2023年4月30日日曜日

思考の誕生 12 何もないところ

 「物語るという欲望」を読めば、冒頭近くの「モジューヒンの実験」が「真実の百面相」と重なることはすぐにわかる。

 同じモジューヒンの表情が、見る人によって「苦々しさ」「微笑」「悲しみ」に見える。同一の顔が、見る人の中で「百面相」に解釈される。

 映像の「意味」は観客による「主体的な読み込み」によって作られたものだと内田は言う。

 この主張は「読む行為」では「すべての読み手はそれぞれ固有の仕方で物語に関わっており…無数のファクターが、読み手の『読み方』に関与する」と述べられている。映画の二つの映像の「間」に生ずる意味も、テクストと読み手の「間」に生ずる意味も同じだ。

 そうした「意味」について、大森はそのどれもが「真実」であると言う。もともと単独の映像であれテクストであれ、そこに固定的な・客観的な・唯一の「意味」があらかじめあるわけではない、といっているのだ。


 この「意味」を生成する「主体的な読み込み」=「解釈」を内田は「物語る」という言葉で語る。つまり「物語られたもの」=「物語」は、「読む行為」における「読み」であり、「真実の百面相」における「真実」であり、「思考の誕生」における「思考」だ。

 そしてこの「物語る欲望」は、対象の「意味のわからないところ」=「何もないところ」に生ずるのだと言う。わかっている対象はわかっているのだから、それ以上の解釈を必要としない。だが「わからない」とき、我々はそこに「橋を架ける」ことで「わかる」ものにしたいと欲望する。

 「読む行為」ではこの「何もないところ」についての言及はない。「真実の百面相」では、岩だとか人だとか、わかる前の対象がいわば「わからない」ものなのだろうが、それが主題化されているわけではない。

 この点について主題化しているのが「思考の誕生」だ。

 GW前に「何もないところ」=「他人性」という点だけは、いわば「種明かし」として共有してしまったが、後からこのことを後悔した。ここを明かさずにGWに入ってしまえば、そこにたどり着いた人とそうでない人の差が出て面白かったのだろう。だが明かしてしまったので、小論文はそれだけ「団栗の背比べ」になってしまったかもしれない。

 この点こそ、最も論理把握力と思考の柔軟性が必要とされる部分であり、自力でここに気づいた者は高い読解力を持っていると自信を持っていい。

 さて、まずは上記を対応させた単文をつくってしまうのが、頭の整理整頓には簡便。

  • 思考は他人性から生まれる。
  • 物語は何もないところから生まれる。

 これを頭に留めて論を展開する。


2023年4月29日土曜日

思考の誕生 11 論旨を重ねる

 小論文の評価に向けて、書けそうなこと、書くべきことの認識について共有しておこう。


 まず最初の「思考の誕生」と「真実の百面相」と「読む行為」の重なりを確認しておこう。


 「思考の誕生」の主旨を一文で言ってみる。

思考は他人と考えることで誕生する。

 この命題に近いと感じられる論旨を「読む行為」から抽出する。

テクストの読みは、読み手とテクストの間に生ずる。

 「思考」と「テクストの読み」、「自分と他人」と「読み手とテクスト」、「誕生する」と「生ずる」が対応しているのは一目瞭然。

 もう一つ、「読む行為」後半からは次のような論旨も抽出できる。

「読み手」は、テクストを読むことによってつくられる。

 ここでは「読み手」と「思考」が対応している。だがこれは概念のレベルが揃っていないと感じる。

 だが「読み手」とはそのように「思考」する人のことなのだと考えれば、「読み手の誕生」と「思考の誕生」は同じことだ。「思考」が誕生するまでは、そのように思考する人=「読み手」もまた存在しなかったのだ。


 一方「真実の百面相」の主旨は題名に明らかだ。

真実は百面相だ。

 こうした論旨が「読む行為」に見出せるのか?

テクストの読みは、読み手とテクストの間に生ずる一回性の、固有なものだ。

 「読む行為」前半の趣旨はこのようにまとめられる。

 読み手は様々な背景を持つ、一人一人それぞれ違った存在だから、テクストの読みもまたそれぞれ違ったものになる。「一回性」を持つ「固有」なものだ。

 つまり「百面相」なのだ。


 これはどのような命題を否定しているのか?

