2 「目的」と「手段」の関係
国語の授業で何かの文章を読むとき、授業の目的はその文章の内容が「わかる」ことではない。
だから授業者は生徒にその文章を理解させることを目的に授業はしない。
だが生徒はその文章を理解しようとしなくてはならない。
どういうことか?
国語の授業の目的は国語力を高めること。言うまでもない。あたりまえだ。疑問はない。
「国語力」とは何か?
具体的な場面で分類するならば「聞く」「話す」「読む」「書く」力、ということになる。そしてそれらの行為に通底する「言葉を使って考える」力である。
これらはすべて「わかる」ではなく「できる」と表現できるような「力」だ。
では
- a・国語力を高めること
- b・ある文章の内容を理解すること
これら二つの関係はどうなっているか?
b「ある文章の内容を理解すること」は、a「国語力を高める」ための「練習」にあたる。つまりbはaという目的を達するための手段である、ということになる。
この「目的」と「手段」を意識することは重要だ。というのは、人はしばしば本来の目的を忘れて、手段(今まさに行っていること)が目的であるように錯覚してしまうからだ。
この、本来の目的を見失って、手段に過ぎなかったものを目的のように錯覚してしまうことを「自己目的化」と言う。
例えば「バーベルを上げる」という行為は「筋力を高める」という目的の為の手段だ。
「筋力を高める」ことは、「競技力を高める」「美しいボディラインを手に入れる」「健康な生活を送る」等の上位目的のための手段だ。
もちろんこれらの「目的」も、それより上位の「目的」を設定すれば、そのための「手段」と見なすことができる。「目的」と「手段」はこうした階層構造になっている。
b「ある文章の内容を理解する」は、a「国語力を高める」という目的のための手段に過ぎない。これはちょうど上の例のb「バーベルを上げる」=手段、a「筋力を高める」=目的と同じ関係にある。
a「国語力を高める」=目的/b「ある文章の内容を理解する」=手段
a「筋力を高める」=目的 /b「バーベルを上げる」=手段
つまり教科書などのテキストは筋トレにおけるバーベルだ。バーベルの存在意義は、筋肉に負荷をかけることだ。テキストは脳味噌に負荷をかけるためにある。
バーベルを上げるとき、人はそれが筋力を高めるための手段であることを意識しているはずだ。バーベルが上がること自体に価値があるのなら、機械を使ってでも持ち上げればいい。だがもちろんそんなことには意味がないことはわかりきっているから誰もしない。
それなのに「文章を理解する」ことはしばしば自己目的化されてしまう。
これは、勉強というものが「わかる」という言葉でイメージされることからくる錯覚に拠っている。
その文章の内容を理解することが国語学習の目的であるように思えてしまうのは、バーベルが上がること自体を目的にしてしまう錯誤に等しい。
だが筋トレにおいて、バーベルを持ち上げることはやはり当面の目的ではある。持ち上げようと力をこめなければトレーニングは成立しない。
「バーベルが持ち上がる」ことは最終的な目的ではない。だが、当面の目的として、やはり持ち上げようとすることは必要なのだ。この違いを明確に意識しなければならない。
他人がバーベルを上げる様子を眺めていても、自分の筋力が高まるわけではない。同様に、誰かに教えてもらって、ある文章の内容が理解されても、それで自分の国語力が高まるわけではない。
自分でバーベルを上げようとすることによってのみ、自分の筋力は高まる。
同様に、自分で文章を理解しようとすることによってのみ、国語力は高まる。
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