1 勉強=「わかる」という誤解
シラバスの一番下「担当者からのメッセージ」に次の文章を載せた。
国語科は体育や芸術科目と同じように実技科目です。国語の学習は、国語の科目の学習内容を「教わる」ものではなく、今みなさんが持っている国語力を伸ばす「練習」です。ですから、授業は受身ではなく、常に自ら能動的に参加してください。教科書を「読む」ことも、そこに見出される問題を「考える」ことも、みなさんが自分で行うことです。その上で、授業では自分の考えを「話す」こと、友人の意見を「聞く」こと、つまり話し合いによって活きた国語の力を高めます。他人の「練習」を眺めていても自分の力は伸びません。皆さんの積極的かつ主体的な学習への取り組みを期待します。
「能動的」とか「積極的」とか「主体的」とかいう言葉はもはや手垢のついた、ふんわりした、とにかく肯定的なイメージを付け加える修飾語のようにしか感じられないかもしれないが、国語科の授業においてはゆるがせにはできない、本当に重要な姿勢だ(もちろんどんな教科だって「能動的」で「積極的」で「主体的」である方がいいに決まっているが)。
それは最初のところで国語科が「実技科目」だといっていることに関わっている。
「実技」という言葉は多くの場合「学科」と対になっている。雑なイメージとしては「実技」=体を動かす←→「学科」=頭を使うというような使い分けになっている。
さてそういう意味では、普通は国語を「実技」とは言わない。
だが、「現代の国語」のテストで測られる「国語力」というものがあるとすれば、そのほとんどは「知識」ではない。「読解力」や「表現力」やその上位概念である「思考力」だ。
だから国語の学習は、何かを「知る」ことでも「覚える」ことでもない。
では「わかる」ことか?
「わかる」という言葉は、「勉強(学習)」という行為の基本的なイメージを代表している。英語が「わかる」、数学が「わからない」、あの先生の授業は「わかりやすい」…。
一方、実技科目に対して「わかる」という言葉は通常使わない。サッカーが、バスケットが、器楽演奏が「わかる」とは言わない(もちろんルールや練習方法を学ぶような場面では限定的に「わかる/わからない」とは言うだろうが)。
「わかる」でなければ何か?
実技科目や、部活動におけるトレーニングの目標は「できる」と表現される。サッカーが「わかる」よりも、上手いプレーが「できる」ように練習するのだし、楽器が「わかる」のではなく、上手く演奏「できる」ように練習する。
国語という科目もそうだ。国語は、国語(日本語)をよりよく使うことが「できる」ことを目指している。
そういう意味で国語は「実技科目」なのだ。
ところが、勉強という行為とは何かを「わかる」ことだという思い込みは根強く、国語も何かを「わかる」ことを目指しているかのように誤解されている。
何を?
教材として読む文章の内容である。
「わかる」という言葉の呪縛から、教師も生徒もその文章が「わかる」ことを目指して授業を行う。教師はその文章を「わかりやすく」解説し、「わかった?」などと聞く。「わかった」かどうかを確かめるために定期テストに出題したりする。
だが、国語の授業で何かの文章を読むとき、授業の目的はその文章の内容が「わかる」ことではない。
国語学習の目的は、例えば自分で「わかる」ようになる=「できる」ようになることだ。
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