ。シンプルである方が使い回しが楽になる。覚えておくにせよ書き出すにせよ口に出すにせよ、短い方が楽だ。

 もちろん、必要に応じてそれがどういうことなのかは解説できるようにしておく。それができなければ、その一文が適当であるかどうかは判断できない。


 こうした課題を「本文を見ないで」やるという条件にしたのは、一つの読解のためのテクニックだ。

 本文の文言を見過ぎてしまうと、全体が見えなくなってしまうおそれがある。構造や流れを捉えるには、意識的に視点を上にもっていき、全体を見るようにして、部分的な文章の一節はむしろ「ぼんやり」見るようにするか、いっそ一旦視線を本文から外して、頭の中かノートの上で考えるようにする方がいい。


 さて、そのまま本文を見ないで、話し合いの中でこの課題に取り組む。

 「問題提起」は本文にそのままあるので挙げるのも容易だ。

1.未来の他者と連帯することはできるのか?


 この「問題」の形は「結論」が「できる」であることと対応しているだろうことを予想させる(もちろん「できない」でもいい。この文章の場合は「できる」の方だったよなあ、と皆すぐに思い当たるということだ)。

 となれば問題は、どういう論理でそれが「できる」ということになるか、だ。


 次の「希望的なこと」も容易にまとまる。

2.人間は未来の他者のために働くことができる


 「悲観的なこと」の部分には少々条件をつけた。「双曲割引」という馴染みのない言葉が出てくるので、それがどういうことなのかを一文に、またなぜそれが「悲観的」なのかがわかるようにもう一文。

 「双曲割引」とは何か。本文から直接引用できる一節を探すのは難しい。どの一節も、それだけではわかりにくい。そこで作文する。とりあえずこんな文で表すことに異論はなかったと思う。

未来の価値は現在感じる価値より低くなる

 これはなぜ「悲観的」か?

 未来のために努力することは難しいということになるからだ。

 ここから「悲観的」テーゼを次のように表現しておく。

3.未来と連帯することは難しい


 これら「希望的なこと」と「悲観的なこと」を合せると「未来の他者と連帯することはできる」という結論になるのだが、この論理には違和感を覚えないだろうか?


 2「希望的なこと」が、既に「できる」という結論に至る根拠を述べているではないか。 

 それなのに、なぜ「悲観的なこと」が語られ、それと合せる必要があるのか?


 あちこちから聞こえてきたのはこんな解釈だ。

 まず「できる」と言い、次に「難しい」と言い、結局「やっぱりできる」と言っているのだ。つまり最初に持ち上げてから一旦落とし、それからもう一度持ち上げるのだ。

 だがそんなに単純な読者の心理操作を狙っているのだろうか?

2022年4月10日日曜日

授業開始にあたって 3

3 授業の意義


 授業という場では何が行われるのか?

 国語の授業はどんな存在意義が期待される場なのか?


 上記の趣旨からすれば少なくとも、受身で臨む授業には、ほとんど意義はないということになる。

 国語の授業とは、何かを「教わる」場ではない。授業者の立場から言えば「教える」つもりはない、ということだ。国語、特に現代文には「教える」べき学習内容などほとんどない。

 それよりも、実技である国語の授業とは、みんなで集まって、独りではできないトレーニングを行う場だ。

 国語学習にも、スポーツにおける筋トレや柔軟体操や走り込みや、それぞれの競技の基礎練習にあたるものもある。例えば漢字学習などはこれにあたる。それらの中には、独りで取り組むことが可能な練習もある(もちろんそうした基礎練習でも、他人と一緒にやる方が効果的だ。単純にその方が楽しいとか励みになるということもある。地道な筋トレや走り込みを続けるには強い克己心が必要になる。みんなでやれば、みんなについていくことでそれなりにトレーニングを続けることができる。参加者の姿勢次第では、そこに楽しさすら生まれる)。


 それだけではない。習得しようとしている技術が対人スキルである場合は、そもそも他人の存在が練習には欠かせない。楽器の練習には合奏を、対戦スポーツは試合の一場面を想定した対人練習をしなければ、充分に有効な練習にはならない。

 国語という実技はコミュニケーションの手段である。だから当然、実際に誰か他人を相手にしたトレーニングが有効だ。

 授業という場は、そうした対人トレーニングの場なのだ。

 自分の話は相手を納得させているか、隣の席の人の言うことが理解できるか、実技としての国語の力が試され、磨かれる場だ。

 自主トレによる基礎練習は間違いなく必要であり有効だが、実戦的なチーム練習は、自主トレだけでは身につけられない技術を向上させる場なのだ。

 それが授業である。


 したがって何より、積極的な参加こそが求められる。

 そういう意味で、国語学習は本質的に「アクティブラーニング」でなければならない。国語の授業における話し合いや発表は、それ自体が必須の学習行為なのだ。

 国語の学習は、結果として「わかる」ことを目指しているのではなく、これからの生活に活きる国語力の伸張、すなわち「できる」ことを目指しているのだから、「能動的」で「積極的」で「主体的」であることは必須なのだ。

