今年度最初に読むのは蓮實重彦「思考の誕生」。
こんな、教科書の後ろの方にある文章を最初に読ませたいと思ったのは、これが年度当初のメッセージとしてふさわしいと思ったからだ。
教科書の最初の文章はそういうメッセージ性をもったものが意図的に置かれることがあるが、この教科書冒頭の「アイオワの玉葱」に、これからこの教科を学ぶ高校生へのメッセージがあるのかどうか、よくわからない。じゃあといって昨年の教科書冒頭の「木を見る、森を見る」はどうだったかといえば、アリのように新鮮な目で世界を見てほしいというメッセージだったのだろうか。あれも、読んだのは年度のすっかり後半になってからだったが。
さて「思考の誕生」にはどんなメッセージがあるか?
「自分で考えること」が重要だと世の中では言われているが、そんなのは歴史的な無知の表れで、危険だ、というのだ。
世の趨勢に反するこうした主張をいったいどういう理屈で語るのか?
この文章が書かれたのは蓮實重彦が東大総長だったときで、だからおそらくこのメッセージは東大新入生へ向けたものだ。文中に唐突に「教育の場」とか「在学中」とかいう言葉が出てくるが、あれは東大生が送る東大生ライフを想定しているのだ。
そこで総長は「自分で考えること」などたかがしれている、と言う。
東大総長がこれを言うことの意味は、よくよく噛みしめるべきだ。お前たちが自分の頭で考えたことなどたかがしれていると自覚しなさい、と東大生に言っているのだ。手厳しい。
では単に、他人に教わりなさい、という「謙虚のススメ」か?
だが単にそんなことを若者に言っても耳にタコができているような聞き飽きたお説教にしか感じられまい。
蓮實の言っているのはそれともまたちょっと違う。
「他人の考え」を「自分の考え」としてうけいれることではありません。
とはっきり文中で言っている。
蓮實の言っているのは「他人とともに考える」ことのススメであり、それは「具体的な体験」なのだと言う。
こうしたメッセージは、当然授業者もまた東大生ならぬ君たちにも送りたい。1年生ならぬ2年生にも、また。
確かに受け身でなく能動的に「考える」ことを日頃から奨めてはいるが、それは蓮實の言う「抽象的な」お題目ではなく、隣の席の級友との出会いで生ずる具体的な「体験」だ、と言っているのである。
例えば授業とはそれが期待される「場」だ。
授業は、教師の言うことを聞いて、それを覚えたり理解したりする場ではない。だから「わかった?」などと念押ししたりしない。ここはテストに出す、などと脅しもしない。
そのために必要な心構えは何か?
ここがこの文章のミソなのだが、それが何かわかるだろうか?
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