 「真実の百面相」ならば「唯一の客観的『真実』がある」ということであり、「読む行為」ならば「読む行為に先立つ唯一の「意味」があらかじめテクストにある」ということだ。

 裏返してみることで認識が明確になる。これは「対比」の考え方だ。


 これで最初の3編の論旨を重ねることはできた。

 さて、ここに「物語るという欲望」を重ねる。


2023年4月28日金曜日

思考の誕生 10 小論文

 さてここからは小論文。

 テーマは「人にとって『物語る』とはどのような行為か」としておく。

 「思考の誕生」「真実の百面相」「読む行為」「物語るという欲望」の4編を、「物語る」というキーワードでつないで論ずる。「物語る」を起点として、他の3編の文章で扱っている論点にそれぞれ言及しているものを高評価とする。

 まずは共通した論理を捉えよう。600字程度では相違点をあえて取り上げる必要はない。

 さらに一方の論旨を代入してもう一方の論を発展させるよう論理を展開することができればなお素晴らしい。例えば「物語るという欲望」で言っているが「思考の誕生」では言っていないことを、共通部分でつなぐことで「思考の誕生」の方で展開する、というようなことも考えてみよう。

 それが内田樹の言う「読み込む・書き込む」ということだ。もともとのテクストに書いてあるわけではないのに、読み手が主体的に「読み込む・書き込む」ことでそこに存在することになる「意味」。

 もちろんそうした「書き込み」が、元々の文章が持つ可能性として妥当だとみなせるかどうかは判断の微妙な問題ではある。その文章の論じている問題が、延長線上にそのような論理に至る可能性があると、本当に見なせるかどうか。それが読み手に見当外れに感じられてしまえば論文としては欠点だ。だが、ただこういう共通点があります、で終わるだけの論文に比べて、ということは…と論理を展開してその可能性を拡げる方が面白いのは確かだ。


 さて、4編をつなぐうえで、難しいのは「思考の誕生」と「物語るという欲望」ではないかと思われる。実はこれを考えるヒントは、GW前の最後の授業で各クラスで明らかにした(休んだ人のためにここに示す)。

 「何もないところ」の言い換えを探したのは、これが「物語るという欲望」でも重要なキーワードだからだが、これは「思考の誕生」の中の何に対応するか?

 この難題に、各クラス、少数の人がたどり着くことができた。「他人性」がそれにあたるのだと閃くためには、文章構造の確かな理解や頭の柔らかさが必要になるはずだ。

 「何もないところ」=「他人性」?


 「対応している」とは、同じ構文の同じ場所に入るということだ。これらの言葉が入るシンプルな文を作って、互換性があることを確認しよう。

 もちろんそこには「亀裂・断絶・飛躍・反ー物語」も入りうるということだ。


 短く言うことで論旨の核心や論理構造を捉えやすくしておいて、後は必要と思われる説明を展開していく。

 各自、「美しい」論理展開を心がけよう。


思考の誕生 9 物語るという欲望

 「思考の誕生」「真実の百面相」「読む行為」三つの文章の対応を考えているところに、さらにもう一編を追加して考える。「読む行為」と同じ内田樹の、こちらは教科書所載の「物語るという欲望」。

 この、最後に追加した「物語るという欲望」の、「物語る」という語をキーワードとして、4編を通観しよう。


 読解のスキルとして「シンプルな文で論旨を切り取る」ことの有効性を説いた。

 もう一つ、「言い換えの表現をマークする」ことも推奨したい。

 キーワードとなる「物語る」は、文中でどのように変奏されているか?


 次のような言い換えが見つかればOK。

  • 脈絡づける
  • 解釈する
  • 橋を架ける(架橋する)
  • 読み込む(書き込む)


 同様に「何もないところ」の言い換えを探そう。

 ひとまず「亀裂・断絶・飛躍」を指摘したい。だがそれ以外に、この文章特有の表現を一つ。

 「反ー物語」がそうだと指摘できれば上出来。


 これらが言い換えだというのは、シンプルな文にしたときに、相互に入れ替えが可能だということだ。例えば「物語は『何もないところ』から生まれる」という文は「物語は『断絶・亀裂』から生まれる」と言い換えてもいいということだ。

