続いて大森莊藏「真実の百面相」を読む。
哲学者である大森莊藏の文章は多くの教科書で読むことができるが、それらはみな、一筋縄ではいかない「哲学的」で難解なものばかりだ。
ところがこの文章は拍子抜けするくらいわかりやすい。題名の通り真実は百面相だ、と言っているだけだ。これを聞いてコナン君はどんな顔をするか。
ところで文中に言及される芥川龍之介の「藪の中」のことを知っているだろうか?
日本人の基礎教養なので知っておいてほしい。青空文庫はこちら→
例えば「真相は『藪の中』だ」などと言う。これは、隠れている・隠されていることを意味する比喩だと言っても間違いではないが、多くの日本人は芥川の「藪の中」のことをそこに重ねてみる。
「藪の中」とは、藪の中に残された死体をめぐって、発見者や目撃者や関係者の証言から、真相が一つに定まらないことを描いた小説だ。犯人として捕まった男は、確かに自分が殺したと言い、逃げた女は自分が殺したと言い、巫女に呼び出された死者の霊は自殺だと言う。
だから結局真相がわからない=藪の中に隠れていると言っても間違いではないが、むしろ、見る人によって真相が様々に映っていることを意味する比喩だというのがより正しい解釈だ。
さらにところで、ChatGPTが出始めの頃に「芥川龍之介の『羅生門』の主題は?」と尋ねたことがある。世間に流布されている「『羅生門』の主題」をまとめてくれるのだろうと思ったら、どうもおかしい。
ChatGPTはこんな風に答えた。
芥川龍之介の小説「羅生門」は、真実の多面性や人間の本性に関する主題を探求しています。
物語は、平安時代の京都で起こった殺人事件を題材にしており、事件の真相を探るために証言する複数の人物たちの視点から物語が進んでいきます。それぞれの証言には、事件の真相について矛盾があり、誰が犯人なのか明確には分かりません。
この小説は、人々が真実を把握することが困難であること、人間の心には様々な欲望や感情が混ざり合っていること、そして真実や正義についての概念が曖昧であることを示しています。また、社会や人間関係においても、権力や地位によって人々の評価が変わることが描かれています。
あれっ? これはどうみても「藪の中」のことだ。
なぜこんなことになったか?
理由は推測できる。
世界的に有名な映画監督・黒澤明の代表作の一つに「羅生門」という映画がある。雨の夜の羅生門に、雨宿りに集まってきた男たちが、とある殺人事件について語る…。
「殺人事件」? 「男たち」? 「下人」は? 「老婆」は?
つまり実はこの映画、羅生門を舞台にしてはいるが、物語は「藪の中」なのだ。ChatGPTが語っているのは黒澤明の「羅生門」という映画の話であって、芥川の小説「羅生門」ではない。確かに「原作は芥川の小説」なのだが、それは実は「藪の中」なのだ。
芥川龍之介の小説「羅生門」について訊いているのに、AIは芥川龍之介の小説「藪の中」について答えてしまう。
こんなことが起こるのも、ChatGPTが集めてくる情報が、外国語(英語)由来のものが多いからなのだろう。日本語では「羅生門」といえば下人が老婆の着物を引剝ぎする、芥川の小説だが、英語で世界に流れているテキストでは黒澤明の映画「羅生門」であり、中身は「藪の中」なのだ。
閑話休題。
この文章の趣旨は特に難しくもない。だからこれを読解しようというのではない。「思考の誕生」に結びつけようというのだ。
だがこれだけでは、ほとんど接点はなく、途方に暮れてしまうはずだ。
ここにもう一つ「読む行為」という文章をぶつける。
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