 「わかる」という言葉に縛られた「受動的」な姿勢ではなく、「できる」という言葉で表現される「能動的」な姿勢で授業に臨まなければならない。


 以上、国語の学習の基本的イメージについて述べてきた。

 だが実は(ここまで長々と語っておきながら)、授業は単なる「練習」というだけのものではない、とも思っている。

 授業で、あるテキストを読み込み、そこに見出される問題に周囲のみんなと立ち向かっていった先には、ある劇的な認識の変容が訪れることがある。

 それはクラスの皆に対する、隣の誰かに対する、テキストの向こうに広がる「世界」に対する、認識の変容だ。それは授業という場にとどまらず(もちろん大学入試という一過程にとどまらず)、その先の、大げさに言えば人生に影響を及ぼす認識の変容でさえありえる。

 そうした場としての授業とは、単なるトレーニングの時間というだけなく、ましてそこでそれなりにそこに書いてあることが「わかった」と思えているだけでは得られない、読解の、表現の、思考の、テキストの、人間の深淵を覗き見ることになる「体験」でありうると信じている。

 授業とは自ら参加する意志によってはじめて成立する「体験」なのだ。

授業開始にあたって 2

2 「目的」と「手段」の関係


 国語の授業で何かの文章を読むとき、授業の目的はその文章の内容が「わかる」ことではない。

 だから授業者は生徒にその文章を理解させることを目的に授業はしない。

 だが生徒はその文章を理解しようとしなくてはならない。

 どういうことか?


 国語の授業の目的は国語力を高めること。言うまでもない。あたりまえだ。疑問はない。

 「国語力」とは何か?

 具体的な場面で分類するならば「聞く」「話す」「読む」「書く」力、ということになる。そしてそれらの行為に通底する「言葉を使って考える」力である。

 これらはすべて「わかる」ではなく「できる」と表現できるような「力」だ。

 では

  • a・国語力を高めること
  • b・ある文章の内容を理解すること

 これら二つの関係はどうなっているか?


 b「ある文章の内容を理解すること」は、a「国語力を高める」ための「練習」にあたる。つまりbはaという目的を達するための手段である、ということになる。

 この「目的」と「手段」を意識することは重要だ。というのは、人はしばしば本来の目的を忘れて、手段(今まさに行っていること)が目的であるように錯覚してしまうからだ。

 この、本来の目的を見失って、手段に過ぎなかったものを目的のように錯覚してしまうことを「自己目的化」と言う。


 例えば「バーベルを上げる」という行為は「筋力を高める」という目的の為の手段だ。

 「筋力を高める」ことは、「競技力を高める」「美しいボディラインを手に入れる」「健康な生活を送る」等の上位目的のための手段だ。

 もちろんこれらの「目的」も、それより上位の「目的」を設定すれば、そのための「手段」と見なすことができる。「目的」と「手段」はこうした階層構造になっている。


 b「ある文章の内容を理解する」は、a「国語力を高める」という目的のための手段に過ぎない。これはちょうど上の例のb「バーベルを上げる」=手段、a「筋力を高める」=目的と同じ関係にある。


 a「国語力を高める」=目的/b「ある文章の内容を理解する」=手段

 a「筋力を高める」=目的 /b「バーベルを上げる」=手段


 つまり教科書などのテキストは筋トレにおけるバーベルだ。バーベルの存在意義は、筋肉に負荷をかけることだ。テキストは脳味噌に負荷をかけるためにある。


 バーベルを上げるとき、人はそれが筋力を高めるための手段であることを意識しているはずだ。バーベルが上がること自体に価値があるのなら、機械を使ってでも持ち上げればいい。だがもちろんそんなことには意味がないことはわかりきっているから誰もしない。

 それなのに「文章を理解する」ことはしばしば自己目的化されてしまう。

 これは、勉強というものが「わかる」という言葉でイメージされることからくる錯覚に拠っている。

 その文章の内容を理解することが国語学習の目的であるように思えてしまうのは、バーベルが上がること自体を目的にしてしまう錯誤に等しい。


 だが筋トレにおいて、バーベルを持ち上げることはやはり当面の目的ではある。持ち上げようと力をこめなければトレーニングは成立しない。

 「バーベルが持ち上がる」ことは最終的な目的ではない。だが、当面の目的として、やはり持ち上げようとすることは必要なのだ。この違いを明確に意識しなければならない。

 他人がバーベルを上げる様子を眺めていても、自分の筋力が高まるわけではない。同様に、誰かに教えてもらって、ある文章の内容が理解されても、それで自分の国語力が高まるわけではない。