 とはいえ、どの言葉を選ぶかによって、他の文章との相似性を把握するときに相性の良さに差はあるかもしれない。だから、こうした言い換えを場面によって自由に使いこなせる方が、論旨の共通性を捉えやすいとはいえる。


 授業では「単純な文で言ってみる」「言い換えを探す」の他にさらに有効なスキルを二つ紹介した。

 「何が否定されているかを考える」「対偶を考える」というテクニックだ。

 例えば「人の能力とは他者との共鳴によって引き出される」という命題は「人の能力は個人が占有している」を否定している。これはつまり「~ではなく」の部分を考える(か、文中から見つける)ということだ。

 これは昨年から繰り返しやってきた「対比」の考え方だ。否定されているものを考えることで、命題の意味が明瞭になる。

 もう一つ「対偶」は、「~は~である」を「~でないものは~ではない」とか「~すると~する」を「~しないと~しない」と、同じ意味になるように言い換えてみようということだ。

 「人の能力とは他者との共鳴によって引き出される」では「他人との共鳴に拠らに既にあるものだけが能力ではない」くらいか。ちょっと捻ってるな。でもまあ、こうして表現を工夫しながら対偶を言うことで、命題の意味が明瞭になるのは、「対比」と同じだ。というか、腑に落ちる対偶をとろうとすることで、命題の意味がいやおうなく理解されるのだ。

 試してみよう。読解のために有益だというだけでなく、説明の際にも、意味が明確にすることができる。


思考の誕生 8 読む行為

 内田樹の「読む行為」を読む。この名には見覚えがあるはずだ。大学入試にも頻出で教科書やテキストの常連。去年の「現代の国語」の教科書には「『身銭』を切るコミュニケーション」という文章が載っていたが、これは授業では取り上げなかった。授業では「労働」にまつわる文章を二つ読んだ。「労働」の対価は個人が受け取るべきではなく、集団にもたらされるのだ、という趣旨の文章。


 さて「読む行為」の趣旨は「思考の誕生」や「真実の百面相」ほど単純ではない。というか、両者に通ずる論旨が含まれているので、それをそれぞれ抽出しようというのだ。

 そしてそれらを同じ構文にして並べてみる。「思考の誕生」と「共鳴し引き出される力」でやってみせたように。


 まず「思考の誕生」「真実の百面相」それぞれの主旨をシンプルに捉えておく。

  • 思考の誕生 思考は他人と考えることで誕生する。
  • 真実の百面相 真実は「百面相」だ。

 文をシンプルな形にすることで、書くにせよ喋るにせよ考えるにせよ、取り回しが楽になる。主語・目的語・述語の同じ箇所にそれぞれ、対応する語・表現を当て嵌めれば、同じ論理であることが見て取れる。

 論旨の抽出の段階で同じ構文にしようと意識しておくと楽だ。


 さて「読む行為」から、同様のシンプルさで切り取れるような論旨を抽出しよう。

  • テクストの読みは、読み手とテクストの間に生ずる一回性のものだ。
  • 「読み手」は、テクストを読むことによってつくられる。


 さて、何が何に対応しているか?


2023年4月25日火曜日

思考の誕生 7 藪の中

 続いて大森莊藏「真実の百面相」を読む。

 哲学者である大森莊藏の文章は多くの教科書で読むことができるが、それらはみな、一筋縄ではいかない「哲学的」で難解なものばかりだ。

 ところがこの文章は拍子抜けするくらいわかりやすい。題名の通り真実は百面相だ、と言っているだけだ。これを聞いてコナン君はどんな顔をするか。


 ところで文中に言及される芥川龍之介の「藪の中」のことを知っているだろうか?

 日本人の基礎教養なので知っておいてほしい。青空文庫はこちら→ 

 例えば「真相は『藪の中』だ」などと言う。これは、隠れている・隠されていることを意味する比喩だと言っても間違いではないが、多くの日本人は芥川の「藪の中」のことをそこに重ねてみる。

 「藪の中」とは、藪の中に残された死体をめぐって、発見者や目撃者や関係者の証言から、真相が一つに定まらないことを描いた小説だ。犯人として捕まった男は、確かに自分が殺したと言い、逃げた女は自分が殺したと言い、巫女に呼び出された死者の霊は自殺だと言う。

