3 授業の意義
授業という場では何が行われるのか?
国語の授業はどんな存在意義が期待される場なのか?
上記の趣旨からすれば少なくとも、受身で臨む授業には、ほとんど意義はないということになる。
国語の授業とは、何かを「教わる」場ではない。授業者の立場から言えば「教える」つもりはない、ということだ。国語、特に現代文には「教える」べき学習内容などほとんどない。
それよりも、実技である国語の授業とは、みんなで集まって、独りではできないトレーニングを行う場だ。
国語学習にも、スポーツにおける筋トレや柔軟体操や走り込みや、それぞれの競技の基礎練習にあたるものもある。例えば漢字学習などはこれにあたる。それらの中には、独りで取り組むことが可能な練習もある(もちろんそうした基礎練習でも、他人と一緒にやる方が効果的だ。単純にその方が楽しいとか励みになるということもある。地道な筋トレや走り込みを続けるには強い克己心が必要になる。みんなでやれば、みんなについていくことでそれなりにトレーニングを続けることができる。参加者の姿勢次第では、そこに楽しさすら生まれる)。
それだけではない。習得しようとしている技術が対人スキルである場合は、そもそも他人の存在が練習には欠かせない。楽器の練習には合奏を、対戦スポーツは試合の一場面を想定した対人練習をしなければ、充分に有効な練習にはならない。
国語という実技はコミュニケーションの手段である。だから当然、実際に誰か他人を相手にしたトレーニングが有効だ。
授業という場は、そうした対人トレーニングの場なのだ。
自分の話は相手を納得させているか、隣の席の人の言うことが理解できるか、実技としての国語の力が試され、磨かれる場だ。
自主トレによる基礎練習は間違いなく必要であり有効だが、実戦的なチーム練習は、自主トレだけでは身につけられない技術を向上させる場なのだ。
それが授業である。
したがって何より、積極的な参加こそが求められる。
そういう意味で、国語学習は本質的に「アクティブラーニング」でなければならない。国語の授業における話し合いや発表は、それ自体が必須の学習行為なのだ。
国語の学習は、結果として「わかる」ことを目指しているのではなく、これからの生活に活きる国語力の伸張、すなわち「できる」ことを目指しているのだから、「能動的」で「積極的」で「主体的」であることは必須なのだ。
「わかる」という言葉に縛られた「受動的」な姿勢ではなく、「できる」という言葉で表現される「能動的」な姿勢で授業に臨まなければならない。
以上、国語の学習の基本的イメージについて述べてきた。
だが実は(ここまで長々と語っておきながら)、授業は単なる「練習」というだけのものではない、とも思っている。
授業で、あるテキストを読み込み、そこに見出される問題に周囲のみんなと立ち向かっていった先には、ある劇的な認識の変容が訪れることがある。
それはクラスの皆に対する、隣の誰かに対する、テキストの向こうに広がる「世界」に対する、認識の変容だ。それは授業という場にとどまらず(もちろん大学入試という一過程にとどまらず)、その先の、大げさに言えば人生に影響を及ぼす認識の変容でさえありえる。
そうした場としての授業とは、単なるトレーニングの時間というだけなく、ましてそこでそれなりにそこに書いてあることが「わかった」と思えているだけでは得られない、読解の、表現の、思考の、テキストの、人間の深淵を覗き見ることになる「体験」でありうると信じている。
授業とは自ら参加する意志によってはじめて成立する「体験」なのだ。
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