「思考の誕生」は「残酷」な体験だ。
そして「希薄」でもあると蓮實はいう。
「希薄」?
直前の一節で「思考の誕生」は「あなたの在学中に、かろうじて一度立ち会いうるかどうかという希薄な体験なのです」と言っている。とすればこれは「頻度が少ない」という意味だろう。
確かに「希薄」はもともと「稀薄」と表記し、「稀」は「まれ」と訓読みできるから、頻度の少ない、めったにないこと、でもある。
だが「希薄」という言葉は日常的には「稀薄な空気」などの気体の密度について言うか、「存在・意識・関係…」のような「空気」が比喩的に使えるような対象に使う。「まれ」より「うすい」のニュアンスの方で使われているのだ。だから「思考の誕生は希薄な体験だ」は変な使い方だと感ずる。
ところでもうちょっと前に次の一節もある。
「他人」の「他人性」を希薄にすることが、「他人」を理解することだと考えられてしまうのです。
この「希薄」が文末に影響しているとみるのは穿ち過ぎだろうか?
「『他人』の『他人性』」とは「他人」という「存在」に対する「意識・関係」のことだろうから、我々が普段使っている「希薄」の使い方として違和感はない。「他人性」が「希薄」だから、「他人」によって可能になる「思考の誕生」もまた「希薄」なのだ、という理屈なのだ。
ではなぜ現在の我々にとって「他人性」は「希薄」なのか?
「『他人』の『他人性』を希薄にする」は直前の言い換えだから、上の問いは、なぜ「『他人』たちが、充分に『他人』として意識されがたい風土が蔓延しがち」なのか? と言い換えられる。
また文末の「あなたの知性は、その希薄さと残酷さへの感性をはぐくむために費やされなければなりません」を使うならば、なぜ「希薄さ」への感性は鈍くなったのか? と言い換えてもいい。
本文ではこの事情について説明されていないから、今までに学んだことを元に推測で「他人性」の「希薄」さという「風土」が成立したわけを説明しよう。
なぜ現代社会では「他人性」は「希薄」になったか?
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