 だから結局真相がわからない=藪の中に隠れていると言っても間違いではないが、むしろ、見る人によって真相が様々に映っていることを意味する比喩だというのがより正しい解釈だ。


 さらにところで、ChatGPTが出始めの頃に「芥川龍之介の『羅生門』の主題は?」と尋ねたことがある。世間に流布されている「『羅生門』の主題」をまとめてくれるのだろうと思ったら、どうもおかしい。

 ChatGPTはこんな風に答えた。

芥川龍之介の小説「羅生門」は、真実の多面性や人間の本性に関する主題を探求しています。

物語は、平安時代の京都で起こった殺人事件を題材にしており、事件の真相を探るために証言する複数の人物たちの視点から物語が進んでいきます。それぞれの証言には、事件の真相について矛盾があり、誰が犯人なのか明確には分かりません。

この小説は、人々が真実を把握することが困難であること、人間の心には様々な欲望や感情が混ざり合っていること、そして真実や正義についての概念が曖昧であることを示しています。また、社会や人間関係においても、権力や地位によって人々の評価が変わることが描かれています。

 あれっ? これはどうみても「藪の中」のことだ。

 なぜこんなことになったか?

 理由は推測できる。

 世界的に有名な映画監督・黒澤明の代表作の一つに「羅生門」という映画がある。雨の夜の羅生門に、雨宿りに集まってきた男たちが、とある殺人事件について語る…。

 「殺人事件」? 「男たち」? 「下人」は? 「老婆」は?

 つまり実はこの映画、羅生門を舞台にしてはいるが、物語は「藪の中」なのだ。ChatGPTが語っているのは黒澤明の「羅生門」という映画の話であって、芥川の小説「羅生門」ではない。確かに「原作は芥川の小説」なのだが、それは実は「藪の中」なのだ。

 芥川龍之介の小説「羅生門」について訊いているのに、AIは芥川龍之介の小説「藪の中」について答えてしまう。

 こんなことが起こるのも、ChatGPTが集めてくる情報が、外国語(英語)由来のものが多いからなのだろう。日本語では「羅生門」といえば下人が老婆の着物を引剝ぎする、芥川の小説だが、英語で世界に流れているテキストでは黒澤明の映画「羅生門」であり、中身は「藪の中」なのだ。


 閑話休題。

 この文章の趣旨は特に難しくもない。だからこれを読解しようというのではない。「思考の誕生」に結びつけようというのだ。

 だがこれだけでは、ほとんど接点はなく、途方に暮れてしまうはずだ。

 ここにもう一つ「読む行為」という文章をぶつける。


思考の誕生 6 逆説

 なぜ現代社会では「他人性」は「希薄」になったか?

 前の考察を使うならば、思考とは自分一人で考えることだという、個人を完結して完成されたものと見做す近代的「個人」観から説明できそうではある。「個人」はカプセルの中に閉じこもって「他人」と隔絶されている、だから「他人性」は希薄なのだ…。

 だがこれは「互いに自己の内面のイメージを投影しあうこと」となじむ説明だろうか?


 なぜ「他人性」は「希薄」なのか? は、なぜ「互いに自己の内面のイメージを投影しあ」うことが他人を理解することだと思われてしまうのか? とも言い換えられる。並列的な言い換えになっているからだ。

 なぜ我々は「他人」をそのように見てしまうようになっているのか?


 近代史的な視野からこれを考えてみよう。

 宇野重規「〈私〉時代のデモクラシー」に次のような一節がある。

現代において個人主義は〈私〉の個人主義ですし、平等は〈私〉の平等です。価値の唯一の源泉であり、あらゆる社会関係の唯一の起点である〈私〉抜きに、社会を論じることはできなくなっています。そのような〈私〉は、一人一人が強い自意識を持ち、自分の固有性にこだわります。しかしながら、そのような一人一人の自意識は、社会全体として見ると、どことなく似通っており、誰一人特別な存在はいません。このようなパラドックスこそが〈私〉時代を特徴づけるのです。