 自分でバーベルを上げようとすることによってのみ、自分の筋力は高まる。

 同様に、自分で文章を理解しようとすることによってのみ、国語力は高まる。


授業開始にあたって 1

1 勉強=「わかる」という誤解

 シラバスの一番下「担当者からのメッセージ」に次の文章を載せた。

国語科は体育や芸術科目と同じように実技科目です。国語の学習は、国語の科目の学習内容を「教わる」ものではなく、今みなさんが持っている国語力を伸ばす「練習」です。ですから、授業は受身ではなく、常に自ら能動的に参加してください。教科書を「読む」ことも、そこに見出される問題を「考える」ことも、みなさんが自分で行うことです。その上で、授業では自分の考えを「話す」こと、友人の意見を「聞く」こと、つまり話し合いによって活きた国語の力を高めます。他人の「練習」を眺めていても自分の力は伸びません。皆さんの積極的かつ主体的な学習への取り組みを期待します。

 「能動的」とか「積極的」とか「主体的」とかいう言葉はもはや手垢のついた、ふんわりした、とにかく肯定的なイメージを付け加える修飾語のようにしか感じられないかもしれないが、国語科の授業においてはゆるがせにはできない、本当に重要な姿勢だ(もちろんどんな教科だって「能動的」で「積極的」で「主体的」である方がいいに決まっているが)。

 それは最初のところで国語科が「実技科目」だといっていることに関わっている。


 「実技」という言葉は多くの場合「学科」と対になっている。雑なイメージとしては「実技」=体を動かす←→「学科」=頭を使うというような使い分けになっている。

 さてそういう意味では、普通は国語を「実技」とは言わない。


 だが、「現代の国語」のテストで測られる「国語力」というものがあるとすれば、そのほとんどは「知識」ではない。「読解力」や「表現力」やその上位概念である「思考力」だ。

 だから国語の学習は、何かを「知る」ことでも「覚える」ことでもない。

 では「わかる」ことか? 


 「わかる」という言葉は、「勉強(学習)」という行為の基本的なイメージを代表している。英語が「わかる」、数学が「わからない」、あの先生の授業は「わかりやすい」…。

 一方、実技科目に対して「わかる」という言葉は通常使わない。サッカーが、バスケットが、器楽演奏が「わかる」とは言わない(もちろんルールや練習方法を学ぶような場面では限定的に「わかる/わからない」とは言うだろうが)。

 「わかる」でなければ何か?


 実技科目や、部活動におけるトレーニングの目標は「できる」と表現される。サッカーが「わかる」よりも、上手いプレーが「できる」ように練習するのだし、楽器が「わかる」のではなく、上手く演奏「できる」ように練習する。

 国語という科目もそうだ。国語は、国語(日本語)をよりよく使うことが「できる」ことを目指している。

 そういう意味で国語は「実技科目」なのだ。


 ところが、勉強という行為とは何かを「わかる」ことだという思い込みは根強く、国語も何かを「わかる」ことを目指しているかのように誤解されている。

 何を?

 教材として読む文章の内容である。


 「わかる」という言葉の呪縛から、教師も生徒もその文章が「わかる」ことを目指して授業を行う。教師はその文章を「わかりやすく」解説し、「わかった?」などと聞く。「わかった」かどうかを確かめるために定期テストに出題したりする。

 だが、国語の授業で何かの文章を読むとき、授業の目的はその文章の内容が「わかる」ことではない。

 国語学習の目的は、例えば自分で「わかる」ようになる=「できる」ようになることだ。

2022年4月6日水曜日

ブログ「現国教室」

 授業者が高校生の頃は「語」という科目があり、国語の先生というのは、「古典の先生」か「現国の先生」でした。40年ほど前に教育課程が変わり、科目名は「国語Ⅰ・Ⅱ」などという無意味なものになり、その後の教育課程改訂で、昨年度までは1年生の「国語総合」の後は「古典」と「現代文」(と「国語表現」)でした。そこでは「現代文」は「現文(げんぶん)」と略称されていました。

 ところが今年度から新教育課程では「現代の国語」という科目が新設されて、「現国」という略称が40年振りに復活しました。一方で「現代の国語」とセットで「言語文化」という科目が新設され、この略称はおそらく「言文」ということになるのでしょう。「げんぶん」といえば去年まで「現代文」で、今年から「古典」を指すことになってしまったのです。

 まぎらわしい。


  可能な限り授業の様子を記録していきます。

 8クラスで授業を行いますので、基本的には最後のクラスでの授業が終わってから、その授業に関する記事をアップします。

 授業を振り返ってもほしいのですが、それは決して定期テスト向けの復習というようなことではありません。常に、次に考えるべき問題についての前提として、それまでに考えたことを確かにしてほしい、ということでもあります。

 まとめて休んでしまった時には、そこまでの授業の様子を知ることもできます。あるいは、自分のクラスでは時間数が少なくて割愛されてしまった内容や、自分のクラスより後で実施されたクラスで提起された(自分のクラスでは言及されなかった)論点などを知ることができたりするかもしれません。

 また、時には先行して、これから考えてほしい問題を提起して、目を通してもらうこともあるかもしれません。


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