小論文の評価に向けて、書けそうなこと、書くべきことの認識について共有しておこう。
まず最初の「思考の誕生」と「真実の百面相」と「読む行為」の重なりを確認しておこう。
「思考の誕生」の主旨を一文で言ってみる。
思考は他人と考えることで誕生する。
この命題に近いと感じられる論旨を「読む行為」から抽出する。
テクストの読みは、読み手とテクストの間に生ずる。
「思考」と「テクストの読み」、「自分と他人」と「読み手とテクスト」、「誕生する」と「生ずる」が対応しているのは一目瞭然。
もう一つ、「読む行為」後半からは次のような論旨も抽出できる。
「読み手」は、テクストを読むことによってつくられる。
ここでは「読み手」と「思考」が対応している。だがこれは概念のレベルが揃っていないと感じる。
だが「読み手」とはそのように「思考」する人のことなのだと考えれば、「読み手の誕生」と「思考の誕生」は同じことだ。「思考」が誕生するまでは、そのように思考する人=「読み手」もまた存在しなかったのだ。
一方「真実の百面相」の主旨は題名に明らかだ。
真実は百面相だ。
こうした論旨が「読む行為」に見出せるのか?
テクストの読みは、読み手とテクストの間に生ずる一回性の、固有なものだ。
「読む行為」前半の趣旨はこのようにまとめられる。
読み手は様々な背景を持つ、一人一人それぞれ違った存在だから、テクストの読みもまたそれぞれ違ったものになる。「一回性」を持つ「固有」なものだ。
つまり「百面相」なのだ。
これはどのような命題を否定しているのか?
「真実の百面相」ならば「唯一の客観的『真実』がある」ということであり、「読む行為」ならば「読む行為に先立つ唯一の「意味」があらかじめテクストにある」ということだ。
裏返してみることで認識が明確になる。これは「対比」の考え方だ。
これで最初の3編の論旨を重ねることはできた。
さて、ここに「物語るという欲望」を重ねる。
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