 この一節を朗読して、「近代」「逆説的」を説明の中で使うよう条件づけた。

 「近代」と言えば「近代における『個人』の誕生」だ。これをふまえる。

 「逆説」は上の一節の「パラドックス」だ。


 〈私〉が「価値の唯一の源泉である」などという一節は、前回の「別の主張」を連想させる。

 だがそう思っている人たちはみな「似通っている」と宇野は言う。

 つまり「みんな違う/同じ」が「逆説的」に同居しているのだ。


 同じような構造は「思考の誕生」にも示されている。

 「自分で考えることは大事」などと言う人自身が、自分で考えてそう言っているのではなく、みんながそう言っているのを反復しているだけだ。「自分の意見」は実は「みんなの意見」なのだ。


 例えば「『誰か』の欲望を模倣する」でも、自分の「主体的」な欲望だと思っているものが、実は他人の欲望を模倣したものなのだと語られていた。「個性的」な欲望は実は「社会的」なのだ。

 自分の中にも他人の内面が投影されている。同様に「他人の内面」にも自分の心が投影されている。


 金子みすゞの有名な「みんなちがって、みんないい。」もまた「かけがえのない個性を持った一人一人」のことを言っているが、すでに「みんな」という言葉でそれら一人一人を一括りにしている。

 近代の「個性を持った個人の称揚」は、実は「個人の平準化」とパラドキシカル(逆説的)に同居しているのだ。

 我々は、互いの固有性(他人性)を尊重しようとして、実は相手を自分の想像の範囲でしか見ていない。互いに「自己の内面のイメージを投影しあう」のである。


 さて、今年度最初に読んだ「思考の誕生」は、もともとは上記のような主旨をメッセージとしてみんなに送りたかったから選んだのだが、思いのほか読解しがいのある問題も含まれていた。

 メッセージそのものとして、これまで読んだ文章で最も似ているのはなんだとみんなは思った?

 そう思っていた人もいたと思うが、授業者は、この文章の趣旨はまるで「共鳴し引き出される力」だなあと思っていた。

 似ていることを示すには、両者の論旨を同じ構文で示せば良い。

 なるべくシンプルで互換性の見やすい文。

 すぐに次のような文が想起できれば上出来。





 「思考の誕生」のためには「他人」と出会わなければならない。

 だがそれには「感性」を研ぎ澄まさなければならない。

 授業で話し合う時も、互いの話に曖昧にうなずいているだけでは「思考の誕生」の瞬間は訪れない。「そうか…なるほど」はまあ話の潤滑油として必要でもあるが、それだけで終わらず、「えっ、どういうこと?」「そうかなあ…」と勇気を出して言ってみることによって、「他人」であるような互いの存在が濃密(「希薄」の対義語)になる瞬間が生まれるのだ。



2023年4月19日水曜日

思考の誕生 5 希薄な「他人」

 「思考の誕生」は「残酷」な体験だ。

 そして「希薄」でもあると蓮實はいう。

 「希薄」?


 直前の一節で「思考の誕生」は「あなたの在学中に、かろうじて一度立ち会いうるかどうかという希薄な体験なのです」と言っている。とすればこれは「頻度が少ない」という意味だろう。

 確かに「希薄」はもともと「稀薄」と表記し、「稀」は「まれ」と訓読みできるから、頻度の少ない、めったにないこと、でもある。

 だが「希薄」という言葉は日常的には「稀薄な空気」などの気体の密度について言うか、「存在・意識・関係…」のような「空気」が比喩的に使えるような対象に使う。「まれ」より「うすい」のニュアンスの方で使われているのだ。だから「思考の誕生は希薄な体験だ」は変な使い方だと感ずる。

 ところでもうちょっと前に次の一節もある。

「他人」の「他人性」を希薄にすることが、「他人」を理解することだと考えられてしまうのです。

 この「希薄」が文末に影響しているとみるのは穿ち過ぎだろうか?


 「『他人』の『他人性』」とは「他人」という「存在」に対する「意識・関係」のことだろうから、我々が普段使っている「希薄」の使い方として違和感はない。「他人性」が「希薄」だから、「他人」によって可能になる「思考の誕生」もまた「希薄」なのだ、という理屈なのだ。

 ではなぜ現在の我々にとって「他人性」は「希薄」なのか?


