2022年4月18日月曜日

未来の他者と連帯する 1

  春休みの課題で読むよう指示した「ちくま評論入門」所収の文章の一つ「未来の他者と連帯する」を課題テストに出題し、そのまま初回授業で軽く読解した。

 折しも、この文章の筆者の大澤真幸が、自分の恩師の訃報に接して思いを綴った文章が先週の新聞に載った(Teams「ファイル」に記事の写真を置いてある。興味があったら見てほしい。大澤は現在毎週土曜日の書評ページに連載枠をもっているので、寄稿しやすかったのだろうと思われる)。

 ここで語られる恩師、見田宗介の文章は、現在2,3年生が使っている「現代文」教科書に載っていて、実に手応えのある文章として面白い授業が展開できたものだった。教育課程がかわってしまった今の1年生にはおそらくそれができないだろうと思われるのは残念だが、「ちくま評論入門」にも別の文章が載っていて、これを授業で扱うことができるかどうかはまだわからない。

 ともあれ、授業で読んだばかりの文章の筆者が書いた文章が新聞に載り、そこで語られているのが、授業でも何度も読んだ思い入れのある文章の筆者にまつわるものだったことがなんとも感慨深かったのだった。


 さて「未来の他者と連帯する」は、論理構成を大づかみにすることに絞って読解した。

 評論の多くが、書き出し近くで「問題提起」をし、それに対する何らかの「結論」を述べて終わる。教科書やテストに使われるのは、しばしば元々長い文章であるようなものの一部を切り取っていることが多いのだが、そのような場合でも、「問題」-「結論」を酌み取れるように切り取っている場合が多い。あるいは目の前にあるテキストから、とにかくその範囲で「問題」-「結論」を読み取るようにすることが、こちらの「読解」であるともいえる。

 「未来の他者と連帯する」はこの「問題」-「結論」の対応が明確で、もしかしたら元々これで全文なのかもしれない(長い文章の一部なのではなく)。

 さらに、この文章では論理の流れを読者に伝えようとする意図が明確だ。途中の展開もはっきりと段階的に並べられている。

 そこで授業ではその流れを「枠組」として提示し、それぞれの内容をできるかぎり簡潔に述べよ、という課題を掲げた。

 「枠組」とは次のような論理の流れだ。

1.問題提起

2.第1前提-希望的なこと

3.第2前提-悲観的なこと

4.結論

 4「結論」部では「希望的なこと」と「悲観的なこと」を併せて考えると得られる「もうひとつの希望」が語られる。


 さて、「できる限り簡潔に」とは、具体的には、なるべくシンプルな一文にするということだ。シンプルである方が使い回しが楽になる。覚えておくにせよ書き出すにせよ口に出すにせよ、短い方が楽だ。

 もちろん、必要に応じてそれがどういうことなのかは解説できるようにしておく。それができなければ、その一文が適当であるかどうかは判断できない。


 こうした課題を「本文を見ないで」やるという条件にしたのは、一つの読解のためのテクニックだ。

 本文の文言を見過ぎてしまうと、全体が見えなくなってしまうおそれがある。構造や流れを捉えるには、意識的に視点を上にもっていき、全体を見るようにして、部分的な文章の一節はむしろ「ぼんやり」見るようにするか、いっそ一旦視線を本文から外して、頭の中かノートの上で考えるようにする方がいい。


 さて、そのまま本文を見ないで、話し合いの中でこの課題に取り組む。

 「問題提起」は本文にそのままあるので挙げるのも容易だ。

1.未来の他者と連帯することはできるのか?


 この「問題」の形は「結論」が「できる」であることと対応しているだろうことを予想させる(もちろん「できない」でもいい。この文章の場合は「できる」の方だったよなあ、と皆すぐに思い当たるということだ)。

 となれば問題は、どういう論理でそれが「できる」ということになるか、だ。


 次の「希望的なこと」も容易にまとまる。

2.人間は未来の他者のために働くことができる


 「悲観的なこと」の部分には少々条件をつけた。「双曲割引」という馴染みのない言葉が出てくるので、それがどういうことなのかを一文に、またなぜそれが「悲観的」なのかがわかるようにもう一文。

 「双曲割引」とは何か。本文から直接引用できる一節を探すのは難しい。どの一節も、それだけではわかりにくい。そこで作文する。とりあえずこんな文で表すことに異論はなかったと思う。

未来の価値は現在感じる価値より低くなる

 これはなぜ「悲観的」か?

 未来のために努力することは難しいということになるからだ。

 ここから「悲観的」テーゼを次のように表現しておく。

3.未来と連帯することは難しい


 これら「希望的なこと」と「悲観的なこと」を合せると「未来の他者と連帯することはできる」という結論になるのだが、この論理には違和感を覚えないだろうか?


 2「希望的なこと」が、既に「できる」という結論に至る根拠を述べているではないか。 

 それなのに、なぜ「悲観的なこと」が語られ、それと合せる必要があるのか?


 あちこちから聞こえてきたのはこんな解釈だ。

 まず「できる」と言い、次に「難しい」と言い、結局「やっぱりできる」と言っているのだ。つまり最初に持ち上げてから一旦落とし、それからもう一度持ち上げるのだ。

 だがそんなに単純な読者の心理操作を狙っているのだろうか?

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