なぜ現代社会では「他人性」は「希薄」になったか?
前の考察を使うならば、思考とは自分一人で考えることだという、個人を完結して完成されたものと見做す近代的「個人」観から説明できそうではある。「個人」はカプセルの中に閉じこもって「他人」と隔絶されている、だから「他人性」は希薄なのだ…。
だがこれは「互いに自己の内面のイメージを投影しあうこと」となじむ説明だろうか?
なぜ「他人性」は「希薄」なのか? は、なぜ「互いに自己の内面のイメージを投影しあ」うことが他人を理解することだと思われてしまうのか? とも言い換えられる。並列的な言い換えになっているからだ。
なぜ我々は「他人」をそのように見てしまうようになっているのか?
近代史的な視野からこれを考えてみよう。
宇野重規「〈私〉時代のデモクラシー」に次のような一節がある。
現代において個人主義は〈私〉の個人主義ですし、平等は〈私〉の平等です。価値の唯一の源泉であり、あらゆる社会関係の唯一の起点である〈私〉抜きに、社会を論じることはできなくなっています。そのような〈私〉は、一人一人が強い自意識を持ち、自分の固有性にこだわります。しかしながら、そのような一人一人の自意識は、社会全体として見ると、どことなく似通っており、誰一人特別な存在はいません。このようなパラドックスこそが〈私〉時代を特徴づけるのです。
この一節を朗読して、「近代」「逆説的」を説明の中で使うよう条件づけた。
「近代」と言えば「近代における『個人』の誕生」だ。これをふまえる。
「逆説」は上の一節の「パラドックス」だ。
〈私〉が「価値の唯一の源泉である」などという一節は、前回の「別の主張」を連想させる。
だがそう思っている人たちはみな「似通っている」と宇野は言う。
つまり「みんな違う/同じ」が「逆説的」に同居しているのだ。
同じような構造は「思考の誕生」にも示されている。
「自分で考えることは大事」などと言う人自身が、自分で考えてそう言っているのではなく、みんながそう言っているのを反復しているだけだ。「自分の意見」は実は「みんなの意見」なのだ。
例えば「『誰か』の欲望を模倣する」でも、自分の「主体的」な欲望だと思っているものが、実は他人の欲望を模倣したものなのだと語られていた。「個性的」な欲望は実は「社会的」なのだ。
自分の中にも他人の内面が投影されている。同様に「他人の内面」にも自分の心が投影されている。
金子みすゞの有名な「みんなちがって、みんないい。」もまた「かけがえのない個性を持った一人一人」のことを言っているが、すでに「みんな」という言葉でそれら一人一人を一括りにしている。
近代の「個性を持った個人の称揚」は、実は「個人の平準化」とパラドキシカル(逆説的)に同居しているのだ。
我々は、互いの固有性(他人性)を尊重しようとして、実は相手を自分の想像の範囲でしか見ていない。互いに「自己の内面のイメージを投影しあう」のである。
さて、今年度最初に読んだ「思考の誕生」は、もともとは上記のような主旨をメッセージとしてみんなに送りたかったから選んだのだが、思いのほか読解しがいのある問題も含まれていた。
メッセージそのものとして、これまで読んだ文章で最も似ているのはなんだとみんなは思った?
そう思っていた人もいたと思うが、授業者は、この文章の趣旨はまるで「共鳴し引き出される力」だなあと思っていた。
似ていることを示すには、両者の論旨を同じ構文で示せば良い。
なるべくシンプルで互換性の見やすい文。
すぐに次のような文が想起できれば上出来。
「思考の誕生」のためには「他人」と出会わなければならない。
だがそれには「感性」を研ぎ澄まさなければならない。
授業で話し合う時も、互いの話に曖昧にうなずいているだけでは「思考の誕生」の瞬間は訪れない。「そうか…なるほど」はまあ話の潤滑油として必要でもあるが、それだけで終わらず、「えっ、どういうこと?」「そうかなあ…」と勇気を出して言ってみることによって、「他人」であるような互いの存在が濃密(「希薄」の対義語)になる瞬間が生まれるのだ。
0 件のコメント:
コメントを投稿