 「『他人』の『他人性』を希薄にする」は直前の言い換えだから、上の問いは、なぜ「『他人』たちが、充分に『他人』として意識されがたい風土が蔓延しがち」なのか? と言い換えられる。


 また文末の「あなたの知性は、その希薄さと残酷さへの感性をはぐくむために費やされなければなりません」を使うならば、なぜ「希薄さ」への感性は鈍くなったのか? と言い換えてもいい。


 本文ではこの事情について説明されていないから、今までに学んだことを元に推測で「他人性」の「希薄」さという「風土」が成立したわけを説明しよう。

 なぜ現代社会では「他人性」は「希薄」になったか?

思考の誕生 4 別の主張

  • 「歴史的な役割」とは何か?
  • 「別の主張」とはどのような「主張」か?
  • 「残酷」とはどのような意味か?

 三つの問いを関係づけて通観する。


 まず「歴史的な役割」は「そんな姿勢の歴史的な役割」だから、「そんな」がどこを指しているかを確認する。直前の一節から「自分で考える」ことの擁護、とまとめておく。

 「別の主張」は「そう主張する」と並列になっているので、「そう」の指示対象を確認する。これは「自分で考える」ことは重要だという主張だ。

 つまり「そんな姿勢」と「そう主張する」は同じ「自分で考えることは大事」という姿勢・主張なのだ。

 そして「別の主張」は、そうした主張と根っこは同じはずだ。無意識に「別の主張」をしたいのだが、それがそうした主張として表れているのだと蓮實は言っているのだから。


 また「残酷な体験」とは「思考の誕生」を指している。

 「思考の誕生」は「他人と考える」ことによって起こると言っているのだから、それは「自分で考えること」(つまり上の「役割」「主張」)と対立している。

 「思考の誕生」は「残酷」だという。だから「自分で考えること」の擁護とは、その「残酷」さに直面したくないというひそかな動機に基づいている。

 そうした無意識はどんな「主張」をするか?


 おそらく最も微妙な工夫が必要になるのは「別の主張」をどう表現するかだ。この問題の山場はここに、腑に落ちる表現を見つけることだ。

 各クラスでの発表の多くは、「自分で考えることは大事」に似過ぎていて、それじゃあもう言葉が見つかっているじゃん、意識できているじゃん、になってしまっているか、「対立する主張」=蓮實重彦の主張になってしまってるじゃん、だった。

 もしくは「主張」と言うに値するような命題の形になっていないか。

 H組のN君の表現が秀逸だったので各クラスで紹介したが、つまりここに隠れた本音は「俺ってすげえ」なのだ。

 ただこれでは「主張」っぽくないので、もうちょっと一般論ふうに言い直す。ここが難しくてどのクラスでもみんな詰まった。


 例えば次のように言ってみよう。

・人にはそれぞれ独自の価値がある。

・人は誰も皆かけがえのない存在だ。

 これは「個人の確立」から導き出される命題であり、それが「自分で考えることは大事だ」という形で語られる。だがそれは実は「自分には独自の価値がある」と信じたい欲求の表れだと蓮實は言っているのだ。

 とすれば「思考の誕生」は確かに「残酷」だ。「俺ってすげえ」と思いたいのに、お前一人の考えなんか大したことはないと言われて、「かけがえのない個性を持った自分」などというものが幻想でしかないことを認めなければならないのだから。

 「思考の誕生」はその「残酷」さを引き受けて初めて手にできる体験なのだ。


思考の誕生 3 残酷

 さて、「歴史的な役割」と「別の主張」とともに、もう一つ、文末近くの次の一節についても問う。

思考の誕生に立ち会うことは、貴重で、残酷な体験ともなるでしょう。あなたの知性は、その希薄さと残酷さへの感性をはぐくむために費やされねばなりません。

 この一節で「思考の誕生に立ち会うこと」はなぜ「残酷」と形容されているのか? あるいはどのような意味で「残酷」なのか?


 以上三つの問いは、相互に関係づけて考えることでそれぞれが明確になる。

 どういうふうに関連しているのか?


 「別の主張」とは何か、と問うと「自分で考えることは大事」という主張に対立する主張なのだと考えたくなる(ちなみにChatGPTに「別の主張」とは何か訊いたら「本文では述べられていないので推測だが」と断った上で、まさに「対立する主張」を答えた)。

 そうではない。対立しているのは、こうした主張を「歴史的な無知」と言う蓮實であって、「別の主張」をしたがっているのは、蓮實にそう言われてしまっている人だ。「別の主張」とは、表に表れた「自分で考えることは大事」という主張の裏に隠れた、いわばその人の本音とも言うべき「主張」のはずだ。根っこは同じなのだ。

 そしてその「本音」とは、「思考の誕生」に立ち会うことの「残酷」さを避けたいという情動だ。「別の主張」とは「残酷」さから目を逸らしたいという動機に基づいてなされている。

 それはまた「自分で考えること」の称揚の「歴史的な役割」が終わってしまったことを認めたくない、という動機でもある。

 これらに共通する動機とは何か?


 さらに、昨年から何度も話題に上がった認識が、ここでも参照される。

 試みに、昨年読んだどの文章を思い出した? と訊くと、「『つながり』と『ぬくもり』」「ほんとうの『私』とは?」「〈私〉時代のデモクラシー」にそれぞれ手が挙がった。

 それらに共通する認識は何か?

 「近代における『個人』の確立」である。

 ああっ、また、と思う? 思ってほしい。

 この言葉が使えれば「歴史的な役割」について説明するのが随分楽になるはずだ。


 近代以前、人は属する集団や宗教によって規定される存在だった。近代はそうしたさまざまな「くびき」から人々を解放し「個人」を生み出した…といった表現は去年読んだ文章群で繰り返し使い回された。

 現代はそうした近代への反省が求められている(これを「近代の超克」と呼ぶ)。

 最初に読んだ「自立」シリーズでは、他人に依存しない「個人」を良しとする近代的「個人」観から、互いに緩やかに依存し合う社会のイメージが語られている。その後の「『つながり』と『ぬくもり』」では、孤立した「個人」の寂しさが語られ、人々がつながりあうことが称揚された。

 だがそうしたポジティヴな面には、一方で「残酷」な反面もある。

 そうした認識をネガティヴに語っていたのは例えば「〈私〉時代のデモクラシー」であり「空虚な承認ゲーム」であり「暇と退屈の倫理学」あたりだろうか。

 そこではどんなネガティブな面が語られていただろうか?


2023年4月14日金曜日

思考の誕生 2 歴史的な役割

 さて、メッセージとしてはシンプルな文章なのだが、多少は「読解」じみたことをやっておこうと問いかけたら、案外これが面白いことになった。


「自分ひとりで考え」たことなど「たかが知れている」というのは、まぎれもない事実です。人間が社会的かつ歴史的な存在である以上、それは当然でしょう。実際、一つの思考は、一つの考える主体がいくつもの考える主体と遭遇し、そこでの葛藤を通して、初めて思考の萌ほう芽が 的な可能性として形成されるものです。あたかも、この宇宙に自分一人しか存在していないかのような孤独な思考を「自分で考えること」として擁護する姿勢は、いかにもロマン主義的なものだというほかはありません。そんな姿勢の歴史的な役割は、遥はるか以前に終わっているはずなのです。にもかかわらず、なお「自分で考えること」の重要さが改めて指摘されたりするのは、どうしてなのでしょうか。

  この一節の「歴史的な役割」とは何か?


 上記引用から問いまでをそのままコピーしてChatGPTに貼り付けると一瞬で以下の回答が出力される。

この一節で言及されている「歴史的な役割」とは、孤独な思考を「自分で考えること」として擁護する姿勢が、ロマン主義的な時代や、近代以前の時代において重要な役割を果たしたことを指しています。そのような時代背景においては、個人の自由や独立性が重んじられ、社会的なつながりや集団の意見に従うことが否定される傾向があったため、自己決定や自己表現の重要性が強調されました。しかし、現代においては、社会的かつ歴史的な存在である人間が個人的な考えを独自に形成することは、必ずしも肯定されるべきことではなく、多様な視点や情報源からの情報収集が求められる時代になっています。

 うーん。賢い。

 だが、あれっ? というところがないでもない。どのへん?

 もちろん、ChatGPTが多少ピント外れなことを言っても、それは引用されている部分が短いから、ともいえる。

 とはいえ。


 さて授業はさらにこの問いかけを解決することなく次の問いへとつなげる。

 続く一節。

それは、そう主張する者の歴史的な無知をあからさまに示しています。あるいは、その指摘で何か別の主張をしたいと思いながら、それにふさわしい言葉が見当たらないのか、それとも別の主張をしたがっている「自分」自身に無意識なだけなのかもしれません。

 この一節の「別の主張」とは何か?

 「別の」なんだから、「自分で考えることは大事」以外なら何でもありか?

 そうではない。蓮實はここに入る「主張」がどのようなものかを想定しているはずだ。

 それはどんな「主張」?

 この問いはたぶんかなり難しい。 

思考の誕生 1 具体的な体験

 今年度最初に読むのは蓮實重彦「思考の誕生」。

 こんな、教科書の後ろの方にある文章を最初に読ませたいと思ったのは、これが年度当初のメッセージとしてふさわしいと思ったからだ。

 教科書の最初の文章はそういうメッセージ性をもったものが意図的に置かれることがあるが、この教科書冒頭の「アイオワの玉葱」に、これからこの教科を学ぶ高校生へのメッセージがあるのかどうか、よくわからない。じゃあといって昨年の教科書冒頭の「木を見る、森を見る」はどうだったかといえば、アリのように新鮮な目で世界を見てほしいというメッセージだったのだろうか。あれも、読んだのは年度のすっかり後半になってからだったが。

 さて「思考の誕生」にはどんなメッセージがあるか?

 「自分で考えること」が重要だと世の中では言われているが、そんなのは歴史的な無知の表れで、危険だ、というのだ。

 世の趨勢に反するこうした主張をいったいどういう理屈で語るのか?


 この文章が書かれたのは蓮實重彦が東大総長だったときで、だからおそらくこのメッセージは東大新入生へ向けたものだ。文中に唐突に「教育の場」とか「在学中」とかいう言葉が出てくるが、あれは東大生が送る東大生ライフを想定しているのだ。

 そこで総長は「自分で考えること」などたかがしれている、と言う。

 東大総長がこれを言うことの意味は、よくよく噛みしめるべきだ。お前たちが自分の頭で考えたことなどたかがしれていると自覚しなさい、と東大生に言っているのだ。手厳しい。

 では単に、他人に教わりなさい、という「謙虚のススメ」か?

 だが単にそんなことを若者に言っても耳にタコができているような聞き飽きたお説教にしか感じられまい。

 蓮實の言っているのはそれともまたちょっと違う。

「他人の考え」を「自分の考え」としてうけいれることではありません。

とはっきり文中で言っている。


 蓮實の言っているのは「他人とともに考える」ことのススメであり、それは「具体的な体験」なのだと言う。

 こうしたメッセージは、当然授業者もまた東大生ならぬ君たちにも送りたい。1年生ならぬ2年生にも、また。

 確かに受け身でなく能動的に「考える」ことを日頃から奨めてはいるが、それは蓮實の言う「抽象的な」お題目ではなく、隣の席の級友との出会いで生ずる具体的な「体験」だ、と言っているのである。

 例えば授業とはそれが期待される「場」だ。

 授業は、教師の言うことを聞いて、それを覚えたり理解したりする場ではない。だから「わかった?」などと念押ししたりしない。ここはテストに出す、などと脅しもしない。

 みんなで一緒に、ある「体験」をするのだ。

 そのために必要な心構えは何か?

 ここがこの文章のミソなのだが、それが何かわかるだろうか?

2023年4月9日日曜日

新年度開始

  昨年度から始まった新教育課程で「現代の国語」という科目が新設され、40年ぶりに「現国」という略称が復活した、などと1年前に書いていたのだが、今年度からまた本授業者の担当授業は「現代文」という名称になってしまった。となると略称は「現文」か。昨年は「ゲンブン」といえば「言文」で、つまりは「古典」のことだったのに、今年は「現代文」を指し、「古典」はそのまま「コテン」と呼ばれることになるのだ。3年生は「ゲンブン」は「現代文」を指し、相変わらず1年生は「言語文化」を指すんだろう。

 さて2年生は。


 ブログ名を書き換えるか、とも思ったが、新教育課程の最初の年に開設されたことを記しておくためにそのままにしておく。

 だが中身は、これから2年間は「現代文」について書き綴っていく。

 テキストは筑摩書房「論理国語」「文学国語」だ。収録文章はどちらもこれらの科目の他社の教科書群の中でもとびきり多い。どんなふうにこれらを逍遙し、どんな出会いがあり、どんな体験ができるのか楽しみだ。

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